西晋時代71 西晋懐帝(二) 陳敏誅滅 307年(1)

 

今回は西晋懐帝永嘉元年です。二回に分けます。

 

西晋懐帝永嘉元年

成漢武帝晏平二年/漢王(劉淵)元熙四年

丁卯 307年

 

[一] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月癸丑(『晋書・孝懐帝紀』は「正月癸丑朔」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年の正月は「壬子」が朔です。『資治通鑑』は「朔」を省いて「正月癸丑」としており、その場合は「正月初二日」になります)、晋懐帝が大赦して永嘉元年に改元し、三族の刑(三族を誅滅する刑)を除きました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

太傅・司馬越の姑(父の姉妹)の子に当たる吏部郎・周穆が、妹の夫・御史中丞・諸葛玫と共に司馬越を説得してこう言いました「主上(陛下)が太弟になったのは張方の意によるものです。本来は清河王が太子だったので、公は彼を立てるべきです。」

司馬越は同意しませんでした。

しかし周穆等が重ねて進言したため、司馬越は怒って彼等を斬りました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「(懐帝が)太傅・東海王・司馬越に輔政させ、御史中丞・諸葛玟を殺した(以太傅東海王越輔政,殺御史中丞諸葛玟)」と書いています。

 

[三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

二月辛巳(初一日)、東莱の人・王彌が兵を起こして叛し、青・徐二州を侵して、自ら征東大将軍を称しました。

二千石(太守)を攻めて殺し、長広太守・宋羆と東牟太守・龐伉が共に害に遇いました。

 

太傅・司馬越は公車令・東莱の人・鞠羨(『資治通鑑』胡三省注によると、公車令は衛尉に属します)を本郡(東莱郡)の太守に任命して王彌を討たせましたが、逆に王彌が鞠羨を撃って殺しました。

 

[四] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

江東の陳敏は刑政が明らかではなかったため、英俊が帰附せず、しかもその子弟は凶暴で、至る所で禍患を為していました(所在為患)。顧榮、周玘等がこれを憂います。

そこで、廬江内史・華譚が顧榮等に書を送りました「陳敏は呉・会(呉と会稽一帯)を盗拠したが、その命は朝露のように危い(命危朝露)。諸君のある者は名郡に剖符され(「剖符」は符を割くことです。帝王が諸侯や功臣を封侯したら、符を割って君臣がそれぞれ一つを保管しました。ここでは大郡の任務を任せられたことを意味します)、ある者は近臣として(朝廷に)列しながら(或剖符名郡,或列為近臣)、逆に姦人の朝(朝廷)において身を辱しめ、叛逆の党に志節を落としている(更辱身姦人之朝,降節叛逆之党)。それを恥辱だとは思わないのか(不亦羞乎)。呉の武烈父子は皆、英傑の才によって大業を継承した(武烈皇帝は孫堅の諡号です)。今、(汝等は)陳敏の凶狡(凶悪・狡猾)と七弟の頑冗(頑迷・無能)によって、桓王の高蹤(高尚な業績)を追い、大皇の絶軌(遠迹。先賢の非凡な事績)を踏もうと欲しているが(桓王(長沙桓王)は孫策、大皇(大皇帝)は孫権の諡号です)、遠くから諸賢を測るに、なお許されることではない(原文「欲躡桓王之高蹤,蹈大皇之絶軌,遠度諸賢猶当未許也」。「諸賢(諸君)は孫策や孫権の偉業を継承しようとしているが、遠くから諸賢の状況を観察したところ、そのようにできるはずがない」という意味だと思います)(既に)皇輿(皇帝の車。恵帝)が東に還って俊彦(英俊・賢才の士)が朝を満たしており、六師を挙げて建業を清めようとしている。諸賢は何の顔があってまた中州(中原)の士に会うのだ(諸賢何顔復見中州之士邪)。」

 

顧榮等は以前から陳敏を図ろうという心を持っていたため、書を得ると甚だ慚愧しました。そこで、秘かに使者を派遣して征東大将軍・劉準に報告し、兵を発して江に臨ませました。自ら内応となる約束をし、髪を切って信(証。信物)とします。

劉準は揚州刺史・劉機等を派遣し、歴陽に出て陳敏を討たせました。

 

陳敏は弟の広武将軍・陳昶に兵数万を率いて烏江に駐屯させ(『資治通鑑』胡三省注によると、広武将軍は晋が江左(江東)に遷ってから置かれました。陳敏の時に始まった将軍号のようです。烏江県は晋が置いて淮南郡に属させました。烏江の亭長が項羽を船に乗せようとした場所で、その地名が県の名になりました)、歴陽太守・陳宏を牛渚に駐屯させました。

 

陳敏の弟・陳處は顧榮等に貳心(二心)があると知り、陳敏に殺すように勧めましたが、陳敏は従いませんでした。

『晋書・列伝第矣七十(陳敏伝)』では、陳敏の弟・陳昶が顧榮等の貳心を知って陳敏に殺すように勧めています。しかし陳敏は死ぬ時、陳處に「(顧榮等を殺すべきだという進言に従わなかったため)私は卿の期待を裏切ることになってしまった(我負卿)」と言っているので(下述)、『資治通鑑』は「陳昶」を「陳處」に置き換えています(胡三省注参照)

 

陳昶の司馬・銭広は周玘と同郡の人だったため、周玘は秘かに銭広を使って陳昶を殺させ、州下(揚州の管理下)に「既に陳敏を殺した。敢えて動く者は三族を誅す」と宣言しました。

銭広は朱雀橋の南で兵を整えます。

『資治通鑑』胡三省注によると、朱雀橋は大桁ともいいます。建業宮城の南にあり、秦淮水を跨いでいました。東晋孝武帝が朱雀門を建てて上に二つの銅雀を置いたため、橋も「朱雀」を名にした、といわれていますが、胡三省注は「朱雀橋は呉からあったので、(略)晋孝武の時に始めてこの名がついたのではない」と解説しています。

 

陳敏は甘卓を派遣して銭広を討たせました。堅甲・精兵を全て甘卓に委ねます。

 

顧榮は陳敏に疑われるのではないかと憂慮したため、敢えて陳敏に会いに行きました。すると陳敏はこう言いました「卿は四方に出て鎮衛(鎮守・防衛)すべきだ。どうして私に就けるのだ(どうして私の側にいられるのだ。原文「卿当四出鎮衛,豈得就我邪」)。」

退出した顧榮は周玘と共に甘卓を説得してこう言いました「もし江東の事(陳敏の事業)が成功できるのなら、共にそれを成しましょう(若江東之事可済,当共成之)。しかし卿がこの事勢を観るに、成功する道理があると思いますか(然卿観茲事勢,当有済理不)。陳敏は常才(凡才)なうえ、政令が反覆しており、計が定まることもなく(計無所定)(しかも)その子弟はそれぞれ驕矜(傲慢)になっているので、失敗するのは必至です(其敗必矣)。それなのに我々は安然(平然)と坐してその官禄を受けています。事が敗れた日には、江西諸軍(『資治通鑑』胡三省注によると、劉準が派遣した軍を指します)(我々の)首を函(箱)に入れて洛陽に送らせ、『逆賊・顧榮、甘卓の首』と題させることになるでしょう(事敗之日,使江西諸軍函首送洛,題曰逆賊顧榮甘卓之首)。これは万世の辱(恥辱)です。」

 

甘卓は偽って病と称し、娘を迎え入れてから(甘卓の娘は陳敏の子・陳景に嫁いでいました。恵帝永興二年・305年参照)、橋を断って南岸に船を集めました(『資治通鑑』胡三省注によると、この橋は朱雀橋です。建業城は秦淮水の北にあり、甘卓は船を南岸に集めました)。その後、周玘、顧榮および前松滋侯相・丹楊(丹陽)の人・紀瞻(『資治通鑑』胡三省注によると、松滋県は廬江郡に属しましたが、東漢時代に廃され、晋代は安豊郡に属しました)と共に陳敏を攻めます。

 

陳敏は自ら一万余人を率いて甘卓を討ちました。

(甘卓の)軍人が水(川)を隔てて陳敏の衆にこう語りました「本来、陳公のために戮力(尽力)したのは、まさに顧丹楊(丹陽太守・顧榮)と周安豊(安豊太守・周玘)がいたからだ(本所以戮力陳公者,正以顧丹楊、周安豊耳)。今、どちらも離別したのに、汝等は何をしているのだ(今皆異矣,汝等何為)。」

陳敏の衆は躊躇して決断できませんでしたが(狐疑未決)、顧榮が(姿を見せて)白羽扇を揮うと、皆、潰散しました。

陳敏は単騎で北に走りましたが、追撃されて江乗(地名)で捕まります。

陳敏は嘆いて「諸人が私を誤らせたために、今日(の事態)に至ってしまった」と言い、弟の陳處に「(顧榮等を殺すべきだという進言に従わなかったため)私は卿の期待を裏切ることになってしまったが、卿は私を裏切らなかった(我負卿,卿不負我)」と告げました。

 

陳敏は建業で斬られ、三族が皆殺しにされました(夷三族)

同時に会稽等の郡も陳敏の諸弟を全て殺しました。

 

当時、平東将軍・周馥が劉準に代わって寿春を鎮守していました。

三月己未朔(『晋書・孝懐帝紀』『資治通鑑』とも「己未朔」としていますが、この月の三月は「辛亥」が朔なので、「己未」は「初九日」です。「己未」が誤りなのか、「朔」が誤りなのかはわかりません)、周馥が送った陳敏の首が京師に届きました。

朝廷は詔によって顧榮を召して侍中に任命し、紀瞻を尚書郎に任命しました。

また、太傅・司馬越が周玘を招いて参軍に任命し、陸玩を掾に任命しました。

陸玩は陸機(呉の丞相・陸遜の孫。八王の乱の際に殺されました。西晋恵帝太安二年・303年参照)の従弟です。

 

顧榮等は朝廷の招きに応じましたが、徐州に至った時、北方がますます乱れていると聞いたため、疑って進まなくなりました。

そこで司馬越が徐州刺史・裴盾に書を送って「もし顧榮等が顧望(顧慮、傍観)するようなら、軍礼(軍法)を用いて送り出せ(若榮等顧望以軍礼発遣)」と告げました。

それを知った顧榮等は懼れて逃げ帰りました。

裴盾は裴楷(魏から晋初の大臣)の兄の子で、司馬越の妃の兄に当たります。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

西陽夷が江夏を侵しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、西陽県は春秋時代・弦子の国です。漢代に県になって江夏郡に属し、晋代は弋陽郡に属しました。

東漢和帝の時代、巫蛮が離反し、投降してから江夏に遷されました。これが西陽諸蛮(西陽夷)です。

 

太守・楊珉が督将を招いて議論させました。諸将が争って方略を献じましたが、騎督・朱伺だけは発言しないので、楊珉が問いました「朱将軍はなぜ発言しないのだ(何以不言)?」

朱伺はこう答えました「諸人は舌を使って賊を撃っていますが、伺(私)はただ力を使うだけです(諸人以舌撃賊,伺惟以力耳)。」

楊珉がまた問いました「将軍は前後して賊を撃ったが、なぜ常に勝てたのだ(何以常勝)?」

朱伺が答えました「両敵(敵対する二者、または力が匹敵する二者)が対峙したら、耐え忍ぶだけです(両敵共対,惟当忍之)。彼(敵)は忍ぶことができず、私は忍ぶことができました。だから勝てたのです(彼不能忍,我能忍,是以勝耳)。」

楊珉は朱伺を称賛しました。

 

[六] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

晋懐帝が詔を発し、遡って楊太后(武帝の皇后。西晋恵帝元康元年(291年)に賈皇后によって廃され、翌年殺されました)の尊号を回復しました。

丁卯(十七日)、楊太后を改葬し、「武悼」という諡号を贈りました(楊氏は「武悼楊皇后」とよばれます)

 

[七] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

庚午(二十日)、晋が清河王・司馬覃の弟に当たる豫章王・司馬詮(『晋書・孝懐帝紀』『資治通鑑』とも「司馬詮」ですが、『晋書・列伝第三十四・武十三王伝』では「司馬銓」です)を皇太子に立てました。

司馬覃は恵帝時代に皇太子に選ばれたことがあります。司馬遐の子で、司馬遐は恵帝の弟です。

 

辛未(二十一日)、大赦を行いました。

 

[八] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

晋懐帝が自ら大政を観覧して庶事(諸事)に心を留めたため、太傅・東海王・司馬越はそれを悦ばず、かたくなに出藩(中央を出て地方の長官になること)を求めました(固求出藩)

庚辰(三十日)、司馬越が朝廷を出て許昌を鎮守しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

晋が高密王・司馬略を征南大将軍・都督荊州諸軍事に任命して襄陽を鎮守させました。

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「征東将軍・高密王・簡を征南大将軍・都督荊州諸軍事にして襄陽を鎮守させた」と書いていますが、「簡」は「略」の誤りです。また、『晋書・列伝第七・宗室伝』を見ると、司馬略は恵帝時代に安南将軍・持節・都督沔南諸軍事に任命され、その後、安北将軍・都督青州諸軍事に遷り、懐帝が即位してから、使持節・都督荊州諸軍事・征南大将軍・開府儀同三司になっています。『晋書・孝懐帝紀』は「征東将軍・高密王・簡」としていますが、いつ「征東将軍」に任命されたのか分かりません。『資治通鑑』は将軍号を省いて「高密王・略」としています。

 

南陽王・司馬模を征西大将軍・都督秦雍梁益諸軍事に任命して長安を鎮守させました。

『晋書・孝懐帝紀』は「征南将軍・南陽王・司馬模を征西大将軍・都督秦雍梁益四州諸軍事にして長安を鎮守させた」と書いていますが、『晋書・列伝第七・宗室伝』では、司馬模は恵帝時代に鎮東大将軍として許昌を鎮守しており、懐帝永嘉初に征西大将軍・開府・都督秦雍梁益諸軍事になっています。「征南将軍」になったという記述はありません。『資治通鑑』も「列伝」に従っており、前年に鎮東大将軍になっています。

 

東燕王・司馬騰を新蔡王に改封し、都督司冀二州諸軍事に任命して引き続き鄴を鎮守させました

『晋書・孝懐帝紀』は「安北将軍・東燕王・司馬騰を新蔡王に改封して都督司冀二州諸軍事に任命し、鄴を鎮守させた」と書いていますが、『資治通鑑』では、司馬騰は前年に車騎将軍・都督鄴城諸軍事に任命され、鄴の鎮守を命じられています。

『晋書・列伝第七・宗室伝』を見ると、司馬騰は恵帝時代に安北将軍になり、懐帝永嘉初に車騎将軍・都督鄴城守諸軍事に遷って鄴を鎮守しています。

どの記述が正しいのかはわかりません。

 

[十] 『晋書・第五・孝懐帝紀』はここで「并州諸郡が劉元海(劉淵)に落とされ、刺史・劉琨だけが晋陽を保った(独保晋陽)」と書いています。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

公師藩が死んでから、汲桑は逃走して苑中(茌平の牧場。西晋恵帝永興二年・305年参照)に還り、改めて衆人を集めて郡県を劫掠(襲撃・略奪)しました。自ら大将軍と称して成都王(司馬穎)の仇に報いると宣言します。

 

汲桑は石勒を前駆にしました。石勒は向かう所でことごとく戦勝します。そこで汲桑は石勒を掃虜将軍(『資治通鑑』は「討虜将軍」としていますが、『晋書・載記第四』では「掃虜将軍」なので、「掃虜将軍」に置き換えました)に任命し、鄴に進攻しました。

 

当時、鄴中の府庫は物資が全くない状態でしたが、新蔡王・司馬騰(諡号は武哀王です)の資用(資財・資金)は甚だ豊富でした。しかし司馬騰は性格が吝嗇で、振恵(施し、救済)することがなく、急に臨んでもやっと将士にそれぞれ米数升と帛丈尺(一丈余)を下賜しただけだったため、司馬騰のために働こうとする者はいませんでした(以是人不為用)

 

夏五月、汲桑が魏郡太守・馮嵩を大破し、長駆して鄴に入りました。

司馬騰は軽騎で出奔しましたが、汲桑の将・李豊に殺されます。

 

汲桑は成都王・司馬穎の棺を出して車に載せ(前年、司馬穎が死んだ時、盧志が死体を回収して納棺しました。今回、汲桑がそれを運び出して車に載せました)、事があるたびに司馬穎の棺に報告してから行動しました。

 

汲桑が鄴宮を焼き、火は旬日(十日)経っても消えませんでした。

『資治通鑑』胡三省注は「袁紹が鄴を拠点にして宮室の造営を始め、魏武帝(曹操)もそれを増やして拡大した。しかしここに至ってことごとく灰燼となった」と書いています。

 

汲桑は士民一万余人を殺し、大掠(大略奪)して去りました。延津で河を渡ってから、南に向かって兗州を撃ちます。

太傅・司馬越は大いに懼れ、苟晞(兗州刺史)と将軍・王讃に汲桑の討伐を命じました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』はこう書いています「夏五月、馬牧帥・汲桑が衆を集めて反し、魏郡太守・馮嵩を敗った。更に鄴城を落として新蔡王・司馬騰を害した。鄴宮を焼き、その火は旬日経っても消えなかった。また、前幽州刺史・石尟を楽陵で殺し、平原に侵入した(入掠平原)。山陽公・劉秋が害に遇った。」

山陽公・劉秋は東漢献帝の子孫です。献帝・劉協は魏に禅譲してから山陽公に封じられました。

劉協の死後は孫の劉康が国を継ぎ、劉康の死後は子の劉瑾が継ぎました。劉瑾の子が劉秋です。本年、劉秋が殺されて、山陽国は除かれました(魏文帝黄初元年・220年参照)

 

[十二] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

洛陽の歩広里で地面が陥没し(地陷)、二羽の鵞鳥が現れました。蒼色(青または灰色)の鵞鳥は天に向かって飛びましたが、白色の鵞鳥は飛ぶことができませんでした(有二鵝出,色蒼者沖天,白者不能飛)

 

『晋書・孝懐帝紀』はこの出来事を五月に書いていますが、『晋書・志第十八・五行中』は二月の事としており、「歩広は周代の狄泉で、盟会の地である。白は金色で、国の行(五行の色。晋は金徳の国です)である。蒼は胡の象である。(略)この後、劉元海(劉淵)や石勒が相次いで華(中華、中原)を乱した」と解説しています。

 

[十三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』はここで「建寧郡夷が寧州を攻めて落とし、死者が三千余人に上った」と書いています(前年参照)

[十四] 『資治通鑑』からです。

秦州の流民・鄧定、訇氐(『資治通鑑』胡三省注によると、訇が氏、氐が名です)等が成固を占拠し、漢中を寇掠(侵略、略奪)しました。

 

梁州刺史・張殷が巴西太守・張燕を派遣してこれを討たせました。

鄧定等は飢窘(飢餓困窮)していたので、偽って張燕に降り、更に賄賂を贈りました。張燕はこれを受け入れて緩師(進軍を緩めること)します。

その間に鄧定は秘かに訇氐を派遣して成(成漢)に救援を求めました。

成漢武帝(成主・李雄)は太尉・李離、司徒・李雲、司空・李璜を派遣し、兵二万を率いて鄧定を救援させました。李離等が張燕と戦って大破します。

張殷と漢中太守・杜孟治は城を棄てて逃走しました。

 

十余日が経ってから(積十余日)、李離等は引き還し、漢中の民を全て蜀に遷しました。

しかし漢中の人・句方と白落が吏民を率いて還り、南鄭を守りました(『資治通鑑』胡三省注によると、梁州刺史と漢中太守は共に南鄭を治所にしていました)

 

 

次回に続きます。

西晋時代72 西晋懐帝(三) 司馬睿と王導 307年(2)

 

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