西晋時代69 西晋恵帝(三十) 李雄即位 八王の乱終息 306年(2)

 

今回で西晋恵帝の時代が終わります。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

成都王・李雄が皇帝の位に即きました。諡号は武帝です。

『晋書‧載記第二十一』によると、李雄は字を仲雋といいました。李特の第三子です。

 

大赦して建興三年から晏平元年に改元し、国号を「大成」にしました。

 

『晋書・恵帝紀』では恵帝永興二年(305年。前年)の六月に李雄が帝位に即いており、『資治通鑑』胡三省注によると、『三十国』『晋春秋』でも前年に即位しています。

しかし『華陽国志・巻九』では恵帝光熙元年(本年)に即位しており、『後魏書』『十六国春秋鈔』も本年の事としているので、『資治通鑑』も本年に書いています。

また、『晋書・載記第二十一』では、年号を「晏平」ではなく「太武」としていますが、『資治通鑑』胡三省注と中華書局『晋書』校勘記は「晏平」が正しいと判断しています。李雄は帝を称した後、国号を「大成」としましたが、『載記』は誤って「大成」を年号としてしまい、しかも転写の過程で「成」が「武」になってしまったため、「太武」と書いているようです。

 

尚、当時の国号は「大成」ですが、後に「漢」に改めるので、通常は「成漢」とよばれています。

『資治通鑑』は「李雄」を「成主・雄」と書いていますが、この通史では「成漢武帝(成主・李雄)」と書くことにします。

 

武帝が父・李特を追尊して景皇帝とし、廟号を始祖にしました。王太后(李雄の母は羅氏といい、李雄が成都王を称した時、王太后になりました。恵帝永興元年・304年参照)を尊んで皇太后にします。

 

范長生を天地太師にしました(『華陽国志・巻九』では、范長生を尊んで「四時八節天地太師」にしていますが、『晋書‧載記第二十一』では「天地太師」としており、『資治通鑑』は『晋書』に従っています)

范長生の部曲は全て徴税を免除されました(復其部曲,皆不豫征税)

 

諸将が恩(諸将の武帝に対する恩、自分が立てた功績。または武帝による恩寵)に頼って官位を争ったため(諸将恃恩,互争班位)、尚書令・閻式が上書し、漢・晋の故事を参考にして百官の制度を立てるように進言しました。

武帝はこれに従いました。

 

[十四] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月乙酉朔、日食がありました。

 

[十五] 『晋書・巻四・恵帝紀』からです。

太廟の吏・賈苞が太廟の霊衣と剣を盗んだため、誅に伏しました。

 

[十六] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月、晋が司空・司馬越を太傅にして尚書の政務を総領させ(『資治通鑑』の原文は「以司空越為太傅録尚書事(司空・司馬越を太傅・録尚書事にした)」、『晋書・恵帝紀』の原文は「以太傅東海王越録尚書(太傅・東海王・司馬越に尚書を総領させた)」、『晋書・列伝第二十九(司馬越伝)』の原文は「詔越以太傅録尚書(詔によって、司馬越に太傅として尚書を総領させた)」です)、驃騎将軍・范陽王・司馬虓を司空に任命して鄴を鎮守させました(『晋書・列伝第七・宗室伝』では「司徒」に任命されていますが、『晋書・恵帝紀』では「司空」に任命されており、『資治通鑑』は「本紀」に従っています)

 

以下、『資治通鑑』からです。

平昌公・司馬模を鎮東大将軍にして許昌を鎮守させ、王浚を驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・領幽州刺史にしました(「東夷」は鮮卑・烏桓等を指します)

 

司馬越は吏部郎・庾敳を軍諮祭酒(『資治通鑑』胡三省注によると、漢・魏の兵乱が起きた際に軍諮祭酒が置かれました)に、前太弟中庶子・胡母輔之(胡母が氏です)を従事中郎に、黄門侍郎・郭象を主簿に、鴻臚丞・阮脩を行参軍(『資治通鑑』胡三省注によると、晋の列卿はそれぞれ丞を置きました。行参軍は参軍事の下で、朝廷が任命した者は参軍事になり、諸府が任命した者は行参軍になりました。蜀漢の丞相・諸葛亮の府が置いたのが始めです)に、謝鯤を掾にしました。

 

胡母輔之が楽安の人・光逸(『資治通鑑』胡三省注によると、光氏は燕人・田光の後代です。秦末に子孫が禍を避けて移住し、「光」を氏にしました)を司馬越に推薦し、司馬越は光逸を招聘しました。

 

庾敳等は皆、虚玄(虚空玄妙。道家の思想)を貴び、世務に関心を持たず、ほしいままに酒を飲んで放誕(行動が放縦で言葉が荒唐なこと)でした。また、庾敳は殖貨(財を集めること)に厭きることなく、郭象は薄行(品行が軽薄なこと)で招権(権力を集めて弄ぶこと)を好みました。しかし、司馬越は彼等の名が世に重んじられていたため、招いて任用しました。

 

[十七] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

祁弘が関に入った時、成都王・司馬穎が武関から新野(『資治通鑑』胡三省注によると、新野県は、漢代は南陽郡に属し、晋代は義陽郡に属しました)に奔りました。

ちょうど新城公・劉弘(諡号は元公)が死んだため、司馬・郭勱が乱を為して司馬穎を迎え入れ、主に立てようとしました。

しかし、郭舒が劉弘の子・劉璠を奉じ、郭勱を討って斬りました。

 

(恵帝が)詔を発して南中郎将・劉陶に司馬穎を逮捕させました。

司馬穎は北に向かい、渡河して朝歌に奔ってから、かつての将士を集めて数百人を得ました。その後、公師藩を訪ねようとします。

 

九月、頓丘太守・馮嵩(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の頓丘は東郡に属す県でしたが、晋武帝が分けて郡にしました)が司馬穎を捕えて鄴に送りました。

范陽王・司馬虓は司馬穎を殺すのが忍びなかったため、幽囚しました。

 

公師藩が白馬(『資治通鑑』胡三省注によると、白馬県は、漢代は東郡に属し、晋代は濮陽国に属しました。唐代には滑州の治所になります)から南に渡河しましたが、兗州刺史・苟晞が公師藩を討って斬りました。

 

[十八] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

東嬴公・司馬騰の爵位を進めて東燕王とし、平昌公・司馬模の爵位を進めて南陽王にしました。

 

[十九] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、司空・范陽王・司馬虓が死にました。

 

かねてから鄴人が成都王・司馬穎に帰附していたため、司馬虓の長史・劉輿は司馬虓の死を隠して喪を発せず、部下に台使(朝廷の使者)のふりをして詔と称させ、夜の間に司馬穎に死を賜りました。併せて司馬穎の二子も殺します。

司馬穎の官属はこれ以前に皆、逃散していましたが、盧志だけは隨従しており、司馬穎の死に至っても怠ることなく、死体を引き取って納棺しました(收而殯之)

太傅・司馬越は盧志を召して軍諮祭酒にしました。

 

司馬越が劉輿を召そうとしましたが、ある人がこう言いました「劉輿は膩(垢や汚れ)のようなものなので、近づけたら人を汚すことになります(輿猶膩也,近則汚人)。」

後に劉輿が来ましたが、司馬越は疎遠にしました。

 

劉輿は秘かに天下の兵簿および倉庫、牛馬、器械の状況や水陸の形を視て、全て默識(暗記)しました。当時は軍国(軍政・国政)ともに多事で、会議の度に、長史・潘滔以下、どう対処すればいいか分かる者がいませんでしたが(莫知所対)、劉輿は機に応じて辨画(事宜を分析して計を練ること)しました。その結果、司馬越は劉輿に膝を近づけて応対するようになり(傾膝酬接)、すぐ左長史に任命して、軍国の任務を悉く委ねました。

 

劉輿は司馬越を説得し、自分の弟・劉琨を派遣して并州を鎮守させることで、北面の重(重鎮)にしようとしました。

司馬越は上表して劉琨を并州刺史とし、東燕王・司馬騰を車騎将軍・都督鄴城諸軍事にして鄴を鎮守させました(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・恵帝紀』にはありません。『晋書・列伝第七・宗室伝』を見ると、司馬騰は永嘉初(懐帝時代)に車騎将軍・都督鄴城守諸軍事になって鄴を鎮守しています)

 

[二十] 『晋書・巻四・恵帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月己巳(十七日)夜、恵帝が䴵(餅。小麦を練って作った食物。蒸䴵、湯䴵等があります)を食べて毒に中りました。

庚午(十八日)、恵帝が顕陽殿で死にました。四十八歳でした。

あるいは司馬越が鴆毒を盛ったとも言われています(或云司馬越之鴆)

 

以下、『晋書・恵帝紀』からです(既述の内容です)

恵帝が太子だった頃、朝廷は皆、太子が政事に堪えられないことを知っており、武帝も疑いを抱きました。

かつて武帝が東宮(太子宮)の官属を悉く招き、尚書の事を太子に決定させたことがありました(西晋武帝咸寧四年・278年参照)。しかし太子が答えられないため、賈妃(太子妃。賈南風)が左右の者を送って代わりに答えさせました。回答には多くの古義が引用されます。

給使・張泓が賈妃に言いました「太子の不学は陛下も知っていることです。今は事によって断じる(判断する、結論を出す)べきであり、書から引用するべきではありません(今宜以事断,不可引書)。」

賈妃はこれに従いました。張泓が草稿を準備して太子に書き写させます。

それを読んだ武帝は大いに悦び、太子の地位が安泰になりました。

恵帝が大位(帝位)に居るようになると(恵帝元康九年・299年参照)、政(政令、政策)は群下から出され、綱紀が大いに崩壊し、貨賂(賄賂)が公けに行われ、勢位の家が尊貴な地位を利用して人々を虐げ(勢位之家以貴陵物)、忠賢の路が絶たれ、讒邪が志を得て互いに薦挙しあうようになり、天下はこれを「互市(交易・売買)」と称しました。

高平の人・王沈が『釋時論』を著し、南陽の人・魯褒が『銭神論』を著し、廬江の人・杜嵩(『晋書・列伝第六十一・儒林伝(杜夷伝)』では「杜崧」です)が『任子春秋』を著しましたが、全て時世を嫌って書かれたものです(皆疾時之作也)

 

ある時、恵帝が華林園で蝦蟆(ガマ)の鳴き声を聞いて、左右の者にこう問いました「こうして鳴いているのは、官(公事)のためか、私(私事)のためか(此鳴者,為官乎,為私乎)?」

ある者が答えて言いました「官地(官府の土地。公有の地)にいる蛙は公事のために鳴いています。私地(私有地)にいる蛙は私事のために鳴いています(在官地為官,在私地為私)。」

天下が荒乱して百姓が餓死するようになっても、恵帝は「(民が飢えているのなら)なぜ肉の粥を食べないのだ(何不食肉糜)」と言いました。

恵帝の蒙蔽(暗愚)な様子は、皆このようでした。

 

[二十一] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

羊皇后は自分が太弟・司馬熾の嫂に当たるので、太后になれないのではないかと恐れ、清河王・司馬覃(元皇太子。司馬遐の子。司馬遐は恵帝の弟です)を立てようとしました。

侍中・華混が諫めて「太弟は東宮にいて既に久しく(司馬熾は恵帝永興元年・304年に皇太弟になりました)、民望(民衆の期待、希望。または民間における声望)がかねてから定まっています。今日、どうして換えることができるでしょう(今日寧可易乎)」と言い、露版(封をしていない文書)を送って急いで太傅・司馬越を召し、太弟を招いて入宮させました。

羊后も司馬覃を招いて入宮するように催促しましたが、司馬覃は尚書閤に至った時、変事を疑い、病を口実にして引き返しました。

 

癸酉(二十一日)、太弟・司馬熾が皇帝の位に即きました。これを懐帝といいます。

 

懐帝が大赦しました。

皇后・羊氏を尊んで恵皇后とし、弘訓宮に住ませました。

実母の王才人(『資治通鑑』では「王才人」ですが、『晋書・懐帝紀』は「太妃・王氏」としています。『晋書・列伝第一・后妃伝上』によると、王氏は諱(名)を媛姫といいます。出生については分かっていません(不知所出)。武帝の宮に入って「中才人」になりましたが、早死しました)を追尊して皇太后(懐王皇太后)とし、妃・梁氏を皇后に立てました。

 

懐帝は旧制を遵守するようにして、東堂(『資治通鑑』胡三省注によると、太極殿東堂です)で聴政しました。宴会の度に群官と衆務(諸政務)について論じ、経籍について考察します。

黄門侍郎・傅宣が感嘆して「今日、また武帝の世を見ることができた(今日復見武帝之世矣)」と言いました。

 

[二十二] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月壬午朔、日食がありました。

 

[二十三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

己亥(十八日)、彭城王・司馬植(司馬権の子。司馬権は司馬馗の子で、司馬馗は司馬懿の弟です)の子・司馬融を楽城県王に封じました。

 

[二十四] 『資治通鑑』からです。

太傅・司馬越が詔書によって河間王・司馬顒を召還し、司徒に任命しました。司馬顒は召還に応じます。

しかし南陽王・司馬模(司馬越の弟)がその将・梁臣を派遣して新安で迎えさせ、車上で司馬顒を扼殺(絞殺)しました。司馬顒の三子も併せて殺されます。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、新安県は、漢代は弘農郡に属し、晋代は河南郡に属しました。

『三十国』『晋春秋』は「東海王・司馬越が司馬顒を殺した」と書いていますが、『資治通鑑』は『晋書・列伝二十九(司馬顒伝)』に従っています。

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「南陽王・司馬模が河間王・司馬顒を雍谷で殺した」と書いています。

 

司馬顒の死によって「八王の乱」が終わりました。八王のうち七王(司馬亮、司馬瑋、司馬倫、司馬冏、司馬乂、司馬穎、司馬顒)が死に、司馬越が政権を掌握して長い内戦が終息しましたが、晋の政治は混乱を極めており、この後、失墜した権威を取り戻すことはできず、分裂の時代を迎えることになります。

 

[二十五] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

辛丑(二十日)、中書監・温羨を左光禄大夫・領司徒に、尚書左僕射・王衍を司空にしました。

 

[二十六] 『晋書・巻四・恵帝紀』『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

乙酉(二十八日)、孝恵皇帝(恵帝)を太陽陵に埋葬しました。

 

[二十七] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

李雄の別帥・李離が梁州を侵しました。

 

[二十八] 『資治通鑑』からです。

劉琨(并州刺史)が上党に至りました。

東燕王・司馬騰(元并州刺史)がすぐに井陘から東下します。

当時の并州は饑饉に襲われ、しかもしばしば胡寇(『資治通鑑』胡三省注によると、劉淵の党を指します)の略奪を受けていたため、郡県は自分を守ることができなくなっていました(郡県莫能自保)

そこで、州将(并州諸将)の田甄、田甄の弟・田蘭、任祉、祁済、李惲、薄盛等および吏民一万余人が司馬騰に従って冀州で穀物を求め、「乞活」と号しました。并州に残った戸数は二万も満たさず、しかも寇賊が縦横して道路が断塞(遮断)されています。

 

劉琨は上党で兵を募って五百人を得てから、転戦しながら前に進み、晋陽に至りました。

府寺(官舎)は焼毀されており、邑野(城市と郊野)は蕭條(寂寥、寂寞とした様子)としていましたが、劉琨が撫循労徠(「撫循」は安撫・慰問、「労徠」は慰労して帰順を促すことです)したおかげで、流民が少しずつ集まりました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代70 西晋懐帝(一)

 

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