西晋時代78 西晋懐帝(九) 司馬越の死 311年(1)

 

今回は西晋懐帝永嘉五年です。四回に分けます。

 

西晋懐帝永嘉五年

成漢武帝晏平六年 玉衡元年/漢趙昭武帝光興二年 嘉平元年

辛未 311年

 

[一] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

春正月、晋懐帝が苟晞に密詔を発し、東海王・司馬越を討たせました(二月に再述します)

 

[二] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

壬申(初十四日)、晋の苟晞(青州刺史)が曹嶷に敗れたため、城を棄てて高平に奔りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、かつては梁国に高平県がありましたが、晋が高平国にしました。泗水がその西を流れており、高平山があったため、「高平」が県名になりました。山は東西十里、南北五里、高さ四里で、頂上が平らだったため、「高平山」といいました。

 

[三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』はここで、「乙未、司馬越が従事中郎将・楊瑁と徐州刺史・裴盾を派遣し、共に苟晞を撃たせた」と書いていますが、この年の正月は「己未」が朔なので、「乙未」は「二月初八日」になります。『資治通鑑』は二月に書いていますが、日付は省いています(再述します)

 

[四] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

石勒が江・漢を占拠して保有しようと謀りましたが、参軍都尉・張賓が反対しました。

ちょうど軍中を飢疫が襲い、死者が太半に及んだため、石勒は沔水を渡って江夏を侵しました。

 

癸酉(十五日)、石勒が江夏を攻略しました。

晋の太守・楊珉(中華書局『晋書・懐帝紀』校勘記によると、「楊岠」と書くこともあります)は武昌に奔りました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

乙亥(十七日)、成漢の太傅・李驤が涪城を攻略して譙登を獲ました。

また、太保・李始が巴西を攻略して文石(懐帝永嘉四年・310年参照)を殺しました。

 

そこで、成漢武帝(成主・李雄)が大赦して晏平六年から玉衡元年に改元しました。

 

譙登が成都に至ると、武帝は寛恕したいと思いましたが、譙登の詞気(言葉の気勢。または言辞と志気)が屈しなかったため、結局、譙登を殺しました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「乙亥(十七日)、李雄が涪城を攻めて落とした。梓潼太守・譙登が害に遇った」と書いています。『資治通鑑』では譙登を「梓潼内史」としています(懐帝永嘉三年・309年参照)

 

[六] 『資治通鑑』からです。

巴・蜀の流民が荊・湘の間(荊州・湘州一帯)に分布しましたが、しばしば土民に侵されて苦しめられていたため、蜀人・李驤(成漢の李驤とは別人です)が衆人を集め、楽郷を占拠して反しました。

しかし、南平太守・應詹と醴陵令・杜弢(『資治通鑑』胡三省注によると、醴陵県は長沙郡に属します)が共にこれを撃って破りました。

 

荊州刺史・王澄も成都内史・王機(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋恵帝時代に蜀が乱れたため、南郡から華容、州陵、監利の三県を分けて、更に豊都の一県を立て、この四県で成都郡を設けて成都王・司馬穎の国にしました)に李驤を討たせました。

 

李驤が投降を請いました。

ところが、王澄は偽って同意してから李驤を襲って殺し、その妻子を褒賞にしました(以其妻子為賞)。しかも、八千余人を江に沈めます。そのため、流民がますます怨忿(怨恨憤懣)しました。

 

蜀の人・杜疇等がまた反しました。

湘州参軍・馮素は蜀の人・汝班(汝が氏です。『資治通鑑』胡三省注は「商代に汝鳩と汝方がおり、晋に汝寛と汝斉がいた」と解説しています)と間隙があったため、刺史・荀眺に「巴・蜀の流民が、皆、造反を欲しています(皆欲反)」と言いました。

荀眺はこれを信じて、流民を全て誅殺しようとしました。

(それを知った)流民は大いに懼れ、四五万家が一斉に反しました。杜弢は州里で重望(厚い声望)があったため、流民が共に主に推します(『資治通鑑』胡三省注によると、杜弢は蜀郡の人で、その才学によって西州で名が知られていました)

杜弢は自ら梁益二州牧・領湘州刺史を称しました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「湘州の流人・杜弢が長沙を占拠して反した」と書いています。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

裴碩が琅邪王・司馬睿に救援を求めました(前年参照)

司馬睿は揚威将軍・甘卓等を派遣して寿春で周馥を攻撃させます。

周馥は部衆が潰えて項に奔りましたが、豫州都督・新蔡王・司馬確に捕えられ、憂憤して死にました。

司馬確は司馬騰の子です(司馬騰は司馬越の弟で、懐帝永嘉元年・307年に殺されました)

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「戊寅(二十日)、安東将軍・琅邪王・司馬睿が将軍・甘卓に寿春で鎮東将軍・周馥を攻めさせ、周馥の衆が潰えた」と書いています。

『資治通鑑』は「戊寅」を省いており、その理由を胡三省注(元は『資治通鑑考異』)が「(戊寅は)甘卓に命じた日なのか、(周馥を)攻撃した日なのか、(周馥の軍が)潰いた日なのか分からない」と書いています。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

晋の揚州刺史・劉陶が死にました。

琅邪王・司馬睿が安東軍諮祭酒・王敦を再び揚州刺史に任命し、暫くして都督征討諸軍事を加えました。

 

[九] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

庚辰(二十二日)、太保・平原王・司馬幹(司馬懿の子)が死にました。

 

『晋書・列伝第八』によると、司馬榦(司馬幹)は八十歳で死にました。この頃、劉聡(漢趙)が洛陽を侵したため(下述します)、朝廷は司馬榦に諡号を贈る余裕がありませんでした。

司馬榦には二子がいましたが、世子の司馬広は早死しました。次子の司馬永は太熙中(太熙は西晋武帝最後の年号で、290年の一年のみです)に安徳県公に封じられ、散騎常侍になりました。どちらも善士(有徳・善行の士)でしたが、難に遭って一族が絶滅しました(合門堙滅)

 

[十] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

二月、漢趙の石勒が汝南を侵しました。汝南王・司馬祐は建鄴に奔ります。

元々、汝南王は司馬懿の子・司馬亮が封じられました。司馬亮は八王の乱で命を落としましたが、死後に爵位を恢復されました(西晋恵帝元康元年・291年参照)

『晋書・列伝第二十九』によると、司馬亮には五子がいました。司馬粹、司馬矩、司馬羕、司馬宗、司馬熙といいます。

長子の司馬粹は早死したため、司馬矩が世子になりましたが、父・司馬亮と共に害され、死後、典軍将軍の官位と懐王の諡号が追贈されました。

司馬亮の爵位が恢復された時に、跡を継いで汝南王の位に即いたのが司馬祐です。司馬矩の子に当たり、諡号は威王といいます。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

石勒が新蔡を攻めて新蔡王・司馬確(諡号は荘王)を南頓で殺しました。

石勒は更に進軍して許昌を攻略し、平東将軍・王康を殺しました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

氐の苻成と隗文がまた叛し(苻成等は西晋恵帝太安二年・303年に、羅尚に帰順しました)、宜都から巴東に向かいました。

晋の建平都尉・暴重が苻成等を討伐し、これを機に韓松(益州刺史)を殺して、自ら三府(平西将軍府、益州刺史府、西戎校尉府)の政務を統領しました(自領三府事)

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

東海王・司馬越(諡号は孝献王)と苟晞に間隙が生まれてから(懐帝永嘉元年・307年参照)、河南尹・潘滔、尚書・劉望等がまた司馬越に従って、苟晞を讒言しました。

怒った苟晞は上表して潘滔等の首を求め、こう揚言(宣言)しました「司馬元超(元超は司馬越の字です)は宰相となりながら不平(不公平)であり、天下を淆乱(混乱)させた。苟道将(道将は苟晞の字です)がどうして不義を用いてそのようにさせることができるだろう(私には不義な態度をとって彼を容認することはできない。原文「苟道将豈可以不義使之」)。」

苟晞は諸州に檄文を送り、自分の功労を称えて、司馬越の罪状を述べました(自称功伐,陳越罪状)

懐帝も、司馬越が専権して多くの詔命に違えていることを嫌っており、しかも司馬越が留めた将士・何倫等が公卿を抄掠(侵犯、略奪)して公主を逼辱(逼迫、凌辱)したため、秘かに手詔(直筆の詔)を書いて苟晞に下賜し、司馬越を討たせました(『晋書・孝懐帝紀』では、正月に懐帝が密詔を発しています)

 

ところが、苟晞がしばしば懐帝と文書を往来させたため、司馬越が疑いを抱き、遊騎を派遣して成皋の間で様子を伺わせました。果たして、遊騎が苟晞の使者と詔書を獲ます。

司馬越は檄を下して苟晞の罪状を公表し、従事中郎・楊瑁を兗州刺史に任命して、徐州刺史・裴盾と共に苟晞を討たせました(『晋書・孝懐帝紀』は「正月乙未」の事としていますが、この年の正月に「乙未」はありません。「二月乙未」だとしたら、初八日になります)

 

一方の苟晞は騎兵を送って潘滔を捕えようとしました。しかし潘滔は夜の間に遁走して逃れました。

苟晞は尚書・劉曾と侍中・程延を捕えて斬りました。

 

司馬越は憂憤が原因で病を患いました。後事を王衍に託します。

三月丙子(十九日)、司馬越が項で死にました(司馬越は八王の乱で生き残った八人目の王です)

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は『資治通鑑』とは異なり、こう書いています(一部は既述の内容です)

春正月、懐帝が密詔を発し、苟晞に東海王・司馬越を討たせました。

壬申(初十四日)、苟晞が曹嶷に破れました。

乙未(恐らく誤りです。上述)、司馬越が従事中郎将・楊瑁と徐州刺史・裴盾を派遣し、共に苟晞を撃たせました。

三月戊午(朔日)(懐帝が)詔を発して東海王・司馬越の罪状を下し(宣布し)、方鎮(藩鎮。各地の軍事拠点)にこれを討つように告げました。征東大将軍・苟晞を大将軍に任命しました(『資治通鑑』では、司馬越の死後、大将軍になります。下述します)

丙子(十九日)、東海王・司馬越が死にました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、『晋春秋』でも、本年正月に懐帝が李初を派遣して、苟晞に司馬越討伐の詔を下しています。

しかし、『資治通鑑』は、もし懐帝が早くから苟晞に詔を送っており、司馬越が苟晞の使者を得ていたのなら、懐帝は安寧でいられるはずがなく、潘滔、何倫等も洛陽にいるはずがない。潘滔、何倫等が洛陽にいる間は、懐帝には司馬越討伐を明言できなかったはずだ、と判断し、「正月に懐帝が詔を送ったこと」と「乙未に司馬越が楊瑁と裴盾を送って苟晞を撃たせたこと」を二月にまとめて書いています。また、「三月戊午(朔日)に懐帝が詔を発して方鎮に討伐を命じたこと」については触れていません。

 

『資治通鑑』に戻ります。

司馬越の死は秘密にされ、喪も発せられませんでした(秘不発喪)

衆人が共に王衍を推して元帥にしようとしましたが、王衍は受け入れようとせず、襄陽王・司馬範に譲りました。しかし司馬範も辞退しました。

司馬範は司馬瑋の子です(司馬瑋は武帝の子で、楚王になりましたが、八王の乱で殺されました)

 

王衍等は共に司馬越の喪(霊柩)を奉じて東海に還り、埋葬しました。

 

何倫、李惲等は司馬越が死んだと聞いて、裴妃と世子・司馬毗を奉じて洛陽から東に走りました。城中の士民も争ってこれに従います。

 

懐帝は司馬越を追貶(死後に官爵を落とすこと)して県王とし、苟晞を大将軍・大都督・督青徐兗豫荊揚六州諸軍事に任命しました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

益州の将吏が共に暴重を殺し、上表して巴郡太守・張羅に三府の政務を代行させました(行三府事)

しかし張羅は隗文等と戦って死にました。

隗文等は吏民を駆掠(駆逐・略奪)してから、西に向かって成漢に降りました。

 

三府の文武(諸官員)は共に上表して平西司馬・蜀郡の人・王異に三府の政務を代行させ、巴郡の太守を兼任させました(行三府事・領巴郡太守)

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

以前、梁州刺史・張光が魏興で諸郡守と会合し、共に漢中への進取(進攻、進出)について謀りました。

張燕が率先して提言しました「漢中は荒敗しており、大賊と迫近(近接、隣接)しています。克復(失地奪還)の事は、英雄が現れるのを待つべきです(克復之事,当俟英雄)。」

張光は、かつて張燕が鄧定の賄賂を受けとったために漢中を失うことになり(懐帝永嘉元年・307年参照)、今また衆人の士気を損なわせたので(今復沮衆)、叱咤して連れ出させ、斬首しました(呵出,斬之)

その後、兵を治めて進戦(進軍・交戦)し、年を経てやっと漢中に至ります(累年乃得至漢中)

張光が荒廃した地を平定して人々を慰撫したため(綏撫荒残)、百姓が悦んで服しました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代79 西晋懐帝(十) 洛陽陥落 311年(2)

 

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