西晋時代61 西晋恵帝(二十二) 司馬乂の死 304年(1)

 

今回は西晋恵帝永興元年です。四回に分けます。

 

西晋恵帝太安三年 永安元年 建武元年 永興元年

成都王(李雄)建興元年/漢王(劉淵)元熙元年

甲子 304年

本年、長沙王・司馬乂が敗れてから永安に改元し、長安に遷都してからまた永興に改元します。

 

[一] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

尚書令・楽広の娘は成都王妃でした。

ある人が讒言してこれを太尉・司馬乂に告げたため、司馬乂が楽広に問いました。

楽広は神色(顔色、表情)を変えず、落ち着いてこう言いました「広(私)がどうして五人の男児と一人の女児を交換するのでしょう(広豈以五男易一女哉)。」

しかし司馬乂はなおも楽広を疑いました。

 

春正月丙午(初八日)、楽広が憂いのため死にました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

長沙王・司馬乂(諡号は厲王です。『資治通鑑』胡三省注によると、司馬穎、司馬顒の党が悪諡(厲)を加えました)がしばしば大将軍・司馬穎と戦って破りました。前後して六、七万人を斬獲します。

(戦が続きましたが)司馬乂は奉上の礼(皇帝に仕える礼)を欠かしたことがなく、城中の糧食が日に日に窮乏しても、士卒には離心がありませんでした。

 

張方はまだ洛陽を攻略できないと考え、長安に還ろうと欲しました。

しかしこの時、東海王・司馬越(司馬泰の子。司馬泰は司馬懿の弟・司馬馗の子です。恵帝元康元年・291年参照)が、事が成功しないのではないか(朝廷軍が破れるのではないか)と憂慮しました(慮事不済)

癸亥(二十五日)、司馬越が秘かに殿中の諸将と共に行動を起こし、夜の間に司馬乂を捕えて別省(恐らく、司馬乂の官府以外の官署か宮室です)に送りました。

 

『晋書・列伝第二十九』の「司馬越伝」にはこう書かれています「殿中の諸将および三部司馬が戦守に疲れたため、秘かに左衛将軍・朱默と共に、夜間、司馬乂を別省に収めた(捕えて別省に送った)。司馬越に迫って主に立て、恵帝に報告して司馬乂の官を免じさせた。」

しかし同じく『列伝第二十九』の「司馬乂伝」には「司馬越が秘かに殿中の将と共に司馬乂を収めた(捕えた)」と書かれており、『資治通鑑』は「司馬乂伝」に従っています。

 

甲子(二十六日)、司馬越が恵帝に報告しました。恵帝は詔を下して司馬乂の官を免じ、金墉城に置きます。

その後、大赦して太安三年から永安元年に改元しました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』では、前年十二月癸亥(二十四日)に、東海王・司馬越が長沙王・司馬乂を捕らえて金墉城に幽囚しており、(司馬乂は)暫くして張方に害されています。

その後、十二月甲子(二十五日)に大赦を行い、本年正月、成都王・司馬穎が鄴から恵帝を示唆して(自鄴諷于帝)、また大赦を行わせ、永安に改元しています。

『資治通鑑』は、前年十二月甲子(二十五日)の大赦と本年正月の大赦を一つの出来事とみなし、司馬乂の幽囚から大赦、改元までを本年正月に置いています(下述します)

 

『資治通鑑』に戻ります。

城門が開かれてから、殿中の将士は外の兵が盛んではない様子を見て後悔しました。そこで、改めて司馬乂を奪い出して司馬穎に抵抗しようと謀ります。

司馬越はこれを懼れ、司馬乂を殺すことで衆心を絶とうとしました。

黄門侍郎・潘滔が言いました「いけません。(我々が司馬乂を殺さなくても)自ずからこれを静める者がいます(不可,将自有静之者)。」

納得した司馬越は人を派遣して秘かに張方に告げました。

 

丙寅(二十八日)、張方が金墉城で司馬乂を奪い、営に連れ帰って焼き殺しました(炙而殺之)(それを見て)張方の軍士も司馬乂のために涙を流しました。

 

『晋書・恵帝紀』は司馬乂の死を太安二年(前年)十二月に書いており(上述)、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『三十国』『晋春秋』も太安二年十二月の事としています。

しかし『晋書・列伝第二十九(司馬乂伝)』に、このような記述があります「司馬乂が執権し始めた時、洛下の謡(噂、はやり歌)がこう言った『草木が萌牙して長沙を殺す(原文「草木萌牙殺長沙」。「萌牙」は「萌芽」で、芽生えることです。草木が芽生える春に長沙王が殺される、という意味です)。』司馬乂は正月二十五日(実際は二十六日)に廃され、二十七日(実際は二十八日)に死んだので、謡言の通りになった。」

また、本年正月丙午(初八日)に死んだ尚書令・楽広は、司馬乂に疑われたため、憂死しました(上述および『晋書・列伝第十三(楽広伝)』参照)。よって、楽広が死んだ本年の正月丙午前後は、司馬乂はまだ生きていたはずです(但し、楽広が本年正月丙午に死んだとするのは『晋書・恵帝紀』と『資治通鑑』で、『資治通鑑』胡三省注によると、『晋春秋』では、楽広は太安二年(前年)八月に自裁(自殺)しています)

『資治通鑑』は『晋書・列伝第二十九(司馬乂伝)』に従って司馬乂の死を本年正月に置いています。

 

[三] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

公卿が皆、鄴(司馬穎)を訪ねて謝罪しました。

大将軍・司馬穎は一度、京師に入ってから、再び鄴に戻って鎮守しました。

(朝廷が)詔によって成都王・司馬穎を丞相に任命し、東海王・司馬越に守尚書令を加えました。

 

司馬穎は従事中郎・成夔等を派遣し(『資治通鑑』は「奮武将軍・石超等を派遣し」と書いていますが、『晋書・恵帝紀』では「石超」ではなく「成夔」です。ここは『晋書』に従いました)、五万の兵を率いて十二城門に駐屯させました(『資治通鑑』胡三省注によると、洛陽城は東に建春・東陽・清明の三門があり、南に開陽・津陽・平昌・宣陽の四門があり、西に広陽・西明・閶闔の三門があり、北に大夏・広莫の二門がありました。合わせて十二門です)

司馬穎は、殿中で以前から嫌っていた者(宿所忌者)を全て殺し、宿衛の兵もことごとく交替させました。

『資治通鑑』の原文は「悉代去宿衛兵」ですが、『晋書・恵帝紀』の原文は「以三部兵代宿衛(三部の兵のよって宿衛を代えた)」です。「三部の兵」は恐らく三部司馬の兵です。『晋書・列伝第二十九(司馬越伝)』によると、殿中の諸将および三部司馬が左衛将軍・朱默と共に司馬乂を捕えました(上述)

 

(司馬穎が)上表して盧志を中書監に任命し、鄴に留めて丞相府の政務を代行させました(参署丞相府事)

 

[四] 『晋書・巻四・恵帝紀』は本年正月に「恵帝が河間王・司馬顒に逼迫されたため(帝逼于河間王顒)、雍州刺史・劉沈と秦州刺史・皇甫重に密詔を発してこれを討たせた。劉沈が兵を挙げて長安を攻めた」と書いていますが、『資治通鑑』は前年の事としています(前年参照)

 

以下、『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

河間王・司馬顒は鄭に駐軍して東軍(司馬穎軍)の声援(後援)になりましたが、劉沈の兵が起きたと聞き、還って渭城を鎮守しました。そこから督護・虞夔を派遣して好畤で劉沈を迎撃させます。

しかし虞夔の兵が敗れたため、司馬顒は懼れて退き、長安に入りました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、鄭県は京兆郡に属します。

渭城県は秦代の咸陽で、西漢時代は扶風に属しました。東漢になって県が廃されましたが、「渭城」の地名は残っていました。後に石勒が石安県を置き、唐が再び咸陽県に改めます。

好畤県は、西漢時代は扶風に属しました。東漢と晋は廃しましたが、唐がまた醴泉を分けて好畤県を置きます。

 

長安に戻った司馬顒は急いで張方を呼び戻しました。

張方は洛中で大掠(大略奪)し、官私の奴婢一万余人を奪ってから西に向かいました。

当時、軍中の食糧が欠乏していたため、人を殺して、牛馬の肉と混ぜて食べました(『資治通鑑』の原文は「軍中乏食,殺人雑牛馬肉食之」、『晋書・恵帝紀』は「軍中大餒,人相食」です)

 

劉沈が渭水を渡って駐軍し、司馬顒と戦いましたが、連敗しました。

劉沈は安定太守・衙博(『晋書・列伝第五十九(劉沈伝)』では「衛博」ですが、『華陽国志・巻八』に「衙博は才が文武を兼ね、征西大将軍・河間王に深器(器重、重用)された」という記述があり、『資治通鑑』も「衙博」としています)と功曹・皇甫澹に精甲五千を率いて長安を襲わせました。衙博等が城門に入り、力戦して司馬顒の帳下に至ります。

しかし劉沈の兵が来るのが遅れました。

馮翊太守・張輔が衙博等には後継が無いのを見て、兵を率いて横から攻撃し、衙博と皇甫澹を殺しました。

こうして劉沈は兵が敗れ、余卒を集めて退きました。

 

張方がその将・敦偉(敦が氏です)を送って夜に劉沈を討たせました。劉沈の軍は驚いて潰滅し、劉沈は麾下と共に南に走りましたが、(敦偉が)追撃して劉沈を獲ました。

劉沈が司馬顒に言いました「知己の恵は軽く(劉沈は司馬顒に留められて軍師になり、後に雍州刺史になりました。前年参照)、君臣の義は重いので、沈(私)には、天子の詔に違えて、強弱を量って(強い方について)とりあえず生き永らえるようなことはできませんでした(沈不可以違天子之詔,量強弱以苟全)。投袂の日(行動を起こした日)に、必ず死ぬことになると予期していました(投袂之日,期之必死)。葅醢の戮(肉醤にする酷刑)も薺(なずな)のように甘いものです(葅醢之戮,其甘如薺)。」

司馬顒は怒って劉沈を鞭で打ち、その後、腰斬に処しました。

 

新平太守・江夏の人・張光がしばしば劉沈のために計を立てていたため、司馬顒が捕えて詰問すると、張光はこう言いました「劉雍州が鄙計(私の愚計)を用いなかったから、大王に今日があるようにさせたのです(今日の大王がいるのです。原文「劉雍州不用鄙計,故令大王得有今日」)。」

司馬顒はこれを壮とし(勇壮、壮烈とみなし)、張光を従えて歓宴してから、上表して右衛司馬に任命しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

羅尚が逃走して江陽に至り、使者を派遣して朝廷に状況を報告しました(遣使表状)

(朝廷は)詔によって羅尚に巴東・巴郡・涪陵を暫時統領させ、この三郡から軍賦を供出させました。

羅尚は別駕・李興を派遣して鎮南将軍・劉弘(都督荊州諸軍事)を訪ねさせ、食糧を求めました。

劉弘の綱紀(官府の事務を管理する者。属僚)は運道(輸送路)が険阻で遠いうえ、荊州自体も空乏だったので、零陵の米五千斛だけを羅尚に送ろうとしました。

しかし劉弘は「天下は一家であり、彼我に差異はない。私が今、彼に供給すれば、西顧の憂いが無くなる(天下一家,彼此無異,吾今給之則無西顧之憂矣)」と言って、三万斛を提供しました。

羅尚はこのおかげで自存できました。

 

李興は荊州に留まって劉弘の参軍になることを願いました。しかし劉弘は手版を奪って帰らせました(手版は笏です。『資治通鑑』胡三省注によると、参佐(属僚)が府公に恭敬の礼を為す時は手版を持っていました。李興から手版を奪って帰らせたというのは、劉弘が李興の礼を受け入れなかった、自分に仕えることを許さなかった、ということを表します)

 

劉弘は更に治中・何松を派遣し、兵を統領して巴東に駐屯させ、羅尚の後継(後援)にしました。

当時、荊州にいる流民は十余万戸を数え、羈旅(他郷に長く住むこと)して貧乏だったため、多くが盗賊になっていました。

しかし劉弘が大いに田地や種糧(穀物の種)を与え、流民の中から賢才を抜擢し、資質に基いて任用したため(隨資敍用)、流民がやっと安定しました。

 

[六] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

二月乙酉(十七日。『資治通鑑』は「三月乙酉」としていますが、『晋書・巻四・恵帝紀』では「二月乙酉」です。『資治通鑑』が誤りです)、丞相・司馬穎が上表して皇后・羊氏を廃し、金墉城に幽閉しました。また、皇太子・司馬覃を廃して再び清河王にしました。

 

司馬覃は司馬遐(恵帝の弟。司馬穎の兄)の子で、清河王でしたが、司馬冏の上表によって皇太子に立てられていました(恵帝太安元年・302年参照)

 

[七] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

陳敏が石冰と数十合戦いました。石冰の衆は陳敏の十倍もいましたが、陳敏が攻撃して向かう所全てで戦勝します。

その後、陳敏は周玘と連合して建康で石冰を攻めました。

 

三月、石冰が敗北して走り、封雲(前年、徐州を侵して石冰に応じました)に投じました。

しかし封雲の司馬・張統が石冰と封雲を斬って投降しました。揚・徐二州が平定されます。

周玘と賀循はどちらも部衆を解散させて家に還り、功賞について語りませんでした。

朝廷は陳敏を広陵相に任命しました。

 

[八] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

河間王・司馬顒が上表して丞相・成都王・司馬穎を太弟に立てるように請いました。

戊申(十一日)、恵帝が詔を発しました「朕は不徳によって鴻緒(先祖の大業)を纂承(継承)し、今までで十五載(年)になるが(于茲十有五載)、禍乱が天を覆い(禍乱滔天)、姦逆がしばしば起き、重宮(深宮)に幽廃されて宗廟が圮絶(断絶)するに至った。成都王・穎は温仁恵和で、暴乱を平定することができた(克平暴乱)。よって穎を皇太弟・都督中外諸軍事とし、丞相は今まで通りとする(丞相如故)。」

こうして司馬穎が皇太弟に立てられました。

 

(恵帝が)大赦を行い、鰥寡(配偶者を失った男女)・高年(高齢者)に帛三匹を下賜し、五日間の大酺(国を挙げての祝宴)を催しました。

乗輿・服御(皇帝の車や服、器物)を全て鄴(皇太弟・司馬穎の拠点)に遷し、司馬穎に関する制度は全て魏武帝(曹操)の故事に則ることにしました。

 

[九] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

丙辰(十九日)、盗(盗賊)が太廟の服器(服飾・器物)を盗みました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

司馬顒を太宰・大都督・雍州牧に任命し、前太傅・劉寔を太尉に任命しました。

しかし劉寔は老齢を理由に固譲(固辞)して拝命しませんでした。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』は「太尉・顒を太宰に、太傅・劉寔を太尉にした」と書いています。元々、司馬顒が太尉でしたが、前年、司馬乂が太尉に任命されました。司馬乂の死後、太尉が空位になっていたのか、司馬顒が太尉に戻ったのか、あるいは司馬乂が太尉になってからも司馬顒は太尉の位から去っていなかったのか、はっきりしません。

劉寔は恵帝太安元年(302年)に太傅に任命されましたが、老病のため罷免されたので、『資治通鑑』は「前太傅」としています。

 

[十一] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

六月、新たに三つの城門を造りました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代62 西晋恵帝(二十三) 嵇紹 304年(2)

 

 

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