西晋時代64 西晋恵帝(二十五) 長安遷都 304年(4)

 

今回で西晋恵帝永興元年が終わります。

 

[二十五] 『資治通鑑』からです。

晋恵帝が洛陽に還ってからも、張方が兵を擁して朝政を専制しており、太弟・司馬穎は再び政事に関与することができなくなりました(不得復豫事)

豫州都督・范陽王・司馬虓、徐州都督・東平王・司馬楙等が上言しました「穎は重任を負うことができないので、降格して封地を一邑に減らし、特別にその命を全うさせるべきです(穎弗克負荷,宜降封一邑,特全其命)。太宰(河間王・司馬顒)は関右の任を委ねるのに相応しいので、州郡以下の選挙・授任(任命)は一切を仰いで成し(司馬顒の指示を仰いで実行し)、朝(朝廷)の大事も、廃興・損益については毎回(司馬顒に)疇咨(訪問して意見を求めること)するべきです(太宰宜委以関右之任,自州郡以下,選挙授任一皆仰成,朝之大事,廃興損益,每輒疇咨)。張方は国のために節を尽くしましたが、変通(時節の変化に応じた行動)に達しておらず、すぐ西に還ってはいません。彼を遣わして郡に還らせるべきであり(張方は馮翊太守です)、張方に加えた官は全て元に戻すことを請います(張方為国效節而不達変通,未即西還,宜遣還郡,所加方官,請悉如旧)。司徒・戎(王戎)と司空・越(司馬越)は並んで忠国かつ小心(慎重)なので、機事(国家の大事)を行わせて朝政を委ねるべきです(宜幹機事,委以朝政)。王浚には社稷を安定させた勲(挙兵して司馬穎を討った功績)があるので、特別に崇重し、そうすることで幽朔を撫(安撫)して、長く北藩とさせるべきです(宜特崇重,遂撫幽朔,長為北藩)。臣等が力を尽くして城を守り、皇家の藩屏となれば、陛下が垂拱(衣を垂らして手を拱くこと。何もしないこと)していても、四海は自ずから正されます(臣等竭力扞城,藩屏皇家,則陛下垂拱,四海自正矣)。」

 

張方が洛陽に滞在して既に久しくなり、兵士がほとんどの物資・財貨を剽掠(強奪、略奪)し尽くしました。そのため、衆情が喧喧(喧噪の様子)として、洛陽に留まろうという意思がなくなります(『資治通鑑』胡三省注によると、「衆情」は張方の軍情です。兵達は奪う物が無くなったので騒ぎ始めました)

張方等は互いに商議して、恵帝を奉じて長安に遷都することを欲しました。しかし恵帝や公卿が従わないことを恐れます。そこで、恵帝が外出するのを待って強制しようとし(欲須帝出而劫之)、謁廟(宗廟の謁拝)に行くように請いましたが、恵帝は同意しませんでした。

 

十一月乙未(初一日)、張方が兵を率いて入殿し、自分が乗っていた車で恵帝を迎えました(以所乗車迎帝)

恵帝は馳せて後園の竹の中に逃げましたが、軍人が引き出して、恵帝に迫って上車させました。恵帝は垂泣(声を出さずに涙を流して泣くこと)して従います。

 

張方が馬上で稽首してこう言いました「今は寇賊が縦横しており、宿衛が単少(寡弱)なので、陛下が臣の塁(陣。営塁)に行幸することを願います。臣が死力を尽くして不虞(不測の事態)に備えます。」

当時、群臣は皆、逃げ隠れしており、中書監・盧志だけが傍に仕えていました。盧志が恵帝に言いました「陛下の今日の事は、一切を右将軍(張方)に従うべきです(当一従右将軍)。」

こうして恵帝が張方の塁を行幸しました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』の記述は少し異なり、こう書いています。
冬十一月乙未(初一日)、張方が帝に謁廟を請い、それを機に帝に強制して長安に行幸させようとしました(因劫帝幸長安)。張方は自分が乗っていた車で殿中に入ります(方以所乗車入殿中)。帝は馳せて後園の竹の中に逃げましたが、張方が帝に迫って車に乗せました。左右の中黄門と鼓吹十二人が歩いて従い、中書監・盧志だけが(帝の)側に侍っています。

張方は帝に自分の塁を行幸させました。

 

以下、『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

恵帝が張方に、車を準備して宮人や宝物を載せるように命じました。

しかし軍人がこの機に後宮で宮女を侵し(妻略後宮)、それぞれ府藏(府庫の財物)を争奪しました。流蘇(車馬や帳幕、楼台に垂らす羽毛や糸で作られた装飾品)や武帳(皇宮の武器を置く場所に使う帳)が裂かれて馬帴(馬の鞍の下に引く布)にされ、魏・晋以来の蓄積が地を掃いたように完全になくなります(掃地無遺)

張方は宗廟や宮室を焼こうとしました。人々の返顧(振り返ること)の心を絶つためです。

しかし盧志が「董卓は無道で、洛陽を焼いたため(焚焼洛陽)、怨毒(怨恨)の声が百年経ってもまだ残っています(怨毒之声,百年猶存)。なぜそれを踏襲するのですか(何為襲之)」と言ったため、中止しました。

 

恵帝は張方の塁に三日間停留しました。

その後、張方が恵帝および太弟・司馬穎、豫章王・司馬熾等を擁して長安に向かいました。

王戎は郟(『資治通鑑』胡三省注によると、郟県は、西漢は潁川郡に属し、東漢になって廃されました。晋代は襄城郡に属しました。隋・唐には汝州の郟城県になります)に出奔しました。

 

張方等が出発して新安に駐留した時、寒さが甚だしく、恵帝が馬から落ちて足を負傷しました。尚書・高光が面衣(顔を覆う布)を進め、恵帝はこれを嘉しました。

 

河間王・太宰・司馬顒が官属と歩騎三万を率いて霸上で恵帝を迎えました。

司馬顒が前に進み出て拝謁しましたが、恵帝は車から下りて制止しました。

 

恵帝は長安に入り、征西府(征西将軍府。司馬顒の将軍府です)を宮にしました。尚書僕射・荀藩、司隸・劉暾、河南尹・周馥だけが洛陽で留台(京師を留守する官府)を組織し(『資治通鑑』では荀藩、劉暾、周馥の三人ですが、『晋書・恵帝紀』は「僕射・荀藩、司隸・劉暾、太常・鄭球、河南尹・周馥とその遺官(残された官属)だけが洛陽におり、留台を為した」と書いています。ここは『資治通鑑』に従いました)、承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって事を行いました。この後、洛陽は「東台」、長安は「西台」と号されます。

荀藩は荀勗(晋初の功臣)の子です。

 

丙午(「丙午」は十二日です。この下に「辛丑(初七日)」があるので、順序が逆か、日付に誤りがありますが、『晋書・恵帝紀』と『資治通鑑』の記述のまま、ここに置きます)、留台が大赦し、改元して建武元年を永安元年に戻しました。

 

辛丑(初七日)、皇后・羊氏の地位を恢復しました。

『晋書・列伝第一・后妃伝上』によると、羊皇后は洛陽金墉城に残されており、留台が皇后の位を恢復させました(羊皇后は翌年夏に金墉城から出されます)

 

[二十六] 『晋書・巻四・恵帝紀』はここで「李雄が成都王を僭号し、劉元海(劉淵)が漢王を僭号した」と書いています(前回参照)

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

羅尚が移動して巴郡に駐屯し、兵を派遣して蜀中を掠め(侵略、略奪し)、李驤の妻・昝氏および子の李寿を獲ました。

 

[二十八] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月丁亥(二十四日)(晋恵帝が)詔を発して太弟・司馬穎を成都王の身分で家に還らせました(還第)。改めて豫章王・司馬熾を皇太弟に立てます。

恵帝には二十五人の兄弟がいましたが、当時、生存している者は司馬穎、司馬熾および呉王・司馬晏だけでした。司馬晏の材資(能力・資質)が庸下(凡庸、低劣)だったのに対して、司馬熾は沖素(淡白・素朴)で好学だったため、太宰・司馬顒が皇太弟に立てました。

 

(恵帝が)詔によって司空・司馬越を太傅に任命し、司馬顒と共に帝室を夾輔(補佐)させました。王戎(郟にいます)にも朝政に参録(参与・総領)させます。

また、光禄大夫・王衍を尚書左僕射に任命しました。

 

高密王・司馬略を鎮南将軍・領司隸校尉に任命し、暫時、洛陽を鎮守させました。

『晋書・列伝第七・宗室伝(司馬略伝)』を見ると、司馬略は安南将軍・持節・都督沔南諸軍事になった後、安北将軍・都督青州諸軍事に遷り、懐帝が即位してから、使持節・都督荊州諸軍事・征南大将軍・開府儀同三司になっています。洛陽を鎮守したという記述はありません。

これについて『資治通鑑』胡三省注は「列伝」の記述が抜けている可能性もあるとしたうえで、「当時は朝廷の命令が方鎮に行き届かなかったので、思うに、司馬略は洛に赴かなかったのだろう」と解説しています。

 

東中郎将・司馬模を寧北将軍・都督冀州諸軍事に任命して鄴を鎮守させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、晋制における方面の任には、四征・四鎮・四安・四平がありましたが、四寧はありませんでした。「寧北将軍」は恐らく「安北将軍」の誤りです。

尚、「司馬模が寧北将軍・都督冀州諸軍事になった」というのは『晋書・恵帝紀』と『資治通鑑』の記述で、『晋書・列伝第七・宗室伝(司馬模伝)』にはありません。「列伝」にはこう書かれています「恵帝末(晩年)、司馬模は冗従僕射を拝命し、昇格を重ねて太子庶子、員外散騎常侍に遷った。成都王・司馬穎が長安に奔ってから、東海王・司馬越が司馬模を北中郎将にして鄴を鎮守させた(『資治通鑑』は、「王浚が鄴を去ってから、司馬越が司馬模に鄴を鎮守させた」と書いています。下述します)。」

 

司馬略と司馬模はどちらも司馬越の弟です。

 

百官をそれぞれ本職に戻らせました。

州郡に詔を発し、苛政を蠲除(廃除)して、民を愛して本(根本、本業。農業)に務めさせ(愛民務本)、清通の後(戦乱が収まって道が通じてから)、東京(洛陽)に帰還することを宣言しました。

 

以下、『晋書・巻四・恵帝紀』から詔の内容です「天が晋邦に禍を降したため、冢嗣(嫡長子)として継ぐ者がいなくなった(天禍晋邦,冢嗣莫継)。成都王・穎は自ら儲貳(後継者)の地位に立ったが(自在儲貳)、政績が虧損(欠損、荒廃)し、四海が失望し、重任を負うことができないので(不可承重)、王の身分で家に還らせる(其以王還第)。豫章王・熾は先帝の愛子で、令問(美名、名声)が日々新たになっており、四海が意を注いでいるので(天下に注目されているので)、今、これを皇太弟とすることで、我が晋邦を興隆させる(令問日新,四海注意,今以為皇太弟以隆我晋邦)。司空・越を太傅とする。太宰・顒と共に朕の身を輔佐せよ(以司空越為太傅與太宰顒夾輔朕躬)。司徒・王戎は朝政に参録(参与・総領)せよ。光禄大夫・王衍を尚書左僕射にする。安南将軍・虓、安北将軍・浚(王浚)、平北将軍・騰はそれぞれ本鎮を守れ。高密王・簡(「司馬略」の誤りです)を鎮南将軍・領司隸校尉とする。暫く洛陽を鎮守せよ(権鎮洛陽)。東中郎将・模を寧北将軍・都督冀州とする。鄴を鎮守せよ。鎮南大将軍・劉弘を領荊州(荊州刺史)とし、南土を鎮守させる。周馥、繆胤はそれぞれ本部に還れ。百官は皆、職を復す。斉王・冏は以前、(赦されて)家に還されるべきだったが、長沙王・乂が(斉王・冏の)軽罪を重刑に陥れた(原文「斉王冏前応還第,長沙王乂軽陷重刑」。恵帝は司馬冏の命を援けようとしましたが、司馬乂が司馬冏を殺しました。恵帝太安元年・302年参照)。よってその子・紹(超)を封じて楽平県王とし(『晋書・列伝第二十九(司馬冏伝)』を見ると、司馬冏には司馬超、司馬冰、司馬英という三子がおり、司馬超が県王に封じられています。中華書局『晋書・恵帝紀』校勘記は「紹」について「転写による訛(誤り)であり、『超』とするのが正しい」と指摘しています)、その嗣を奉じさせる(司馬冏の跡を継がせる)

最近、戎車(戦車。軍隊)がしばしば征し(しばしば出征があり)、人力を労費したので、供御の物(宮中に供給する物)は皆、三分の二を減らし、戸調・田租は三分の一を減らす(自頃戎車屢征,労費人力,供御之物皆減三分之二,戸調田租三分減一)。苛政を廃除し、人を愛して本に務めよ。清通の後、東京に還ることにする(蠲除苛政,愛人務本。清通之後,当還東京)。」

 

大赦して永興元年に改元しました。

 

王浚が鄴を去ってから、司馬越は司馬模に鄴を鎮守させていました。

司馬顒は四方が乖離して禍難が止まないため、今回の詔(司馬越を太傅に任命し、司馬模に鄴の鎮守を命じる詔)を下して(諸王を)和解させ、少安を獲ることを期待しました。

しかし司馬越は太傅の官を辞退して受け入れませんでした。

 

(恵帝が)詔によって太宰・司馬顒を都督中外諸軍事に、張方を中領軍・録尚書事・領京兆太守にしました。

『資治通鑑』胡三省注がこう解説しています「当時は帝が長安にいたので、京兆太守が実際には輦轂(皇帝の車。転じて京城)の下を掌管していた。張方は兵を握っており、司馬顒が親倚(親任して頼りにすること)していたので、(張方に)京兆(太守)を領させた(兼任させた)。」

 

[二十九] 『資治通鑑』からです。

東嬴公・司馬騰が将軍・聶玄を派遣して漢王・劉淵を撃たせました。

聶玄の兵は大陵(『資治通鑑』胡三省注によると、大陵県は漢代以来、太原郡に属しました)で戦いましたが大敗しました。

 

劉淵は劉曜を派遣して太原を侵させ、泫氏、屯留、長子、中都(『資治通鑑』胡三省注によると、泫氏、屯留、長子は上党郡に属し、中都は太原郡に属しました)を取りました。

また、冠軍将軍・喬晞を派遣して西河を侵させ、介休(『資治通鑑』胡三省注によると、介休県は、漢代は太原郡に属し、晋代は西河郡に属しました。唐代は汾州に属します)を取りました。

 

介休令・賈渾が投降しなかったため、喬晞は賈渾を殺し、その妻・宗氏を娶ろうとしました。しかし宗氏が喬晞を罵って哀哭したため、喬晞は宗氏も殺しました。

それを聞いた劉淵は大いに怒ってこう言いました「もし天道に知覚があるとしたら、喬晞は種(子孫)ができることを望むのか(そのように非道なことをしたら、喬晞の子孫は断絶するだろう。原文「使天道有知,喬晞望有種乎」)。」

劉淵は使者に喬晞の後を追わせて召還し、秩四等を降しました。

また、賈渾の屍を収めて埋葬しました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代65 西晋恵帝(二十六) 石勒登場 305年(1)

 

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