西晋時代80 西晋懐帝(十一) 石勒と王彌 311年(3)

 

今回も西晋懐帝永嘉五年の続きです。

 

[二十三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

晋の司徒・傅祗が河陰に行台(臨時の政府機関)を建てました。当時、司空・荀藩は陽城におり、河南尹・華薈は成皋にいました。汝陰太守・平陽の人・李矩が彼等(恐らく、荀藩と華薈の二人です。あるいは、傅祗、荀藩、華薈の三人かもしれません)のために家屋を建てたり、穀物を輸送して供給しました(『資治通鑑』原文「司徒傅祗建行台於河陰,司空荀藩在陽城,河南尹華薈在成皋,汝陰太守平陽李矩為之立屋,輸穀以給之」。『晋書・列伝第三十三(李矩伝)』原文「(李矩)営護藩薈,各為立屋宇,輸穀以給之」)

華薈は華歆(東漢末から魏の名士・重臣)の曾孫です。

 

荀藩と弟の荀組、族子の中護軍・荀崧および華薈と弟の中領軍・華恆も密(地名)に行台を建てました。

四方の州鎮に檄文を伝え、琅邪王・司馬睿を推して盟主にします。

荀藩は承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって荀崧を襄城太守に、李矩を滎陽太守に、前冠軍将軍・河南の人・褚翜を梁国内史にしました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、陽城県は、漢代は潁川郡に属し、晋代は河南郡に属しました。

漢代の汝陰は汝南郡に属す県でしたが、魏が分けて汝陰郡にしました。後に廃されましたが、西晋武帝が再び郡を置きました。

密県は、漢代は河南郡に属し、晋代は滎陽郡に属しました。

 

揚威将軍・魏浚が洛北の石梁塢に駐屯していました。劉琨が承制によって魏浚に河南尹の官位を授けます(假浚河南尹)

魏浚が荀藩を訪ねて軍事について諮謀(商議、策謀)しました。荀藩は李矩も招いて会合させます。

夜、李矩が赴こうとすると、李矩の官属が皆、こう言いました「魏浚は信用できないので、夜に行くべきではありません。」

しかし李矩は「忠臣とは心を同じにするものだ。何を疑うことがあるか(何所疑乎)」と言って出発し、共に結歓(交好。交友)して去りました。

 

魏浚の族子・魏該が衆人を集めて一泉塢(『資治通鑑』胡三省注によると、一泉塢は宜陽にありました)を拠点にしました。荀藩は魏該を武威将軍にしました(『資治通鑑』胡三省注によると、魏が四十の将軍号を設けて、第十号に「威武将軍」が置かれましたが、「武威将軍」はなかったようです)

 

太子・司馬詮の弟に当たる豫章王・司馬端は、東の倉垣に奔って苟晞を頼りました。

そこで、苟晞も群官を率いて司馬端を皇太子に奉じ、行台を設けます。

司馬端は承制によって苟晞を領太子太傅・都督中外諸軍・録尚書事に任命し(『晋書・懐帝紀』は「苟晞は(司馬端)を皇太子に立てて、自ら尚書令を領した(自領尚書令)」と書いています。ここは『資治通鑑』に従いました)、官属を備え置き、倉垣から梁国の蒙城に遷って駐守しました。

 

撫軍将軍・秦王・司馬鄴(後の愍帝。『資治通鑑』では「司馬業」、『晋書』では「司馬鄴」です。以下、「司馬鄴」と書きます。愍帝時代に再述します)は南の密に奔りました。司馬鄴は呉孝王・司馬晏の子で(司馬晏は武帝の子です)、荀藩の甥に当たり、この時十二歳でした。

荀藩等は司馬鄴を奉じて更に南の許昌に向かいました。

 

前豫州刺史・天水の人・閻鼎が、密で西州の流民数千人を集めてから、郷里に還ろうとしました。

荀藩は、「閻鼎は才があるので衆を擁している」とみなして、豫州刺史に任用しました。中書令・李絚(『晋書・第五・愍帝紀』では「李昕」、『晋書・列伝第三十(閻鼎伝)』では「李暅」、『晋書・列伝第九(王浚伝)』では「李絚」です。『資治通鑑』は『王浚伝』に従っています)、司徒左長史・彭城の人・劉疇、鎮軍長史・周顗(『資治通鑑』胡三省注によると、東海王・司馬越の子・司馬毗が鎮軍将軍になり、周顗はその長史になりました)、司馬・李述等を閻鼎の参佐にします。周顗は周浚の子です。

 

[二十四] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

百姓が饑倹(飢餓・貧困)して、一斛の米が一万余銭に高騰しました(米斛万余価)

 

[二十五] 『資治通鑑』からです。

当時は海内が大いに乱れており、江東だけがやや安定していたため、中国(中原)の士民で乱を避けた者は多くが南に向かって江を渡りました。

鎮東司馬・王導が琅邪王・司馬睿に説き、賢俊を受け入れて彼等と事を共にするように勧めました。

司馬睿はこれに従い、掾属百余人を招聘します。当時の人々はこれを「百六掾」とよびました。

前潁川太守・勃海の人・刁協を軍諮祭酒に、前東海太守・王承と広陵相・卞壼を従事中郎に、江寧令・諸葛恢(『資治通鑑』胡三省注によると、呉の孫権が秣陵を建業に改めましたが、晋が呉を平定してから秣陵に戻し、更に秣陵を分けて江寧県を置きました)と歴陽参軍・陳国の人・陳頵を行参軍に、前太傅掾・庾亮を西曹掾にしました。

王承は王渾(晋初の功臣)の弟の子、諸葛恢は諸葛靚の子(諸葛靚は魏末に挙兵した諸葛誕の子です)、庾亮は庾袞(『資治通鑑』は「庾兗」としていますが、「兗」は「袞」の誤りです。西晋恵帝太安元年・302年参照)の弟の子です。

 

[二十六] 『資治通鑑』からです。

華歆の曾孫・華軼は江州刺史になりましたが、朝廷の任命を受けたのに、琅邪王・司馬睿に監督されていると思い、司馬睿の教令を受け入れないことが多々ありました。

郡県の多くが諫めましたが、華軼は「私は詔書を見たいだけだ(吾欲見詔書耳)」と言いました。

 

司馬睿は荀藩の檄文を受け取ってから、承制(皇帝の代わりに命令すること)によって官司を署置(任命・配置)し、長吏を改易(交替、変更)しました。しかし華軼と豫州刺史・裴憲は命に従いませんでした。

そこで司馬睿は、揚州刺史・王敦、歴陽内史・甘卓と揚烈将軍・廬江の人・周訪を派遣し、兵を合わせて華軼を撃たせました。華軼は兵が敗れて安成(『資治通鑑』胡三省注によると、呉末帝・孫皓が豫章、廬陵、長沙を分けて安成郡を置きました)に奔りましたが、周訪が追撃して華軼とその五子を斬りました。

裴憲は幽州に奔ります。

 

司馬睿は甘卓を湘州刺史に、周訪を尋陽太守に任命し、また、揚武将軍・陶侃を武昌太守に任命しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、呉の孫権が鄂を武昌に改めましたが、晋武帝が再び鄂県を立てて、武昌はそのままにしました(武昌と鄂の二県を並置しました)。また、呉の江夏郡(武昌県が属す郡です)を武昌郡に改めました。

尋陽県は、漢代は廬江郡に属し、江北にありましたが、西晋恵帝が廬江、武昌(と豫章)を分けて尋陽郡を置き、豫章の柴桑(江南)を治所にしました。

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

秋七月、晋の王浚が壇を設けて告類(上天に報告する祭祀)を行い、皇太子を立てました。

天下に布告し、中詔(宮中が直接発した詔)を受けたと称して、承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって封拝(封爵・任官)し、百官を備え置き、征・鎮を列ねて配置し、荀藩を太尉に、琅邪王・司馬睿を大将軍にしました。

王浚は自ら尚書令を兼任し(自領尚書令)、裴憲とその壻に当たる棗嵩を尚書に、田徽を兗州刺史に、李惲を青州刺史に任命しました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』も「秋七月、大司馬・王浚が承制によって仮に太子を立て(假立太子)、百官を置き、征鎮を配置した」と書いています。

しかし王浚が誰を皇太子に立てたのかは分かりません。

 

[二十八] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

漢趙の石勒が穀陽を侵し、晋の沛王・司馬滋が戦に敗れて害に遇いました。

 

『晋書・列伝第七・宗室伝』を見ると、沛王は司馬孚(司馬懿の弟)の子・司馬景が封じられました。諡号は順王です。司馬景の死後、子の司馬韜が立ちましたが、『宗室伝』はそれ以後の事を書いていません。本年殺された沛王・司馬滋は、司馬韜の後代だと思われます。

 

[二十九] 『資治通鑑』からです。

南陽王・司馬模が牙門・趙染に蒲坂を守備させました(『資治通鑑』胡三省注によると、当時は劉聡が平陽にいて関中を窺っていました。蒲坂は兵衝(要衝)に当たります)

ところが、趙染は馮翊太守の職を求めたのに得られなかったため、怒って部衆を従え、漢趙に降ってしまいました。

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)は趙染を平西将軍にしました。

 

八月、昭武帝が趙染と安西将軍・劉雅を派遣し、騎兵二万を率いて長安の司馬模を攻撃させました。河内王・劉粲と始安王・劉曜が大衆(大軍)を率いて後に続きます。

趙染は潼関で司馬模の兵を敗り、長駆して下邽(『資治通鑑』胡三省注によると、下邽県は、西漢は京兆に属しました。東漢は下邽を廃して鄭県に入れましたが、桓帝が再び下邽県を置きました。晋代は馮翊郡に属しました)に至りました。

 

涼州の将・北宮純が自分の衆を率いて長安を出て、漢趙に降りました。

漢趙の兵が長安を包囲します。

 

司馬模は淳于定を出して撃たせましたが、敗れました。

(長安の)倉庫が虚竭して(空虚になって)士卒も離散したため、司馬模はついに漢趙に投降します。

趙染は司馬模を河内王・劉粲に送りました。

 

九月、劉粲が司馬模を殺しました。

 

(当時は)関西を饑饉が襲い、白骨が野を覆っていました。士民で生存している者は百分の一二もいません。

漢趙昭武帝は始安王・劉曜を車騎大将軍・雍州牧に任命し、中山王に改封して長安を鎮守させました。

また、王彌を大将軍に任命して斉公に封じました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』はこう書いています「八月、劉聡が子の劉粲に長安を攻略させた。太尉・征西将軍・南陽王・司馬模が害に遇い、長安の遺人(残された者)四千余家は漢中に奔った。」

『資治通鑑』胡三省注によると、劉琨の『上丞相牋(丞相に申し上げる書)』に「平昌(司馬模はかつて平昌公になりました)が九月に禍に遇いました。世子はその時、隴右を鎮守していたので、無恙を得ました(無事でした)」と書かれており、『資治通鑑』はこれに従って、司馬模の死を九月に置いています。

 

[三十] 『資治通鑑』からです。

苟晞は驕奢で苛暴(苛酷・暴虐)でした。

前遼西太守・閻亨がしばしば苟晞を諫めましたが、逆に殺されてしまいました。閻亨は閻纘(西晋恵帝永康元年・300年参照)の子です。

 

この時、従事中郎・明預(『資治通鑑』胡三省注によると、明氏は秦の大夫・孟明の後代です。平原の望姓(声望がある氏族)になりました)は病を患っていましたが、自ら轝に乗って諫めに行きました。

苟晞が怒って言いました「私が閻亨を殺したのは、他人とは関係がないことだ。それなのに、病をおして轝に乗り、私を罵りに来たのか(我殺閻亨,何関人事,而轝病罵我)。」

明預が言いました「明公が礼を用いて預(私)を遇したので、預(私)も礼を用いて尽力するのです(明公以礼待預,故預以礼自尽)。今、明公は預(私)に対して怒りを抱いていますが、遠近が明公に対して怒りを抱いたら如何するのでしょうか(今明公怒預,其如遠近怒明公何)。桀は天子でしたが、それでも驕暴によって亡びました。人臣ならなおさらです(況人臣乎)。明公がとりあえずはこの怒りを棄てて、預(私)の言を考慮することを願います(願明公且置是怒,思預之言)。」

苟晞は従いませんでした。

そのため、衆心が苟晞から離れて怨むようになりました。

加えて疾疫や饑饉にも襲われています。

 

石勒が陽夏(『資治通鑑』胡三省注によると、陽夏県は陳郡に属します)で王讃を攻めて捕らえました。

更に蒙城を襲い、苟晞と豫章王・司馬端を捕えます。石勒は苟晞の頸に鎖をつけて左司馬にしました(鎖晞頸以為左司馬)

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)は石勒を幽州牧に任命しました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「九月癸亥(初九日)、石勒が陽夏を襲い、蒙県に至った。大将軍・苟晞と豫章王・司馬端が並んで賊に殺された(並没于賊)」と書いていますが、苟晞が殺されるのは十月の事です。
また、『晋書・列伝第三十四・武十三王伝』によると、司馬端は皇太子に立てられてから七十日で石勒に殺されました。

 

[三十一] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

王彌と石勒は、外見は互いに親しそうにしていましたが、内心では忌み嫌いあっていました。

劉暾が王彌に説いて、曹嶷の兵を招いて石勒を図るように勧めました。

そこで、王彌は書を準備し、劉暾を派遣して曹嶷を招かせ、同時に石勒にも共に青州(曹嶷がいます)に向かうように誘いました(王彌は石勒と共に青州に向かい、途中で曹嶷と合流して石勒を討つつもりです)

ところが、劉暾は東阿(『資治通鑑』胡三省注によると、東阿県は、漢代は東郡に属し、晋代は済北国に属しました)に至った時、石勒の游騎に捕えられてしまいました。石勒は秘かに劉暾を殺しましたが、王彌はこれらの動きを把握できませんでした。

ちょうど、王彌の将・徐邈と高梁が管轄する兵を率いて離れたため、王彌の兵が若干衰弱しました。

王彌は石勒が苟晞を捕えたと聞き、心中で嫌悪しましたが、書を送って石勒を祝賀し、こう伝えました「公は苟晞を獲てこれを用いました。まさに神のようです(公獲苟晞而用之,何其神也)。苟晞を公の左(左手)とし、彌(私)を公の右(右手)とすれば、天下を平定するのも難しくありません(天下不足定也)。」

石勒が張賓に言いました「王公は位が重いのに言が卑しい(低い)。私を図ろうとしているに違いない(其図我必矣)。」

そこで張賓が石勒に進言し、王彌の小衰(徐邈と高梁が外に出たため、兵力が減ったこと)に乗じて、誘い出して討ち取るように勧めました。

 

当時、石勒はちょうど乞活(西晋恵帝光熙元年・306年参照)の陳午と蓬関(『資治通鑑』胡三省注によると、蓬関は陳留浚儀県にありました)で戦っており、王彌も劉瑞と対峙して甚だ緊迫していました。

王彌が石勒に救援を求めましたが、石勒が同意していなかったため、張賓が石勒に言いました「公は常に王公の便(王公を撃つ機会)を得られないことを恐れていましたが、今、天が王公を我々に授けたのです(公常恐不得王公之便,今天以王公授我矣)。陳午は小豎(小人)なので憂いるに足りません。王公は人傑なので、早く除くべきです。」

納得した石勒は兵を率いて劉瑞を撃ち、これを斬りました。

王彌は大いに喜び、石勒は実は自分に親しんでいると信じて、疑わなくなりました。

 

冬十月、石勒が己吾(『資治通鑑』胡三省注によると、己吾県は、東漢は陳留郡に属しましたが、魏・晋になって県を省かれました。胡三省が更に詳しく解説していますが、省略します)で王彌を宴に誘いました。

王彌が赴こうとしたため、長史・張嵩が諫めましたが、王彌は聴きませんでした。

酒がまわった時(酒酣)、石勒が自ら王彌を斬り、その衆を併合しました。その後、昭武帝(漢主・劉聡)に上表して、王彌が叛逆したと称します。

 

昭武帝は大いに怒って使者を派遣し、「勝手に公輔(重臣、大臣)を殺すとは、無君の心(主君をないがしろにする心。謀反の心)があるのか(専害公輔,有無君之心)」と言って石勒を譴責しました。

しかし石勒を罰することはなく、逆に官位を加えて鎮東大将軍・督并幽二州諸軍事・領并州刺史とし、石勒の心を慰めました。

 

苟晞と王讃は秘かに謀って石勒から離叛しようとしましたが、石勒が二人と苟晞の弟・苟純を併せて殺しました。

 

石勒は兵を率いて豫州諸郡を侵しました。江に臨んで引き還し、葛陂(『資治通鑑』胡三省注によると、汝南郡鮦陽県に葛陂がありました)に駐屯します。

 

 

次回に続きます。

西晋時代81 西晋懐帝(十二) 石虎登場 311年(4)

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