西晋時代56 西晋恵帝(十七) 李特の興隆 302年(1)

 

今回は西晋恵帝太安元年です。二回に分けます。

 

西晋恵帝太安元年

壬戌 302年

本年は永寧二年で始まりますが、十二月に太安元年に改元します。

 

[一] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

春正月庚子(二十日)、安東将軍・譙王・司馬隨が死にました。

 

初代の譙王は司馬遜(司馬進の子。司馬進は司馬懿の弟です)が封じられました。

『晋書・列伝第七・宗室伝(司馬遜伝)』によると、司馬遜の諡号は剛王です。司馬遜には司馬隨、司馬承という二子がおり、死後、司馬隨が跡を継ぎました。諡号は定王です。

本年、司馬隨が死んで子の司馬邃が立ちましたが、後に司馬邃は石勒に殺され、司馬承が司馬遜の跡を継ぎます。

 

[二] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

三月癸卯(二十四日)、司・冀・兗・豫の四州で罪人を赦免しました(赦司冀兗豫四州)

 

[三] 『資治通鑑』と『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

沖太孫・司馬尚(皇太孫。沖は諡号です)が死にました。

 

[四] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

夏四月、彗星が昼に現れました。

 

[五] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

五月乙酉(初七日)、侍中・太宰・領司徒・梁王・司馬肜(諡号は孝王。司馬懿の子です)が死にました。

 

[六] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

右光禄大夫・劉寔を太傅に任命しましたが、暫くして老病のため罷免しました。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

河間王・司馬顒が督護・衙博(『資治通鑑』胡三省注によると、秦穆公の子が衙を食采にしたため、それが氏になりました。漢代の衙県は馮翊に属しました)を派遣して蜀の李特を討たせました。衙博は梓潼に駐軍します。

朝廷は更に張微を広漢太守に任命して徳陽に駐軍させ、羅尚(梁州刺史)も督護・張亀を派遣して繁城に駐軍させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の梓潼県は広漢郡に属していましたが、蜀漢が広漢を分けて梓潼郡を置きました。繁県は蜀郡に属します。

 

李特は自分の子・鎮軍将軍・李蕩等に衙博を襲わせ、自らも兵を指揮して張亀を撃ちました。李特が張亀を破り、李蕩も陽沔で衙博の兵を敗ります。

梓潼太守・張演が城を棄てて走り、巴西丞・毛植が郡を挙げて投降しました。

 

李蕩が進軍して葭萌(『資治通鑑』胡三省注によると、蜀漢が葭萌県を漢寿県に改名し、晋が晋寿に改名しました。ここでは漢代の古い県名を使っています)で衙博を攻めました。

衙博は逃走し、その衆が全て投降しました。

 

河間王・司馬顒は改めて許雄を梁州刺史に任命しました。

李特は大将軍・益州牧・都督梁益二州諸軍事を自称しました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』は「五月」にこう書いています「太尉・河間王・司馬顒が将・衙博を派遣して蜀で李特を撃たせたが、李特に敗れた。そこで、李特は梓潼と巴西を落とし、広漢太守・張微を害して自ら大将軍を号した。」

しかし『資治通鑑』では、五月に李特が大将軍を称してから(上述)、八月に張微を殺しており(下述)、『華陽国志・巻八』も八月に李特が徳陽(張微の拠点)を破っています。中華書局『晋書・恵帝紀』校勘記は『恵帝紀』の記述を「恐らく誤り」としています。

また、「張微」は、『晋書・載記第二十』では「張徵」と書かれています。

 

[八] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

大司馬・司馬冏は久しく大政を専断したいと欲していました。しかし恵帝の子や孫は全て死んでおり(『資治通鑑』胡三省注によると、太子・司馬遹が死んだため、恵帝には子がいませんでした。また、司馬虨、司馬臧、司馬尚も死んだため、孫もいなくなりました)、大将軍・司馬穎に次立の勢(次に即位する形勢)があります(司馬穎は武帝の子で、恵帝の弟です。司馬冏は武帝の弟・司馬攸の子なので、恵帝との関係は司馬穎より遠くなります)

清河王・司馬覃は司馬遐(清河康王。武帝の子。司馬穎の兄)の子で、この時、まだ八歳でした。そこで司馬冏は上表して司馬覃を皇太子に立てるように請いました。

 

癸卯(二十五日)(恵帝が)司馬覃を皇太子に立てて、孤寡(孤児・寡婦)に帛を下賜し、五日間の大酺(国を挙げての大宴)を行いました。

斉王・司馬冏を太子太師に、東海王・司馬越を司空・領中書監に任命しました。

 

[九] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

秋七月、兗・豫・徐・冀の四州で大水(洪水)がありました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

八月、李特が張微(広漢太守)を攻めましたが、撃破されました。張微は李特の営に進攻します。

李蕩が兵を率いて李特を救いに行きました。山道が険陿(険阻・狭窄)でしたが、李蕩は力戦して前に進み、ついに張微の兵を破ります。

李特が涪に還ろうと欲しましたが、李蕩と司馬・王幸が諫めて言いました「張微の軍は既に敗れ、智勇が共に竭きて(尽きて)いるので、鋭気に乗じてこれを禽(擒、虜)にするべきです。」

李特は再び進軍して張微を攻めました。張微を殺してその子・張存を捕らえます。しかし李特は張微の喪(霊柩)を張存に返しました(または「張微の喪を行わせるために張存を還らせました」。原文「特復進攻微,殺之,生禽微子存,以微喪還之」)

 

李特はその将・寋碩に徳陽を守らせ、李驤を毗橋に駐軍させました。

羅尚が軍を派遣してこれを撃ちましたが、しばしば李驤に敗れます。

李驤は勝ちに乗じて成都に進攻し、その門を焼きました。

李流も成都の北に駐軍します。

羅尚が精勇一万人を派遣して李驤を攻撃させましたが、李驤は李流と連合してこれを撃ち、大破しました。羅尚の軍で還った者は十分の一二しかいませんでした。

 

許雄も頻繁に軍を派遣して李特を攻めましたが、勝てませんでした。

李特の勢いがますます盛んになります。

 

建寧の大姓・李叡と毛詵が太守・杜俊(『資治通鑑』は「許俊」としていますが、『華陽国志・巻十一(後賢志・李毅)』では「杜俊」です。恐らく『資治通鑑』が誤りです)を駆逐し、朱提の大姓・李猛が太守・雍約を駆逐して、李特に応じました。それぞれ数万の衆を擁します。

しかし南夷校尉・李毅が討伐して破り、毛詵を斬りました。

李猛は牋(書信)を納めて投降しましたが、辞意が不遜だったため、李毅が李猛を誘い出して殺しました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、建寧は古滇王国の地です。漢がその地を開いて益州郡を置き、蜀漢が建寧郡に改名しました。唐代には昆州の地になります。

朱提県は、西漢は犍為郡に属し、東漢は犍為属国都尉に属しましたが、蜀漢が分けて朱提郡を置きました。唐代には曲州の地になります。

 

[十一] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

冬十月、地震がありました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

十一月丙戌(十一日)、晋が再び寧州を置いて李毅を刺史にしました(寧州は武帝太康五年・284年に廃されていました)

 

[十三] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

斉王・司馬冏(武閔王という諡号を贈られます)は志を得てから、頗る驕奢になり、擅権(専権)しました。大いに府第(府邸)を起こし、そのために破壊された公私の廬舍(家屋)は百を数え、制(規模)が西宮と等しくなったため、中外の者が失望します。

そこで、侍中・嵇紹が恵帝に上書しました「存在している時にも滅亡を忘れない(存不忘亡)。これは『易』の善戒(素晴らしい戒め)です。臣は陛下が金墉(での幽閉)を忘れず、大司馬(司馬冏)が潁上(の戦い)を忘れず、大将軍(司馬穎)が黄橋(の戦い)を忘れないことを願います。そのようであれば、禍乱の萌(芽)が予兆を示す理由もなくなります(禍乱之萌無由而兆矣)。」

嵇紹は司馬冏にも書を送ってこう伝えました「唐・虞(堯・舜)は茅茨(茅葺の家)に住み、夏禹は卑宮(粗末な宮室)に住みました。今、(あなたは)第舍(邸宅)を大いに興し、しかも三王(恐らく司馬冏の三子を指します。前年、司馬冰が楽安王に、司馬英が済陽王に、司馬超が淮南王に封じられました)のために宅を建てていますが、どうしてこれが今日の急務なのでしょうか(大興第舍及為三王立宅,豈今日之急邪)。」

司馬冏は遜辞(謙遜した言葉)を使って謝しましたが、諫言に従うことができませんでした。

 

司馬冏は宴楽に耽り、入朝・朝見もしなくなりました。坐したまま百官を拝し(原文「坐拝百官」。『資治通鑑』胡三省注は「(府邸に)坐したまま百官の拝礼を受けた(坐受百官之拝也)」または「司馬冏は自分の府第(府邸)に安坐して百官を拝受(任命)した(冏安坐府第拝授百官也)」と解説しています)、三台に符敕(勅命の文書)を発して命令し(符敕三台)、人材の任用は不公平で、嬖寵(寵臣)が政事を行うようになります(選用不均,嬖寵用事)

殿中御史・桓豹(『資治通鑑』胡三省注によると、魏制では蘭台が殿中に二御史を送って非法を監視させました。晋代になってからは四人に増員されました)が奏事(上奏)した際、先に司馬冏の官府を通さなかったため、司馬冏はすぐに考竟(審問・拷問)を加えました。

 

南陽の処士・鄭方が上書して司馬冏を諫めました「今、大王は安寧な状態にあって危険を考慮せず、宴楽が度を越えています(安不慮危,宴楽過度)。これが一失(一つ目の過失)です。宗室骨肉には纖介(些細な嫌隙)が存在しないものですが、今はそうではありません。これが二失です。蛮夷が静かではないのに(原文「蛮夷不静」。『資治通鑑』胡三省注によると、李特等による梁・益での乱を指します)、大王は(自分の)功業が盛んになったとみなしており、(蛮夷を)懸念していません(大王謂功業已隆不以為念)。これが三失です。兵革(戦闘)の後、百姓が窮困しているのに、賑救(救済の事例)を聞きません。これが四失です。大王は、事態が定まった後、賞が時を越えないことを義兵と盟約しましたが(功績を立てた者はすぐに褒賞すると約束しましたが)、今もなお功がありながら論じられていない者(評価されていない者)がいます。これが五失です。」

司馬冏は感謝して「子(汝)がいなかったら、孤(私)は過失を聞くことがなかった(非子,孤不聞過)」と言いました。

 

孫恵が上書しました「天下には五難(五つの困難)と四不可(四つのしてはならないこと)がありますが、明公は全てをそなえています(明公皆居之)。鋒刃を冒すこと(冒犯鋒刃)、これが一難です。英豪を集めること(聚致英豪)、これが二難です。将士と労苦を等しくすること(與将士均労苦)、これが三難です。弱によって強に勝つこと(以弱勝強)、これが四難です。皇業を興復すること(興復皇業)、これが五難です。大名とは久しく負ってはならず(大名不可久荷)、大功とは久しく任じてはならず(いつまでも大功を誇りにしてはならない、という意味だと思います。原文「大功不可久任」)、大権とは久しく握ってはならず(大権不可久執)、大威とは久しく居座ってはならないものです(大威不可久居)。大王はこの難(五難)を行いながら難とみなさず、不可にいながら可とみなしています。これは恵(私)が心中で不安としていることです(恵竊所不安也)。明公は功が成ったら身を退けるという道を思い、親しい者を尊んで近い者を推し(崇親推近)、長沙・成都の二王に重任を委ね、長揖(揖礼の一種)して藩に帰るべきです。そうすれば、太伯、子臧でも前の時代において美名を独占することができなくなります(原文「太伯子臧不専美於前矣」。太伯は周代・呉の始祖で、弟に国を譲りました。子臧は春秋時代・曹の公子で、国君の位を避けて国から去りました)。ところが今、(明公は)高さが極まったら危険になるということを忘れ(忘高亢之可危)、権勢を貪って疑いを受けています。たとえ高台の上で遨遊(漫遊)して重墉(重壁)の内で逍遥としていても、私が心中で思うに、危亡の憂いは潁・翟(潁川・陽翟)の時を越えています(愚竊謂危亡之憂,過於在潁翟之時也)。」

司馬冏が諫言を採用できなかったため、孫恵は病と称して去りました。

 

司馬冏が曹攄に問いました「ある者は私に権勢を捨てて国に還るように勧めているが、どうだ(或勧吾委権還国,何如)?」

曹攄が答えました「物は盛んになりすぎることを禁忌とします(物禁太盛)。大王が誠に高い地位にいながら危険を考慮し、裳をめくって去ることができるようなら、それは善の中の善というものです(大王誠能居高慮危,褰裳去之,斯善之善者也)。」

司馬冏はやはり諫言に従いませんでした。

 

張翰と顧榮はどちらも禍が自分に及ぶことを憂慮しました。

秋風が起きる頃、張翰は菰菜、蓴羹、鱸魚の鱠(なます)を思って嘆息し(菰菜、蓴羹、鱸魚鱠とも呉の食物で、呉は張翰の故郷です。「蓴羹鱸鱠」は故郷の味、または故郷を思うことを表す成語になりました)、「人生とは適志(自由自在なこと)を貴ぶものだ。富貴が何になるだろう(人生貴適志耳,富貴何為)」と言って、すぐに引去(引退、退去)しました。

顧榮は故意に酣飲(痛飲)して府事を省みなくなりました。長史・葛旟がこれを廃職(職務を怠ること)とみなして司馬冏に報告したため、顧榮は中書侍郎に遷されました。

 

潁川の処士・庾袞(『資治通鑑』胡三省注によると、堯の時代の掌庾大夫(穀倉を管理する官)が官名から庾氏を名乗りました)は司馬冏が一年も入朝していない(朞年不朝)と聞き、嘆いて「晋室は衰弱した。禍乱がもうすぐ興る(晋室卑矣,禍乱将興)」と言うと、妻子を連れて林慮山に逃げました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代57 西晋恵帝(十八) 司馬冏の死 302年(2)

 

2 thoughts on “西晋時代56 西晋恵帝(十七) 李特の興隆 302年(1)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です