西晋時代65 西晋恵帝(二十六) 石勒登場 305年(1)

 

今回は西晋恵帝永興二年です。三回に分けます。

 

西晋恵帝永興二年

成都王(李雄)建興二年/漢王(劉淵)元熙二年

乙丑 305年

 

[一] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

春正月甲午朔、恵帝は長安にいます。

 

[二] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

夏四月、詔を発して楽平王・司馬超(司馬冏の子。『晋書・恵帝紀』は「司馬紹」としていますが、「司馬超」が正しいはずです。前年参照)を斉王に封じました。

 

[三] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

丙子(十五日)、張方が皇后・羊氏を廃しました(羊后は洛陽におり、張方は長安にいます。下述します)

 

[四] 『資治通鑑』からです。

游楷等が皇甫重を攻めましたが、年を重ねても克てませんでした(游楷等は司馬顒が派遣しました。恵帝太安二年・303年参照)

 

皇甫重が養子の皇甫昌を派遣して、外に救援を求めました。皇甫昌は司空越を訪ねます。

しかし、太宰・司馬顒が山東と連和したばかりだったため(司馬顒は恵帝を擁しており、司馬越と共に帝室を輔佐することになりました。前年参照)、司馬越は出兵しようとしませんでした。

そこで皇甫昌は元殿中の人・楊篇(『資治通鑑』胡三省注によると、「元殿中の人(原文「故殿中人」)」というのは、かつて二衛の部曲に属した者を指します)と共に偽って司馬越の命と称し、金墉城から羊后を迎え入れました。羊后の令によって、兵を動員して張方を討ち、大駕(皇帝)を奉迎しようとします。

 

羊后と張方の関係について、『資治通鑑』胡三省注が解説しています。

本年四月、張方が羊后を廃しましたが、当時、張方は恵帝を奉じて入関していたので(長安にいたので)、遠くから威令によって留台の百官に強制し、羊后を廃させたはずです。今回、皇甫昌が羊后を迎えて入宮し、兵を発して張方を討とうとしましたが、張方自身は洛陽にはいません。

 

本文に戻ります。

皇甫昌が事を起こすと、倉猝(唐突、突然)だったため、百官が皆これに従いましたが、すぐ嘘だと知り、共に皇甫昌を誅殺しました(俄知其詐,相與誅昌)

 

司馬顒は、御史を派遣して皇甫重に詔を宣布するように請い、皇甫重を諭して投降させようとしました。しかし皇甫重は詔に従いませんでした。

当時、城中は長沙厲王(司馬乂)と皇甫商が既に死んだということを知りませんでした。皇甫重は御史の騶人(馬夫や御者。馬を管理する者。『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では諸公に八人の「騶」がおり、下は御史に至るまでそれぞれ定員が決められていました)を獲て、こう問いました「私の弟(皇甫商)が兵を率いて向かっている。もうすぐ至るのではないか(我弟将兵來,欲至未)?」

騶人は「既に河間王(司馬顒)に害された」と答えます。

皇甫重は色を失い、すぐに騶人を殺しました。

しかし城中の人々は外からの救援がないと知り、共に皇甫重を殺して投降しました。

司馬顒は馮翊太守・張輔を秦州刺史に任命しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、司馬顒は劉沈を破った功(前年参照)によって張輔を起用しました。

 

[五] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

六月甲子(初四日)、侍中・司徒・安豊侯・王戎(諡号は元侯)が郟で死にました(王戎は郟に逃走していました。前年参照)

 

[六] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

秦州刺史・張輔は秦州に至ると、威を立てようと欲して天水太守・封尚を殺しました。

また、隴西太守・韓稚を召しましたが、韓稚の子・韓朴が兵を指揮して張輔を撃ち、張輔は軍が敗れて死にました。

 

涼州司馬・楊胤が張軌に言いました「韓稚は勝手に刺史を殺しました(擅殺刺史)。明公は一方において鉞を握っているので(軍権を握っているので)、討伐しないわけにはいきません(明公杖鉞一方,不可不討)。」

張軌はこれに従い、中督護・氾瑗(『資治通鑑』胡三省注によると、「中督護」は「中軍督護」です)を派遣して、衆二万を率いて韓稚を討たせました。韓稚は張軌を訪ねて投降します。

 

間もなくして、鮮卑の若羅拔能が涼州を侵したため、張軌は司馬・宋配を派遣してこれを撃たせました。宋配が拔能を斬り、十余万口を捕虜にします。

こうして、張軌の威名が大いに振るうようになりました。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

漢王・劉淵が東嬴公・司馬騰を攻撃しました。司馬騰はまた拓跋猗㐌(前年参照)に師(兵)を請います。

 

衛操が猗㐌に進言して司馬騰を助けるように勧めたため、猗㐌は軽騎数千を率いて司馬騰を救い、漢将・綦毋豚(『資治通鑑』胡三省注によると、綦毋が姓です。匈奴の国人に綦毋氏と勒氏がおり、どちらも勇健で、反叛を好みました)を斬りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、『後魏書‧桓帝紀』と『劉淵伝』は「(漢軍が敗れたため)劉淵は南の蒲子に走った」と書いています。しかし、『晋書・載記』には蒲子に走った事が書かれておらず、本年に「離石から黎亭に遷った」という記述があるので(後述)、胡三省注は「『後魏書』(の「蒲子に走った」という記述)は夸誕(誇張)・妄言である」と解説しています。

 

晋の朝廷は詔を発して猗㐌に大単于の位を授け(詔假猗㐌大単于)、衛操に右将軍を加えました。

 

甲申(二十四日)、猗㐌が死に、子の普根が代わりに立ちました。

 

[八] 『晋書・巻四・恵帝紀』は本年六月に「李雄が僭称して帝位に即き(僭即帝位)、国号を蜀とした」と書いていますが、『資治通鑑』は翌年(西晋恵帝光熙元年・306年)の事としています(再述します)

 

[九] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

秋七月甲午(初四日)、尚書の諸官署で火災があり(尚書諸曹火)、崇礼闥(恐らく小門)が焼かれました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

東海中尉・劉洽(『資治通鑑』胡三省注によると、晋の諸王国には郎中令、中尉、大農がおり、三卿とされました)は、張方が車駕を脅迫して遷したため(恵帝に強制して遷都させたため。原文「劫遷車駕」)、司空・司馬越に兵を起こして張方を討つように勧めました。

そこで、司馬越が山東の征鎮(四征と四鎮将軍。地方を鎮守する軍官)や州郡に檄文を送ってこう告げました「義旅(義兵)を集めて統率し、天子を奉迎して、旧都に還ることを欲する(欲糾帥義旅,奉迎天子,還復旧都)。」

 

東平王・司馬楙はこれを聞いて懼れを抱きました。

長史・王脩が司馬楙に説きました「東海は宗室の重望です。今、義兵を興したので、公は徐州を挙げて授けるべきです(司馬楙は恵帝永寧元年・301年に都督徐州諸軍事になりました)。そうすれば難を免れることができ、しかも克譲の美(自分を抑えて謙譲できるという美)があります。」

司馬楙はこれに従いました。

こうして司馬越は司空の立場で徐州都督を兼任することになり(領徐州都督)、司馬楙は自ら兗州刺史になりました。

朝廷は詔を発してすぐに使者・劉虔を派遣し、(正式に官位を)授けました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、前年、范陽王・司馬虓が苟晞を行兗州刺史に任命しましたが、苟晞は許昌に留まっており、まだ州に着いていなかったため、司馬楙が自ら兗州刺史になりました。

 

当時は司馬越の兄弟が並んで方任(一方の重任、大権)を握っていました(司馬越の弟・司馬略は都督青州諸軍事、司馬模は都督冀州諸軍事です。前年参照)そこで、范陽王・司馬虓および王浚等が共に司馬越を推して盟主に立てました。司馬越は勝手に刺史以下の官員を選んで配置するようになります(原文「越輒選置刺史以下」。『資治通鑑』胡三省注によると、この「輒」は「専」の意味です)

朝士の多くが(長安の恵帝には従わず)司馬越の下に赴きました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』は「東海王・司馬越が徐方(徐州)で兵を整え、西に向かって大駕を迎えることにした(東海王越厳兵徐方,将西迎大駕)」と書いています。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

成都王・司馬穎が廃されてから(前年、司馬穎は皇太弟を廃されて実権を失いました)、河北の多くの人が憐憫しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。司馬穎が鄴を鎮守したばかりの頃は、時誉(当時における声誉、名声)がありました。後に驕侈によって禍を招きましたが、河北の人々は乱を嫌って昔を思念したため(厭乱而思旧)、多くの人が司馬穎を憐憫しました。

 

司馬穎の旧部将・公師藩等が自ら将軍と称して趙・魏で挙兵しました。兵衆が数万に達します。

 

上党武郷の羯人・石勒には膽力があり、騎射を善くしました。

『資治通鑑』胡三省注によると、武郷県は晋が置きました。上党郡に属します。後に石勒が分けて武郷郡を置きます。石勒は匈奴の別部・羌渠の冑(後代)です。塞内に移住した北狄は十九種あり、羯はその内の一つです。

 

并州を大饑(大飢饉)が襲った時、建威将軍・閻粹が東嬴公・司馬騰を説いて、山東で諸胡(諸異民族)を捕えて売ることで、軍実(軍の食糧・物資)を充たさせました。

石勒も捕まって売られ、茌平の人・師懽(『資治通鑑』胡三省注によると、茌平県は、西漢は東郡に属し、東漢は済北国に属し、晋は平原国に属しました)の奴になりましたが、師懽は石勒の状貌を奇として(容貌が尋常ではないと思って)免じました。

 

師懽の家の隣は馬牧(牧場)でした。石勒は牧帥・汲桑と共に壮士と結んで群盗になります。

 

公師藩が挙兵すると、汲桑と石勒も数百騎を率いて赴きました。

汲桑は石勒に「石」を姓とさせ、「勒」を名とさせました(これまでも便宜上、「石勒」と書いてきましたが、実際はここから「石勒」を名乗りました。『晋書・載記第四』によると、石勒の元の名は「㔨」といいます。また、石勒の祖父は耶奕于といい、父は周曷朱、一名を乞翼加といいました。石姓だったかどうかは分かりません)

 

公師藩等は郡県を攻めて攻略し、二千石や長吏を殺しました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・恵帝紀』は「陽平太守・李志、汲郡太守・張延等を害した」と書いています)

 

その後、向きを変えて前進し、鄴を攻めました(『資治通鑑』は「転前攻鄴」、『晋書・恵帝紀』は「転攻鄴」です)

 

鄴を守る平昌公・司馬模は甚だ懼れましたが、范陽王・司馬虓がその将・苟晞を派遣して鄴を救わせ、苟晞は広平太守・譙国の人・丁紹(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢武帝が平干国を置き、宣帝が広平国に改めました。東漢光武帝は省いて鉅鹿郡に属させましたが、魏文帝が再び広平郡を置きました)と共に公師藩を撃って走らせました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・恵帝紀』は「平昌公・司馬模が将軍・趙驤を派遣してこれを撃破した」と書いています)

 

 

次回に続きます。

西晋時代66 西晋恵帝(二十七) 劉弘 305年(2)

 

 

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