西晋時代62 西晋恵帝(二十三) 嵇紹 304年(2)

 

今回は西晋恵帝永興元年の続きです。

 

[十二] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

太弟・司馬穎は僭侈(過分な奢侈)が日に日にひどくなり、嬖倖(寵臣)が政事を行うようになったため、大いに衆望を失いました。

そこで、司空・東海王・司馬越が右衛将軍・陳眕および長沙の故将(長沙王・司馬乂の旧将)・上官巳等と共に、司馬穎討伐を謀りました。

 

秋七月丙申朔、陳眕が兵を率いて雲龍門に入り、詔によって三公・百僚を殿中に召しました(『資治通鑑』の原文は「陳眕勒兵入雲龍門,以詔召三公百僚及殿中」で、胡三省注はこの「殿中」を「三部の諸将」としています。その場合、訳は「三公・百僚および殿中の諸将を召した」となります。しかし『晋書・恵帝紀』は「右衛将軍・陳眕が詔によって百僚を召し、殿中に入らせた(右衛将軍陳眕以詔召百僚入殿中)」と書いています。ここは『晋書』に従いました)

陳眕はこれを機に兵を整えて戒厳し、司馬穎を討ちました。

石超(司馬穎の将)が鄴に奔りました。

 

戊戌(初三日)、大赦して皇后・羊氏と太子・司馬覃の地位を恢復しました。

 

己亥(初四日)、司馬越が恵帝を奉じて北征し、大都督に任命されました(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・恵帝紀』は「司徒・王戎、東海王・司馬越、高密王・司馬簡(「司馬略」の誤りです。『晋書・列伝第七・宗室伝』によると、司馬略は字を元簡といいます)、平昌公・司馬模、呉王・司馬晏、豫章王・司馬熾、襄陽王・司馬範、右僕射・荀藩等が帝を奉じて北征した」と書いています)

 

(朝廷が)前侍中・嵇紹を召して行在(皇帝がいる場所)に赴かせました。

『晋書・列伝第五十九・忠義伝(嵇紹伝)』によると、嵇紹はかつて侍中になり、長沙王・司馬乂によって使持節・平西将軍に任命されましたが、司馬乂が死んでから、罷免されて庶人に落とされていました。今回、北征の際、朝廷が改めて嵇紹を召して官位を元に戻しました。

 

侍中・秦準が嵇紹に問いました「今行ったら安危が測り難い。卿には佳馬(良馬)があるか?」

すると嵇紹は色を正してこう言いました「臣子とは、乗輿(皇帝)を扈衛(護衛)して、そのために命を懸けるものである。佳馬が何の役に立つのだ(臣子扈衛乗輿,死生以之,佳馬何為)。」

 

司馬越が檄文を発して四方の兵を招きました。(檄に応じて)赴いた者が雲集して安陽(『資治通鑑』胡三省注によると、安陽県は魏郡に属し、鄴城の南四十里に安陽城がありました)に至り、その衆は十余万に上ります。

鄴中が(この情報を聞いて)震恐しました。

 

司馬穎が群僚を集めて計を問うと、東安王・司馬繇(司馬伷の子。司馬伷は司馬懿の子です)がこう言いました「天子が親征したので、甲冑を脱いで縞素(白衣)を着て、出迎えて罪を請うべきです(宜釈甲縞素出迎請罪)。」

司馬穎はこの意見に従わず、石超を派遣し、五万の衆を率いて抗戦させました。

折衝将軍・喬智明が司馬穎に進言して乗輿を奉迎する(迎え入れる)ように勧めましたが、司馬穎は怒ってこう言いました「卿は事理をわきまえていることで名が知られており、身を投じて孤(私)に仕えた(卿名曉事,投身事孤)。今、主上(陛下)が群小(小人の群れ)に逼迫されているのに、卿はなぜ孤(私)に手を束ねて刑に就かせようと欲するのだ(今主上為群小所逼,卿柰何欲使孤束手就刑邪)!」

 

陳眕の二人の弟・陳匡と陳規が鄴から行在(皇帝がいる場所)に赴き、「鄴中の者は皆、既に離散しました」と告げました。そのため、(朝廷軍は)ほとんど備えを設けませんでした(不甚設備)

己未(二十四日)、石超の軍が突然至り、乗輿(「乗輿」は『資治通鑑』の記述で、『晋書・恵帝紀』では「六軍」です)が蕩陰(『資治通鑑』胡三省注によると、蕩陰県は、漢代は河内郡に属し、晋代は魏郡に属しました。安陽と接しています)で敗績(敗戦)しました。

矢が乗輿に及び、恵帝は頬を負傷して、三本の矢が中りました。百官・侍御は皆、離散しましたが、侍中・嵇紹だけは朝服を着て、馬を下りて輦に登り、身をもって恵帝を護衛しました。兵人(兵士)が嵇紹を引き出して車轅(馬車を牽く左右の棒)の間で斬りつけます。

恵帝が「忠臣である。殺してはならない(忠臣也,勿殺)」と言いましたが、兵人は「太弟の令を奉じており、ただ陛下一人を犯さないだけです(奉太弟令,惟不犯陛下一人耳)」と答えて嵇紹を殺しました。血が恵帝の衣服にかかります。

恵帝は草の中に落ちて六璽を失いました。

 

石超が恵帝を奉じて自分の営を行幸させました。恵帝の餓えが甚だしかったため、石超が水を進めて、左右の者が秋桃(季節はずれの桃)を献上しました。

石超は弟の石熙を派遣し、恵帝を奉じて鄴に向かわせました。

 

この後、『資治通鑑』は「司馬穎が盧志を派遣して恵帝を迎えた」と書いていますが、『晋書・恵帝紀』では、司馬穎が群官を率いて道の左で迎謁(迎え入れて謁見すること)しています。

 

以下、『晋書・恵帝紀』の記述です。

司馬穎が群官を率いて道の左で迎謁すると、恵帝は輿から下りて涕泣しました。

その夕(夜)、恵帝は司馬穎の軍を行幸しました。

 

司馬穎の府には九錫の儀があり、陳留王(恐らく、魏末帝・曹奐の跡を継いだ者です)も貂蟬(「貂蝉」は顕官の冠につける飾です。恐らくここでは「貂蝉冠」を意味します)・文衣(華美な衣服)・鶡尾(「鶡」は鳥の一種で、武官の冠に鶡の尾をつけました。恐らくここでは「鶡冠」を意味します)を送りました。

翌日、法駕(天子の車)を準備して鄴に行幸しました。この時、豫章王・司馬熾、司徒・王戎、僕射・荀藩だけが従っていました。

 

以下、『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

庚申(二十五日)、恵帝が鄴に入り、大赦して永安元年から建武元年に改元しました。

 

左右の者が恵帝の衣服を洗おうとしましたが、恵帝は「嵇侍中の血である。洗ってはならない(勿浣也)」と言いました。

『資治通鑑』胡三省注は「誰が帝を戇愚(愚昧)だとみなしたのだ(孰謂帝為戇愚哉)」と書いています。恵帝は暗君として知られていますが、後世に作られた部分も多いようです。

 

陳眕、上官巳等は太子・司馬覃を奉じて洛陽を守りました。

司空・司馬越は下邳に奔りましたが、徐州都督・東平王・司馬楙(司馬望の子。司馬望は司馬孚の子で、司馬孚は司馬懿の弟です)が受け入れなかったため、直接、東海に還りました。

太弟・司馬穎は、司馬越兄弟が宗室において声望があったため(司馬越は司馬泰の子で、司馬泰は司馬懿の弟・司馬馗の子です。『資治通鑑』胡三省注によると、司馬越、司馬騰、司馬略、司馬模の兄弟は皆、宗室の中で名声がありました)、令を下して(鄴に)招きました。しかし、司馬越は命に応じませんでした。

前奮威将軍・孫恵が司馬越に上書し、藩方(諸藩王)と結んで共に王室を輔佐するように(要結藩方,同奨王室)勧めました。司馬越は孫恵を記室参軍に任命して謀議に参与させました。

 

北軍中候・苟晞が范陽王・司馬虓(都督豫州諸軍事。『資治通鑑』胡三省注によると、当時、許昌を鎮守してました)に奔りました。司馬虓は承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって苟晞に兗州刺史を代行させました(行兗州刺史)

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

三王(斉王・司馬冏、成都王・司馬穎、河間王・司馬顒)が挙兵して趙王・司馬倫を討った時(恵帝永寧元年・301年)、王浚は部衆を擁してどっちつかずの態度をとり(挟両端)、管轄する士民が三王の召募に赴くことを禁止しました。そのため、太弟・司馬穎は王浚を討伐したいと思っていましたが、できずにいました。

一方の王浚も心中で司馬穎を図りたい(除きたい)と思っていました。

 

司馬穎は右司馬・和演を幽州刺史に任命し、秘かに王浚を殺すように命じました(『資治通鑑』胡三省注によると、和演は司馬穎と共に趙王・司馬倫の討伐を謀りました。司馬穎の腹心です)

和演は烏桓単于・審登と謀り、王浚と薊城南の清泉を巡遊して、その機に図ろう(害そう)としましたが、ちょうど暴雨が降り(天暴雨)、兵器が濡れて湿ったため(兵器霑濕)、果たせずに還りました。

審登は王浚が天助を得たと思い、和演の謀を王浚に告げました。

そこで、王浚は審登と秘かに兵を配置し(密厳兵)、并州刺史・東嬴公・司馬騰と約束して、共に和演を包囲して殺しました。王浚自ら幽州(刺史)の営兵を統領します。

司馬騰は司馬越の弟です。

 

太弟・司馬穎が詔と称して王浚を召しましたが、王浚は鮮卑の段務勿塵、烏桓の羯朱および司馬騰と共に挙兵して司馬穎を討ちました。

司馬穎は北中郎将・王斌と石超を派遣してこれを撃たせました。

 

[十四] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

太弟・司馬穎は東安王・司馬繇の前議(恵帝を出迎えて罪を請うべき、と進言したこと)を怨んでいました。

八月戊辰(初三日)、司馬穎が司馬繇を捕えて殺しました。

 

これ以前に、司馬繇の兄に当たる琅邪恭王・司馬覲が死に、子の司馬睿が跡を継いでいました。

司馬睿は沈敏(沈着鋭敏)で度量があり、左将軍になりました。東海参軍・王導(東海王・司馬越の参軍)と関係を善くします。

王導は王敦(元太子・司馬遹の舎人。恵帝永康元年・300年参照)の従父弟に当たり(王敦も王導も王覧の孫で、王敦の父は王基、王導の父は王裁といいます。『晋書・列伝第三(王覧伝)』『列伝第三十五(王導伝)』『列伝第六十八(王敦伝)』参照)、識量(見識・度量)が清遠でした。当時は朝廷が多故(多事、多難)だったため、いつも司馬睿に対して封国へ赴くように勧めていました。

司馬繇が殺された時、司馬睿は恵帝に従って鄴にいましたが、禍が自分に及ぶのを恐れ、逃げて帰国しようとしました。

しかし司馬穎が事前に関津(関所や渡し場)に勅令して、貴人が出られないようにしていました。司馬睿も河陽に至った時、津吏(渡し場の官吏)に止められます。すると、後から追いついた従者・宋典が鞭で司馬睿を払い、笑って言いました(以鞭拂睿而笑曰)「舍長(旅客が泊まる館舎の長)よ、官(朝廷)は貴人を禁じたが、汝まで拘留されたのか(汝亦被拘邪)?」

津吏はこれを聞いて通過させました。

司馬睿は洛陽に至ってから太妃・夏侯氏(琅邪恭王・司馬覲の妻。司馬睿の母)を迎え、共に封国に帰りました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

丞相従事中郎・王澄が孟玖による姦利の事を告発し、太弟・司馬穎に誅殺するように勧めました。司馬穎はこれに従いました。

 

[十六] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

上官巳は洛陽で残暴縦横に振る舞いました。

守河南尹(河南尹代理)・周馥が司隸校尉・満奮等と共に上官巳の誅殺を謀りましたが、事が漏れて満奮等は死にました。周馥は逃走して禍から免れます。

周馥は周浚(呉平定時の揚州刺史)の従父弟(従弟)です。

 

司空・司馬越が太弟・司馬穎を討伐した時、太宰・司馬顒が右将軍・馮翊太守・張方を派遣し、兵二万を率いて司馬穎を救援させました。

司馬顒は恵帝が鄴に入ったと聞くと、この機に張方に命じて洛陽を鎮守させました。

上官巳と別将・苗願が(出撃して)張方に抵抗しましたが、大敗して(洛陽城内に)還りました。ところが、太子・司馬覃が上官巳と苗願を夜襲したため、上官巳と苗願は城を出て逃走しました。

張方がまた洛陽に入ります。

司馬覃が広陽門(『資治通鑑』胡三省注によると、洛城西面の南から一つ目の門です)で張方を出迎えて拝礼すると、張方は車から下りて、司馬覃を抱きかかえて拝礼を止めさせました。

(張方が)再び皇后・羊氏と皇太子・司馬覃を廃しました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

以前、太弟・司馬穎が上表して匈奴左賢王・劉淵を冠軍将軍・監五部軍事とし、兵を指揮して鄴に住ませました。

『資治通鑑』胡三省注によると、楊駿が輔政していた時、劉淵を五部大都督にしましたが、恵帝元康年間(291~299年)末、部人が叛して塞を出たたため、劉淵は罪に坐して罷免されました。司馬穎が鄴を鎮守してから、上表して監五部軍事にしました。

 

劉淵の子・劉聡は並ぶ者が無いほど驍勇で(驍勇絶人)、しかも広く経・史を読み、文章が得意で(博渉経史,善属文)、三百斤の弓を引くこともできました(弯弓三百斤)

弱冠にして京師で遊び、名士で交流しない者はいませんでした。

司馬穎は劉聡を積弩将軍に任命しました。

 

劉淵の従祖(祖父の兄弟)に当たる右賢王・劉宣が族人に言いました「漢が亡んで以来、我が単于はいたずらに虚号があるだけで、尺土を持つこともなくなった。その他の王侯は位を落とされて編戸(戸籍を登録された民)と同等になっている(自余王侯,降同編戸)。今、我が衆は衰えたとはいえ、なお二万を下まわることはない(猶不減二万)(それなのに)どうして斂首(頭を伏せること。服従を意味します)して役に就き、あわただしく百年も過ぎてしまったのだ(柰何斂首就役,奄過百年)。左賢王の英武は世を超えており、天が匈奴の興隆を欲しないのなら、このような人物を虚しく生むはずがない(左賢王英武超世,天苟不欲興匈奴,必不虚生此人也)。今、司馬氏は骨肉が殺し合い(骨肉相残)、四海が鼎沸(鼎が沸騰するように混乱すること)している。呼韓邪(漢代の匈奴単于)の業を恢復するのは、まさにこの時ではないか(復呼韓邪之業,此其時矣)。」

匈奴の族人は互いに謀って劉淵を推戴し、大単于に立てました。党人の呼延攸(『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴の貴種(高貴な種族)に呼衍氏がおり、後に呼延氏になりました)を鄴に派遣して劉淵に告げます。

 

劉淵は司馬穎に報告して、匈奴に帰って葬礼に参加する許可を請いました(請帰会葬)。しかし司馬穎が同意しません。そこで劉淵は先に呼延攸を帰らせ、劉宣等に告げて五部および雑胡を招集させました。公けには司馬穎を助けるためと称しましたが、実際には離叛を欲しています。

王浚と東嬴公・司馬騰の兵が起きると、劉淵が司馬穎を説得してこう言いました「今、二鎮(王浚の幽州と司馬騰の并州です)が跋扈して、その衆は十余万に上るので、恐らく宿衛および近郡の士衆だけで防御できるものではありません。殿下のために還って五部を説き、国難に赴くことを請います。」

司馬穎が言いました「五部の衆は、果たして動員することができるか(果可発否)?たとえ動員できたとしても、鮮卑や烏桓は容易に当たることができない(就能発之,鮮卑烏桓,未易当也)。私は乗輿(皇帝)を奉じて洛陽に還ることでその鋒(鋭鋒)を避け、ゆっくり天下に檄を伝えて、逆順(の道理)によってこれを制したいと思うが、君の意(意見)は如何だ?」

劉淵が言いました「殿下は武皇帝の子で、王室に対して大勲があり、威恩が遠くにまで顕著になっています。四海の内で、誰が殿下のために死力を尽くすことを願わないでしょう(孰不願為殿下尽死力者)。どうして動員が難しいということがあるのでしょうか(何難発之有)。王浚の豎子と東嬴の疏属(皇帝から遠い親戚。司馬騰は司馬懿の弟・司馬馗の孫に当たります)が、どうして殿下と対等に争えるでしょう(豈能與殿下争衡邪)。殿下が一度、鄴宮を発ったら、自分が弱いということを人に示してしまうので(示弱於人)、洛陽には至ることができません(洛陽不可得而至)。たとえ洛陽に至ったとしても、威権は殿下のものではなくなります(威権不復在殿下也)。殿下が士衆を撫勉(慰撫激励)し、これを平定して鎮めることを願い(願殿下撫勉士衆,靖以鎮之)、淵(私)は殿下のために二部を用いて東嬴を撃破し、三部を用いて王浚を梟首(首を斬って晒す刑)することを請います(淵請為殿下以二部摧東嬴,三部梟王浚)。二豎の首は数日も経たずに掲げることができます(二豎之首可指日而懸也)。」

悦んだ司馬穎は劉淵を北単于・参丞相軍事に任命しました。

 

劉淵が左国城に至ると、劉宣等が劉淵に大単于の号を奉じました。

劉淵は二旬(二十日)の間に五万の衆を有し、離石に都を置き、劉聡を鹿蠡王にしました。

『資治通鑑』胡三省注によると、左国城は匈奴左部の居城のようです。離石県は漢代以来、西河郡に属しました。

「鹿蠡王」は漢代の「谷蠡王」です。「谷」と「鹿」は同音だったようです。

 

劉淵は左於陸王・劉宏を派遣し、精騎五千を率いて司馬穎の将・王粹と合流させました。東嬴公・司馬騰を拒むためです。しかし王粹は既に司馬騰に敗れており、劉宏は間に合わなかったため、帰還しました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』は劉淵について「匈奴左賢王・劉元海が離石で反して自ら大単于を号した」と書いています。

「元海」は劉淵の字です。『晋書』は唐代に書かれたため、唐高祖・李淵の名を避けて字を使っています。

 

 

次回に続きます。

西晋時代63 西晋恵帝(二十四) 李雄・劉淵称王 304年(3)

 

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