西晋時代60 西晋恵帝(二十一) 内戦 303年(3)

 

今回で西晋恵帝太安二年が終わります。

 

[九] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

石超が進軍して緱氏の乗輿(皇帝)に迫りました。

冬十月壬寅(初二日)、恵帝が皇宮に還りました。

石超が緱氏を焼き、服御(服飾・器物)が残りませんでした(原文「石超焚緱氏,服御無遺」。これは『晋書・恵帝紀』の記述で、『資治通鑑』は採用していません)

 

丁未(初七日)、東陽門外(『資治通鑑』胡三省注によると、東陽門は漢代洛陽城の中東門です)(朝廷軍が)牽秀を敗りました(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・恵帝紀』では、東陽門外で牽秀と范陽王・司馬虓を破っています)

大将軍・司馬穎が将軍・馬咸を派遣して陸機を助けさせました。

 

戊申(初八日)、太尉・司馬乂が恵帝を奉じて建春門(『資治通鑑』胡三省注によると、建春門は漢代雒城(洛城)の上東門です。穀水がその前を流れており、石橋がありました)で陸機と戦いました。

司馬乂の司馬・王瑚が数千騎を派遣し、馬に戟を繋げて馬咸の陣に突撃させました。馬咸の軍が乱れ、馬咸は捕まって斬られます。

陸機軍は大敗して七里澗に向かいました。死者が積み重なり、そのために川の水が流れなくなるほどでした。

(朝廷軍が)大将・賈崇等十六人を斬り、石超は遁走して去りました。

『晋書・列伝第二十四(陸機伝)』には、「長沙王・司馬乂が天子を奉じ、陸機と鹿苑で戦った。陸機の軍が大敗した。(略)将軍・賈棱(等)が皆死んだ」とありますが、『晋書・恵帝紀』は「戊申(初八日)、建春門で陸機を破った。石超を走らせ、その大将・賈崇等十六人を斬って、首を銅駝街に掲げた。張方は退いて十三里橋に駐屯した」と書いており、『資治通鑑』は『恵帝紀』に従って、陸機が戦った場所を「鹿苑」ではなく「建春門」とし、「賈棱」を「賈崇」としています。

 

以前、宦人の孟玖は大将軍・司馬穎に寵用されており、自分の父が邯鄲令(『資治通鑑』胡三省注によると、邯鄲県は、漢代は趙国に属し、魏・晋は広平郡に属しました。隋・唐は磁州に属します)に任命されることを欲しました。

左長史・盧志等は皆、敢えて反対しようとしませんでしたが、右司馬・陸雲が頑なに同意せず(固執不許)、こう言いました「この県(邯鄲)は、公府の官属の資格がある者が担当するものです(此県,公府掾資)。どうして黄門(宦官)の父が居られるのでしょう(豈有黄門父居之邪)。」

この件があったため、孟玖は陸雲を深く怨むようになりました。

 

孟玖の弟・孟超は一万人を統領して小督になり、戦いが始まる前に兵を放って大掠(大略奪)させました。

陸機が主者(主犯)を逮捕しましたが、孟超が鉄騎百余人を統率して、直接、陸機の麾下(将旗の下。営内)に入って奪い、顧みて陸機に「貉奴が都督になれるか(または「貉奴に私を監督できるか」。原文「貉奴能作督不」。「貉奴」は罵る言葉で、「貉」はムジナです)」と言いました。

陸機の司馬・呉郡の人・孫拯が孟超を殺すように勧めましたが、陸機は進言を用いることができませんでした。

 

孟超は衆人に「陸機が謀反しようとしている(陸機将反)」と宣言し、また、孟玖に書を送って「陸機は両端を持っているので、軍が速決しない(双方の様子を伺っているので、速やかに勝敗を決しない)」と告げました。

戦いが始まると、孟超は陸機の節度(指揮)を受けず、軽兵を率いて単独で進み、敗れて没しました。

孟玖は陸機が殺したのではないかと疑い、司馬穎に「陸機は長沙に対して二心を抱いています(機有二心於長沙)」と讒言しました。

牽秀はかねてから孟玖に諂って仕えており、将軍・王闡、郝昌、帳下督・陽平の人・公師藩(『資治通鑑』胡三省注によると、諸王公が兵を統領したり一方面を任されたら、帳下督を置いて帳下の兵を統率させました。陽平郡は魏文帝が魏郡を分けて置きました。「公師藩」は公師が氏です)も皆、孟玖によって引用(推挙・任用)されたため、一緒になって陸機の謀反を実証しました(相與共證之)

司馬穎は大いに怒り、牽秀に命じて、兵を率いて陸機を捕えさせました。

参軍事・王彰が諫めて言いました「今日の挙は強弱が勢を異ならせており(強弱がはっきりしており)、庸人(凡人)でも(我々が)必ず克つと知っています。陸機の明達が有ればなおさらでしょう(陸機ならなおさら形勢を理解しているので、謀反するはずがありません。原文「況機之明達乎」)。ただ、陸機は呉人なのに、殿下が過分に用いたので(用之太過)、北土の旧将が皆それを嫌っているだけです(皆疾之耳)。」

司馬穎は諫言に従いませんでした。

 

陸機は牽秀が至ったと聞いて、戎服(軍服)を脱いで白帢(白い帽子。『資治通鑑』胡三省注が詳しく解説していますが、省略します)を被り、牽秀と会見し、司馬穎に別れを告げる牋(書信)を準備してから、嘆いて「華亭の鶴の鳴き声をまた聞くことができるだろうか(華亭鶴唳,可復聞乎)」と言いました。

牽秀は陸機を殺しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、華亭は呉郡にありました。嘉興県界内に華亭谷と華亭水があり、唐代になって嘉興県を分けて華亭県が置かれます。胡三省の時代(宋元時代)でも県の東七十里の地に鶴がおり、土地の人は「鶴窠」とよんでいました。

 

司馬穎は陸機の弟に当たる右司馬・陸雲(『資治通鑑』は「清河内史・陸雲」としていますが、『晋書・列伝第二十四(陸雲伝)』を見ると、陸雲は清河内史になった後、大将軍右司馬に転じているので、「右司馬」とするのが正しいはずです。胡三省注が指摘しています)、平東祭酒・陸耽と孫拯(『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『晋春秋』は「孫承」としていますが、『晋書・列伝第二十四(陸機伝)』が「孫拯」としており、『資治通鑑』は『晋書』に従っています)も逮捕し、全て獄に下しました。

 

記室・江統、陳留の人・蔡克、潁川の人・棗嵩等が上書してこう主張しました「陸機は浅謀のために敗戦をもたらしたので、これを殺すのは問題ありません(殺之可也)。しかし反逆に至っては、衆人が共にそのようなことはなかったと知っています。先に陸機の反状を検校(調査)し、もしも徵験(証拠)があるようなら、(それから)陸雲等を誅しても晚くはありません。」

江統等が懇切に請願して止まないため、司馬穎は三日間、遲迴(躊躇)しました。

蔡克が入室して司馬穎の前に至り、叩頭して血を流し、こう言いました「陸雲が孟玖に怨まれていることは、遠近で知らない者がいません(遠近莫不聞)。今、果たして殺されることになったので、心中で明公のためにこれを惜しんでいます(今果見殺,竊為明公惜之)。」

蔡克に従って入室した僚属も数十人おり、皆、涙を流して強く命乞いをしたため、司馬穎は惻然(悲傷の様子)とし、陸雲を赦そうとする気配を見せました(有宥雲色)

しかし孟玖が司馬穎を抱えて中に入らせ、陸雲と陸耽を処刑して、陸機の三族も皆殺しにするという命令を下すように催促しました。

 

獄吏が孫拯を数百回も考掠(拷問)して、両方の踝骨(くるぶしの骨)が現れるほどでしたが、孫拯は終始、陸機の冤罪を語りました。

獄吏は孫拯の義烈を知ってこう言いました「二陸の枉(冤罪)を誰が知らないというのだ(二陸之枉,誰不知之)。君は自分の身を愛さないのか(君可不愛身乎)。」

孫拯は天を仰いで嘆息し、こう言いました「陸君兄弟は世の奇士であり、私は知愛(知遇と愛情)を蒙った。今、既にその死を救うことができなくなったのに、またどうして(孟玖等に)追従して誣告することができるか(今既不能救其死,忍復従而誣之乎)。」

孟玖等は孫拯を屈服させることができないと知り、獄吏に命じて孫拯の辞(言葉)を偽造させました。

司馬穎は陸機を殺してから心中で常に後悔していましたが、孫拯の辞を見ると大いに喜んで、孟玖等に「卿の忠がなかったら、この姦を追究することができなかった(不能窮此姦)」と言いました。

こうして孫拯の三族が皆殺しにされました。

 

孫拯の門人・費慈と宰意(『資治通鑑』胡三省注によると、宰氏は官職が氏になりました。春秋時代の周に宰咺がおり、孔子の弟子に宰予がいました)の二人が獄を訪ねて孫拯の冤罪を弁明しましたが、孫拯は二人を諭して還らせ、こう言いました「私は義によって二陸を裏切らなかった(吾義不負二陸)。死ぬのは自ずから私の分(道理、役割)である(死自吾分)。卿等はなぜそのようにするのだ(卿何為爾邪)。」

しかし二人は「君(あなた)は二陸を裏切りませんでした。僕(私)もどうして君を裏切ることができるでしょう(君既不負二陸,僕又安可負君)」と言い、かたくなに孫拯の冤罪を訴えました。

孟玖は二人も殺しました。

 

太尉・司馬乂が恵帝を奉じて張方を攻めました。張方の兵は乗輿(皇帝の車)を望み見て、皆、退走します。張方が大敗して死者が五千余人に上りました。

張方は退いて十三里橋に駐屯しました。

 

衆人は懼れて夜の間に遁走しようと欲しましたが、張方がこう言いました「勝負(勝敗)とは兵家の常だ。用兵を善くする者は失敗によって功を成すことができる(能因敗為成)。今、我々は逆に前進して塁壁を造り、敵の不意に出よう。これが奇策である(今我更前作塁,出其不意,此奇策也)。」

その夜、張方が秘かに洛城から七里の地に迫りました。数重の塁壁を築き、外から廩穀(倉庫の食糧)を引き入れて軍食を満たします。

 

[十] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

十一月辛巳(十一日)、昼に星が落ち、雷のような音が鳴りました(星昼隕,声如雷)

 

[十一] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

司馬乂は既に戦勝したため、張方は憂うるに足りないと思っていました。しかし、張方の塁壁が完成したと聞いて、王師(朝廷軍)を率いて攻撃しましたが、利がありませんでした。

朝議は司馬乂と司馬穎が兄弟なので、辞説(言辞、談話)によって解決できると考え、中書令・王衍等を派遣して司馬穎を説得させました。司馬乂と共に陝で天下を東西に分けて住むように命じます(原文「令與乂分陝而居」。西周初期、周公と召公が陝で天下を分けて二伯になりました。朝廷は西周の故事に則って司馬穎と司馬乂を二伯にしようとしました。『資治通鑑』胡三省注によると、陝は弘農にあります)

しかし司馬穎は従いませんでした。

司馬乂も司馬穎に書を送り、利害を述べて和解しようとしました。

そこで、司馬穎が返書を送って「皇甫商等の首を斬ることを請う。そうすれば兵を率いて鄴に還る」と伝えましたが、今度は司馬乂が同意しませんでした。

 

司馬穎が兵を進めて京師に迫り、張方が千金堨(「堨」は「堰」です。『資治通鑑』胡三省注によると、千金堨はかつて穀水を堰き止めており、魏の時代に改めて修築されました)を決壊させました。水碓(水力で米をついて脱穀する機械)の水も全て涸れ尽きます。

そのため(朝廷は)王公の奴婢を動員して、手で米をつかせて兵に供給しました(手舂給兵)。一品以下で従軍していない者(一品已下不従征者)や男子で十三歳以上の者は全て従役(服役)させ、更に奴(奴隷)を徴発して兵(軍)を助けさせました(『晋書・恵帝紀』はここで「号して四部司馬とした(号為四部司馬)」と書いていますが、『資治通鑑』は省略しています。四人の奴隷を司馬にして兵を指揮させたのか、奴隷の部隊を四部に分けて司馬を置いたのか、よくわかりません)

公私ともに窮踧(困窮、窮迫)して米一石が万銭に高騰しました。

また、当時、詔命が行われるのは一城(京城)だけになっていました。

 

驃騎主簿・范陽の人・祖逖(『資治通鑑』胡三省注によると、司馬乂は驃騎将軍になってから祖逖を主簿にしました)が司馬乂に言いました「劉沈(雍州刺史)は忠義果毅(忠義で果断かつ剛毅)で、雍州の兵力は河間を制すに足ります。陛下に申し上げて詔を作って劉沈に与え、兵を発して司馬顒を襲わせるべきです(宜啓上為詔與沈,使発兵襲顒)。司馬顒が窘急(困窮急迫)したら、必ず張方を召して自分を救わせます。これが良策です。」

司馬乂はこの意見に従いました。

 

劉沈は詔を奉じて檄を四境に馳せさせました。諸郡の多くが兵を挙げてこれに応じます。

劉沈は七郡の衆一万余人を合わせて長安に向かいました。

『資治通鑑』胡三省注によると、雍州は七郡を統領しており、安定を治所にしていました。あるいは、当時の治所は新平だったともいいます。

 

司馬乂は更に皇甫商を派遣して秘かに間道を進ませ、恵帝の手詔(直筆の詔)を持って游楷等に罷兵(撤兵)を命じさせました。皇甫重には軍を進めて司馬顒を討つように勅命します。

皇甫商は秘かに間道から新平に至り、従甥(父の兄弟の娘の子)に遭遇しました。しかし従甥は以前から皇甫商を憎んでいたため、司馬顒に報告しました。

司馬顒は皇甫商を捕えて殺しました(游楷等による皇甫重への攻撃は続いています。恵帝永興二年・305年参照)。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』は翌年正月に「恵帝が河間王・司馬顒に逼迫されたため(帝逼于河間王顒)、雍州刺史・劉沈と秦州刺史・皇甫重に密詔を発してこれ(司馬顒)を討たせた」と書いています。

 

[十二] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

壬寅(十二月初三日。『晋書・恵帝紀』は十一月に書いていますが、十一月に「壬寅」はありません。中華書局『晋書』校勘記が「十二月」に訂正しています。以下の「丙辰」「癸亥」「甲子」も同じです)の夜、赤気が天を満たし、隠隠(はっきりしない状態。または微弱な音を表す語)と音を発しました(赤気竟天,隠隠有声)

 

丙辰(十二月十七日)、地震がありました。

 

[十三] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

癸亥(十二月二十四日)、東海王・司馬越が長沙王・司馬乂を捕らえて金墉城に幽囚し、(司馬乂は)暫くして張方に害されました。

甲子(二十五日)、大赦を行いました。

 

『資治通鑑』はこれらの内容を翌年に書いており、「癸亥」と「甲子」を十二月ではなく、正月の「癸亥(二十五日)」と「甲子(二十六日)」としています(翌年、詳しく書きます)

 

[十四] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月丙寅(二十七日)、議郎・周玘(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・恵帝紀』では「揚州秀才・周玘」です)と前南平内史・長沙の人・王矩(『資治通鑑』胡三省注によると、呉が江南に南郡を置きましたが、晋が呉を平定してから、江北の南郡と区別するため、南平に改名しました)が江東で義軍を起こして石冰を討ち、前呉興太守・呉郡の人・顧祕(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・恵帝紀』では「前呉興内史」です。中華書局『晋書・恵帝紀』校勘記がこう解説しています「(前南平内史・王矩と前呉興内史・顧祕の)二つの「内史」は、『王矩伝(列伝第七十)』『周玘伝(列伝第二十八)』とも「太守」としている(『王矩伝』では、王矩は南平太守になっており、『周玘伝』では、王矩は南平内史に、顧祕は呉興太守になっています)。晋制に則るなら、郡が国になったら内史が郡太守のように民事を治め、国が除かれて郡になったら再び太守を称した。しかし二つの名称は往往にして混淆(混同、混交)し、史家もこれを互いに称した(混用した)」)を都督揚州九郡諸軍事に推しました(『資治通鑑』胡三省注によると、揚州は十八郡を統領していましたが、恵帝が豫章、鄱陽、廬陵、臨川、建安、南康、晋安を分けて江州に属させたので、十一郡になりました。顧祕が都督したのは丹陽、宣城、毗陵、呉、呉興、会稽、東陽、新安、臨海の九郡で、淮南と廬江は江北なので関与しませんでした)

(顧祕等は)檄文を州郡に伝え、石冰が配置した将吏を殺しました。

その結果、前侍御史・賀循が会稽で兵を起こし、廬江内史・広陵の人・華譚および丹陽の人・葛洪、甘卓も挙兵して顧祕に応じました。

周玘は周處(恵帝元康六年・296年参照)の子、賀循は賀卲(呉末帝・孫皓に仕えて殺されました。西晋武帝咸寧元年・呉末帝天冊元年・275年参照)の子、甘卓は甘寧(呉の名将)の曾孫です(『資治通鑑』胡三省注は周玘、賀循、甘卓について「三家は皆、呉の強宗である」と書いています)

 

石冰は将・羌毒(羌が氏です)を派遣し、兵一万を率いて周玘を拒ませました。しかし周玘が羌毒を撃って斬ります。

石冰は退いて臨淮から寿春に向かいました。

 

征東将軍・劉準は石冰が至ったと聞き、驚き懼れてどうすればいいか分からなくなりました(惶懼不知所為)

広陵度支・廬江の人・陳敏(『資治通鑑』胡三省注によると、陳敏は尚書令史でしたが、朝廷から出て合肥度支になり、南方の米穀を中州(中原)に漕運(水路での輸送)しました。その後、広陵度支になりました)が寿春で衆(兵)を統率しており、劉準にこう言いました「彼等は元々遠戍(辺境の守備)を望まず、逼迫されて賊になった烏合の衆なので、その形勢は離散しやすいものです(此等本不楽遠戍,逼迫成賊,烏合之衆,其勢易離)。敏(私)が運兵(輸送兵)を督(監督)して公のためにこれを破ることを請います。」

劉準は陳敏の兵を増やして石冰を撃たせました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

閏月(閏十二月)、李雄が郫城から益州刺史・羅尚を急攻しました。

羅尚は軍に食糧がないため、牙門・張羅(『晋書・載記第二十一』では「羅特」ですが、『華陽国志・巻八』では「張羅」としており、『資治通鑑』は『華陽国志』に従っています)を留めて城を守らせ、自分自身は夜の間に城を棄てて牛鞞水(『資治通鑑』胡三省注によると、牛鞞水は犍為牛鞞県にありました)から東に遁走しました。

張羅は城門を開いて投降しました。

 

李雄が城に入り、成都の地を全て有しました。

しかし軍士の飢餓が甚だしかったため、衆人を率いて郪(『資治通鑑』胡三省注によると、郪県は郪江が県名になりました。漢代以降、広漢郡に属しましたが、晋になって省かれました)で穀物を求め(就穀於郪)、野芋を掘って食糧にしました(『資治通鑑』胡三省注によると、㟭山の下に蹲鴟(大芋)がありました)

 

許雄(梁州刺史。前年参照)が賊を討伐したのに進軍しなかった罪に坐し(坐討賊不進)、召還されて刑を受けました(徵即罪)

 

[十六] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

安北将軍・都督幽州諸軍事・王浚は天下が混乱しているため、夷狄と結んで外援にしようと欲しました。そこで一女を鮮卑の段務勿塵(『晋書・列伝第三十三(段匹磾伝)』『資治通鑑』では「段務勿塵」、『晋書・恵帝紀』では「段勿塵」です)に嫁がせ、一女を素怒延に嫁がせました。

また、段務勿塵を遼西郡に封じて遼西公にするように上表しました。

朝廷は段務勿塵を遼西公に封じました。

王浚は王沈の子です(王沈は魏少帝(曹髦)の侍中でしたが、司馬昭に附きました。魏少帝(曹髦)甘露五年・260年参照)

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

毛詵が死んだ時、李叡は五苓夷の帥・于陵丞(『資治通鑑』胡三省注によると、五苓夷は寧州附塞(辺塞)の部落の名です)に奔りました。

于陵丞が李毅を訪ねて李叡のために命乞いをしたところ、李毅はこれに同意しましたが、実際に李叡が至ると殺してしまいました。

于陵丞は怒って諸夷を統率し、李毅に反攻しました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代61 西晋恵帝(二十二) 司馬乂の死 304年(1)

 

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