西晋時代70 西晋懐帝(一)

 

今回から西晋懐帝の時代です。

 

孝懐皇帝

姓は司馬、名は熾、字は豊度といい、武帝の第二十五子です。

 

以下、『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

司馬熾は西晋武帝太熙元年(290年)に豫章郡王に封じられました(『晋書・巻三・武帝紀』と『資治通鑑』では武帝太康十年・289年の事としています)

 

恵帝の時代になると、宗室が禍乱をもたらしたが、司馬熾は純朴で自分の節度を守り(沖素自守)、門が賓客・游士を謝絶して(門絶賓游)、世事と交わることなく、専ら史籍を観賞したため(専玩史籍)、当時の世において声誉がありました(有誉于時)

 

司馬熾は、初めは散騎常侍に任命されましたが、趙王・司馬倫が帝位を簒奪した際に捕えられました(原文「見收」。あるいは罷免されただけかもしれません)

司馬倫が敗れると、射声校尉になり、昇格を重ねて車騎大将軍・都督青州諸軍事になりましたが、鎮には赴きませんでした。

 

恵帝永興元年(304年)、改めて鎮北大将軍・都督鄴城守諸軍事の官職を授かりました。

十二月丁亥(二十四日)、司馬熾が皇太弟に立てられましたが、本来は清河王・司馬覃(司馬遐の子。司馬遐は恵帝の弟です)が太子だったため、懼れて受け入れようとしませんでした。

典書令・廬陵の人・脩粛が司馬熾に言いました「二相(司馬越と司馬顒)が王室を経営しており、社稷の安寧を志しているので(志寧社稷)、儲貳の重(跡継ぎの重任)は時望(当世において人望を得ている者)に帰すべきです。親賢の挙(賢才を愛して推挙すること。または皇帝と関係が近くて賢才がある者を推挙すること)において、大王の他に誰がいるでしょう(親賢之挙,非大王而誰)。清河は幼弱で、衆心に符合していなかったので、既に東宮(太子宮)に昇ったのに、再び藩国を賛助することになったのです(太子になったのに、清河王に戻って藩国を治めることになったのです。原文「清河幼弱,未允衆心,是以既升東宮,復賛藩国」)。今は乗輿(皇帝)が播越(流亡)して二宮が久しく空になっているので(久曠)、氐羌が涇川で馬に水を飲ませ、螘衆(蟻衆。蟻のように群がる兵衆)が霸水で弓を引くことを常に恐れています(常恐氐羌飲馬於涇川,螘衆控弦於霸水)。吉辰(吉日)に及んだら、すぐ儲副(後継者の地位)に登り、上は大駕を助けて早く東京を安寧にさせ、下は黔首(民衆)の喁喁の望(切実な期待、願望。「喁喁」は仰望する様子です)に応じるべきです(宜及吉辰時登儲副,上翼大駕早寧東京,下允黔首喁喁之望)。」

司馬熾は「卿は私の宋昌である」と言って進言に従いました(宋昌は西漢時代、呂后の乱の後、文帝に即位を勧めました。西漢少帝八年(後少帝四年・高皇后八年)・前180年参照)

 

恵帝光熙元年(306年。前年)十一月庚午(十八日)、孝恵帝が死にました。

癸酉(二十一日)、皇太弟・司馬熾が皇帝の位に即き、大赦しました。

皇后・羊氏を尊んで恵皇后とし、弘訓宮に住ませました。また、実母の王氏を追尊して皇太后とし、妃・梁氏を皇后に立てました。

 

前年の即位後の出来事は既に書いたので、再述は避けます。

 

 

次回に続きます。

西晋時代71 西晋懐帝(二) 陳敏誅滅 307年(1)

 

 

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