西晋時代55 西晋恵帝(十六) 李特 301年(4)

 

今回で西晋恵帝永寧元年が終わります。

 

[十九] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

秋七月甲午(十一日)、呉王・司馬晏(本年六月参照)の子・司馬国を漢王に封じました。

 

『晋書・列伝第三十四・武十三王伝』では「司馬国」を「司馬固」としています。恐らく『恵帝紀』の誤りです。

 

[二十] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

再び常山王・司馬乂(武帝の子)を長沙王に封じ、開府・驃騎将軍に遷しました。

 

司馬乂は元々、長沙王でした。『資治通鑑』胡三省注によると、楚王・司馬瑋が誅殺された時、司馬乂も同母弟だったため常山王に落とされていました(恵帝元康元年・291年参照。恐らく、長沙王は「親王」、常山王は「郡王」に属すので、同じ王爵でも常山王が下になります)

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

東莱王・司馬蕤(斉王・司馬攸の子。司馬冏の兄)は凶暴なうえ酒に酔うと放縦になり(凶暴使酒)、しばしば大司馬・司馬冏を陵侮(侮辱)しました。また、自分が開府することを司馬冏に求めたのに許可されなかったため、怨みを抱いていました。

そこで、司馬蕤は秘かに上表して司馬冏の専権を訴え、左衛将軍・王輿と謀って司馬冏を廃そうとしました。しかし事が発覚します。

 

八月、(朝廷が)詔を発して司馬蕤を廃し、庶人にしました。王輿は三族と共に誅殺されます。

更に司馬蕤を上庸に遷し、上庸内史・陳鍾が司馬冏の意旨を受けて秘かに殺しました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』では、六月庚午(十七日)に司馬蕤と王輿が罪を得ていますが(既述)、『資治通鑑』は『三十国春秋』に従って八月に書いています(胡三省注参照)

 

[二十二] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

天下に大赦しました。

 

[二十三] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

戊辰(十六日)、辺境に徒刑に処した者を赦免しました(原徙辺者)

 

[二十四] 『晋書・巻四・恵帝紀』は八月に「益州刺史・羅尚が羌を討ち、これを破った」と書いています(三月参照)

 

[二十五] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

己巳(十七日)、南平王・司馬祥を宜都王に遷しました。

 

[二十六] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

下邳王・司馬韡が死にました。

 

下邳王は元々、司馬晃が封じられました。司馬晃は司馬孚の子で、司馬孚は司馬懿の弟です。

『晋書・列伝第七・宗室伝(司馬晃伝)』によると、司馬晃には司馬裒と司馬綽という子がいましたが、司馬裒は早死し、司馬綽は良城県王に封じられたため、太原王・司馬輔の第三子・司馬韡が下邳王を継いでいました。司馬輔も司馬孚の子です。

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

東武公・司馬澹(司馬伷の子。司馬伷は司馬懿の子です)が不孝の罪に坐して遼東に遷されました。

九月、司馬澹の弟に当たる東安王・司馬繇(恵帝元康元年・291年参照)を召して旧爵を恢復し、尚書左僕射に任命しました。

 

司馬繇は東平王・司馬楙を推挙して都督徐州諸軍事とし、下邳を鎮守させました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』は八月に「東平王・司馬楙を平東将軍・都督徐州諸軍事にした」と書き、九月に「遡って東安王・司馬繇の爵を戻した」と書いています。しかし『晋書・列伝第七(司馬楙伝)』では、司馬繇が僕射になってから司馬楙を推挙して平東将軍・都督徐州諸軍事にしており、『資治通鑑』は「列伝」に従っています(胡三省参照)

 

[二十八] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

丁丑(『二十史朔閏表』によると、この年九月は「癸未」が朔なので、「丁丑」はありません。中華書局『晋書』校勘記は「八月二十五日」としています)、楚王・司馬瑋の子・司馬範を襄陽王に封じました。

 

[二十九] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

流人・李特が蜀で反しました。

 

以下、『資治通鑑』から詳しく書きます。

以前、朝廷が符(命)を秦州と雍州に下し、蜀に入った流民を呼び戻させました。同時に御史・馮該と張昌を派遣して流民を監督させます。

 

李特の兄・李輔が略陽から蜀に至り、李特に「中国(中原)はまさに乱れているので再び還るには足りない(還るべきではない)」と言いました。

李特はこれに同意し、繰り返し天水の人・閻式を派遣して益州刺史・羅尚を訪ねさせ、とりあえず秋までは停留する許可を求めました。同時に羅尚および馮該に賄賂を納めます。

羅尚と馮該はこれを許可しました。

 

朝廷は趙廞を討伐した功を論じて李特を宣威将軍に、弟の李流を奮武将軍に任命し、どちらも封侯しました。璽書が益州に下され、六郡の流民で李特と共に趙廞を討った者も條列(列挙)させて、それぞれに封賞を加えることになります。

ところが、広漢太守・辛冉が趙廞を滅ぼした功を自分のものにしたいと欲したため、朝命(李特兄弟を封侯するという命)は寝かしたままにして、実情(流民の功績)も朝廷に報告しませんでした。

衆人(六郡の衆)が皆これを怨みます。

 

羅尚は従事を派遣して流民を送り還す任務を監督させ、七月までに流民が道に上るように期限を設けました。

当時、流民は梁州や益州に分布して人の傭力(傭人。僕役)になっていました。州郡が還るように迫っていると聞き、人人は憂愁・怨恨してどうすればいいかわからなくなります。更にちょうど水潦(大雨、雨水)が盛んになり、穀物もまだ実っていなかったため(年穀未登)、行資(旅費。旅の資本)とするものがありません。

李特は再び閻式を派遣して羅尚を訪ねさせ、冬まで停留する許可を求めました。

しかし辛冉と犍為太守・李苾がこれを不可とします。

 

羅尚は別駕・杜弢を秀才に挙げていました。閻式は杜弢に逼移(移住の強制)に関する利害を説きます。その結果、杜弢も流民の期限を一年間緩和することを望みましたが、羅尚はやはり辛冉と李苾の謀を用いて杜弢の意見に従いませんでした。

杜弢は秀才板(秀才に推挙した文書)を送り返し、官府を出て家に還りました。

 

辛冉は性格が貪暴だったため、流民の首領を殺してその資貨(財産)を奪おうと欲しました。そこで李苾と共に羅尚にこう報告します「流民は以前、趙廞の乱に乗じて多くを剽掠(略奪、強奪)しました。彼等の移住に乗じて関を設け、それを奪取するべきです(宜因移設関以奪取之)。」

羅尚は梓潼太守・張演(『資治通鑑』胡三省注によると、蜀漢が広漢を分けて梓潼郡を置きました)に書を送って諸要地に関を設置させ、宝貨を搜索するように命じました。

 

李特がしばしば流民のために停留を請い求めたため、流民は皆、感激して李特に頼るようになり、多くの者が互いに連れ合って李特に帰順しました。

そこで李特は綿竹(緜竹)に大営を構えて流民を安置し、改めて辛冉に書を送って期限を緩めるように求めました。

ところが辛冉は大いに怒り、人を派遣して通衢(大通り)に牓(通知、標識)を分布させ、李特兄弟を購募(賞金を懸けて求めること)して重賞を与えることを約束しました。

それを見た李特は、牓を全て持ち帰り、弟の李驤と共に購(懸賞)の内容をこう書き直しました「六郡の酋豪である李、任、閻、趙、上官および氐・叟の侯王の一首を送ることができたら百匹の賞を与える(能送六郡酋豪李任閻趙上官及氐叟侯王一首,賞百匹)。」

その結果、流民が大いに懼れ、李特に帰順する者がますます増えて、旬月(一月)の間に二万人を超えました。

李流も数千人の衆を集めます。

 

李特はまた閻式を派遣して羅尚を訪ねさせ、申期(延期)を求めました。

閻式は羅尚が衝要(要衝)に営柵(営塞)を構えて流民を捕えようと謀っているのを見て、嘆いて言いました「民心がまさに危うくなっているのに、今これを急がせたら、乱が起きることになります(民心方危,今而速之,乱将作矣)。」

閻式は辛冉と李苾の意見を変えることができないと知り、羅尚に別れを告げて緜竹に還ることにしました。

羅尚が閻式に言いました「子(汝)はとりあえず我が意を諸流民に告げよ。今、期限を延ばすことに同意する(今聴寛矣)。」

閻式が言いました「明公は姦説に惑わされているので、恐らく延期する道理はありません(延期するはずがありません。原文「恐無寛理」)(但し)弱くても軽視してはならないのが民です(弱而不可軽者民也)。今、彼等を催促して道理を用いなかったら、衆怒とは犯し難いものなので(衆人の怒りとは触れてはならないものなので)恐らく禍を為すこと浅くはありません(今趣之不以理,衆怒難犯,恐為禍不浅)。」

羅尚が言いました「その通りだ。私が子(汝)を欺くことはない。子は帰れ(然。吾不欺子,子其行矣)。」

 

閻式は緜竹に至ってから李特にこう言いました「羅尚はあのように言いましたが、信じることはできません(尚雖云爾,然未可信也)。なぜでしょうか(何者)。羅尚は威刑が立たず、辛冉等はそれぞれ強兵を擁しているので、(辛冉等が)一旦にして変を為したら、羅尚には制御できないからです。(我々は)深く備えを為すべきです。」

李特はこの意見に従いました。

 

冬十月、李特が営を二つに分けました。李特は北営に住み、李流が東営に住んで、それぞれ甲冑を修繕して武器を磨き(繕甲厲兵)、戒厳して待機します。

 

辛冉と李苾が互いに謀って言いました「羅侯は貪婪なうえ決断力がないので(貪而無断)、日に日に流民の姦計を増長させている(日復一日,令流民得展姦計)。李特兄弟にはそろって雄才があるから、我々はやがて虜となるだろう(吾属将為所虜矣)。計を決するべきだ。羅侯は再び問うには足りない(宜為決計,羅侯不足復問也)。」

そこで広漢都尉・曾元、牙門・張顕、劉並等を派遣し、秘かに歩騎三万を指揮して李特の営を襲わせました。

それを聞いた羅尚も督護・田佐を送って曾元等を助けさせます。

 

曾元等が至った時、李特は安臥(安定、平静な様子)したまま動かず、曾元等の衆が半数入るのを待って、伏兵を発して撃ちました。死者が甚だ多数に上り、田佐、曾元、張顕が殺されます。

李特はその首を送って羅尚と辛冉に示しました。

羅尚が将佐に言いました「これらの虜(賊)は去ることになっていた(此虜成去矣)。それなのに広漢(辛冉)が我が言を用いなかったため、賊の勢いを張らせることになってしまった(広漢不用吾言以張賊勢)。これからどうすればいいのだ(今若之何)。」

 

六郡の流民は共に李特を推して行鎮北大将軍(「行」は代行の意味です)とし、(李特に)承制封拝(皇帝に代わって任官すること)させました。また、弟の李流を推して行鎮東大将軍とし、東督護と号しました。それぞれに一方を鎮統(鎮守・統率)させます。

(李特は)兄の李輔を驃騎将軍に、弟の李驤を驍騎将軍にして、兵を進めて広漢の辛冉を攻撃させました。

 

羅尚は李苾と費遠を派遣し、衆を率いて辛冉を救わせました。しかし李苾等は李特を畏れて進もうとしません。

辛冉は出陣したものの連敗したため、包囲を破って徳陽に奔りました(『資治通鑑』胡三省注によると、徳陽県は東漢が置きました。広漢郡に属します)

李特は広漢に入ってこれを占拠し、李超を太守に任命してから、兵を進めて成都の羅尚を攻めました。

 

羅尚が書を送って閻式を諭しました。

閻式は書を返してこう伝えました「辛冉は傾巧(狡猾)、曾元は小豎(小子、小人)、李叔平(叔平は李苾の字です)は将帥の才ではありません。式(私)は以前、節下(『資治通鑑』胡三省注によると、晋人は一方面の専征の将率を「節下」とよびました。ここでは羅尚を指します)および杜景文(景文は杜弢の字です)のために留徙の宜(流民を留めるべきであるという道理)を論じました。人は桑梓(祖父や父が後代のために植えた桑や梓の木。転じて故郷を指すようになりました)に懐くものであり、誰が(帰郷を)願わないでしょう(孰不願之)。ただ、(彼等は)往日に来たばかりで、食糧を求めて傭作し、一家が五分していて、そのうえ秋潦(秋の大雨)の時期に当たったので、冬熟(冬の収穫)を待つことを乞うただけです。しかし結局、同意されませんでした(但往日初至,隨穀庸賃,一室五分,復値秋潦,乞須冬熟而終不見聴)。彼等を取り締まって度が過ぎていたため(縄之太過)、困窮した鹿でも虎に対抗するように(窮鹿抵虎)、流民も敢えて頸(首)を延ばして刀を受けようとはせず、変を為すに至ったのです。もしも式(私)の言を聴き、寛大に治厳(旅の準備)させていれば、九月を過ぎたら全て集まり、十月には道に進ませ、故郷に至らせていました。どうしてこのような事になったでしょう(即聴式言,寛使治厳,不過去九月尽集,十月進道,令達郷里,何有如此也)。」

 

李特は兄の李輔、弟の李驤、子の李始、李蕩、李雄および李含と李含の子・李国、李離、任回、李攀、李攀の弟・李恭、上官晶、任臧、楊褒、上官惇等を将帥にし、閻式、李遠等を僚佐にしました。

羅尚はかねてから貪残(貪婪、惨忍)だったため、百姓の患いになっていました。そこで李特は、蜀の民に対して三章の法だけを約束し(約法三章)、恩恵を施して労役を捨て、民を救済し(施捨賑貸)、賢人を礼遇して埋もれた人材を抜擢し(礼賢拔滞)、軍政を粛然とさせました。蜀の民が大いに悦びます。

 

羅尚は頻繁に李特に敗れたため、長囲(長大な包囲網)を築いて防ぎました。郫水に沿って営を造り、延々と七百里も連ならせて李特と対峙します(『資治通鑑』胡三省注によると、羅尚の営は都安から犍為まで七百里にわたりました)。また、梁州と南夷校尉(『資治通鑑』胡三省注によると、南夷校尉は南中諸郡を統括していました)に救援を求めました。

 

[三十] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月、潁昌公・何卲(諡号は康公)が死にました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』は「司空・何劭」としていますが、「司空」ではなく「太宰」が正しいはずです(本年正月参照)

 

[三十一] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

大司馬・斉王・司馬冏の子・司馬冰を楽安王に、司馬英を済陽王に、司馬超を淮南王に封じました。

 

[三十二] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

この年、十二の郡国が旱害に襲われ、六の郡国が蝗害に襲われました(郡国十二旱,六蝗)

 

 

次回に続きます。

西晋時代56 西晋恵帝(十七) 李特の興隆 302年(1)

 

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