西晋時代63 西晋恵帝(二十四) 李雄・劉淵称王 304年(3)

 

今回も西晋恵帝永興元年の続きです。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

王浚と東嬴公・司馬騰は兵を合わせて王斌を撃ち、大破しました。

王浚は主簿・祁弘(『資治通鑑』胡三省注によると、祁姓は黄帝二十五子の姓の一つです。また、春秋時代、晋献侯の四世孫・奚が祁を食邑にしたため、祁奚とよばれるようになりました)を前鋒にして平棘(『資治通鑑』胡三省注によると、平棘県は、漢代は常山郡に属し、晋代は趙国に属しました)で石超を敗り、勝ちに乗じて進軍しました。

 

候騎(偵察の騎兵)が鄴に至ったため、鄴中が大いに震撼し、百僚が奔走して士卒が分散しました。

盧志が司馬穎に進言して、恵帝を奉じて洛陽に還るように勧めました。この時、甲士はまだ一万五千人います。

盧志は夜の間に将兵の部署を整え、曉(早朝)に出発しようとしました。ところが程太妃(司馬穎の母)が鄴に恋々として去ることを望まなかったため、司馬穎は躊躇して決断できませんでした(狐疑未決)

その結果、部衆がにわかに崩壊しました。

司馬穎はついに帳下の数十騎と盧志を率いて恵帝を奉じ、犢車(牛車。『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、諸公が皁輪犢車(黒い車輪の牛車)に乗りました)を御して、南の洛陽に奔りました。

突然の事だったため、上下の者とも荷物を持っていませんでしたが(倉猝上下無齎)、中黄門が被囊(布団や衣服を入れる袋)の中に私銭三千を携行していたため、(恵帝は)詔によってそれを借り(詔貸之)、道中で飯を買い、夜になったら中黄門の布被(布団)で寝て、食事は(中黄門の)瓦盆(粗末な食器)を使いました(於道中買飯,夜則御中黄門布被,食以瓦盆)

 

恵帝は温(地名)に至ると陵墓を謁拝することにしましたが(『資治通鑑』胡三省注によると、司馬氏は河内温県孝敬里の出身だったため、京兆尹・司馬防(司馬懿の父)以前の先祖は温に埋葬されていました)履物を喪ったため、従者の履物を履き、(陵墓で)下拝(跪いて拝礼すること)して涙を流しました。

 

済河に至った時、張方が洛陽から子の張羆を派遣し、騎兵三千を率いて、自分が乗っていた車で恵帝を迎えさせました(以所乗車奉迎帝)恵帝が芒山の下まで来ると、張方が自ら一万余騎を率いて迎え入れます。張方が拝謁しようとしましたが、恵帝は車を下りて自らそれを止めました。

恵帝が皇宮に還り、奔散した者も徐々に帰還し、百官がおおよそそろいました(百官粗備)。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』からこの時の事を書きます(『資治通鑑』とは若干異なります)

安北将軍・王浚が烏丸騎(騎兵)を派遣して鄴で成都王・司馬穎を攻撃させ、大いに敗りました。司馬穎は帝と単車に乗って洛陽に奔ります。

服御(服飾・車馬や器物)が分散し、突然の事だったため上下とも荷物を持っていませんでしたが、侍中黄門(『資治通鑑』では「中黄門」です)が被囊の中に私銭三千を携行していたため、詔によって借用しました(詔貸用)。至る所で飯を買って(恵帝に)提供しましたが、宮人は道中の客舎で食事をするだけでした(所在買飯以供,宮人止食于道中客舍)

宮人で一升余の糠米の飯および燥蒜(干した大蒜)・塩豉(豆を発酵させた調味料)を持っている者がおり、帝に進めました。帝はそれを食べ、中黄門の布被で寝ました(御中黄門布被)

獲嘉に駐留した時、粗米の飯を買って瓦盆に盛りました。帝はそれを両盂(二碗)食べました。

蒸鶏を献上した老父がおり、帝はそれを受け入れました。

温に至った時、陵墓を謁拝しようとしましたが、帝は履物を喪ったため、従者の履物を履きました。下拝して涙を流し、左右の者も皆、歔欷(すすり泣くこと)しました。

済河に至ると、張方が騎三千を率いて、陽燧青蓋車(「陽燧」は凹面の銅鏡で、車上につけられた光を集める装置のようです。「青蓋」は青い傘で、帝王や高官の車に使いました)で迎え入れました。

張方が拝謁しましたが、帝は自らそれを制止しました。

 

[十九] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

辛巳(十六日)、大赦を行いました。

恵帝に従った者にそれぞれ差をつけて褒賞しました(賞従者各有差)

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

王浚が鄴に入りました。士衆が暴掠(乱暴略奪)し、死者が甚だ多数に上ります(死者甚衆)

王浚は烏桓の羯朱に太弟・司馬穎を追撃させましたが、朝歌に至っても追いつけませんでした。

王浚は薊に還りましたが、鮮卑の多くの者が人の婦女を奪っていたため、命を下して「敢えて隠している者は斬る(敢有挟藏者斬)」と宣言しました。

そのため、易水に沈められた者が八千人もいました。

 

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「王浚は進んでも勤王を成さず、しかも鮮卑、烏桓を放って夏華を混乱させた(猾夏乱華)(後に)石勒の手によって死ぬが、晩かった(晩矣)。」

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

東嬴公・司馬騰が劉淵を撃つため、拓跋猗㐌に師(兵)を乞いました。猗㐌は弟の猗盧と兵を合わせ、西河で劉淵を撃って破り、司馬騰と于汾で盟を結んで還りました。

『資治通鑑』胡三省注は「この後、拓跋氏はしばしば兵を用いて并州を助けた」と解説しています。

 

劉淵は太弟・司馬穎が鄴を去ったと聞いて、嘆いてこう言いました「私の言を用いず、逆に自ら奔潰(奔走・崩壊)するとは、まさに奴才である(不用吾言,逆自奔潰,真奴才也)。しかし私と彼の間には言(前言。約束)がある。救わないわけにはいかない。」

劉淵が兵を発して鮮卑や烏桓を撃とうとしましたが、劉宣等が諫めてこう言いました「晋人は我々を奴隷のように扱ってきました(晋人奴隸御我)。今、その骨肉が殺し合っていますが(骨肉相残)、これは天が彼等を棄てて、我々に呼韓邪(漢代の匈奴単于)の業を恢復させようとしているのです(是天棄彼而使我復呼韓邪之業也)。鮮卑、烏桓は我々の気類(気質が同じ者。同類)なので、援(援け。援軍、後援)とすることができます。どうしてこれを撃つのでしょう(鮮卑烏桓,我之気類,可以為援,柰何撃之)。」

劉淵が言いました「善し。(但し)大丈夫とは漢高(劉邦)や魏武(曹操)のようになるべきだ。呼韓邪はどこが倣うに足りるのだ(善。大丈夫当為漢高魏武,呼韓邪何足效哉)。」

劉宣等は稽首して「(劉淵の気宇や思考は、我々が)及ぶところではありません(非所及也)」と言いました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

荊州兵が張昌を捕えて斬りました(張昌は前年、下儁の山に逃走しました)。張昌の同党の者も皆、三族を皆殺しにされました(夷三族)

 

『晋書・巻四・恵帝紀』では、前年八月に張昌が斬られていますが、『資治通鑑』は本年八月の事としています(前年参照)

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

李雄は范長生に名徳があって蜀人に重んじられていたため、迎え入れて主君に立て、臣事しようと欲しました(欲迎以為君而臣之)。しかし范長生は同意せず、逆に諸将が李雄に対して頑なに尊位に即くように請いました。

 

冬十月、李雄が成都王の位に即き、大赦して建興元年に改元しました。

晋の法を除いて七章の法を建てます(約法七章)

叔父の李驤を太傅に、兄の李始を太保に、李離を太尉に、李雲を司徒に、李璜を司空に、李国を太宰に、閻式を尚書令に、楊褒を僕射にしました。

母・羅氏を尊んで王太后とし、父・李特を追尊して成都景王にしました。

李国と李離に智謀があったので、李雄は全ての事において必ず彼等に意見を求めてから行動しました。一方の李国と李離も(驕慢になることなく)、李雄に仕えてますます謹直になりました(事徳彌謹)

 

李雄は二年後に帝位に即いて国号を「成」と定め、李寿(李驤の子)の代になって「漢」に改められます。そのため、李雄が建てた国は通常「成漢」とよばれます。

本年、李雄が成都王を称し、劉淵も漢王の位に即いたところから(下述)、「五胡十六国時代」が始まります。「五胡」は匈奴、鮮卑、羯、氐、羌、「十六国」は成漢、前趙、後趙、前涼、前燕、前秦、後燕、後秦、西秦、後涼、南涼、北涼、南燕、西涼、夏、北燕を指します。

 

[二十四] 『資治通鑑』からです。

劉淵が左国城に遷都しました。胡・晋(異民族と漢人)で帰順する者がますます増えていきます。

『資治通鑑』胡三省注によると、左国城に遷都した後も劉淵自身は離石に留まったようです。

 

劉淵が群臣に言いました「昔、漢が天下を有して久長(長久)だったのは、民に対して恩を結んだからだ(民に恩徳を用いたからだ。原文「恩結於民」)。私は漢氏の甥であり(匈奴単于が漢室と和親したからです)、約(盟約)して兄弟になった。兄が亡んだら弟が継承するというのも、正しいことではないか(兄亡弟紹,不亦可乎)。」

こうして劉淵は国を建てて「漢」と号しました。

劉宣等が尊号(帝号)を称すように請いましたが、劉淵は「今は四方がまだ定まっていない。とりあえずは高祖に倣って漢王を称すべきだ(且可依高祖称漢王)」と言って、漢王の位に即きました。

 

劉淵が大赦し、元熙元年に改元しました。

安楽公・劉禅(蜀漢後主)を追尊して孝懐皇帝とし、漢の三祖・五宗の神主を作って祭りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、三祖は漢高祖(西漢・劉邦)、世祖(東漢光武帝・劉秀)、昭烈(蜀漢・劉備)、五宗は太宗(西漢文帝)、世宗(武帝)、中宗(宣帝)、顕宗(東漢明帝)、粛宗(章帝)です。

 

劉淵は妻の呼延氏を王后に立てました。

右賢王・劉宣を丞相に、崔游を御史大夫に、左於陸王・劉宏を太尉に、范隆を大鴻臚に、朱紀を太常に、上党の人・崔懿之と後部の人・陳元達を黄門郎に、族子(同族兄弟の子)・劉曜を建武将軍に任命しました。

しかし崔游は固く辞退して官職に就きませんでした。

『資治通鑑』胡三省注によると、劉淵は漢の官制を用いました。後部は匈奴北部で、新興に住みました。崔游は劉淵の師で、范隆と朱紀は同門生(同門の生徒、弟子)です。建武将軍は魏が置いた将軍号です。

 

陳元達は若い頃から志操(大志と節操)があり、以前、劉淵に招かれましたが、応じませんでした。

劉淵が漢王になると、ある人が陳元達に問いました「君は(以前、劉淵の招聘を断ったが)懼れているか(君其懼乎)?」

陳元達は笑ってこう言いました「私はその人(劉淵)を知って久しく、彼も私の心を明確に理解している(吾知其人久矣,彼亦亮吾之心)。ただ思うのは、恐らく三日、二日もせずに駅書(駅馬による文書)が必ず至るだろう(但恐不過三二日,駅書必至)。」

その日の暮、果たして劉淵が陳元達を召しました。

陳元達は劉淵に仕えてしばしば忠言を進めましたが、退いたら草稿を削ったため、子弟でもそれを知ることができませんでした。

 

劉曜は生まれた時から眉が白く、目に赤光があり、幼くして聡慧で、膽量(胆量。度胸)がありました。早くに孤児となったため(父が死んだため)、劉淵に養われ、成長すると儀観(儀容)は魁偉になり、性格は拓落高亮(「拓落」は度量が大きくて小さなことに拘らないこと、「高亮」は高明、高尚忠正なことです)としていました。衆人と群れにならず、読書を好み、文章を善くし(善属文)、しかも厚さが一寸もある鉄に矢を射て貫くことができました(射而洞之)

劉曜は常に自分を楽毅や蕭・曹(蕭何・曹参)と比していました。当時の人々はそれを認めませんでしたが、劉聡だけは劉曜を重んじて「永明(劉曜の字です)は漢世祖や魏武の流(類)だ。数公(楽毅や蕭・曹)がなぜ語るに足りるのだ(何足道哉)」と言いました。

 

尚、『晋書・巻四・恵帝紀』では、十一月に恵帝が長安に入ってから、李雄と劉元海(劉淵)が王を僭称していますが、『資治通鑑』は『華陽国志』『三十国』『晋春秋』『十六国鈔』に従って、どちらも十月に書いています(胡三省注参照)

 

 

次回に続きます。

西晋時代64 西晋恵帝(二十五) 長安遷都 304年(4)

 

 

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