西晋時代66 西晋恵帝(二十七) 劉弘 305年(2)

 

今回は西晋恵帝永興二年の続きです。

 

[十二] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月辛丑(『晋書・恵帝紀』『資治通鑑』ともに「辛丑」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年八月は「庚申」が朔なので、「辛丑」はありません。中華書局『晋書』校勘記は「辛丑は七月のはずだ」と書いています。「七月辛丑」なら十一日です)、晋が大赦しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

司空・司馬越が琅邪王・司馬睿を平東将軍・監徐州諸軍事に任命し、下邳に留めて守らせました。

司馬睿は王導に司馬の職に就くように請い(睿請王導為司馬)、軍事を委ねました。

『晋書・列伝第三十五(王導伝)』では、司馬睿が王導を「安東司馬」にしていますが、当時の司馬睿は平東将軍です。そのため、『資治通鑑』は「安東」を省いて「司馬」としています。

 

司馬越は甲士三万を指揮して西に向かい、蕭県(『資治通鑑』胡三省注によると、蕭県は漢代以来、沛郡に属しました。唐代は徐州に属します)に駐屯しました。。

范陽王・司馬虓も許(許昌)を出て滎陽に駐屯します。

 

司馬越が承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって豫州刺史・劉喬を冀州刺史に換え、范陽王・司馬虓に豫州刺史を兼任させました(領豫州刺史)

しかし劉喬は司馬虓が天子の命を受けていないため、兵を発して拒みました(『資治通鑑』胡三省注によると、当時の豫州刺史は項を治所にしていました)

司馬虓は劉琨を司馬に任命し、司馬越は劉蕃を淮北護軍に、劉輿を潁川太守に任命しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、劉輿と劉琨は劉蕃の子です。

 

劉喬は尚書に上書し(喬上尚書)、劉輿兄弟の罪悪を列挙して、それを機に兵を率いて許を攻めました。

劉喬が長子・劉祐に兵を率いて蕭県の霊壁で司馬越を防がせたため、司馬越の兵は進めなくなります。

 

この頃、東平王・司馬楙が兗州におり、徵求(徴発、徴収)が止まなかったため、郡県が命に堪えられなくなっていました。

范陽王・司馬虓が苟晞を派遣して兗州に入らせ(苟晞は前年、行兗州刺史になりました)、司馬楙を都督青州に移しましたが、司馬楙は命を受け入れず、山東の諸侯(司馬越等)に背いて劉喬と連合しました。

 

『晋書・巻四・恵帝紀』には「驃騎将軍・范陽王・司馬虓が冀州刺史・李義を駆逐した」とありますが、『資治通鑑』はこれを採用せず、十二月に劉琨が冀州刺史・太原の人・温羨を説得して、司馬虓に位を譲らせています(再述します)

 

[十四] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです(『資治通鑑』は採用していません)

揚州刺史・曹武が丹楊(丹陽)太守・朱建を殺しました。

 

[十五] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです(『資治通鑑』は採用していません)

李雄がその将・李驤を派遣して漢安を侵犯させました。

 

[十六] 『晋書・巻四・恵帝紀』はここで「車騎大将軍・劉弘が平南将軍・彭城王・司馬釋を宛から駆逐した」と書いていますが、『資治通鑑』は『晋書・恵帝紀』の誤りとしています(下述します)

 

[十七] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです(『資治通鑑』は採用していません)

九月庚寅朔、公師藩がまた平原太守・王景と清河太守・馮熊を害しました。

 

[十八] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

庚子(十一日)、豫州刺史・劉喬が許昌で范陽王・司馬虓を攻めて敗りました(『資治通鑑』は十月に書いています。再述します)

 

[十九] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

太宰・河間王・司馬顒は山東で兵が起きたと聞いて甚だ懼れました。

 

壬子(二十三日。『晋書・恵帝紀』では「九月壬子(二十三日)」ですが、『資治通鑑』は「八月壬午(二十三日)」としています。ここは『晋書・恵帝紀』に従いました)、公師藩の挙兵は成都王・司馬穎のために起きたので、司馬顒は上表して司馬穎を鎮軍大将軍・都督河北諸軍事に任命し、兵千人を与え、盧志を魏郡太守に任命し、司馬穎に従って共に鄴を鎮守させました。こうして公師藩等を撫安しようします。

また、司馬顒は建武将軍・呂朗を派遣して洛陽に駐屯させました。

 

更に司馬顒は詔を発して、東海王・司馬越等にそれぞれの国に就くように命じました。しかし司馬越等は従いませんでした。

その頃、ちょうど劉喬の上事(上書。劉輿兄弟の罪悪や司馬越が挙兵したことが書かれています)を得ます。

 

冬十月丙子(十八日)(恵帝が)詔を下してこう宣言しました「豫州刺史・劉喬の檄を得た。(檄文は)潁川太守・劉輿が驃騎将軍・虓を迫脅(脅迫)し、詔令に逆らい(距逆詔令)、凶逆を形成させ、ほしいままに郡県を侵し、兵衆を集結させ、勝手に苟晞を用いて兗州(刺史)とし、王命を拒絶した、と称している(称潁川太守劉輿迫脅驃騎将軍虓,距逆詔令,造構凶逆,擅劫郡県,合聚兵衆,擅用苟晞為兗州,断截王命)。鎮南大将軍・荊州刺史・劉弘、平南将軍・彭城王・釋等はそれぞれ統括する兵を率いて、直接、許昌で会し、劉喬と并力(協力)せよ。今、右将軍・張方を大都督にして精卒十万を統べさせ、建武将軍・呂朗、広武将軍・騫貙、建威将軍・刁默等を軍前鋒とする。共に許昌で会して劉輿兄弟を除け。」

 

この内容は『晋書・恵帝紀』からの引用です。『資治通鑑』の記述は若干異なり、こう書いています「劉輿は范陽王・虓を迫脅(脅迫)して凶逆を形成させた(造搆凶逆)。よって、鎮南大将軍・劉弘、平南将軍・彭城王・釋、征東大将軍・劉準に令を発し、それぞれ統括する兵を率いて劉喬と并力させる(各勒所統與劉喬并力)。張方を大都督とし、精卒十万を統べさせる。呂朗と許昌で合流し、劉輿兄弟を誅殺せよ(與呂朗共会許昌,誅輿兄弟)。」

 

司馬釋は彭城元王・司馬植の子で、司馬植は穆王・司馬権の子、司馬権は司馬馗の子、司馬馗は宣帝(司馬懿)の弟です。

『資治通鑑』胡三省注によると、劉弘は荊州を都督していました。司馬釋は羊伊(恵帝太安二年・303年参照)の代わりに宛に駐屯していたようです。劉準は揚州を都督していました。

 

『晋書・恵帝紀』は八月に「車騎大将軍・劉弘が平南将軍・彭城王・司馬釋を宛から駆逐した」と書いています(既述)。しかし『晋書・列伝第七・宗室伝(彭城王伝)』と『列伝第三十六(劉弘伝)』にはこの記述がありません。胡三省注は「劉弘は晋室の純臣であり、(中略)司馬釋は王命を受けて宛を鎮守していたので、劉弘には自らそれを駆逐することはできないはずだ(弘肯更自逐之乎)。この詔(十月丙子の詔)を元に考えると、劉弘と司馬釋に命じて共に劉輿を討たせているので、恐らく劉弘が司馬釋を駆逐したという事実はない。『帝紀』に必ず誤りがある」と解説しています。

 

丁丑(十九日)、司馬顒が成都王・司馬穎に将軍・劉褒(『資治通鑑』では「劉褒」ですが、『晋書・列伝第二十九(司馬顒伝)』では「樓褒」です)等を統領させ、前車騎将軍・石超に北中郎将・王闡等を統領させ、河橋を占拠させて劉喬の継援(後援)にしました。

また、劉喬の官位を鎮東将軍に進めて符節を授けました(假節)

 

劉弘が劉喬と司空・司馬越に書を送りました。怨恨を解いて兵を解散し、共に王室を助けさせようとします(欲使之解怨釋兵,同奨王室)。しかし双方とも聴き入れませんでした。

そこで劉弘は(恵帝と司馬顒に)上表しました「最近は兵戈が紛乱(雑乱、混乱すること)としており、猜禍(猜疑、災禍)が鋒生(恐らく「蜂生」と同義です。多発するという意味です)して、疑隙(猜疑・対立)が群王の間で形成され(疑隙搆於群王)、災難が宗子(宗族の子弟)に延びています(災難延于宗子)。今日は忠(忠臣)でも、明日には逆(逆臣)となり、是非が容易に反覆して(原文「翩其反而」。『資治通鑑』胡三省注は「司馬冏、司馬乂、司馬穎、司馬顒の事が誠にこのようである」と書いています)、互いに戎首(戦事の首謀者。禍首)となっています。史書の記述が始まって以来、骨肉の禍が今のようだったことはありません(載籍以来,骨肉之禍未有如今者也)。臣は心中でこれを悲しんでいます(臣竊悲之)。今、辺陲(辺境)には防備の蓄えがなく(無備豫之儲)、中華には杼軸(中枢、枢要)の困があるのに、股肱の臣は国体を思わず(不惟国体)、尋常(長短。「尋」は八尺で、その倍が「常」です)を競うことを職にして、自ら互いに楚剝(傷つけること)しあっています(職競尋常,自相楚剝)。万一、四夷が虚に乗じて変を為したら、猛虎が互いに争って自ら卞荘の餌になったのと同じことになります(此亦猛虎交闘自效於卞荘者矣)。臣が思うには、速やかに明詔を発して司馬越等に命を下し、双方に猜嫌(猜疑、対立)を解かせ、それぞれに分局(分けられた部署)を守らせるべきです(臣以為宜速発明詔詔越等,令両釋猜嫌,各保分局)。今から後に、もし詔書を被らず(受け入れず)、勝手に兵馬を興す者がいたら、天下が共にこれを伐つべきです(自今以後,其有不被詔書,擅興兵馬者,天下共伐之)。」

 

太宰・司馬顒は、まさに関東の兵を拒んでいる時で(方拒関東)、劉喬に頼って自分の助けとしていたため、劉弘の言を採用しませんでした。

 

劉喬が虚に乗じて許を襲い、破りました(『晋書・巻四・恵帝紀』では九月庚子(十一日)に劉喬が許昌で司馬虓を敗っています。上述)

劉琨が兵を率いて許を救おうとしましたが、間に合わなかったため、兄の劉輿および范陽王・司馬虓と共に河北に奔りました。

劉琨の父母は劉喬に捕えられます。

 

劉弘は「張方が残暴(残虐・暴虐)なので、司馬顒は必ず敗れることになる」と判断しました。そこで、参軍・劉盤を都護(『資治通鑑』胡三省注によると、行軍中の諸将全てを監督する官を「都護」といい、一軍だけを監督する官を「督護」といいます)に任命して派遣し、諸軍を率いて司空・司馬越の節度(指示)を受けさせました。

 

当時は天下が大いに乱れており、劉弘は専ら江・漢(長江・漢水一帯)を督(監督)して、威が南服(南方)に行われていました。

劉弘は、事を謀って成功したら「某人(他の者)の功である」と言い、負敗(失敗)したら「老子(私)の罪である」と言いました。また、興発(「興」は人を動員すること、「発」は財賦を徴発することです)があるたびに、直筆の書を守相(太守・国相)に送り、(その態度は)丁寧かつ親密でした(丁寧款密)そのため、人々は皆、感悦(感動喜悦)し、争って劉弘の下に赴き、そろってこう言いました「劉公の一紙の書を得るのは、十部の従事(多数の補佐官)よりも賢い(劉公の一紙の書を得るのは、十部の従事を派遣するよりも効果がある。原文「得劉公一紙書,賢於十部従事」)。」

 

前広漢太守・辛冉が劉弘に従横の事(合従連衡の事。他の勢力と同盟して地方で割拠する計)を説きましたが、劉弘は怒って辛冉を斬りました。

 

[二十] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

赤気が北方に現れ、東西にわたって天を覆いました(東西竟天)

 

[二十一] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

孛星(異星。彗星の一種)が北斗に現れました。

 

[二十二] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

平昌公・司馬模(鄴にいます)が将軍・宋冑等を派遣して河橋に駐屯させました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代67 西晋恵帝(二十八) 陳敏 305年(3)

 

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