西晋時代79 西晋懐帝(十) 洛陽陥落 311年(2)

 

今回は西晋懐帝永嘉五年の続きです。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

夏四月、石勒が軽騎を率いて太傅・司馬越の喪(霊柩)を追撃し、苦県寧平城(『資治通鑑』胡三省注によると、苦県は陳郡に属します。寧平城は沙水の北に位置し、西漢時代は淮陽国の寧平県でした。東漢が淮陽を陳国に改め、晋が寧平県を省きましたが、故城は残っていました)で追いつきました。晋兵を大いに敗ってから、騎兵を放って晋兵を包囲し、矢を射させます(縦騎囲而射之)。晋の将士十余万人が互いに踏みつけあって山のように重なり、逃れられた者は一人もいませんでした(相践如山,無一人得免者)

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「四月戊子(朔日)、石勒が東海王・司馬越の喪を追い、東郡で追いついた。将軍・銭端が戦死し、軍が潰えた」と書いています。

しかし中華書局『晋書』校勘記は「東郡は当時既に省かれている。(中略)恐らく、「東」は「陳」の誤りである」と解説しています。

 

石勒が晋の太尉・王衍、襄陽王・司馬範、任城王・司馬済(『晋書・列伝第七・宗室伝』によると、司馬済は任城景王・司馬陵の子です。司馬陵は司馬通の子で、司馬通は司馬懿の弟です)、武陵王・司馬澹(『晋書・列伝第八・宣五王伝』によると、司馬澹の諡号は荘王です。琅邪武王・司馬伷の子で、司馬伷は司馬懿の子です)、西河王・司馬喜(『晋書・列伝第七・宗室伝』では「司馬孴」です。父は司馬隠(諡号は不明)、その父は西河繆王・司馬斌で、司馬斌の父は司馬通(司馬懿の弟)です)、梁王・司馬禧(『晋書・列伝第八・宣五王伝』によると、梁王は司馬懿の子・司馬肜が封じられましたが、死後、子がいなかったため、司馬澹の子に当たる司馬禧が跡を継ぎました。司馬禧の諡号は懐王です)、斉王・司馬超(八王の乱で死んだ斉王・司馬冏の子です)および吏部尚書・劉望、廷尉・諸葛銓、豫州刺史・劉喬、太傅長史・庾敳等を捕えました。

 

石勒が彼等を幕下に坐らせ、晋故(晋の縁故。晋が衰退した理由)について問いました。

すると、王衍が禍敗の理由を詳しく陳述し、計策を出したのは自分ではないと主張しました。しかも、自分には若い頃から宦情(仕官の希望)がなく、世事にも関与しなかったと言い、これを機に、石勒に尊号を称すように勧めて、自分が禍から逃れられることを期待しました。

しかし石勒はこう言いました「君は少壮から朝(朝廷、朝堂)に登り、名が四海を蓋い(覆い)、身が重任に居た。どうして宦情がなかったと言えるのだ(何得言無宦情邪)。天下を破壊したのは、君ではなくて誰だというのだ(破壊天下,非君而誰)。」

石勒は左右の者に命じて王衍を抱え出させました。

衆人は死を畏れ、多くが自ら(自分の責任ではないことを)陳述しました。しかし襄陽王・司馬範だけは神色(態度、表情)を儼然(厳粛な様子)とさせ、顧みて「今日の事について、何をまた議論するのだ(今日之事,何復紛紜)」と叱責しました。

石勒が孔萇に言いました「私は天下の多くの地に行ったが、このような人には会ったことがない。活かすべきではないか(吾行天下多矣,未嘗見此輩人,当可存乎)。」

孔萇が言いました「彼等は皆、晋の王公なので、最期まで我々に用いられることはありません(彼皆晋之王公,終不為吾用)。」

石勒が言いました「その通りだが、決して鋒刃を加えてはならない(雖然,要不可加以鋒刃)。」

その夜、石勒は人を送って牆(壁)を押し倒し、全て殺しました。

また、石勒は司馬越の柩(棺)を割って死体を焼き、「天下を乱したのはこの人だ。私は天下のために報いた。よって、その骨を焚いて(焼いて)天地に告げる」と言いました。

 

何倫等は洧倉(『資治通鑑』胡三省注によると、洧水の邸閣(食糧倉庫)です。洧水は俗に「汶水」と呼ばれていたので、「洧倉」は「汶倉」ともいいます)に至って石勒に遭遇し、敗戦しました。東海王の世子および宗室四十八王が全て石勒によって殺されます(皆没於勒)

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』はこの時の被害を「太尉・王衍、吏部尚書・劉望、廷尉・諸葛銓、尚書・鄭豫、武陵王・司馬澹等が皆、害に遇い、王公以下、死者は十余万人に上った。東海王の世子・司馬毗および宗室四十八王も間もなくしてまた石勒に殺された(尋又没于石勒)」と書いています。

『晋書・列伝第二十九(司馬越伝)』は「司馬毗および宗室三十六王が共に賊に殺された(俱没于賊)」と書いていますが、『資治通鑑』は「本紀」に従って「四十八王」としています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

何倫は下邳に奔り、李惲は広宗に奔りました。

裴妃は人にさらわれて売られましたが(為人所掠売)、久しくして渡江しました。

元々、琅邪王・司馬睿に建業を鎮守させたのは裴妃の意だったため、司馬睿はこれを徳とし(感謝し)、厚く存撫(安撫・慰問)を加えて自分の子・司馬沖に司馬越の後を継がせました(司馬睿は後の東晋元帝です。元帝は子の司馬沖を東海王に封じて司馬越の後を継承させました)

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

漢趙の趙固と王桑が裴盾(徐州刺史)を攻めて殺しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、裴盾は彭城にいました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「賊の王桑と冷道が徐州を落とし、刺史・裴盾が害に遇った。王桑は淮水を渡り、歴陽に至った」と書いています。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

杜弢が長沙を攻めました。

五月、荀眺(湘州刺史。『晋書・懐帝紀』では「苟眺」ですが、ここは『資治通鑑』に従って「荀眺」としました)が城を棄てて広州に奔りましたが、杜弢が追撃して捕えました。

その後、杜弢は南に向かって零・桂(零陵・桂陽)を破り、東に向かって武昌を掠め、二千石(太守)や長吏(県の官吏)で殺された者が甚だ多数いました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は正月に「湘州の流人・杜弢が長沙を占拠して反した」と書き(上述)、五月に「益州の流人・汝班と梁州の流人・蹇撫が湘州で乱を為し、刺史・苟眺を虜にした。南に向かって零・桂諸郡を破り、東に向かって武昌を掠め、安城太守(中華書局『晋書・懐帝紀』校勘紀によると、「安城」は「安成」と書くこともあります)・郭察、邵陵太守・鄭融、衡陽内史・滕育が並んで害に遇った」と書いています(五月の記述には杜弢の名が見られません)。『資治通鑑』では正月に流民が反して杜弢が主に推されています。

 

[十九] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

晋が太子太傅・傅祗を司徒に、尚書令・荀藩を司空に任命し、司空・王浚に大司馬・侍中・大都督・督幽冀諸軍事を加え、征西大将軍・南陽王・司馬模を太尉・大都督に、張軌を車騎大将軍に、安東将軍・琅邪王・司馬睿を鎮東大将軍・兼督揚江湘交広五州諸軍事にしました。

 

以前、太傅・司馬越は、南陽王・司馬模では関中を綏撫(平定・慰撫)できないと考え、上表して司馬模を召還し、司空に任命しようとしました。

しかし将軍・淳于定が司馬模に説いて召還に応じないように勧め、司馬模はこれに従いました。

 

司馬模は上表して世子・司馬保を平西中郎将とし、上邽を鎮守させました。

ところが秦州刺史・裴苞が司馬保を拒んだため、司馬模は帳下都尉・陳安に裴苞を攻撃させました。

裴苞は安定に奔り、太守・賈疋が裴苞を受け入れました。

 

[二十] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

東海王・司馬越は洛陽を出る時、河南尹・潘滔に洛陽を居守させました。

当時、大将軍・苟晞が上表して倉垣に遷都するように請い、従事中郎・劉会に船数十艘と宿衛五百人を率いさせ、穀物千斛を携行して懐帝を迎えさせました。

懐帝はこれに従おうとしましたが、公卿が躊躇し、左右の者も資財(洛陽の財産)を貪恋したため、結局、実行しませんでした(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・懐帝紀』は「諸大臣は潘滔を畏れて詔を奉じようとしなかった。しかも、宮中および黄門が資財を貪恋して(洛陽から)出ることを欲しなかった」と書いていますが、『資治通鑑』は「諸大臣は潘滔を畏れて詔を奉じようとしなかった」という一文を省いています)

 

この時(五月)に至って、洛陽が甚だしい饑困に陥りました。人々が互いに食し(人相食)、百官で流亡した者が十分の八九に上ります。

そこで懐帝が公卿を召して会議し、ついに出発しようとしましたが、警衛(『晋書・懐帝紀』では「警衛」、『資治通鑑』では「衛従(護衛、従者)」です)が備わっていないため、懐帝は手を打って嘆息し(撫手歎)、「なぜ車輿すらもないのだ(如何曾無車輿)」と言いました。

懐帝は司徒・傅祗を出して河陰に向かわせ(『資治通鑑』胡三省注によると、河陰は漢代の平陰県です。魏文帝が河陰に改名しました。洛陽の東北に位置し、河南郡に属します)、水行の備えとするために舟楫(船舶)を直して整えさせました。

朝士数十人が懐帝に導従(先導と随行。前後に従うこと)し、懐帝は歩いて西掖門を出て、銅駝街(『資治通鑑』胡三省注によると、洛陽城中の太尉と司徒の両坊(二つの官署)の間が銅駝街です。かつて、魏明帝が閶闔(城門名)の南街に銅駝を置いたことから「銅駝街」と命名されました)に至りましたが、盗賊に襲われて(為盗所掠)前に進めなくなったため、(皇宮に)還りました。

 

度支校尉・東郡の人・魏浚が流民数百家を率いて河陰の峡石(『資治通鑑』胡三省注によると、河南新安県東に千秋亭があり、亭の東に雍谷溪がありました。山路が曲がりくねっていて、険阻な石の路だったため、「峡石」とよばれました)を守っており、この時、劫掠(強奪)して得た穀麦(麦・穀物)を懐帝に献上しました。

懐帝は魏浚を揚威将軍・平陽太守に任命し、度支校尉はそのままとしました(度支如故)

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が前軍大将軍・呼延晏を派遣し、兵二万七千を率いて洛陽に侵攻させました。

呼延晏が河南(『資治通鑑』胡三省注によると、河南県は河南尹に属します。かつての周の東都・郟鄏です)に至るまでに、晋兵は前後十二敗して死者が三万余人に上りました。

始安王・劉曜と王彌、石勒もそれぞれ兵を率いて呼延晏に合流しようとしました。

 

癸未(二十七日)、劉曜等が到着する前に、呼延晏が輜重を張方の故塁に留めて(『資治通鑑』胡三省注によると、張方の故塁は洛陽の西七里の場所にありました。西晋恵帝太安二年・303年参照)先に洛陽に至りました。

甲申(二十八日)、呼延晏が平昌門(『資治通鑑』胡三省注によると、洛城南面の東から一番目の門です)を攻めました。

丙戌(三十日)、呼延晏が平昌門を落とし、更に東陽門と諸府寺を焼きました。

 

六月丁亥朔、外継(後継)が到着しないため、呼延晏は俘掠(人や物を奪うこと)して去りました。

晋懐帝が東に走るために洛水で舟を準備していましたが、呼延晏が全て焼きました。

庚寅(初四日)、晋の司空・荀藩と弟の光禄大夫・荀組が轘轅に奔りました。

辛卯(初五日)、王彌が宣陽門(『資治通鑑』胡三省注によると、洛城南面の東から四番目の門です。「謻門」ともいいます)に至りました。

壬辰(初六日)、始安王・劉曜も西明門に至りました。

丁酉(十一日)、王彌と呼延晏が宣陽門を落とし、南宮に入って太極前殿に登りました。兵を放って大いに略奪させ(縦兵大掠)、宮人(宮女)や珍宝を全て収めます。

懐帝は華林園門を出て長安に奔ろうとしました。しかし漢趙の兵が追撃して懐帝を捕え、端門に幽閉しました。

劉曜は西明門から入って武庫に駐屯しました。

 

戊戌(十二日)、劉曜が晋の太子・司馬詮と呉王・司馬晏(諡号は孝王。武帝の子です)、竟陵王・司馬楙(司馬望の子。司馬望は司馬孚の子で、司馬孚は司馬懿の弟です)、右僕射・曹馥、尚書・閭丘沖、河南尹・劉黙等を殺しました。士民の死者が三万余人に上ります(太子・司馬詮に関しては、『晋書・第六・元帝紀』は東晋元帝太興三年・320年に「平陽で害に遇った」と書いています。後述します)

劉曜は更に諸陵を発掘し、宮廟や官府を全て焼き尽くしました。

また、恵帝の羊皇后を納れて(娶って)懐帝と六璽を平陽に遷しました。

 

石勒は兵を率いて轘轅を出て、許昌に駐屯しました。

晋の光禄大夫・劉蕃と尚書・盧志が并州に奔りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、二人は劉琨を頼りました。劉蕃は劉琨の父です。

 

丁未(二十一日)、漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が大赦し、光興二年から嘉平元年に改元しました。

晋懐帝を特進・左光禄大夫とし、平阿公に封じました。

また、侍中・庾珉と王儁を光禄大夫にしました。庾珉は庾敳の兄です。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は『資治通鑑』と少し異なり、こう書いています。

六月癸未(この年の六月に「癸未」はないので、五月の誤りです。中華書局『晋書・懐帝紀』校勘記が指摘しています)、劉曜、王彌、石勒が共に洛川を侵しました。王師が頻繁に賊に敗れ、甚だ多数の死者が出ます。

庚寅(初四日)、司空・荀藩と光禄大夫・荀組が轘轅に奔り、太子左率・温畿が夜に広莫門を開いて小平津に奔りました。

丁酉(十一日)、劉曜と王彌が京師に入りました。

懐帝は華林園門を開き、河陰藕池に出て、長安に行幸しようと欲しましたが、劉曜等に追いつかれました。劉曜等は(晋の)宮廟を焚焼し、妃后を逼辱(逼迫凌辱)しました。呉王・司馬晏、竟陵王・司馬楙、尚書左僕射・和郁、右僕射・曹馥、尚書・閭丘沖、袁粲、王緄、河南尹・劉黙等が皆、害に遇い、百官士庶の死者は三万余人に上ります。

懐帝は平陽に蒙塵(皇帝が位を失って流転すること)し、劉聡が懐帝を会稽公にしました。

 

『晋書・懐帝紀』では、洛陽陥落後に和郁も殺されていますが、『晋書・列伝第十七(傅祗伝)』を見ると、洛陽陥落後、傅祗の子・傅宣が和郁と共に義兵を集めています。中華書局『晋書・懐帝紀』校勘記は、「和郁はこの時、まだ死んでおらず、恐らく、『本紀』の文には誤りがある」と解説しています。

また、『晋書・懐帝紀』では、懐帝は「会稽公」になっていますが、『晋書・載記第二』では平阿公になってから会稽郡公に改められています。『資治通鑑』胡三省注によると、『三十国春秋』と『晋春秋』でも、まずは「平阿公」になっており(但し、『晋春秋』では「平河公」です。「河」は「阿」の誤りです)、『十六国』『三十国』『晋春秋』とも、翌年二月に会稽公になっています。『資治通鑑』は諸書に従って、ここでは「平阿公」としています。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

始安王・劉曜は、王彌が自分の到着を待たず、先に洛陽に入ったため、怨みを抱きました。

(洛陽を攻略してから)王彌が劉曜に説きました「洛陽は天下の中心であり、山河が四方を塞いでいて、城池・宮室も修営(修築・造営)の必要がありません(洛陽天下之中,山河四塞,城池宮室不假修営)。平陽から遷ってここを都にするように、主上に進言するべきです(宜白主上自平陽徙都之)。」

しかし劉曜は天下がまだ安定しておらず、洛陽は四面に敵を受ける地なので、守ることができないと考え、王彌の策を用いずに洛陽を焼いてしまいました。

王彌は罵って「屠各子(「屠各の子」「屠各の若僧」。「屠各」は匈奴の部族名です。『資治通鑑』胡三省注によると、屠各は匈奴の中でも最も豪貴だったため、単于として諸種族を統率しました)には、帝王になろうという意思がないのか(屠各子,豈有帝王之意邪)」と言いました。

こうして王彌と劉曜に間隙が生まれるようになります。

王彌は兵を率いて東に向かい、項関(『資治通鑑』胡三省注によると、陳郡項県に項関がありました)に駐屯しました。

 

前司隸校尉・劉暾が王彌に説きました「今は九州が糜沸(粥が沸騰するように混乱すること)しており、群雄が競逐(天下を争うこと)しています。将軍は漢(漢趙)において不世の功を建て、また、始安王との間で互いに(和を)失いました。将来、どうやって自分の身を安んじるのでしょう(将何以自容)。東に向かって本州を拠点とし(『資治通鑑』胡三省注によると、王彌は青州東莱の人です)、ゆっくり天下の形勢を観察するべきです(不如東拠本州,徐観天下之勢)。そうすれば、上は(うまくいけば)四海を統一でき、下でも(うまくいかなくても)鼎峙(鼎立、割拠)の業を失うことはありません。これこそが上策です(上可以混壹四海,下不失鼎峙之業,策之上者也)。」

王彌は心中で納得しました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代80 西晋懐帝(十一) 石勒と王彌 311年(3)

 

2 thoughts on “西晋時代79 西晋懐帝(十) 洛陽陥落 311年(2)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です