西晋時代38 西晋武帝(三十八) 司馬遹 289年

 

今回は西晋武帝太康十年です。

 

西晋武帝太康十年

己酉 289年

 

[一] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

夏四月、京兆太守・劉霄と陽平太守・梁柳に政績(政治上の優れた実績)があったので、それぞれに穀千斛を下賜しました。

 

[二] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

八の郡国で霜が降りました(隕霜)

 

[三] 『晋書・巻三・武帝紀』と『資治通鑑』からです。

太廟が完成しました。

乙巳(十一日)、神主(牌位)を新廟に遷し、武帝が道の左でそれを迎えました。

祫祭(合祭)を行い、大赦して、文武の官位を一等増やし、廟を造った者(建造の責任者。原文「作廟者」)は二等増やしました。

 

[四] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

丁未(十三日)、尚書右僕射・広興侯・朱整が死にました。

 

[五] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

癸丑(十九日)、崇賢殿で火災がありました。

 

[六] 『晋書・巻三・武帝紀』と『資治通鑑』からです。

鮮卑の慕容廆が晋に使者を派遣して投降を請いました。

五月、慕容廆を鮮卑都督に任命しました。

 

慕容廆が何龕に謁見しようとして、士大夫の礼に則って巾衣で門に至りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏晋時代の士大夫は尊貴な者に会う時、巾褠を礼としました。「巾」は頭巾、「褠」は単衣です。

 

しかし何龕が兵を整えて慕容廆に会ったため(厳兵以見之)、慕容廆も服を戎衣(軍服)に改めて門を入りました。

ある人がその理由を問うと、慕容廆はこう答えました「主人が礼をもって客を遇しないのに、なぜ客がそうするのだ(主人不以礼待客,客何為哉)。」

これを聞いた何龕は甚だ慚愧し、慕容廆を深く敬異しました。

 

当時は鮮卑の宇文氏と段氏が強盛になっており、しばしば慕容廆を侵掠(侵略・略奪)していました。そこで慕容廆は、辞を低くして幣(礼物)を厚くし、彼等に仕えました。

 

『晋書・列伝第三十三(段匹磾伝)』と『資治通鑑』胡三省注によると、段氏は東部鮮卑人に属し、その種類(種族)は勁健(強靭、強健)で、代々大人になりました。

 

段国単于・階が娘を慕容廆に嫁がせました。慕容廆に慕容皝、慕容仁、慕容昭という子ができます。

慕容廆は遼東が僻遠だったため、徒河の青山に移住しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、徒河県は、西漢は遼西に属し、東漢は遼東屬国に属しましたが、魏晋になって廃され、その地は昌黎郡界内に入れられました。

後に慕容氏が再び徒河県を置きますが、拓跋魏(北魏)がまた徒河県を昌黎郡広興県に入れます。

 

[七] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

東夷十一国が晋に内附(帰順)しました。

 

[八] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

六月庚子(七日)、山陽公・劉瑾が死にました。

 

山陽公は東漢献帝・劉協が封じられました。劉協の死後は孫の劉康が継ぎ、劉康が死んでその子・劉瑾が継ぎました。

本年、劉瑾が死んで子の劉秋が継ぎましたが、二十年後の永嘉年間に胡賊によって殺され、国が除かれます(魏文帝黄初元年・220年参照)

 

[九] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

再び二社を置きました(原文「復置二社」。前年参照)

 

[十] 『資治通鑑』からです。

冬十月、明堂および南郊の五帝の位を恢復しました(明堂と南郊の五帝の座は武帝泰始二年(266年)に除かれました)

 

[十一] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

壬子(二十一日)、南宮王・司馬承を武邑王に遷しました(司馬承は司馬邕の支子(嫡子以外の子)で、司馬邕は安平王・司馬孚の子、司馬孚は司馬懿の弟です。西晋武帝泰始六年・270年参照)

 

[十二] 『晋書・巻三・武帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月丙辰(『晋書・武帝紀』『資治通鑑』とも「丙辰」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年十一月は「壬戌」が朔なので、「丙辰」はないはずです)、尚書令・済北侯・荀勗(諡号は成侯。「尚書令」としているのは『資治通鑑』で、『晋書・武帝紀』では「守尚書令・左光禄大夫」です)が死にました。

 

荀勗には才思(優れた才能と思想)があり、人主の意を伺うのが得意だったので、その寵を固めることができました。

久しく中書にいて専ら機事(国家の大事)を管理していたため、尚書に遷ってからは甚だ罔悵(失意、失望)し、荀勗を祝賀する者がいると「私の鳳皇池を奪ったのに、諸君は何を祝賀するのだ(原文「奪我鳳皇池,諸君何賀邪」。中書は禁苑(皇宮の庭園)にあり、鳳皇池も禁苑にあったため、鳳皇池は中書を指すようになりました。)」と言いました。

 

[十三] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

含章殿の鞠室(蹴鞠場)で火災がありました。

 

[十四] 『晋書・巻三・武帝紀』と『資治通鑑』からです。

武帝は声色に意を極めており、ついに病を患いました。

楊駿(楊皇后の父)は汝南王・司馬亮を嫌っていたため、朝廷から排出することにしました。

 

『晋書・巻三・武帝紀』は十一月に「武帝の病が治ったので、王公以下に差をつけて帛を下賜した(帝疾瘳,賜王公以下帛有差)」と書いていますが、『資治通鑑』は省略しています。

 

甲申(二十三日)、司馬亮を侍中・大司馬・假黄鉞・大都督・督豫州諸軍事に任命して許昌を治めさせました。

また、南陽王・司馬柬を秦王に遷して都督関中諸軍事に任命し、始平王・司馬瑋を楚王に遷して都督荊州諸軍事に任命し、濮陽王・司馬允を淮南王に遷して都督揚江二州諸軍事に任命し(『晋書・列伝三十四(武十三王伝)』『資治通鑑』とも、「都督揚江二州諸軍事」としていますが、「江州」は恵帝元康元年・291年に置かれるので、『資治通鑑』胡三省注は「江二」の二文字を「衍(余分な文字)ではないか」と書いています)、併せて符節を貸し与えて封国に行かせました(並假節之国)。それぞれ方州(地方)の軍事を統括させます。

司馬柬、司馬瑋、司馬允とも武帝の子です。『資治通鑑』胡三省注によると、晋制における都督諸軍事には「使持節」「持節」「假節」の違いがありました。「使持節」は二千石以下の者を処刑する権利があります。「持節」は官位がない者を処刑する権利があり、軍事においては使持節と同等でした。「假節」は軍事においてのみ、軍令を犯した者を処刑する権利がありました。

 

更に、皇子の司馬乂を長沙王に、司馬穎を成都王に、司馬晏を呉王に、司馬熾を豫章王に、司馬演を代王に立てて、皇孫・司馬遹(下述)を広陵王に立てました。

 

淮南王(『資治通鑑』では「淮南王」、『晋書・武帝紀』では「濮陽王」です。上述の司馬允です)の子・司馬迪を漢王に、楚王(『資治通鑑』では「楚王」、『晋書・武帝紀』では「始平王」です。上述の司馬瑋です)の子・司馬儀を毗陵王に封じました。

 

『晋書・列伝第三十四(武十三王伝)』によると、武帝の長子は司馬軌、字を正則といいましたが、二歳で死にました。本年、司馬軌を毗陵王に追封して悼王の諡号を贈り、楚王・司馬瑋の子・司馬義(司馬儀)に跡を継がせて毗陵王にしました。

 

汝南王・司馬亮の次子・司馬羕を西陽公にしました。

扶風王・司馬暢を順陽王に遷し、司馬暢の弟・司馬歆を新野公にしました。司馬暢は司馬駿の子です(司馬駿は司馬懿の子で、武帝太康七年・286年に死にました。『資治通鑑』胡三省注によると、司馬暢は司馬駿の爵を継いで扶風王になりましたが、関中の任に就いていなかったため、順陽王に改封されました)

琅邪王・司馬覲の弟・司馬澹を東武公に、司馬繇を東安公に、司馬漼を広陵公に、司馬巻を東莞公にしました。司馬覲は司馬伷(琅邪武王)の子で、司馬伷は司馬懿の子です。

『資治通鑑』胡三省注によると、晋の制度では、宗室で郡公に封じられた者の制度は小国の王と同等でした。

 

諸王国の相を内史に改めました。

 

以下、『資治通鑑』からです。

かつて、武帝が才人・謝玖(『資治通鑑』胡三省注によると、才人は位が美人に次ぐ宮女です。武帝は漢・魏の制度を採用し、三夫人・九嬪の下に美人、才人、中才人を置きました。爵は千石以下とされます)を太子に下賜し、皇孫・司馬遹が生まれました。

ある夜、宮中で失火したことがありました。武帝が楼に登ってそれを眺めると、この時まだ五歳だった司馬遹が武帝の裾を引いて闇の中に入らせ、こう言いました「暮夜に起きた緊急の事なので、非常事態に備えるべきです。(人々に)人主を照らして見させるべきはありません(暮夜倉猝宜備非常,不可令照見人主)。」

この事があってから、武帝は司馬遹を奇としました(普通の子供ではないと思うようになりました)

また、武帝が群臣に対して「司馬遹は宣帝(司馬懿)に似ている」と言ったことがあり、そのため天下が皆、司馬遹に帰仰(帰心・敬慕)しました。

武帝は太子の不才を知っていましたが、司馬遹の明慧(聡明)を頼りにしていたため、廃立の心がありませんでした。

武帝は王佑の謀を用いて、太子の同母弟に当たる司馬柬、司馬瑋、司馬允を分けて要害を鎮守させました(上述)

『資治通鑑』胡三省注によると、王佑は王済の従兄です。かつては羊祜等と共に文帝(司馬昭)に仕え、武帝の代になっても寵信されていました。「要害」は雍・荊・揚州の地を指します。

 

武帝は楊氏の偪(逼迫、強迫)も恐れたため、王佑を北軍中候に任命して禁兵を管理させました(典禁兵)

武帝は皇孫・広陵王・司馬遹のために僚佐(補佐の臣)を高選(精選)し、散騎常侍・劉寔の志行が清素だったので、広陵王傅に任命しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏以後は王国に師と友が置かれましたが、晋は景帝(司馬師)の諱(実名)を避けたため、「師」を「傅」に改めました。

 

劉寔は、当時の風気が進趣(追求。上に向かうこと)を喜んで廉譲(清廉・謙譲)が少ないと考え、『崇譲論』を著しました。『崇譲論』は、「初めて官に任命されて謝章(感謝の上表)を届けた者は、必ず賢人を推挙して能力がある者に譲るようにさせ、それができたら謝章を通せるようにするべきであり(欲令初除官通謝章者,必推賢譲能,乃得通之)、一官に欠員が出たら、為人において謙譲が最も多い者を選んで用いるべきだ(一官缺則択為人所譲最多者用之)」と主張しています。

劉寔はこう考えました「人の情とは、もし争ったら自分が及ばない者を倒そうと欲し、もし譲ったら競って自分より勝る者を推薦するものである(人情争則欲毀己所不如,譲則競推於勝己)。だから、世が争うようなら優劣を分け難くなり、時(時勢、風気)が謙譲なら賢智が顕出するようになる(賢人・智者が明かに見えるようになる)。今この時において、身を退けて自分を修めることができれば、謙譲する者が多くなり、たとえ貧賎を守ろうと欲してもできなくなる(優秀な人材が仕官せず清貧を守ろうとしてもできなくなる)(自分が)奔走追求しながら人に謙譲させようと欲するのは、後ろに行きながら前に進もうとするようなものである(馳騖進趨而欲人見譲,猶卻行而求前也)。」

 

『資治通鑑』はここで淮南相・劉頌の上書を紹介していますが、別の場所で書きます(本年十一月に王国の相は内史に改められました。「淮南相」としているので、劉頌の上書はそれ以前の事だと思われます)

劉頌の上書

 

武帝は劉寔や劉頌等の意見を用いることができませんでした。

 

[十五] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

十二月庚寅(『二十史朔閏表』によると、この年十二月の朔は「辛卯」なので、「庚寅」はありません。中華書局『晋書』校勘記は『五行志』等を元に「十一月庚寅(二十九日)」としています)、太廟の梁が折れました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

武帝が詔を発し、劉淵を匈奴北部都尉にしました。

『資治通鑑』胡三省注によると、この時、匈奴五部の帥を五部都尉にしました(「北部都尉」は「五部都尉」のひとつです)

 

劉淵は財を軽んじて施しを好み、人との交流に心を傾けたため(傾心接物)、五部の豪桀や幽・冀州の名儒といった多くの者が劉淵に帰心しました。

 

[十七] 『晋書・巻三・武帝紀』からです。

この年、東夷の絶遠の三十余国と西南夷二十余国が貢物を献上しに来ました。

 

[十八] 『晋書・巻三・武帝紀』と『資治通鑑』からです。

奚軻の男女十万口が晋に投降しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、奚軻も夷種(少数民族)です。尚、『資治通鑑』では「奚軻」ですが、『晋書・武帝紀』は「虜奚軻」としています。

 

 

次回に続きます。

西晋時代39 西晋武帝(三十九) 武帝の死 290年(1)

 

 

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