西晋時代67 西晋恵帝(二十八) 陳敏 305年(3)

 

今回で西晋恵帝永興二年が終わります。

 

[二十三] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月、立節将軍・周権が檄文を受けたと偽り(原文「詐被檄」。『資治通鑑』胡三省注によると、周権は偽って司馬越の檄文を受け取ったと称しました)、平西将軍を自称して、また羊氏を皇后に立てました。

しかし洛陽令・何喬が周権を攻めて殺し、羊后を廃しました。

 

太宰・司馬顒が矯詔(偽の詔)を発し、羊后がしばしば姦人に擁立されているという理由で、尚書・田淑を留台(洛陽)に派遣し、勅令によって羊后に死を賜らせました。

 

詔書が何回も至りましたが、司隸校尉・劉暾等は自分の意見を固執(堅持)してこう上奏しました「羊庶人は門戸が残破(損壊、破損)して空宮に廃放(廃位追放)され、門禁が峻密なので(門が厳しく守られているので)、姦人と乱を為す理由がありません(無縁得與姦人搆乱)。衆人は愚者・智者を問わず、皆が冤罪だと言っています(衆無愚智,皆謂其冤)。今、一枯窮の人(一人の枯れ尽きた人)を殺すことで天下を傷惨(悲痛、悲傷)させて、治世において何の益が有るのでしょうか(今殺一枯窮之人,而令天下傷惨,何益於治)。」

司馬顒は怒って呂朗を派遣し、劉暾を捕えさせました。

『晋書・列伝第十五(劉暾伝)』では、司馬顒は陳顔と呂朗を派遣し、騎兵五千を率いて劉暾を捕えさせています。『資治通鑑』胡三省注は「劉暾は匹夫なのに、どうして五千騎も必要なのだ(安用五千騎)。当時、呂朗は洛(洛陽)におり、司馬顒は(呂朗に)劉暾の逮捕を命じただけだ。説者(この出来事を伝えた者)は事を大きくしたかったので、こう言ったのである(説者欲大其事,故云爾)」と解説しています。

 

劉暾は青州に奔って高密王・司馬略を頼りましたが、羊后もこの一件によって禍から免れることができました(然羊后亦以是得免)

 

[二十四] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月、呂朗等が(洛陽から)東に向かって滎陽に駐屯しました。

成都王・司馬穎が進軍して洛陽を占拠しました。

 

『晋書・恵帝紀』は「張方、劉弘等は共に兵を動かさず、防ぐことができなかった(張方、劉弘等並桉兵不能禦)」と書いていますが、『資治通鑑』はこの一文を採用していません。

 

[二十五] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

劉琨が冀州刺史・太原の人・温羨を説得し、范陽王・司馬虓に位を譲らせました。司馬虓が冀州刺史を兼任することになります(領冀州)

 

司馬虓は劉琨を幽州に派遣して王浚に師(兵)を乞いました。

王浚は突騎を派遣して司馬虓を助け、王闡を河上で撃って殺しました。

『資治通鑑』胡三省注は、「突騎は天下の精兵である。燕人は梟騎(勇猛な騎兵。突騎)を送って漢高祖を助け、それによって項羽を破った。光武は漁陽・上谷の突騎を得て、それによって河北を平定した」と解説しています。

突騎の数について、『晋書・列伝第三十二(劉琨伝)』は「突騎八百人を得た」と書いていますが、『晋書・列伝第三十一(劉喬伝)』は「劉琨が突騎五千を率いた」と書いています。

『資治通鑑』胡三省注は「八百は少なすぎる。あるいは、下の文にある東海王(司馬越)を迎えた時の数によって、この誤りを招いたのかもしれない(八百は東海王を迎えた時の数であり、ここで八百とするのは誤りかもしれない。原文「或因下文迎東海王之数,致有此誤」)。今は疑問のまま置くことにする(今闕疑)」と解説しています。

 

王闡が敗れたので、劉琨が司馬虓と共に兵を率いて官渡から河(黄河)を渡り、滎陽を攻略して石超を斬りました。

劉喬は考城(『資治通鑑』胡三省注によると、考城県は陳留郡に属します。西漢時代の梁国菑県で、東漢章帝が改名しました。晋代になって廃され、後魏(北魏)が考陽県と北梁郡を置きましたが、北斉が郡県とも廃して城安県にしました。その後、隋が再び考城県に改名して梁郡に属させます。唐代は曹州に属します)から兵を率いて退きます。

 

司馬虓が劉琨と督護・田徽を派遣し、東に向かって廩丘(『資治通鑑』胡三省注によると、廩丘県は、前漢は済陰に属し(「前漢」は恐らく「後漢」の誤りです。前漢の廩丘は東郡に属しました。『漢書・地理志・第八上』参照)、晋は濮陽郡に属しました。兗州刺史の治所です)で東平王・司馬楙を撃たせました。

司馬楙は敗走して国に還りました。

 

劉琨と田徽は兵を率いて東に向かい、司馬越を迎えました。譙で劉祐を撃ち、劉祐は敗死します。

そのため劉喬の衆も潰散し、劉喬は平氏(地名)に奔りました。

 

『晋書・恵帝紀』は「(司馬虓が)許昌を襲い、劉喬を蕭で破った。劉喬は南陽に奔った」と書いています。

『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の南陽に平氏県がありましたが、晋武帝が南陽を分けて義陽郡を置き、平氏県は晋義郡に属すことになりました。『晋書・恵帝紀』が「南陽に奔った」と書いているのは、漢代の地名を使っているようです。

 

司空・司馬越が進軍して陽武(『資治通鑑』胡三省注によると、陽武県は、漢代は河南郡に属し、晋代は滎陽郡に属しました。唐代は鄭州に属します)に駐屯しました。

王浚がその将・祁弘を派遣し、突騎鮮卑・烏桓(鮮卑と烏桓の突騎。尚、『資治通鑑』は「突騎鮮卑烏桓」としていますが、『晋書・列伝第九(王浚伝)』では「烏丸突騎」のみです)を指揮して司馬越の先駆にさせました。

 

[二十六] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

陳敏は石冰に克ってから(恵帝永興元年・304年参照)、自分の勇略に匹敵する者はいないと思うようになり(自謂勇略無敵)、江東で割拠する志を抱きました。

(それを知った)陳敏の父は怒って「我が家門を滅ぼすのは、この子に違いない(滅我門者,必此児也)」と言い、憂死してしまいました。

陳敏は喪のために職を去りました。

 

(後に)司空・司馬越が陳敏を起用して右将軍・前鋒都督に任命しました。

司馬越が劉祐に敗れると(本年八月、劉祐が蕭県霊壁で司馬越を防いだ時の事を指すと思われます)、陳敏は東に帰って兵を集める許可を請い、それを機に歴陽(『資治通鑑』胡三省注によると、歴陽県は、漢代から九江郡に属しました。魏は九江を淮南に改め、晋もそれを継ぎました。県の南に歴水があるので、歴陽といいます)を占拠して叛しました。

 

この頃、呉王の常侍・甘卓(『資治通鑑』胡三省注によると、晋の諸王国のうち、大国は左・右常侍を各一人置きました)が官を棄てて東に帰りました。

『晋書・列伝第四十(甘卓伝)』は、「州が甘卓を秀才に挙げて、(甘卓は)呉王の常侍になった。石冰を討ち、功によって都亭侯の爵を下賜された。東海王・司馬越が招いて参軍とし、(地方に)出して離狐令を補わせた。甘卓は天下が大いに乱れているのを見て、官を棄てて東に帰り、歴陽に至った時、陳敏に遇った」と書いています。

『晋書・列伝第七十(陳敏伝)』の記述は、「陳敏は中国(中原)が大いに乱れていたため、東に帰る許可を請い、兵を集めて歴陽を占拠した。ちょうど呉王の常侍・甘卓が洛から至った」です。

『資治通鑑』は『陳敏伝』に従っており、胡三省注が「甘卓は常侍だったので、石冰を討つはずがなく、離狐令になったのなら、(離狐にいたはずなので)洛から(歴陽に)至るはずがない」と解説しています。

 

甘卓が歴陽に至った時、陳敏は子・陳景のために甘卓の娘を娶り、甘卓に「陳敏を揚州刺史に任命する」という皇太弟の令を詐称させました。

 

陳敏は弟の陳恢および別将・銭端等を派遣して南の江州を攻略させ、弟の陳斌に東の諸郡を攻略させました。

江州刺史・應邈は弋陽に奔り、揚州刺史・劉機と丹楊(丹陽)太守・王曠(『晋書・列伝第七十(陳敏伝)』では「王廣」です)はどちらも城を棄てて逃走しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、揚州刺史と丹楊太守は共に秣陵を治所にしていました。

 

こうして陳敏が江東を占拠しました。

陳敏は顧榮を右将軍に、賀循を丹楊(丹陽)内史に、周玘を安豊太守(『資治通鑑』胡三省注によると、東漢時代の安豊は廬江郡に属す県でしたが、魏が分けて安豊郡にしました)に任命しました。

陳敏は江東の豪傑・名士に対して、全て收礼(収攬・礼遇)を加えました。将軍や郡守に任命された者は四十余人います。老疾(老齢・病弱)の者がいたら、(出仕するのが困難なので)その地で秩命(等級に応じた俸禄)を加えました(就加秩命)

 

賀循は偽って狂疾(精神が錯乱する病)のふりをし、任官から免れることができました。

陳敏は賀循の代わりとして顧榮に丹楊内史を兼任させました(領丹楊内史)

周玘も病と称して郡に赴きませんでした。

 

やがて、陳敏は諸名士を疑うようになり、最終的には自分で用いることができなくなる(自分のために働かなくなる。原文「終不為己用」)と考えて、全て誅殺しようとしました。

顧榮が陳敏を説得してこう言いました「(今は)中国(中原)が喪乱(禍乱、動乱)して、胡夷が内侮(内部への侵犯)しているので、今日の勢(形勢)を観るに、(中原の朝廷が)再び振興することはできず、やがて百姓には遺種(後代)がいなくなってしまいます(不能復振,百姓将無遺種)。江南は石冰の乱を経験したとはいえ、人も物もなお保全されており(人物尚全)、榮(私)は、これを存続させる孫・劉(孫権や劉備)のような主が現れないのではないかと常に憂いていました(榮常憂無孫劉之主有以存之)。今、将軍の神武は世に並ぶ者がなく(将軍神武不世)、勲效(勲功・功績)も顕著になっており、帯甲(兵士)は数万おり、舳艫(船舶、戦艦)も山積みになっています。もしも君子を委信(委任・信頼)して、それぞれに心意を尽くさせ、蔕芥の嫌(小さな嫌疑、対立)を解消し、讒諂の口を塞ぐことができたら、上方の数州(長江上流の州。『資治通鑑』胡三省注によると、揚州以西に位置する荊・江・豫・益等の州を指します)は、檄文を伝えるだけで安定させることができます(若能委信君子,使各尽懐,散蔕芥之嫌,塞讒諂之口,則上方数州可伝檄而定)。もしそうしないようなら、最終的には成功できないでしょう(不然,終不済也)。」

陳敏は名士の誅殺を中止しました。

 

陳敏は僚佐に命じて自分を推挙させ、都督江東諸軍事・大司馬・楚公にして九錫を加えることを連名で尚書に上書させました(列上尚書)。その後、中詔(宮中が発した皇帝直筆の詔)を受けたと称し、江(長江)から沔・漢に入って鑾駕(皇帝の車)を迎え入れようとします。

 

太宰・司馬顒は張光を順陽太守(『資治通鑑』胡三省注によると、順陽県は、西漢は博山といい、東漢明帝が順陽に改名しました。南陽郡に属します。献帝時代に南陽の右壤(西部)を割いて南郷郡とし(順陽県が含まれます)、西晋武帝が順陽郡に改めて南郷を県にしました)に任命し、陳敏を討つために、歩騎五千を率いて荊州に向かわせました。

劉弘も江夏太守・陶侃、武陵太守・苗光を夏口に駐屯させ、南平太守・汝南の人・應詹に水軍を督(監督)させて後継にしました。

 

陶侃と陳敏は同郡で(『資治通鑑』胡三省注によると、どちらも廬江の人です)、しかも同じ年に推挙されて官吏になったため、隨郡内史・扈懐(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の隨は南陽郡に属す県でした。春秋時代の隨国です。晋武帝が南陽を分けて義陽国を置き、後にまた義陽を分けて隨郡を置きました。隋代は漢東郡に、唐代は隋州になります)が劉弘にこう言いました「陶侃は大郡におり、強兵を統率しているので、もしも異志があったら、荊州は東門を失うことになります(脱有異志,則荊州無東門矣)。」

しかし劉弘はこう言いました「私は陶侃の忠能を得て久しくなる(侃之忠能,吾得之已久)。必ずそのようなことはない(必無是也)。」

これを聞いた陶侃は子の陶洪と兄の子・陶臻を派遣して劉弘を訪ねさせ、自分の立場を固めました(以自固)

劉弘は二人を招いて参軍にしましたが、物資を与えて還らせ(資而遣之)、こう言いました「賢叔(陶侃)は征行(出征)しており、君の祖母は年高(高齢)なので、帰るべきだ。匹夫の交りでも裏切ることはない。大丈夫ならなおさらだ(匹夫之交尚不負心,況大丈夫乎)。」

 

陳敏が陳恢を荊州刺史に任命して武昌に侵攻させました。

劉弘は陶侃に前鋒督護の官を加えて防がせます。

 

陶侃は運船(輸送船)を戦艦にしました。そのようにするべきではないと主張する人もいましたが(或以為不可)、陶侃はこう言いました「官の船を用いて官の賊を撃つのに、何を不可とするのだ(何の問題があるのだ。原文「用官船撃官賊,何為不可」。「用官船撃官賊」の部分は、『晋書・列伝第三十六(陶侃伝)』では「用官物討官賊(官の物を用いて官の賊を討つ)」です)。」

 

陶侃は陳恢と戦ってしばしば破り、更に皮初、張光、苗光と共に長岐で銭端を破りました。

長岐の戦いは『晋書・列伝第二十七(張光伝)』に詳しく書かれています。当時、江夏太守・陶侃が陳敏の大将・銭端と長岐で対峙していました。戦いが始まる時、襄陽太守・皮初が歩軍になり、張光に伏兵を設けて待機させました。武陵太守・苗光が水軍になり、舟艦を沔水に隠しました。皮初等が賊と交戦すると、張光が伏兵を発して応じ、水陸が共に奮戦して(水陸同奮)、賊衆が大敗しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、長岐は江夏郡界内にあったようです。

 

南陽太守・衛展が劉弘に説きました「張光は太宰(司馬顒)の腹心であり、公は既に東海(司馬越)に与しています。張光を斬って向背(従うか逆らうか。自分の立場)を明らかにするべきです(宜斬光以明向背)。」

しかし劉弘は「宰輔の得失(過失)がどうして張光の罪なのだ。人を危めて自分を安んじるのは、君子が為すことではない(宰輔得失,豈張光之罪。危人自安,君子弗為也)」と言い、張光の殊勲を上表して遷擢(昇格、抜擢)を加えるように乞いました。

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

この年、離石を大饑(大飢饉)が襲ったため、漢王・劉淵が黎亭(『資治通鑑』胡三省注によると、上党郡壺関県に黎亭がありました)に遷って駐屯し、邸閣(食糧倉庫)の穀物に頼りました(就邸閣穀)

劉淵は太尉・劉宏を留めて離石を守らせ、大司農・卜豫に食糧を運ばせて離石に供給しました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代68 西晋恵帝(二十九) 恵帝東還 306年(1)

 

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