西晋時代57 西晋恵帝(十八) 司馬冏の死 302年(2)

 

今回で西晋恵帝太安元年が終わります。

 

[十三(続き)] 王豹が司馬冏に牋(書信)を送りました「伏して元康以来を思うに、宰相が位にいて、まだ一人も終わりを全うできた者はいません(原文「伏思元康以来,宰相在位未有一人獲終者」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。恵帝元康元年(291年)に楊駿が誅殺され、続けて汝南王・司馬亮も死にました。永康元年(300年)には張華と裴頠が死にました)。これは事勢がそうさせたのであって、皆、不善を為したのではありません(乃事勢使然,非皆為不善也)。今、公は禍乱を克平(克服・平定)し、国を安んじて家を定めましたが(国と家を安定させましたが)、再び顚覆した車の軌道に沿っています(復尋覆車之軌)(このような状態で)長存を望もうとしても、難しいのではありませんか(欲冀長存不亦難乎)。今は河間(司馬顒)が関右に拠点を樹立し(樹根於関右)、成都(司馬穎)が旧魏(鄴)に盤桓(逗留)し、新野(司馬歆)が江・漢(長江・漢水流域)に大封され、三王はまさに方剛強盛の年(剛壮・強盛な年齢)によって、並んで戎馬(軍馬、軍隊)を管理し、要害の地に位置しています(三王方以方剛強盛之年並典戎馬処要害之地)。一方、明公は難賞の功(褒賞もできないほどの大功)をもってして、震主の威(国君をも震わせる勢威)を恃みとし、独り京都を拠点にして、専ら大権を執っており(大権を握っており)、進んだら『亢龍有悔(龍が至高に達したら降るしかないので後悔することになる、高位に登ったら禍を招くことになる、という意味です)』となり、退いても『拠于蒺藜(蒺藜の中に居る。「蒺藜」は棘がある植物です)』となるので、このような状況で安寧を求めても、福は見えません(冀此求安未見其福也)。」

王豹は、全ての王侯を封国に送り還し、周・召の法に則って、成都王を北州伯にして鄴を治めさせ、司馬冏自ら南州伯になって宛を治め、黄河を境界にして、それぞれが南北の王侯を統率して、天子を夾輔(補佐)するように請いました(周・召は西周の周公と召公です。周公と召公は二伯となり、陝を境に天下の東西を統率して王室を輔佐しました。王豹はこの方法に倣おうとしました)

 

司馬冏は優令(恩寵を示す言葉)によって王豹に答えました。

しかし、王豹の牋を見た長沙王・司馬乂が、司馬冏に「小子(王豹)は骨肉を離間させようとしています。なぜ銅駞(銅の駱駝。宮門の前に置かれました)の下で打ち殺さないのですか」と言いました。

そこで司馬冏は、「王豹は讒言によって内外を離間させ(讒内間外)、坐して猜嫌(猜疑・怨恨)を生ませており、不忠不義なので、鞭殺に処すべきです」と上奏しました。

王豹は死ぬ前に「私の頭を大司馬門に掲げよ。兵が斉(斉王・司馬冏)を攻めるのを見るためだ(縣吾頭大司馬門,見兵之攻斉也)」と言いました。

 

司馬冏は河間王・司馬顒が本来は趙王・司馬倫に附いていたため、心中で常に恨んでいました。

また、梁州刺史・安定の人・皇甫商は司馬顒の長史・李含と不平(不仲)でした。

李含は召されて翊軍校尉に任命されましたが、この時、皇甫商が司馬冏の参軍事を勤めており(参冏軍事)、夏侯奭の兄も司馬冏の官府にいたため、李含は心中で不安を抱きました(当初、司馬顒は趙王・司馬倫に附いており、李含の意見に従って夏侯奭を殺しました。恵帝永寧元年・301年参照)

しかも李含は司馬冏の右司馬・趙驤とも間隙があったため、単馬で奔って司馬顒に投じ、偽って「司馬顒に司馬冏を誅殺させるという密詔を受けた」と称しました。

更に李含が司馬顒に言いました「成都王は至親(恵帝との関係が極めて近いこと)で大功があるのに、推譲(辞退、謙譲)して藩に還り、甚だ衆心を得ています。(一方)斉王は他の親しい皇族を越えて専政しており、朝廷が測目(正視できないこと。恐れや怨みを表します)しています(越親而専政,朝廷側目)。今、長沙王に檄して(檄文を送って)斉を討たせれば、斉王は必ず長沙を誅します。そこで我々が、斉に罪があるとみなしてこれを討てば、必ず禽(擒、虜)にできます(吾因以為斉罪而討之,必可禽也)。斉を去らせて成都を立て、逼(権勢に迫っている者。皇帝の脅威となっている者)を除いて親(皇帝と親しい者)を建て、そうすることで社稷を安んじれば、大勲となります(去斉立成都,除逼建親,以安社稷,大勲也)。」

司馬顒はこの意見に従いました。

 

当時、武帝の族弟・范陽王・司馬虓が都督豫州諸軍事に任命されていました。

『晋書・列伝第七・宗室伝』によると、司馬虓は范陽康王・司馬綏の子です。司馬綏は司馬馗の子で、司馬馗は司馬懿の弟です

 

司馬顒は上表して司馬冏の罪状を陳述し、加えてこう言いました「十万の兵を整えて(勒兵十万)、成都王・穎、新野王・歆、范陽王・虓と共に洛陽で会すことを欲します。また、長沙王・乂に冏を廃させ、(冏を)(邸宅)に還らせて、穎をもって冏に代えて輔政させること(司馬穎が司馬冏の代わりに輔政すること)を請います。」

こうして司馬顒が兵を挙げました。李含を都督に任命し、張方等を率いて洛陽に向かわせます。

また、使者を送って司馬穎を招きました。

司馬穎はこれに応じ、慮志が諫めても聴きませんでした。

 

十二月丁卯(二十二日)、司馬顒の上表が朝廷に至りました(『晋書・恵帝紀』では、十二月丁卯(二十二日)に河間王・司馬顒が「斉王・冏は神器を窺伺し(帝位を窺い)、無君の心(主君をないがしろにする心。謀反の心)が有るので、成都王・穎、新野王・歆、范陽王・虓と共に洛陽で会す」と上表し、司馬冏を廃して邸宅に還らせるように請うています。実際には、『資治通鑑』が書いている通り、十二月丁卯は司馬顒の上表が朝廷に届いた日です)

司馬冏は大いに懼れ、百官を集めて討議し、こう言いました「孤(私)は始めに義兵を挙げることを唱えた(孤首唱義兵)。臣子の節が誠に神明において顕著になっている(臣子之節信著神明)。今、二王(『資治通鑑』によると、「二王」は河間王・司馬顒と成都王・司馬穎を指します)が讒を信じて難を為したが、どうするべきだ(将若之何)?」

尚書令・王戎が言いました「公の勲業は誠に大きいものです。しかし賞が労(功労を立てた者)に及んでいないので、人々は貳心(二心)を抱いています。今、二王の兵は盛んなので、当たることができません。もし王位のまま邸宅に就き(帰り)、権勢を棄てて謙譲を尊べば、安寧を求めることもできるかもしれません(若以王就第,委権崇譲,庶可求安)。」

司馬冏の従事中郎・葛旟が怒って言いました「三台(尚書)の納言(進言)は王(斉王)の事を顧みていない(三台納言、不恤王事)。賞報(褒賞。賞によって功績に報いること)の稽緩(停滞、遅延)における責任は、府(斉王府)にはない(賞報稽緩,責不在府)。讒言逆乱は共に誅討すべきである。なぜいたずらに偽書を受け入れて、急いで公を邸宅に就かせるのだ(柰何虚承偽書,遽令公就第乎)。漢・魏以来、王侯が邸宅に就いて、妻子を保てた者がいるか(寧有得保妻子者邪)。これを議す者は斬るべきだ(議者可斬)。」

百官は恐れ震えて色を失いました(震悚失色)

王戎は薬の発作が起きたふりをして厠に堕ち、禍から逃れることができました。

 

李含は陰盤(『中国歴史地図集(第三冊)』では「陰般」としており、京兆郡に属します。『資治通鑑』胡三省注が詳しく解説していますが、省略します)に駐屯して長沙王・司馬乂に檄文を送り、司馬冏を討たせました。

張方も兵二万を指揮して新安(『資治通鑑』胡三省注によると、新安県は、漢代は弘農郡に属し、晋代は河南郡に属しました)に駐軍します。

 

司馬冏は董艾を派遣して司馬乂を襲わせました。

司馬乂も左右の百余人を率いて宮内に馳せ入り、諸門を閉じてから、天子を奉じて大司馬府を攻撃します(『晋書・恵帝紀』は「長沙王・乂が乗輿(皇帝)を奉じて南止車門に駐屯し、司馬冏を攻めた」と書いています。ここは『資治通鑑』に従いました)

董艾は皇宮の西に兵を並べ、火を放って千秋・神武門(千秋門と神武門。『資治通鑑』胡三省注によると、皇宮の西門です。「神武」は本来は「神虎」とよばれましたが、唐代の史家が唐太祖の諱(実名)である「虎」を避けて「武」に改めたため、『晋書』等には「神武門」と書かれています)を焼きました。

 

司馬冏が部下を送り、騶虞幡(兵を解く時に使う旗)を持って「長沙王・乂が詔を偽った(長沙王乂矯詔)」と唱えさせました。

一方の司馬乂も「大司馬が謀反した」と称します。

 

その夕(夜)、双方が城内で大戦しました。飛矢が雨のように集中し、火光が天に届くほど燃え上がります。

恵帝が行幸して上東門に登ると(「上」は動詞ではなく、「上東門」が門の名称です)、矢が御前に集まり、群臣が命を落として死体が積み重なりました(群臣死者相枕)

三日間連戦して司馬冏の衆が大敗しました。大司馬長史・趙淵が何勗を殺し、それを機に司馬冏も捕えて投降します(『資治通鑑』胡三省注によると、何勗は司馬冏と共に兵を起こし、当時は中領軍になっていました)

 

司馬冏が殿前に至ると、恵帝は惻然(憐憫、悲傷の様子)として、活かしたいと思いました。しかし司馬乂が左右の者を叱咤して牽き出すように促します。司馬冏は閶闔門外で斬られ、見せしめとして首が六軍に曝されました(徇首六軍)。同党の者も全て三族が皆殺しにされ(夷三族)、死者が二千余人に上ります(司馬冏は八王の乱で命を落とした四人目の王です)

司馬冏の子・司馬超、司馬冰、司馬英は金墉城に幽囚され、司馬冏の弟に当たる北海王・司馬寔は廃されました。

 

天下に大赦して、永寧二年から太安元年に改元しました。

李含等は司馬冏が死んだと聞いて、兵を率いて長安に還りました。

 

長沙王・司馬乂は朝廷にいましたが、事の巨細(大小)に関わらず、全て鄴にいる大将軍・司馬穎に意見を求めました。

司馬穎は孫恵を参軍に、陸雲を右司馬にしました。

 

『晋書・恵帝紀』では、本年十二月に長沙王・司馬乂が太尉・都督中外諸軍事になっていますが、『資治通鑑』は翌年に書いています(再述します)

 

[十四] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

東莱王・司馬蕤の子・司馬炤を斉王に封じました。

 

司馬蕤は斉王・司馬攸の子で、司馬冏の兄に当たります。恵帝永寧元年(301年)に司馬冏を廃そうとしましたが、発覚したため、庶人に落とされて殺されました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

この年、陳留王(魏の末帝・曹奐)が死にました。諡して魏元皇帝(元帝)としました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

鮮卑の宇文単于・莫圭の部衆が強盛になり、弟の屈雲を派遣して慕容廆を攻撃させました。

しかし慕容廆が宇文単于の別帥・素怒延(『晋書・載記第八』は「素怒延」を「素延」としていますが、『資治通鑑』は『燕書』を元に「素怒延」としており、胡三省注が「怒延が名である」と解説しています)を撃って破ります。

素怒延はこれを恥じとし、再び兵十万を動員して、棘城で慕容廆を包囲しました。

慕容廆の衆人が皆懼れましたが、慕容廆は「素怒延の兵は確かに多いが、法制がないので、既に我が算中(術中)にある。諸君はただ力戦するだけだ。憂いることはない」と言って出撃し、素怒延を大破しました。奔走する素怒延を百里にわたって追撃し、俘斬(捕虜・斬首)が万を数えます。

 

遼東の人・孟暉はこれ以前に宇文部に没していましたが(身を隠していたのだと思います)、その衆数千家を率いて慕容廆に降りました。

慕容廆は孟暉を建威将軍に任命しました。

 

慕容廆はその臣・慕輿句が勤恪廉靖(勤勉恭勤かつ清廉)だったので、府庫を管理させました。

慕輿句は心中で計算して記憶することができ、簿書(帳簿)に頼らなくても、常に漏れがありませんでした(心計默識,不按簿書,始終無漏)

 

また、慕輿河が明敏精審(聡明かつ正確)だったので、獄訟(訴訟、裁判)を担当させました。その覆訊(調査、審問)は清允(適切・公正)でした。

『資治通鑑』胡三省注によると、慕輿も鮮卑の種族です。

 

 

次回に続きます。

西晋時代58 西晋恵帝(十九) 李特の死 303年(1)

 

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