西晋時代58 西晋恵帝(十九) 李特の死 303年(1)

 

今回は西晋恵帝太安二年です。三回に分けます。

 

西晋恵帝太安二年

癸亥 303年

 

[一] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

春正月甲子朔(『二十史朔閏表』によると、この年正月は「乙亥」が朔で、「甲子」は「二月二十日」になりますが、「本紀」に基づいてここに置きます)、五歳(年)の刑を赦免しました。

原文は「赦五歳刑」です。西晋武帝咸寧二年(276年)に五歳(年)の刑以下の囚人を赦免したことがあるので、本年の「五歳の刑」も「五歳以下の刑」を指すと思われます。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

春正月、李特が秘かに渡江して羅尚を撃ちました。水上の軍(『資治通鑑』胡三省注によると、郫水沿岸の軍です)が皆、散走します。

蜀郡太守・徐儉が少城(成都城名)を挙げて投降し、李特が入城して占拠しました。

李特は城内で馬を得て軍に供給するだけで、他の物は侵掠(略奪)しませんでした。

 

李特が境内(勢力範囲内)の囚人を赦免して(赦其境内)、建初元年に改元しました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』では、前年(恵帝太安元年・302年)に李特が大将軍を称しており、『資治通鑑』でも前年に大将軍・益州牧・都督梁益二州諸軍事を自称しています(既述)

『晋書・載記第二十』では、前年に李特が益州牧・都督梁益二州諸軍事・大将軍・大都督を自称し、建初に改年しています。

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『後魏書‧李雄伝』でも李特は前年に大将軍を称して建初に改元しています。

しかし祖孝徵の『修文殿御覧』には「太安二年(本年)、李特が大赦し、建初元年に改年した。李特が殺された(下述)」とあり、『三十国』『晋春秋』も「太安二年正月、李特が僭位(勝手に高い位に就くこと)・改年した」としています。

『資治通鑑』は『修文殿御覧』等の書に従っており、李特の改元を本年に置いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

羅尚は太城を守り、使者を派遣して李特に和を求めました。

また、蜀の民で集まって塢(堡塁)を造った者達が、皆、李特に送款(投降、または友好の意を伝えること)しました。李特は使者を送ってそれぞれの地で人々を慰撫します。

 

李特は軍中の食糧が少なくなったため、六郡の流民を分けて諸塢で就食させました(食糧を求めさせました)

李流が李特に言いました「諸塢は新たに附いたばかりで、人心がまだ固まっていないので、大姓の子弟を質(人質)にして、兵を集めて自ら守りを固めることで、不測の事態に備えるべきです(宜質其大姓子弟,聚兵自守,以備不虞)。」

李流は李特の司馬・上官惇にも書を送ってこう伝えました「投降を受け入れるのは敵を受けるのと同じなので、軽視してはならない(納降如受敵,不可易也)。」

前将軍・李雄も諫言しましたが、李特は怒ってこう言いました「大事は既に定まった。ただ民を安んじるだけである。なぜ逆に疑忌(猜疑)を加えて彼等を離叛させるのだ(大事已定,但当安民,何為更逆加疑忌,使之離叛乎)。」

 

晋の朝廷は荊州刺史・宗岱と建平太守・孫阜を派遣し、水軍三万を率いて羅尚を救わせました。

宗岱は孫阜を前鋒(先鋒)に任命し、進軍して徳陽に迫らせます。

 

李特は李蕩および蜀郡太守・李璜を派遣し、徳陽太守・任臧と共に朝廷の軍を拒ませました(『資治通鑑』胡三省注によると、李特が広漢を分けて徳陽郡を置いたようです)

 

宗岱と孫阜の軍は勢いが甚だ盛んだったため、諸塢が皆、貳志(二心)を抱きました。

益州の兵曹従事・蜀郡の人・任叡が羅尚に言いました「李特は部衆を分散して食糧を求めさせ、驕怠(驕慢・怠慢)で備えがありません。これは天が彼等を亡ぼそうとしている時です(散衆就食,驕怠無備,此天亡之時也)。諸塢と密約して、時期を決めて同時に発し、内外からこれを撃てば、必ず破ることができます(宜密約諸塢,刻期同発,内外撃之,破之必矣)。」

羅尚は任叡を派遣し、夜の間に縄を使って城から出させ(夜縋出城)、諸塢に宣旨(命令を宣布すること)しました。二月十日に共に李特を撃つ約束をします。

任叡はこれを機に李特を訪ねて偽りの投降をしました。

李特が城中の虚実(状況)を問うと、任叡はこう答えました「食糧の蓄えが尽きようとしており、貨帛(貨物、貨幣や布帛)が残っているだけです(糧儲将尽,但余貨帛耳)。」

任叡は営を出て家人を訪ねる許可を求めました。李特がこれに許可したので、任叡は戻って羅尚に報告しました。

 

「任叡」は、『晋書・載記第二十』では「任明」、『晋書・列伝第二十七(羅尚伝)』では「任鋭」ですが、『華陽国志・巻八』が「任叡」としており、『資治通鑑』はこれに従っています。

 

二月、羅尚が兵を派遣して李特の営を掩襲(急襲)しました。諸塢が皆、これに応じ、李特の兵が大敗します。

李特および李輔、李遠が斬られて、皆、屍を焼かれ、首が洛陽に送られました。流民が大いに懼れます。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』は李特の死についてこう書いています「三月、李特が益州を攻めて落としたが、荊州刺史・宋岱が李特を撃って斬り、首を京師に伝えた(送った)。夏四月、李特の子・李雄が再び益州を占拠した。」

『華陽国志・巻八』では、正月に李特が少城を本営とし、二月に李特が斬られています。『資治通鑑』は『華陽国志』に従っています。

また、『晋書・恵帝紀』の「宋岱」は、『晋書・載記第二十』『華陽国志』でも「宋岱」ですが、『晋書・列伝第十三(郭舒伝)』『列伝第二十七(羅尚伝)』『列伝第三十(孫旂伝)』等では「宗岱」としており、『資治通鑑』も「列伝」に従って「宗岱」としています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

李蕩、李雄が余衆を収めて帰還し、赤祖(地名です。『資治通鑑』胡三省注によると、緜竹の東に位置したようです)を守りました(『晋書・載記第二十』は「李流と兄の子・李蕩、李雄が遺衆を収めて赤祖に還った」と書いています。『資治通鑑』は「李蕩、李雄」としていますが、恐らく「李流」が抜けています)

李流が自ら大将軍・大都督・益州牧を称して東営を守り、李蕩と李雄が北営を守ります

 

孫阜は徳陽を破って寋碩を捕らえ、任臧は退いて涪陵(『資治通鑑』胡三省注によると、この涪陵は漢代広漢郡の涪県、晋代梓潼郡の涪城県で、涪陵郡の涪陵ではないようです)に駐屯しました。

 

三月、羅尚が督護・何沖と常深を派遣して李流を攻めさせました。涪陵の民・薬紳も兵を起こして李流を攻めます。

李流は李驤と共に薬紳を拒みました(これは『資治通鑑』の記述で、『華陽国志・巻八』はこう書いています「羅尚がまた督護・常深を派遣して毗橋に駐軍させたが、李流、李驤に拒まれた(為流驤御)。李蕩と李雄が薬紳を攻めた。」胡三省注は『資治通鑑』を補って「李流は李驤と共に常深を拒み、李蕩と李雄に薬紳を拒ませた」と書いています)

 

何沖が虚に乗じて北営を攻めると、営内にいた氐人の苻成と隗伯がこれに応じて叛しました。李蕩の母・羅氏が甲冑を着て抗戦します(擐甲拒戰)。隗伯が自らの手で羅氏の目を切って負傷させましたが、羅氏の気はますます盛んになりました(羅氏気益壮)

ちょうどこの時、李流等が常深と薬紳を破り、兵を率いて還りました。何沖と戦って大破します。

苻成と隗伯はその党を率いて(李流等の陣を)突破し、羅尚を訪ねました。

 

李流等は勝ちに乗じて進軍し、成都に至りました。

羅尚は再び城門を閉じて守りを固めます。

李蕩が馬を馳せて敗北した敵を逐いましたが、矛に中って死にました。

 

朝廷は侍中・劉沈に符節を授け(假節)、羅尚、許雄等の軍(『資治通鑑』胡三省注によると、羅尚は益州の兵を、許雄は梁州の兵を率いています)を統率して李流を討たせました。

しかし、劉沈が長安に至った時、河間王・司馬顒が劉沈を留めて軍師に任命し、代わりに席𨘏を派遣しました。

 

李流は李特と李蕩が相次いで死に、宗岱と孫阜が至ろうとしていたため、甚だ懼れました。

李含が李流に投降を勧め、李流はこれに従います。李驤と李雄が繰り返し諫言しても聴きませんでした。

 

夏五月、李流がその子・李世と李含の子・李胡を質(人質)にして孫阜の軍に送りました。

李胡の兄・李離は梓潼太守でしたが、これを聞いて郡から馳せ還り、諫言しようとしました。しかし間に合わなかったため、引き還して李雄と共に孫阜軍を襲う策を謀りました。

李雄が言いました「今の計を為すなら、このようにすべきですが(孫阜を襲うべきですが)、二翁(李流と李含)が従いません。どうすればいいでしょう(為今計,当如是。而二翁不従,柰何)。」

李離が言いました「力で強制するだけです(当劫之耳)。」

李雄は大いに喜び、共に流民を説得して「吾属(我々)は以前、蜀民に対して残暴(残虐、暴虐)だったので、今、一旦にして手を束ねたら(投降したら)すぐ魚肉になってしまう。ただ同心になって孫阜を襲うことで、富貴を取るだけだ」と言いました。

衆人は皆、これに従います。

 

こうして、李雄と李離が共に孫阜の軍を襲撃し、大破しました。

ちょうど宗岱が墊江(『資治通鑑』胡三省注によると、墊江県は漢代以来、巴郡に属しました)で死んだため、荊州軍は撤退しました。

投降しようとしていた李流は甚だ慚愧し、この件があってから、李雄の才を奇として(尋常ではないとみなして)軍事を全て任せました。

 

[三] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

新野王・司馬歆(諡号は荘王)は、為政が厳急(厳格)だったため、蛮夷の心を失いました。

義陽蛮・張昌(『資治通鑑』胡三省注によると、義陽は元々、漢代平氏県の義陽郷でしたが、魏文帝が分けて義陽県を置きました。石城が治所です。後に南陽郡を分けて義陽郡を置き、安昌城を治所にしました。安昌、平林、平氏、義陽、平春の五県を管轄します)が党人数千を集めて乱を為そうと欲します。

 

壬午の詔書(「壬午」は詔が出された日だと思います)によって、荊州で武勇(の士)を動員して、益州に向かって李流を討つことになりました。荊州の兵は「壬午兵」と呼ばれます。

民は遠征を憚って(恐れて)、皆、行きたがりませんでしたが、詔書が急いで兵を派遣するように厳しく督促しました。兵が経由した界内で五日間停留したら、その地の二千石(太守)が免官されることになります。

そのため、郡県の官長が皆、自ら(官府を)出て(兵士を)駆逐しました。

その結果、(動員された兵士は故郷から)遠くない場所で転々として、すぐにまた集まって群盗になりました(展転不遠,輒復屯聚為群盗)

 

当時、江夏が大稔(大豊作)だったため、食糧を求める民(民就食者)が数千口に上りました。

張昌はこれを機に百姓を誑惑し(騙し惑わし)、姓名を李辰に改め、安陸石巖山で衆を募りました。諸流民や戍役(守備の兵役)を避けた者が多数従います。

太守・弓欽(『資治通鑑』胡三省注によると、弓姓は魯大夫・叔弓の後代です。また、孔子の弟子に仲弓がおり、馯臂子弓(楚人)という者もいました)が兵を派遣して張昌を討ちましたが、勝てませんでした。

そこで、張昌が郡を攻撃しました。弓欽は兵が敗れ、部将・朱伺と共に武昌へ奔ります。

司馬歆が騎督・靳満を派遣して張昌を討たせましたが、靳満も敗走しました。

 

張昌は江夏(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の江夏郡の故城です)を占拠し、妖言を造ってこう言いました「聖人が現れて民の主となるだろう(当有聖人出為民主)。」

張昌は山都県の官吏・丘沈(『資治通鑑』胡三省注によると、山都県は、漢代は南陽郡に属し、晋代は襄陽郡に属しました)を得ると、その姓名を劉尼に改め、偽って漢の後代と称し(『資治通鑑』の記述は「詐云漢後(偽って漢の後代と称した)」、『晋書・恵帝紀』の記述は「偽号漢(偽って漢と号した)」です)、天子に奉じて、「これが聖人である」と言いました。

張昌は自ら相国になり、鳳皇(鳳凰)・玉璽の瑞を偽造して、神鳳という元号を建てます。郊祀や服色はことごとく漢の故事に則りました。

張昌の招募に応じない者は族誅されたため、士民で敢えて従わない者はいませんでした。

 

張昌は更に「江淮以南が皆反したので、官軍が大いに起こり、悉く誅殺するだろう(江淮已南皆反,官軍大起,当悉誅之)」という流言を散布しました。

人々は互いに扇動しあい、人情(人心)が惶懼(恐惶。恐惧)としました。その結果、江・沔間(長江と漢水一帯)の各地が兵を起こして張昌に応じ、旬月(一月)の間に衆が三万に達します。彼等は皆、絳帽(赤い帽子)をかぶり、馬の尾で髥(ひげ)を作りました。

 

朝廷は詔によって監軍・華宏を派遣し、張昌を討たせましたが、障山で敗れました。

 

司馬歆が上言しました「妖賊犬羊は万を数え、赤い頭と毛におおわれた顔で、刀を舞わせて戟を走らせており、その鋭鋒は当たることができません(妖賊犬羊万計,絳頭毛面,挑刀走戟,其鋒不可当)。朝廷が諸軍に勅令して三道から救助することを請います(請台勅諸軍三道救助)。」

朝廷は屯騎校尉・劉喬を豫州刺史に、寧朔将軍・沛国の人・劉弘(『資治通鑑』胡三省注によると、「寧朔将軍」の号は初めての登場です)を荊州刺史に任命しました。

また、河間王・司馬顒に詔を発して雍州刺史・劉沈を派遣させ、州兵一万人と征西府の五千人を率いて、藍田関(『資治通鑑』胡三省注によると、藍田関は京兆藍田県にありました。秦の嶢関です)から出て張昌を討伐するように命じました。

しかし司馬顒は詔を奉じませんでした。劉沈が自ら州兵を統率して藍田に至りましたが、司馬顒がその衆を逼奪(強引に奪うこと)します。

 

劉喬は汝南に駐屯し、劉弘および前将軍・趙驤、平南将軍・羊伊は宛に駐屯しました。

張昌はその将・黄林を派遣し、二万人を率いて豫州に向かわせましたが、劉喬に撃退されました。

 

以前、司馬歆は斉王・司馬冏と関係が善かったため(恵帝永寧元年・301年参照)、司馬冏が敗れてから懼れを抱き、自ら大将軍・司馬穎と結びました。

張昌が乱を為すと司馬歆が上表して討伐の許可を求めました。

当時、長沙王・司馬乂は司馬穎との間に隙(対立)があったため、司馬歆が司馬穎と連謀(共謀)しているのではないかと疑い、司馬歆の出兵を許可しませんでした。そのため、張昌の衆が日に日に盛んになります。

従事中郎・孫洵が司馬歆に言いました「公は岳牧(古の四岳十二牧。一方面の長)となり、閫外の託(朝廷外の委任)を受けています。表を拝して行動するのに、してはならないことがあるのでしょうか(上表してからなら、自由に行動できるはずです。原文「拝表輒行,有何不可」)。それなのに姦凶を滋蔓(蔓延)させており、禍釁(災禍)が測り知れなくなっています。どうしてこれが王室を藩翰(防衛)して方夏(華夏、中原)を鎮静にするという義(道理)なのでしょうか。」

そこで、司馬歆が兵を出そうとしましたが、王綏が諫めて言いました「張昌等は小賊なので、偏裨(属将)でも自ずから制するに足ります。なぜ詔命に違えて自ら矢石に当たる必要があるのでしょうか(何必違詔命,親矢石也)。」

 

張昌が樊城に至ったため、司馬歆が出兵して拒みましたが、兵衆が潰滅して司馬歆は張昌に殺されました。

朝廷は詔によって司馬歆の代わりに劉弘を鎮南将軍・都督荊州諸軍事に任命しました(司馬歆は鎮南大将軍・都督荊州諸軍事でした)

 

六月、劉弘が南蛮長史・陶侃を大都護に、参軍・蒯恆を義軍督護に、牙門将・皮初を都戦帥に任命し、軍を進めて襄陽を占拠しました。

張昌は軍を合わせて宛を包囲し、趙驤軍を破って羊伊を殺しました。劉弘は退いて梁に駐屯します。

張昌が襄陽に進攻しましたが、克てませんでした。

『資治通鑑』胡三省注によると、南蛮校尉は長史と司馬を置きました。「義軍」は民兵のようです。督護の官はこの時、創置されました。襄陽は漢中廬県です。梁県は汝南郡に属します。

 

尚、『晋書・巻四・恵帝紀』は「(張昌が)郡県を攻めて破り、南陽太守・劉彬、平南将軍・羊伊、鎮南大将軍・新野王・司馬歆が並んで害に遇った。六月、(朝廷が)荊州刺史・劉弘等を派遣して方城で張昌を討たせたが、王師が敗績(敗北)した」と書いていますが、『資治通鑑』には「南陽太守・劉彬」に関する記述がなく、「劉弘等が方城で敗れた」という記述もありません。

 

『晋書・列伝第三十六(劉弘伝)』には、「張昌が乱を為すと、劉弘は転じて使持節・南蛮校尉・荊州刺史になり、前将軍・趙驤等を率いて張昌を討ち、方城から宛、新野に至るまで、向かう所全てを平定した(所向皆平)。新野王・司馬歆が敗れてから、(朝廷は)劉弘を(司馬歆の)代わりに鎮南将軍・都督荊州諸軍事にして、その他の官は今まで通りとした。劉弘は(略)襄陽を占拠した。張昌が軍を合わせて宛を包囲し、趙驤軍を敗った。劉弘は退いて梁に駐留した」と書かれています。

 

 

次回に続きます。

西晋時代59 西晋恵帝(二十) 司馬乂討伐 303年(2)

 

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