西晋時代77 西晋懐帝(八) 拓拔猗盧 310年(2)

今回で西晋懐帝永嘉四年が終わります。

 

[二十三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

冬十月辛卯(初二日)、昼なのに暗くなり(昼昏)、庚子(十一日)まで続きました。

大星が西南に墜ちて音が響き渡りました。

 

[二十四] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

漢趙の河内王・劉粲、始安王・劉曜および王彌が衆四万を率いて洛陽を侵しました。

石勒が騎兵二万を指揮して大陽で劉粲と合流し、澠池で晋の監軍・裴邈を敗ります。

その後、石勒は長駆して洛川に入りました。

 

劉粲は轘轅を出て梁・陳・汝・潁一帯を掠めました(侵しました)

石勒は成皋関(『資治通鑑』胡三省注によると、河南成皋県の関です)を出ます。

 

壬寅(十三日)、石勒が倉垣で陳留太守・王讃(『資治通鑑』では「陳留太守」、『晋書・懐帝紀』では「陳留内史」です)を包囲しましたが、王瓉に敗れたため、河北に退走して文石津に駐屯しました。

 

[二十五] 『資治通鑑』からです。

劉琨が自ら劉虎と白部(鮮卑。前年参照)を討ちました。

 

劉琨は鮮卑に使者を派遣しました。辞を低く礼を厚くして拓拔猗盧を説得し、出兵を請います。

猗盧は自分の弟・弗の子・鬱律に騎兵二万を率いて劉琨を助けさせました。

(劉琨と鬱律は)劉虎と白部を破り、その営を皆殺しにしました(屠其営)

 

劉琨は猗盧と兄弟の契りを結びました。上表して猗盧を大単于に任命し、代郡に封じて代公とします(『晋書・第五・孝懐帝紀』は永嘉六年(312年)に書いています。再述します)

しかし、当時の代郡は幽州に属しており、王浚(都督東夷河北諸軍事・領幽州刺史)が同意しませんでした。

王浚は兵を派遣して猗盧を撃ちましたが、猗盧が抗戦して破りました。

ここから王浚と劉琨の間に隙(間隙、対立)が生まれました。

 

猗盧は封邑が本国から遠く離れており、民が近接していないため(去国懸遠,民不相接)、部落の一万余家を率いて雲中から雁門に入り、劉琨に陘北の地(『資治通鑑』胡三省注によると、石陘関の北の地です)を求めました。劉琨は猗盧を制すことができず、また、猗盧の勢力に頼って後援にしたいと思っていたため(欲倚之為援)、楼煩、馬邑、陰館、繁畤、崞の五県の民を陘南に遷し(『資治通鑑』胡三省注によると、「陘南」の「陘」は「陘嶺」を指します。胡三省注は五県についても解説していますが、省略します)、その地を猗盧に与えました。

ここから猗盧がますます強盛になります。

 

劉琨が使者を送って太傅・司馬越に報告し、兵を出して共に劉聡や石勒を討つように請いました。

ところが司馬越は苟晞と豫州刺史・馮嵩を忌み嫌っており(司馬越と苟晞の間隙については懐帝永嘉元年・307年参照。馮嵩との関係はよくわかりません)、後患になることを恐れたため、同意しませんでした。

結局、劉琨は猗盧の出兵を謝辞して国に帰らせました。

 

劉虎は余衆を集めて西に渡河し、朔方の肆盧川に住みました(『資治通鑑』胡三省注によると、肆盧川は朔方塞内にありました。後に拓跋氏が肆盧郡を置き、更に後に肆盧郡を秀容郡に入れました。秀容郡秀容県に肆盧城がありました)

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)は劉虎が宗室だったので、楼煩公に封じました。

 

[二十六] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

壬子(二十三日)、晋が劉琨を平北大将軍に任命し(『晋書・懐帝紀』は「平北将軍・劉琨を平北大将軍にした」と書いていますが、これ以前に、劉琨が平北将軍になったという記述はありません。『晋書・列伝第三十二(劉琨伝)』では、懐帝永嘉元年(307年)に、振威将軍になっています)、王浚(『晋書・懐帝紀』は王浚を「驃騎将軍」としていますが、王浚はこれ以前に「驃騎大将軍」になっています)を司空に任命し、鮮卑・段務勿塵の位を進めて大単于にしました(原文「進鮮卑段務勿塵為大単于」。段務勿塵は西晋恵帝太安二年・303年に遼西公に封じられていました)

 

[二十七] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

京師の饑困(飢餓・困窮)が日に日に甚だしくなったため、太傅・東海王・司馬越が(各地に)使者を派遣し、羽檄(緊急の檄文)を使って天下の兵を集め、京師に入れて援けさせることにしました。

使者が出発する時、懐帝が言いました「私のために諸征鎮に語れ。今日ならなお救うことができるが、後になったら間に合わなくなる(『晋書・懐帝紀』の原文は「為我語諸征鎮,若今日尚可救,後則無逮矣」、『資治通鑑』の原文は「為我語諸征鎮,今日尚可救,後則無及矣」です)。」

使者が派遣されましたが、結局、洛陽に至る者はいませんでした。

 

[二十八] 『資治通鑑』からです。

征南将軍・山簡が督護・王萬を派遣し、朝廷を援けるために兵を率いて京師に入らせようとしました。

王萬は涅陽(『資治通鑑』胡三省注によると、涅陽県は南陽郡に属し、涅水の陽(北)に位置します)に駐軍しましたが、王如に敗れました。

王如は勝ちに乗じて沔・漢で大掠(大略奪)し、兵を進めて襄陽に迫りました。

山簡は城に籠って守りを固めます(嬰城自守)

 

晋の荊州刺史・王澄(『資治通鑑』胡三省注によると、王澄は当時、江陵を治めていました)も自ら兵を指揮して京師を援けようとしましたが、沶口(『資治通鑑』胡三省注によると、沶水と夷水が合流する場所です)に至った時、山簡が敗れたと聞き、部衆が四散したため、引き還しました(『晋書・第五・孝懐帝紀』は九月に書いています)

 

朝議の多くが遷都して難を避けたいと欲しましたが、王衍はこれを不可とし、車や牛を売って(遷都の意思がないことを示して)衆心を安んじました(王衍以為不可,売車牛以安衆心)

 

山簡は厳嶷に逼迫されたため、襄陽から夏口に遷って駐屯しました。

 

[二十九] 『資治通鑑』からです。

石勒が兵を率いて河を渡りました。そのまま南陽に向かおうとします。

それを聞いた王如、侯脱、厳嶷等は一万の衆を派遣し、石勒を防ぐために襄城に駐屯させました。

しかし石勒がこれを撃って王如等の衆を全て捕虜にし、更に進軍して宛北に駐屯しました。

 

当時、侯脱は宛を拠点にしており、王如は穰(『資治通鑑』胡三省注によると、穰県は、漢代は南陽郡に属し、晋代は義陽郡に属しました)を拠点にしていました。

王如はかねてから侯脱と不協(不和)だったため、使者を派遣して石勒に厚い賄賂を贈り、兄弟の契りを結び、石勒を説得して侯脱を攻撃させました。

石勒が宛を攻めて攻略します。

 

厳嶷は兵を率いて宛を救おうとしましたが、間に合わず、投降しました。

石勒は侯脱を斬り、厳嶷を捕えて平陽に送り、二人の衆を全て併呑しました。

その後、南に向かって襄陽を侵し、江西の塁壁三十余カ所を攻めて攻略しました(『資治通鑑』胡三省注は「石勒は南に向かって襄陽を侵してから、漢水に沿って下り、江西を攻めて侵した」と解説しています)

 

石勒が帰還して襄城に向かった時、王如が弟の王璃を派遣して石勒を襲わせました。しかし石勒が迎撃してこれを全滅させます。

石勒はまた江西に駐屯しました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』はこう書いています。

(十月)石勒が襄城を落とし、太守・崔曠が害に遇いました。(石勒が)遂に宛に至ります。

しかし王浚が鮮卑の文鴦を派遣し、騎兵を率いて救わせたため、石勒は退きました。王浚はまた別将・王申始を派遣して汶石津で石勒を討たせ、これを大破しました。

 

『晋書・載記第四』の記述では、石勒が陳留太守・王讃を倉垣で包囲しましたが、王讃に敗れたため、退いて文石津に駐屯しました。その後、石勒は北に向かって王浚を攻めようとしましたが、ちょうど王浚の将・王甲始(『懐帝紀』の「王申始」。『資治通鑑』には記述がありません)が遼西鮮卑一万余騎を率いて津北で趙固を敗ったため、石勒も船を焼いて営を棄て、軍を率いて柏門に向かい、重門(地名)に留めていた輜重を迎え、石門に至り、河を渡り、繁昌で襄城太守・崔曠を攻めて害しました。

 

このように、『晋書・懐帝紀』と『載記』では記述が異なり、『資治通鑑』は主に『載記』に従っています。

 

[三十] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

晋の太傅・東海王・司馬越は王延等を殺してから(永嘉三年・309年参照)大いに衆望を失いました。また、胡寇(異民族の侵攻)がますます盛んになっていたため、内心で不安を抱きました(内不自安)。そこで、戎服(軍服)で入見し、石勒を討つことと、暫く兗・豫を鎮守してその地に留まることを請いました(請討石勒且鎮集兗豫)

懐帝が言いました「今は胡虜が郊畿(郊外・近畿)を侵逼(侵略・逼迫)しており、人々に固志(固い意志)がないので、朝廷・社稷は公(あなた)に頼っている(倚頼於公)。なぜ遠出して根本を孤立させることができるのだ(豈可遠出以孤根本)。」

司馬越が答えました「臣が出て、幸いにも賊を破ることができたら、国威を振るわせます。坐して困窮を待つよりもましです(臣出,幸而破賊,則国威可振,猶愈於坐待困窮也)。」

 

十一月甲戌(十五日)、司馬越が甲士四万を率いて許昌に向かいました。妃の裴氏、世子の司馬毗および龍驤将軍・李惲、右衛将軍・何倫を留め、京師を守衛して宮省(宮内)を防察(防備・監察)させます。また、潘滔を河南尹にして留事(留守中の政務)を総監させました。

 

司馬越は上表して行台(臨時に外設された尚書台)を自分に従わせました。太尉・王衍を用いて軍司とし、朝廷の賢才でかねてから声望がある者をことごとく佐吏にして、名将・勁卒(強兵)も全て自分の府に入れたため、宮省には守衛できる者がいなくなります。

荒饉が日に日に甚だしくなり、殿内に死人が交横(縦横に交錯すること。重なること)しました。しかも、盗賊が公然と横行して、枹鼓の音(警報の鼓声)が絶えません。

府寺・営署(府邸・官署や営舎)はそろって塹(濠)を掘って守りを固めました。

 

司馬越は東に向かって項に駐屯しました。馮嵩を左司馬に任命し、自ら豫州牧を兼任します(自領豫州牧)

 

竟陵王・司馬楙が懐帝に上言し、兵を派遣して何倫を襲わせましたが、克てませんでした。

懐帝は罪を司馬楙に帰しましたが、司馬楙は逃竄(逃亡)して免れました。

 

司馬楙は司馬望の子で(司馬望は司馬孚の子、司馬孚は司馬懿の弟です)、かつては東平王でしたが、懐帝が即位してから竟陵王に改封されました(『晋書・列伝第七(宗室伝)』参照)

 

[三十一] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

丁丑(十八日)、流氐(氐の流民)・隗伯等が宜都を襲い、太守・嵇晞が建鄴に奔りました。

 

[三十二] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

王申始が瓶塁で劉曜と王彌を攻めて破りました。

 

[三十三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

晋の鎮東将軍・揚州都督・周馥が、洛陽の孤危(孤立・危機)を理由に上書して、大駕(皇帝)を寿春(『晋書・懐帝紀』では「寿陽」ですが、『晋書・列伝第三十一(周馥伝)』『資治通鑑』とも「寿春」としています)に迎えて遷都するように請いました。

(それを知った)太傅・司馬越は、周馥が自分に報告せず、直接上書したことに大怒し、周馥と淮南太守・裴碩を召還しました。

しかし周馥は赴こうとせず、裴碩に命じて、兵を率いて先に進ませました。

すると裴碩は偽って司馬越の密旨を受けたと称し、周馥を襲いました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・懐帝紀』は「司馬越が裴碩に周馥を討たせた」と書いています)

結局、裴碩は周馥に敗れたため、退いて東城(『資治通鑑』胡三省注によると、東城県は、西漢は九江郡に属し、東漢は下邳国に属し、晋代は淮南郡に属しました)を守りました。

 

『晋書・懐帝紀』は、裴碩が周馥に敗れて東城に走ってから、「琅邪王・司馬睿に救援を請うた」と書いています。『資治通鑑』は翌年に書いています。

 

[三十四] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

襄陽が大疫に襲われ、死者が三千余人に上りました。

 

[三十五] 『資治通鑑』からです。

晋懐帝が詔を発し、張軌に鎮西将軍・都督隴右諸軍事を加えました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「涼州刺史・張軌に安西将軍を加えた」と書いていますが、『晋書・列伝第五十六(張軌伝)』を見ると、張軌は恵帝時代に安西将軍になっており、懐帝時代には鎮西将軍・都督隴右諸軍事になっています。『資治通鑑』は「列伝」に従っています。

 

光禄大夫・傅祗と太常・摯虞が張軌に書を送って京師の飢匱(飢餓・窮乏)を告げました。

張軌は参軍・杜勳を派遣して馬五百頭と毯布(細い毛で織った布)三万匹を献上しました。

 

[三十六] 『資治通鑑』からです。

成漢の太傅・李驤が涪城の譙登を攻めました(涪城は懐帝永嘉三年・309年に譙登に占拠されました)

 

羅尚の子・羅宇および参佐はかねてから譙登を憎んでいたため、食糧を与えませんでした。

晋の益州刺史・皮素がそれを怒り、羅宇等の罪を裁くことにしました。

 

十二月、皮素が巴郡に到りましたが、羅宇が人を送り、夜の間に皮素を殺してしまいました。

ところが、羅宇も建平都尉・暴重に殺されたため、巴郡が混乱します。

 

李驤は譙登の食糧が尽きて援軍も絶えたと知り、ますます激しく涪を攻撃しました。

士民は皆、鼠を燻して食糧とし、餓死する者が甚だ多数に上りましたが、一人も離叛しませんでした(士民皆熏鼠食之,餓死甚衆,無一人離叛者)

 

これ以前から李驤の子・李寿が譙登のもとにいましたが、譙登は李寿を帰らせました(西晋恵帝永興元年・304年に羅尚が李驤の妻・昝氏および子の李寿を獲ており、その後、李寿は譙登のもとにいました。『資治通鑑』胡三省注参照)

 

三府の官属(『資治通鑑』胡三省注によると、「三府」は平西将軍府、益州刺史府、西戎校尉府を指します。全て羅尚が兼領していました)が上表し、巴東監軍・南陽の人・韓松を益州刺史にして、巴東を治所にしました。

 

[三十七] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

以前、晋懐帝は、王彌と石勒が京畿に侵逼(侵略・逼迫)したため、征東大将軍・苟晞に詔を発して、州郡を督帥(監督・統帥)して討伐させました。

しかし、ちょうど曹嶷(王彌の別帥)が琅邪を破り、北に向かって斉の地を収め、兵勢が甚だ盛んになったため、苟純が城門を閉じて守りを固めました(懐帝永嘉元年・307年、苟晞が魏植を討伐した時、弟の苟純に青州を守らせました)

苟晞は(王彌・石勒の討伐をあきらめ)引き還して青州を救い、曹嶷と連戦して破りました。

 

[三十八] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

乙酉(『二十史朔閏表』によると、この年十二月は「己丑」が朔なので、「乙酉」はありません)、平陽の人・李洪が流人を率いて定陵に入り、乱を為しました。

 

[三十九] 『資治通鑑』からです。

この年、寧州刺史・王遜が官に就き、上表して李釗(前寧州刺史・李毅の子)を朱提太守にしました。

当時の寧州は、外は成漢に逼迫され、内には夷寇があり、城邑が丘墟(廃墟、荒地)になっていました。

王遜は粗末な服を着て野菜を食べ(悪衣菜食)、離散した者を招集し、帰順した者を慰労・安撫して、倦むことがありませんでした(労来不倦)。その結果、数年の間に州境が再び安定するようになります。

また、法を奉じない豪右(豪族)十余家を誅殺し、五苓夷がかつて乱首になったので(恵帝太安二年・303年参照)、攻撃して滅ぼしました。王遜はこうして内外を震服(震撼畏服)させました。

 

[四十] 『資治通鑑』からです。

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)は序列を越えて即位したため、嫡兄の劉恭を猜忌していました。

そこで、劉恭が寝ている間に壁に穴をあけて刺殺してしまいました(穴其壁間,刺而殺之)

 

[四十一] 『資治通鑑』からです。

漢趙の太后・単氏が死にました。

昭武帝(漢主・劉聡)は実母の張氏を尊んで皇太后にしました。

 

単氏は年が若くて美貌があったため(年少美色)、昭武帝が姦通したことがありました(原文「聡烝焉」。「烝」は姦淫を意味します)

この事を太弟・劉乂(または「劉义」。単氏の子)がしばしば諫言したため、単氏は慙恚(慚愧怨恨)して死んでしまいました。この後、昭武帝の劉乂に対する寵信がしだいに衰えましたが、劉乂は単氏の子だったため、皇太弟の地位を廃されることはありませんでした。

 

呼延后が昭武帝に言いました「父が死んだら子が継ぐというのは、古今の常道です。陛下は高祖(劉淵の廟号)の業を継承しました。太弟とは何者なのでしょうか(太弟何為者哉)。陛下の百年の後(死後)、粲の兄弟(昭武帝の子)には必ず種(子孫)が無くなります。」

昭武帝が「その通りだ(然)。ゆっくり考えよう(吾当徐思之)」と応えると、呼延氏がまた言いました「事を留めたら変(変事)が生まれます。太弟は粲の兄弟が徐々に成長するのを見て、必ず不安の志(心)を抱いています。万一、小人がその間を交構したら(小人が謀略して太弟と帝を離間させたら)、今日にも禍が発しないとは限りません(今日にも禍が起きるかもしれません。原文「未必不禍発于今日也」)。」

昭武帝は心中で納得しました。

 

一方では、劉乂の舅(母の兄弟)に当たる光禄大夫・単沖が泣いて劉乂にこう言いました「関係が遠い者が親しい者の間に入ることはできません(疎不間親)。主上は河内王に意があります(陛下には河内王・劉粲を後継者にしたいという気持ちがあります)。殿下(劉乂)はなぜこれ(皇太帝の位)を避けないのですか。」

しかし劉乂はこう言いました「河瑞(光文帝の年号)の末、主上(陛下)は自ら嫡庶の分(嫡子と庶子の分別)を思って、大位を乂(私)に譲ろうとした。しかし乂は、主上が歯長(年長)なので推奉したのだ。天下とは高祖の天下である。兄が終わって弟に及ぶことが、どうして相応しくないのだ(劉乂が皇太弟になってもおかしくはない。原文「兄終弟及,何為不可」)。粲の兄弟が成長しても、今日と同じである(「年上の劉乂が劉粲兄弟に推奉されるのは当然だ」という意味だと思います。原文「粲兄弟既壮,猶今日也」)。そもそも、子弟の間にどれだけの親疎が有るのだ(親疎詎幾)。主上にどうしてそのような意(心)があるだろう(主上寧可有此意乎)。」

 

 

次回に続きます。

西晋時代78 西晋懐帝(九) 司馬越の死 311年(1)

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