徙戎論

西晋恵帝元康九年(299年)、太子洗馬・江統が『徙戎論(戎を移す論)』を著しました。

西晋時代47 西晋恵帝(八) 西晋の衰退 299年(1)

以下、『資治通鑑』を元に簡単に『徙戎論』の内容を紹介します。

 

夷・蛮・戎・狄はその地が要荒(要服と荒服。辺遠の地)にあり、禹が九土を平定してから、西戎が即敍しましたが(秩序に就きましたが。帰順しましたが)、その性気(気性)は貪婪で、凶悍(凶暴勇猛)かつ不仁です。四夷の中でも戎・狄が甚だしく、弱くなったら(中原に)畏服しますが、強くなったら(中原を)侵叛します(弱則畏服,強則侵叛)。彼等が強い時は、漢高祖でも白登で困し(白登山で包囲され)、孝文(西漢文帝)でも霸上に軍しました(覇上に駐軍しなければなりませんでした)。しかし弱くなると、元・成の微(西漢元帝・成帝の衰退した世)においても単于が入朝しました。これらは已然の效(既成の証拠)です。そのため、有道の君が夷・狄を牧す時(管理する時)は、ただ彼等に対して備えを設け、防御には常(常道、常法)があり、(彼等が)たとえ叩頭して礼物を納めても、辺城は固守を緩めず、(彼等が)強暴になって寇を為しても、兵甲は遠征を加えず、境内が安寧を獲て疆埸(国境)が侵されないことを望んだだけでした。

周室が統(綱紀、秩序)を失うと、諸侯が専征し(好き勝手に征伐を行い)、封疆(国境)が固まらず、利害によって心を異ならせるようになったため、戎・狄がその間(隙)に乗じて、中国(中原)に入ることができました(『資治通鑑』胡三省注によると、戎、山戎、狄、長狄等の侵入を指します)(しかも、中原諸侯の)ある者は招誘安撫することで自らそれを用いたため、その時から四夷が交侵して(互いに侵しあって)中国と錯居(雑居)するようになりました(『資治通鑑』胡三省注が春秋戦国時代の中原諸国と異民族の関係を解説していますが、省略します)(後に)秦始皇が天下を併せると、兵威が周辺に達し、胡を追い払って越を走らせたので(攘胡走越)、その時になって、中国には四夷がいなくなりました。

(ところが)漢建武(東漢光武帝の年号です)の間に馬援が隴西太守を兼任して(領隴西太守)叛羌を討ち、その余種を関中に遷して馮翊・河東の空地に住ませました。(その結果)数歳(数年)の後に族類が蕃息(増加。生み増やすこと)し、(彼等は)一方では自分達の肥強を恃みとし、同時に漢人の侵犯を苦とするようになりました。(そのため)永初の元(東漢安帝永初元年・107年)に群羌が叛乱し、将守を覆没(全滅)させ、城邑を屠破し(破って皆殺しにし)、鄧騭が敗北して、侵(侵犯)が河内に及び、十年の間で夷・夏(異民族と漢人)が共に敝(衰退疲弊)しました。任尚と馬賢はなんとか彼等に克てただけです(僅乃克之)。この時から、餘燼(残った火種)が尽きなくなり、(彼等は)少しでも機会があったら侵叛を繰り返し(小有際会,輒復侵叛)、中世(少し前の時代)の寇においては、これ(羌族の侵犯)が最大になりました。

魏が興きたばかりの時は、蜀と分隔(分裂・隔絶)しており、疆埸の戎は、双方に附きました(疆埸之戎一彼一此)。武帝(曹操)は武都氐を秦川に遷し、寇(戎・狄)を弱くして国を強くすることで、蜀虜を扞禦(防御)しようと欲しましたが、思うにこれは権宜の計(時勢に応じた計)であり、万世の利ではありません。今の者はこれに当たって(これを継承して。このような状態に当面して)、既にその弊害を受けています(今者当之已受其敝矣)

関中は土地が肥沃で物が豊かなので、帝王が住む場所です。戎・狄がその土地に居るべきだとは、聞いたことがありません。我々と同族でなかったら、必ず心が異なります(非我族類其心必異)。ところが、彼等の衰敝(衰退疲弊)に乗じて畿服(近畿。関中)に遷し、士庶が翫習して(「慣れ合って」、または「習慣になって」)、その軽弱を侮り、彼等の怨恨の気に骨髄を毒させたので(衰退した戎・狄を関中に移住させた後、漢人はその状況に慣れて、弱体化した戎・狄を侵犯・凌辱し、彼等の怨恨の気を骨髄にまで染み渡らせたので。原文「使其怨恨之気毒於骨髓」)(彼等は)蕃育衆盛(子孫が増えて強盛になること)に至って、坐してその心(侵叛の心)を生みました。貪悍の性(貪婪強暴な性格)をもって憤怒の情を挟み(抱き)、隙を待って便(利)に乗じ、横逆(常規を破ること。凶暴で道理がないこと)を為しています。しかも封域の内に住んでいるため、障塞の隔てがなく、備えがない人を襲って散野の積(置き去りにされた穀物や財物)を収めているので、禍を為して滋蔓(蔓延)させることができ、その暴害は測り知ることができません。これは必然の勢、已験の事(既に実証されている事)です。当今の宜は(今やるべきことは)、兵威が盛んで衆事(諸事。恐らく戦時の備えだと思います)を廃していないうちに、馮翊・北地・新平・安定界内の諸羌を遷して先零・罕幵・析支の地に置き、扶風・始平・京兆の氐を出して隴右に還らせ、陰平・武都の界内に置き(『資治通鑑』胡三省注によると、先零・罕幵・析支の地は湟中西から賜支河首に至ります。陰平と武都は白馬氐の地でした)、道中で必要な食糧を与えて自分で(目的地に)到達できるようにし(廩其道路之糧,令足自致)、それぞれを本種(本族)に帰附させてその旧土に返し、属国と撫夷(『資治通鑑』胡三省注によると、属国都尉と撫夷護軍です)にその地で安集(安撫、安定)させるべきです。戎と晋(漢人)が雑居せず、それぞれ自分の場所を得られれば、たとえ猾夏の心(中華を乱そうとする心)があり、風塵の警(戦争や騒乱の警報)があったとしても、中国と絶遠して山河で隔閡(隔離)されています。もし寇暴があっても、害は広くありません(危害は大きくありません。原文「所害不広矣」)

(この意見に対して)難者(反対する者)がこう言いました「氐寇(恐らく斉万年です)を平定したばかりで、そのうえ、関中は饑疫(飢饉・疫病)に襲われているので、百姓は愁苦して、皆、寧息(安寧休息)を望んでいます。それなのに、疲悴(疲弊病弱)の衆を使って、自猜の寇(我々が勝手に寇賊だと疑っている異民族。または猜疑心を抱いている寇賊)を遷しても、恐らく、気勢が尽きて力が屈し、緒業(事業)が完成することなく、前害がまだ止んでいないのに、後変が突然また起きることになります(欲使疲悴之衆,徙自猜之寇,恐勢尽力屈,緒業不卒,前害未及弭而後変復横出矣)。」

(私は)答えてこう言いました「子(あなた)は、今の群氐はまだ余資を挟んでいるのに(残った財物を持っているのに)、悪を悔いて善に戻り、我々の徳恵に懐いたので、柔附(服従、帰順)しに来たと思っているのですか。それとも、勢が窮して道が尽き、智も力も共に行き詰まり(智力俱困)、我々の兵誅(用兵・誅殺)を懼れたから、ここに至ったと思っているのですか。」

その答えは、余力がなくなり、勢が窮して道が尽きたからです。そうであるなら、我々はその短長の命(命の長短)を制すことができ、その進退は我々によって決めることができます(我能制其短長之命而令其進退由己矣)。自分の業を楽しんでいる者は事を変えず、自分の住居に安んじている者は遷ろうとする志がありません(夫楽其業者不易事,安其居者無遷志)(しかし人が)自ら疑って危惧を抱き、畏怖して逼迫した時なら、それに乗じて、兵威によって制し、彼等を各方面で逆らえないようにすることができます(方其自疑危懼,畏怖促遽,故可制以兵威,使之左右無違也)(今なら)彼等が死亡流散して、遠くに離れてまだ集まらず、関中の人との関係が各戸ごとに皆、讎となっているので(氐・羌が叛して関中の人々に憎まれるようになっているので)、それに乗じて、遥か遠い地に遷して、彼等の心が(関中の)土地を懐かしまないようにさせることができます(迨其死亡流散離逷未鳩,与関中之人戸皆為讎,故可遐遷遠処,令其心不懐土也)。聖賢が事を謀る時とは、まだ発生していないうちに行動し、まだ乱れていないうちに治めるので、道は明らかになっていないのに平らになり、徳は顕かになっていないのに成就するのです(夫聖賢之謀事也,為之於未有,治之於未乱,道不著而平,徳不顕而成)。その次は(聖賢に次ぐ者は)、禍を転じて福とし、失敗を元に功を成し、困難に当たっても必ず完成させ、境遇に利がなくても通すことができます(其次則能転禍為福,因敗為功,値困必済,遇否能通)。今、子(あなた)は敝事の終(弊害の終わり。かつての措置がもたらした弊害)に遭いながら更制の始(制度を改めてやり直すこと)を図らず、易轍の勤(頻繁に道を変える勤苦)を愛しながら覆車の軌(転覆した車の軌道)を遵守していますが、それはなぜですか(今子遭敝事之終而不図更制之始,愛易轍之勤而遵覆車之軌,何哉)。そもそも関中の人口は百余万おり、およその多寡を計ったら、戎狄が半数を占め(率其少多,戎狄居半)、彼等を住ませるにも遷すにも、必ず口実(食糧)が必要になります(処之與遷,必須口実)。もしそれが窮乏して糝粒(米粒。穀物)が続かなくなったら、そのために関中の穀を傾けて彼等の生生の計(生計)を全うさせる必要があり、必ず溝壑(山谷。荒野)に棄てることがなければ(彼等を野垂れ死にさせなければ)(彼等も)侵掠(侵犯・略奪)の害を為しません(原文「故当傾関中之穀以全其生生之計,必無擠於溝壑而不為侵掠之害也」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。氐・羌が窮乏したら必ず集まって侵掠するので、晋がその害を止めるには、穀物を傾けて支給する必要がありました)。今、我々がこれを遷し、食を伝えて至らせ(原文「伝食而至」。『資治通鑑』胡三省注よると、経由する郡県で順に食糧を与えるという意味です)、その種族に帰附させ、彼等に自分で自分を養わせれば(自使相贍)、秦地(関中)の人はその半穀(関中の半分の食糧。戎狄が消費していた食糧)を得ることができます。これは、去る者を廩糧(官の食糧)によって救済し、居留する者に積倉(穀物を蓄えた倉)を残し、関中の逼(逼迫、緊張)を緩め、盗賊の源を去らせ、旦夕の損(日々の損害、出費)を除き、終年(終生、長年)の益を建てることです(此為済行者以廩糧,遺居者以積倉,寛関中之逼,去盗賊之原,除旦夕之損,建終年之益)。もし蹔挙の小労(暫時の小さな労力)を憚って永逸の弘策(永遠に安逸を得られる長期の策)を忘れ、日月の煩苦を惜しんで累世の寇敵を残すようなら、それはいわゆる創業垂統して謀を子孫に及ぼせる者ではありません(大業を創建してそれを後世に伝え、謀を子孫に及ぼすことができる者ではありません)

并州の胡は、本来、実は匈奴の桀悪な寇(凶悪な賊)でしたが、建安(東漢献帝の年号)の間に、右賢王・去卑に呼廚泉を誘わせて人質とし、その部落が六郡に散居することを許しました(『資治通鑑』胡三省注によると、この六郡は并州管轄下の六郡で、匈奴と晋人が雑居していた平陽、西河、太原、新興、上党、楽平を指します)。咸熙(魏元帝の年号)の際には、一部では強すぎるため、分けて三率(三帥)とし、泰始(晋武帝の年号)の初めには、更に増やして四率にしました。(しかし)当時は劉猛が内叛して外虜と連結し、最近では郝散の変が穀遠(『資治通鑑』胡三省注によると、穀遠県は、漢代は上党郡に属しましたが、晋代になって廃されました。しかしその地には古い県名が残っていたようです)で起きました。今、五部の衆は戸が数万に及び、人口の盛(多さ)は西戎を越えており、その天性(性格)は驍勇で、氐・羌の倍以上も弓馬に習熟しています(弓馬便利倍於氐羌)。もしも不虞風塵の慮(予期できない戦乱の憂い)があったら、并州領域は心を寒くすることになるでしょう(并州之域可為寒心)

正始(魏少帝・曹芳の年号)の間に毌丘倹が句驪を討ち、その余種を滎陽に遷しました。遷したばかりの時は戸落(戸数)が百数しかありませんでしたが、子孫が孳息(増加。生み増やすこと)して今は千を数えています。数世の後には必ず殷熾(繁栄、隆盛)に至るでしょう。(今の世は)百姓が職を失って、あるいは亡叛(逃亡離反)している者もいます(百姓失職,猶或亡叛)。犬馬が肥充したら噬齧があります(犬や馬は肥えて充たされたら噛み合うようになります)。ましてや、夷・狄においては変を為さずにいられるでしょうか。(今、静かにしているのは)ただ自身の微弱を顧みており、その勢力が達していないだけです。

(国)を為す者とは、人が少ないことを憂いとするのではなく、安定していないことを憂いとするものです(憂不在寡而在不安)。四海の広さと士民の富をもってして、なぜ夷虜を内に置いた後でなければ満足できないのでしょうか(以四海之広,士民之富,豈須夷虜在内然後取足哉)。彼等は皆、申諭(告知、教導)して送り出し、本域に還すべきです。彼等の羈旅懐土の思(客居して故郷を懐かしむ心)を慰め、我が華夏纖介の憂(中華における微小な嫌隙による憂い)を解き、中国に恵みを与えて四方を安定させ(原文「恵此中国以綏四方」。『詩経‧大雅‧民労』の一句です)、徳を永世に施すこと、これが計において長となります(これこそが良計です。原文「於計爲長也」)。」

朝廷は江統の意見を用いることができませんでした。

 

 

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