西晋時代68 西晋恵帝(二十九) 恵帝東還 306年(1)

 

今回は西晋恵帝光熙元年です。二回に分けます。

 

西晋恵帝光熙元年

成漢武帝晏平元年/漢王(劉淵)元熙三年

丙寅 306年

本年は恵帝永興三年で始まりますが、六月に光熙元年に改元します。

 

[一] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月戊子朔、恵帝は長安にいます。

この日、日食がありました。

 

[二] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

太弟中庶子・蘭陵の人・繆播が東海王・司空・司馬越に寵信されており、繆播の従弟に当たる右衛率・繆胤は太宰・司馬顒の前妃の弟でした。

司馬越が挙兵した時、司馬越は繆播と繆胤を長安に派遣して司馬顒を説得し、帝を奉じて洛(洛陽)に還らせ、司馬顒と陝で(天下を)分けて伯にすることを約束しました。

司馬顒はかねてから繆播兄弟を信用して重んじていたため、これに従おうとしました。しかし張方が、自分の罪(洛陽で略奪を行ったことと、恵帝に強制して遷都させたことです)が重いため誅首(誅殺されるべき主犯)にされることを恐れて、司馬顒にこう言いました「今は形勝の地を占拠しており、国が富裕で兵が強く、天子を奉じて号令しているので、誰が敢えて従わないでしょう。なぜ拱手して人の制御を受けるのですか(柰何拱手受制於人)。」

司馬顒はこの意見を聞いて繆播兄弟の説得に従わないことにしました。

 

やがて劉喬が敗れると、司馬顒は大いに懼れ、罷兵(撤兵)して山東(司馬越)と和解しようとしました。しかし張方が従わないことを恐れ、躊躇してなかなか決断できません。

 

張方は以前から長安の富人・郅輔と親善な関係にあり、帳下督に任命していました。

『資治通鑑』胡三省注によると、張方が山東から来たばかりの頃は甚だ微賎でしたが、郅輔が厚く物資を供給しました。そのため、張方は自分が高貴になってから、郅輔との関係を親昵(親密、親厚)にしました。

 

司馬顒の参軍・河間の人・畢垣は、かつて張方から侮辱されたことがあったため(嘗為方所侮)、これを機に司馬顒に言いました「張方は久しく霸上に駐屯していますが、山東の兵が盛んだと聞いて、盤桓(逗留)して進もうとしません(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。司馬顒は張方と呂朗を派遣し、劉喬と合流して許を攻めるように命じました。しかし張方は霸上に駐屯したまま進まず、その間に劉喬が敗れました)(変事が)生まれる前に防ぐべきです(宜防其未萌)。彼の親信(信任している者)・郅輔がその謀を詳しく知っています。」

繆播と繆胤もまた司馬顒を説得して「急いで張方を斬ることで(天下に)謝すべきです。そうすれば、山東も労せずして安定させることができます(山東可不労而定)」と言いました。

そこで司馬顒は人を送って郅輔を招きました。

 

畢垣が郅輔を迎えてこう問いました「張方が造反を欲しており、人々は卿がその事を知っていると言っている(張方欲反,人謂卿知之)。王がもし卿に問うたら、どう答えるつもりだ(何辞以対)?」

郅輔が驚いて言いました「誠に張方の謀反は聞いたことがありません。どうするべきでしょうか(実不聞方反,為之柰何)?」

畢垣が言いました「王がもし卿に問うたら、ただ『爾爾(はい、はい)』と言え(但言爾爾)。そうしなかったら、必ず禍から免れられなくなる(不然,必不免禍)。」

 

郅輔が入室すると、司馬顒が問いました「張方の謀反を卿は知っているか(張方反,卿知之乎)?」

郅輔は「爾(はい)」と答えました。

司馬顒が問いました「卿を派遣して彼を取らせるのは可能か(遣卿取之,可乎)?」

郅輔はやはり「爾(はい)」と答えます。

司馬顒は郅輔を派遣して張方に書を送り、それを機に張方を殺させました。

 

郅輔は張方と親密だったため、刀を持って入っても、門を守る者(守閣者)に疑われませんでした。

張方が灯火の下で函(書)を開いた時、郅輔がその頭を斬ります。

郅輔が還って報告すると、司馬顒は郅輔を安定太守に任命しました。

 

司馬顒は張方の頭を司馬越に送って和を請いました。

しかし司馬越は同意しませんでした。

 

宋冑等が河橋を襲い、司馬穎の将・樓褒(『晋書・恵帝紀』では「樓裒」ですが、『晋書・列伝第二十九(司馬顒伝)』では「樓褒」としており、『資治通鑑』は「列伝」に従っています)を破りました。樓褒は西に走ります。

平昌公・司馬模が前鋒督護・馮嵩を派遣し、宋冑と合流して洛陽に迫らせました。

成都王・司馬穎は西の長安に奔ろうとしましたが、華陰(『資治通鑑』胡三省注によると、華陰県は、西漢は京兆に属し、東漢と晋は弘農郡に属しました。唐は華州に属します)に至った時、司馬顒が山東と和親したと聞き(実際には、司馬越は和親を拒否しています)、留まって敢えて進もうとしなくなりました。

 

呂朗が滎陽に駐屯していましたが、劉琨が張方の首を示したため、投降しました。

 

司空・司馬越が祁弘、宋冑、司馬纂等を派遣し、車駕(皇帝)を迎えるために、鮮卑を率いて西に向かわせました。

『晋書・恵帝紀』はこの日を「甲子」としていますが、この年の正月は「戊子」が朔なので、「甲子」はありません。『資治通鑑』は「甲子」を省いています。

 

(司馬越が)周馥を司隸校尉・假節とし、諸軍を都督して澠池に駐屯させました。

 

[三] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月、東莱惤令・劉柏根(『晋書・恵帝紀』では「劉柏根」、『資治通鑑』では「劉伯根」です。ここは『晋書』に従いました。『資治通鑑』胡三省注によると、惤県は漢代以来、東莱郡に属しました。拓跋魏(北魏)になって廃されます)が反しました。

劉柏根はその衆が万を数え、自ら惤公を称しました。

 

王彌が家僮(家の奴僕)を率いて劉柏根に従いました。劉柏根は王彌を長史に、王彌の従父弟(従弟)・王桑を東中郎将にしました。

 

劉柏根が臨淄(『資治通鑑』胡三省注によると、青州都督の治所です)を襲いました。

青州都督・高密王・司馬略(『晋書・恵帝紀』は「高密王・簡」としていますが、「簡」は「略」の誤りです)が劉暾に兵を率いて拒ませましたが、劉暾は兵が敗れて洛陽に奔り、司馬略は逃走して聊城を守りました(『資治通鑑』胡三省注によると、聊城県は、漢代は東郡に属し、晋代は平原郡に属しました。唐代は博州の治所になります)

 

王浚が将を派遣して劉柏根を討たせ、これを斬りました。

王彌は逃亡して長広山(『資治通鑑』胡三省注によると、長広県は、西漢は琅邪郡に属し、東漢は東莱郡に属しましたが、晋武帝が長広郡を置いて長広県を属させました。隋になると、長広郡と県を廃して膠水県に改められます。唐代には莱州に属します)に入り、群盗になりました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

連年、寧州を饑疫(飢饉、疫病)が襲い、死者が十万を数えました。

また、五苓夷(恵帝太安二年・303年参照)が強盛になり、州兵がしばしば敗れました。

寧州から交州に流入する吏民が甚だしく増えたため、五苓夷が寧州の州城を包囲しました。

李毅(寧州刺史)は疾病を患い、救援の路も絶たれたため、上疏(上書)しました「寇虐を式遏(制御)することができず、坐して殄斃(滅亡)を待っています(不能式遏寇虐,坐待殄斃)。もし(朝廷が)矜恤(憐憫。ここでは「援軍・救援」の意味です)を垂らさないのなら、大使(朝廷の使者)を降すことを乞います(若不垂矜恤,乞降大使)。臣が生きていたら重辟(死刑)を加え、もし死んでいたら、死体を晒して懲罰としてください(及臣尚存,加臣重辟。若臣已死,陳尸為戮)。」

しかし朝廷からの回答はありませんでした。

 

数年後、子の李釗が洛陽から李毅に会いに行きましたが、到着する前に李毅は死にました。

李毅の娘・李秀は明達で父の風(気風、風格)があったため、衆人が李秀を推して寧州の政務を統領させました(領寧州事)

李秀は戦士を奨励して城を固守し(奨厲戦士,嬰城固守)城中の食糧が尽きても、鼠を炙ったり草を抜いて食べました。

李秀は五苓夷がわずかに緩んだのを伺い見て(伺夷稍怠)、すぐに兵を出して掩撃(襲撃)し、これを破りました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は永嘉元年(307年。翌年)五月に「建寧郡の夷が寧州を攻めて落とした。死者が三千余人に上った」と書いており、『晋書・載記第二十一』も「南夷校尉・李毅が(城を)固守して降らなかった。李雄は建寧夷を誘ってこれを討たせた。李毅が病卒(病死)すると、城が陥落した。(李雄、または建寧夷は)壮士三千余人を殺し、婦女千口を成都に送った」と書いています。

しかし『晋書・列伝第五十一(王遜伝)』には「恵帝末、西南夷が叛した。寧州刺史・李毅が死んだが、城中の百余人が李毅の娘を奉じて(城を)固守し、年を経た」とあり、『華陽国志』の『巻四』と『巻十一』も「李毅の娘・李秀は(中略)才智があった。父が死亡した後、州の文武(諸官)(李秀を)推して、三年間、州を統領させた」等、李秀が城を守ったことを書いています。

『資治通鑑』は『晋書・列伝第五十一』や『華陽国志』に従って李秀が城を固守したという説を採っています。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

范長生が(青城山から)成都を訪ねました。

成都王・李雄は門前で出迎え、版(笏)を持って(原文「執版」。正式な儀礼を表します)丞相に任命し、尊んで「范賢」と呼ぶことにしました。

 

[六] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月己巳(十三日)、司空・司馬越が兵を率いて温に駐屯しました。

 

太宰・司馬顒は、張方が死んだので東方の兵は必ず解散すると思っていました。

ところが暫くすると、東方の兵が張方の死を聞いて、逆に争って入関しようとしました。

司馬顒は後悔して郅輔を斬り、弘農太守・彭隨と北地太守・刁默を派遣して、兵を率いて湖(地名)で祁弘等を拒ませました。

 

[七] 『晋書・巻四・恵帝紀』

五月、枉矢(大流星)が西南に流れました。

范陽国の地が燃えて、米が炊けるほど熱くなりました(地燃可以爨)

 

[八] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

壬辰(初七日)、祁弘等が彭隨と刁默を撃って大破しました。

そのまま西に向かって関に入り、更に司馬顒の将・馬瞻と郭偉を霸水で敗ります。

司馬顒は単馬で逃走して太白山(『資治通鑑』胡三省注によると、太白山は武功県南にあり、長安から三百里離れています)に入りました。

『晋書・恵帝紀』は「司馬顒と司馬穎が南山に走り、宛に奔った(顒穎走南山,奔于宛)」と書いていますが、ここで「司馬穎」と書いているのは誤りで、司馬穎は八月に武関から新野に奔ります(後述します)。また、司馬顒は太白山に留まったままで、宛には奔っていません。六月に馬瞻と梁邁が南山(太白山)から司馬顒を迎えます

 

祁弘等が長安に入り、統率していた鮮卑が大掠(大略奪)して二万余人を殺しました。百官は奔散(奔走・四散)して山中に入り、橡実(どんぐり)を拾って食糧にしました。

 

この日、日光が四散して血のように赤くなりました(日光四散,赤如血)

甲午(初九日)にも同じようになりました。

 

己亥(十四日)、祁弘等が恵帝を奉じ、牛車に乗せて東に還りました。行宮(皇帝が外出した時の宮室)では草を敷いて布団とし(行宮藉草)、公卿も困難な旅を続けます(原文「公卿跋渉」。「跋渉」は山を越えて川を渡ることで、困難な旅路を表します)

『資治通鑑』胡三省注によると、古の貴人は牛車に乗りませんでしたが、西漢武帝時代以降、諸侯が寡弱になって牛車に乗る者も現れ始め、牛車は徐々に貴重な乗り物に変わっていきました。東漢霊帝以後は天子から士に至るまで、普通に乗るようになります。恵帝は、鄴から洛に奔った時は犢車(牛車の一種。「犢」は子牛です)に乗り、長安から洛に還った時は牛車に乗り、出警入蹕の制(帝王が外出する時に道を整備したり警護する制度)がありませんでした。

 

太弟太保・梁柳を鎮西将軍に任命して関中を守らせました。

 

[九] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

戊申(二十三日)、驃騎将軍・范陽王・司馬虓が司隸校尉・邢喬を殺しました。

 

[十] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

己酉(二十四日)、盗人が太廟の金匱(金の箱)と策文(皇帝の陵墓を祀る時に使う哀悼の文書)をそれぞれ四つ盗みました。

 

[十一] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

六月丙辰朔、恵帝が長安から洛陽に至り、旧殿に登りました。哀感して涙を流します。

 

恵帝が太廟を拝謁しました。

 

皇后・羊氏の地位を恢復しました。

『晋書・列伝第一・后妃上』では、張方の首が(洛陽に)至った日に、羊后の位が恢復されています。張方が殺されたのは正月です。

『資治通鑑』は『晋書・恵帝紀』に従っており、六月に羊后の地位が恢復されたとしています(胡三省注参照)

 

辛未(十六日)、大赦して永興三年から光熙元年に改元しました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

馬瞻等が長安に入り、梁柳を殺しました。

馬瞻等は始平太守・梁邁と共に南山から太宰・司馬顒を迎えます(『資治通鑑』胡三省注によると、晋武帝が扶風を分けて始平郡を置き、槐里、始平、武功、鄠、蒯城等の県を統領させました。南山は太白山です)

 

しかし、弘農太守・裴廙、秦国内史・賈龕、安定太守・賈疋等が挙兵して司馬顒を撃ち、馬瞻と梁邁を斬りました。

賈疋は賈詡(東漢末、始めは李傕と郭汜に仕え、その後、張繍に仕えて、最後は魏に帰順しました)の曾孫です。

 

司空・司馬越が督護・麋晃を派遣し、兵を率いて司馬顒を撃たせました。

『晋書・列伝第三十(牽秀伝)』は「司馬越が将・麋晃等を派遣して司馬顒を迎えた(越遣将麋晃等迎顒)」と書いていますが、中華書局『晋書・列伝第三十』校勘記は「迎顒(司馬顒を迎えた)」を誤りとしています。『晋書・列伝第二十九(司馬顒伝)』では、東海王・司馬越が督護・麋晃を派遣して、国兵を率いて司馬顒を伐たせており、『資治通鑑』はこれに従っています。

 

麋晃が鄭に至った時、司馬顒が平北将軍・牽秀を馮翊に駐屯させました。

しかし、司馬顒の長史・楊騰が司馬顒の命と偽って牽秀に兵を解かせ、更に牽秀を殺しました。関中が全て司馬越に服し、司馬顒は城(長安城)を保つだけになりました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代69 西晋恵帝(三十) 李雄即位 八王の乱終息 306年(2)

 

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