西晋時代81 西晋懐帝(十二) 石虎登場 311年(4)

今回で西晋懐帝永嘉五年が終わります。

 

[三十二] 『資治通鑑』からです。

石勒はかつて人にさらわれて売られた時から(西晋恵帝永興二年・305年参照)、母・王氏と連絡が取れなくなっていました。

後に、晋の劉琨が石勒の母を得たため、従子(甥)の石虎と共に石勒に送り、これを機に石勒に書を届けてこう告げました「将軍の用兵は神のようであり、向うところに敵がいません。それなのに、天下を周流して容足の地(足を立てる場所。わずかな封地)もなく、百戦百勝しながら尺寸の功もないのは、思うに、主(正しい主)を得たら義兵となりますが、逆(逆賊)に附いたら賊衆となるからです。成敗の数(道理)は呼吸に似ているところがあり、(呼吸は)速く息を吹いたら寒くなり、ゆっくり息を吹いたら温かくなります(成敗之数,有似呼吸,吹之則寒,嘘之則温)。今、侍中・車騎大将軍・領護匈奴中郎将・襄城郡公を授けるので、将軍はこれをお受けください(将軍其受之)。」

 

石勒が返書を送りました「事功(事業・功績)とは道(方法)が異なるものであり、腐儒が知るところではない(事功殊途,非腐儒所知)。君は本朝において節を示すべきだ。私は夷人なので(晋のために)尽くすのは難しい(君当逞節本朝,吾自夷難為效)。」

石勒は劉琨に名馬や珍宝を贈り、使者を厚く礼遇して、謝辞を述べて劉琨の申し出を断りました。

『資治通鑑』胡三省注は、石勒の返書の意度(見識と度量)が雄爽なので、「これは張賓が為したに違いない(此必張賓為之)」と解説しています。

 

石虎は当時十七歳でした。極めて残忍だったため、軍中の患いになります。

石勒が母に報告してこう言いました「この児(子)は凶暴無頼です。もし軍人(軍中の将兵)が彼を殺したら、声名が惜しいので(名声を損なうことになるので)(殺される前に)自ら除いた方がましです(使軍人殺之,声名可惜,不若自除之)。」

しかし母はこう言いました「快牛(脚が丈夫な牛)が犢(子牛)の時は、多くが車を壊すものです。汝は少し我慢しなさい(快牛為犢,多能破車,汝小忍之)。」

 

石虎は成長すると弓馬に精通し、当時、その勇に並ぶ者がいませんでした(勇冠当時)

石勒は石虎を征虜将軍にしました。

 

石虎はいつも城邑を屠し(皆殺しにし)、残った者はほとんどいませんでした(每屠城邑,鮮有遺類)。しかし石虎が部衆を御したら厳格でありながら煩瑣にならず(厳而不煩)、敢えて石虎に逆らう者もなく、石虎に攻討を指示したら向かう所に前(敵)がいなかったため(所向無前)、石勒は石虎を寵任するようになりました。

 

(本年)石勒が滎陽太守・李矩を攻めましたが、李矩が撃退しました。

 

[三十三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』はここで「十一月、猗盧が太原を侵した。平北将軍(平北大将軍)・劉琨は制すことができなかったため、五県の百姓を新興に遷し、その地に(猗盧を)住ませた」と書いています。

『資治通鑑』は前年に「楼煩、馬邑、陰館、繁畤、崞の五県の民を陘南に遷し、その地を猗盧に与えた」と書いています。

 

[三十四] 『資治通鑑』からです。

以前、南陽王・司馬模が従事中郎・索綝を馮翊太守に任命しました。索綝は索靖(西晋恵帝元康九年・299年参照)の子です。

司馬模が死ぬと、索綝は安夷護軍・金城の人・麴允、頻陽令・梁粛と共に安定に奔りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、頻陽は秦厲公が置いた県で、馮翊郡に属しました。索綝等は京兆の南山から安定に奔りました(京兆は馮翊の南に位置します。索綝等は馮翊から南に向かって京兆を通り、その後、北西に向かって安定に入りました)。安夷護軍も長安に置かれていたようです。

 

当時、安定太守・賈疋と諸氐・羌は皆、漢趙に任子(人質)を送っていました。索綝等は陰密でそれ(賈疋等が送った人質)に遭遇したため、彼等を保護して臨涇に還り、賈疋と晋室の興復について謀りました。

賈疋が索綝等の意見に従ったので、索綝等は共に賈疋を推して平西将軍とし、五万の衆を率いて長安に向かいました。

『資治通鑑』胡三省注によると、陰密県は安定郡に属しました。商代の密国です。臨涇県は安定郡の治所です。

 

雍州刺史・麴特と新平太守・竺恢(『資治通鑑』胡三省注によると、麴特と竺恢は共に新平を守っていました)はどちらも漢趙に投降していませんでした。賈疋が兵を起こしたと聞き、扶風太守・梁綜と共に十万の衆を率いて合流します。梁綜は梁粛の兄です。

 

漢趙の河内王・劉粲が新豊におり、その将・劉雅と趙染に新平を攻めさせましたが、克てませんでした。

逆に索綝が新平を救いに行き、大小百戦して、劉雅等を敗退させます。

中山王・劉曜も賈疋等と黄丘(『資治通鑑』胡三省注によると、黄丘は馮翊雲陽県黄嶔山の麓です)で戦いましたが、大敗しました。

 

そこで、賈疋は漢趙の梁州刺史・彭蕩仲を襲って殺しました(『資治通鑑』胡三省注によると、彭蕩仲は安定盧水の胡人です。後に彭蕩仲の子・彭天護が漢趙の涼州刺史になるので(翌年参照)、この「梁州刺史」は「涼州刺史」が正しいようです)

 

麴特等も新豊で劉粲を撃破し、劉粲は平陽に還りました。

 

こうして賈疋等の兵勢が大いに振うようになり、関西の胡・晋(少数民族と漢族)が一斉に呼応しました(翕然響応)

 

晋の閻鼎が秦王・司馬鄴(または「司馬業」)を奉じて入関し、長安を拠点にして四方に号令しようとしました。

傅祗の子に当たる河陰令・傅暢も書を送って閻鼎に勧めたため、閻鼎が行動を起こしましたが、荀藩、劉疇、周顗、李述等は皆、山東の人だったため、西行を望まず、途中で逃走・離散しました。閻鼎が兵を派遣して追撃させましたが、(荀藩等には)追いつけず、李絚等を殺しました。

閻鼎と司馬鄴は宛から武関に向かいましたが、上洛(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の上洛は弘農郡に属す県で、洛水の上流に位置するため、「上洛」と命名されました。晋初には京兆南部に入れられましたが、武帝が京兆南部を分けて上洛郡を置きました)で盗賊に遭遇し、士卒が敗散しました。閻鼎等は余衆を集めて藍田まで進み、そこから人を送って賈疋に伝えました。賈疋が兵を派遣して司馬鄴等を迎え入れます。

 

十二月、(司馬鄴等が)雍城に入り、(賈疋が)梁綜に兵を指揮して護衛させました(この「雍城」は雍州の治所・長安を指すようです。『晋書・第五・愍帝紀』は「(司馬鄴等が)長安に到着してから、(賈疋が)輔国将軍・梁綜に助守させた」と書いています。愍帝即位時に再述します)

 

周顗は琅邪王・司馬睿に奔りました。司馬睿は周顗を軍諮祭酒に任命します。

前騎都尉・譙国の人・桓彝も乱を避けて江を渡りましたが、司馬睿の勢力が微弱なのを見て、周顗にこう言いました「私は中州(中原)が多事なので、ここに来て安全を求めた。しかしこのように単弱だったら、将来、どうやって(大事を)成就させるのだ(我以中州多故,来此求全,而単弱如此,将何以済)。」

暫くして桓彝が王導に会い、共に世事について論じました。

桓彝は退出してから周顗にこう言いました「先ほど、管夷吾(管仲)に会った。もう憂うることはなくなった(向見管夷吾,無復憂矣)。」

 

(江南に逃れた)諸名士が一緒に新亭(『資治通鑑』胡三省注によると、新亭は江寧県から十里の地にあり、江渚(長江の渚)に臨んでいました)に登って遊宴したことがありました。

宴席の途中、周顗が嘆いて言いました「風景は異ならないが、目を挙げれば江河の異(黄河と長江の違い)がある(風景不殊,挙目有江河之異)。」

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。洛都での遊宴は多くが河濱(黄河の岸)で開かれました。新亭は江渚に臨んでいるため、周顗はこう言いました。

 

周顗の言葉を聞いて、席にいた人々がお互いの顔を見て涙を流しました(因相視流涕)

すると王導が愀然(厳粛、または不快な様子)として顔色を変え、こう言いました「共に王室のために戮力(尽力)し、神州(中国、中原)を克復(奪還)すべきなのに、なぜ楚囚となって、顔を見合わせて泣いているのだ(当共戮力王室,克復神州,何至作楚囚対泣邪)。」

衆人は皆、涙を収めて謝りました。

 

陳頵が王導に書を送りました「中華が傾弊(顛覆、衰退)した理由は、まさに人材の選び方が適切ではなかったからです。白望(虚名)を先にして実事を後にし、浮華(表面上の名声)を競って駆けまわり、互いに推挙しあって、言が重い者(恐らく発言が大げさな者、発言を飾った者です)が先に顕貴になり、言が軽い者は後にまわされ、(このような状況が)波のように扇動しあうようになり、ついに陵遅(衰退)に至りました(中華所以傾弊者,正以取才失所,先白望而後実事,浮競駆馳,互相貢薦,言重者先顕,言軽者後敍,遂相波扇,乃至陵遅)。加えて荘老の俗(老荘思想を重んじる気風)があり、朝廷を傾惑(惑乱)させ、養望の者(虚名を養う者)を弘雅とみなし、政事の者(政事を行う者)を俗人とみなしたので、王職(朝廷の職)が顧みられず、法物(天子の儀仗や祭祀に使う器物。皇帝の地位を指します)を喪失することになりました(王職不卹,法物墜喪)。遠くを制したいと欲したら、まずは近くから始めるものです(夫欲制遠,先由近始)。今は弦を張り換えて、賞罰を明確にし、卓茂を密県で抜擢して、朱邑を桐郷で顕彰するべきです(原文「今宜改張,明賞信罰,拔卓茂於密県,顕朱邑於桐郷」。卓茂と朱邑に関しては下述します)。そのようにした後なら、大業を挙げることができ、中興を望むこともできます(然後大業可挙,中興可冀耳)。」

王導はこの意見に従うことができませんでした。

 

卓茂は西漢末に密令になり、東漢光武帝が即位してから、七十余歳で抜擢されました(東漢光武帝建武元年・25年参照)

朱邑は、『資治通鑑』胡三省注によると、舒県桐郷の嗇夫(郷の役人。訴訟や税収を担当しました)でしたが、廉平(清廉・公平)で苛酷にならず、愛利(他者を大切にして恵みを与えること)に基づいて行動したため、西漢宣帝に抜擢されて、官が大司農に至りました。

 

[三十五] 『資治通鑑』からです。

劉琨は招懐(民を招いて懐柔すること)に長けていましたが、撫御(慰撫・制御)は得意ではありませんでした。そのため、一日に帰順する者が数千人もいましたが、去る者も相継ぎました。

劉琨が子の劉遵を派遣して代公・猗盧に兵を請い、また、族人の高陽内史・劉希を派遣して中山で衆人を集めさせました。幽州が統括する代郡、上谷、広寧(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の広寧は上谷郡に属す県でしたが、晋武帝が分けて広寧郡を置きました)の民は多くが劉琨に帰順し、部衆が三万に達します。

 

王浚(大司馬・大都督・督幽冀諸軍事)がこれに怒って燕相・胡矩を派遣し、諸軍を督(監督)させて、遼西公・段疾陸眷と共に劉希を攻撃させました。胡矩は劉希を殺してから三郡の士女を駆略(駆逐・略奪)して去りました。

段疾陸眷は段務勿塵の子です。

 

猗盧は子の六脩を派遣しました。六脩が兵を率いて劉琨を援け、新興を守ります。

『資治通鑑』胡三省注によると、『晋春秋』は「六脩」を「利孫」としています。胡語の発音を漢字に当てはめる時に異なる文字が使われたようです。

 

劉琨の牙門将・邢延が劉琨に碧石を献上し、劉琨はそれを六脩に与えました。

すると六脩は更に邢延に碧石を要求しましたが、得られなかったため、邢延の妻子を捕えました。

怒った邢延は自分が指揮する兵を率いて六脩を襲いました。六脩は逃走します。

邢延は新興を挙げて漢趙に附き、并州を攻める兵を請いました。

 

[三十六] 『資治通鑑』からです。

晋の東夷校尉・李臻が死んだ時(李臻は龐本に殺されました。懐帝永嘉三年・309年参照)、遼東附塞(辺塞)の鮮卑・素喜連と木丸津が李臻の仇に報いることを口実にして、諸県を攻め落とし、士民を殺掠(殺戮・略奪)しました。その後、しばしば郡兵を敗り、連年、寇(侵犯、暴乱)を為すようになります。

東夷校尉・封釋はこれを討つことができず、連和を請いましたが、連・津(素喜連と木丸津)は従いませんでした。

そのため、民が失業し、慕容廆に帰す者が甚だ多数になりました。

慕容廆は彼等に食糧を与えて送り還し(稟給遣還)、留まりたいと願う者には撫存(安撫、慰労)しました。

 

慕容廆の少子・鷹揚将軍・慕容翰(『晋書・載記第九』によると、慕容翰は慕容皝の庶兄に当たり、慕容皝は慕容廆の第三子なので、『資治通鑑』が慕容翰を少子としているのは誤りです)が慕容廆にこう言いました「古より、何かを為した主君において、天子を尊んで民望に従うことなく大業を成した者はいません(自古有為之君,莫不尊天子以従民望,成大業)。今、連・津は、外に対しては龐本を名としていますが(李臻が龐本に殺されたことを口実にしていますが)、内実は災いを幸いに乱を為しています。(だから)封使君(封釋)が既に龐本を誅殺して和を請うたのに、寇暴が止みません。中原が離乱(分離、混乱)し、州師(『資治通鑑』胡三省注によると、平州の兵を指します。東夷校尉が統率していました)が振わず、遼東が荒散(荒廃、離散)して、救恤(救済、安撫)する者もいないので、単于は彼等の罪を数えてこれを討つべきです(原文「単于不若数其罪而討之而討之」。慕容廆は懐帝永嘉元年(307年)に鮮卑大単于を名乗りました)。そうすれば、上は遼東を興復させて、下は二部(素喜連と木丸津の部衆)を併呑することができ、忠義が本朝に対して彰かになり、私利(個人の利益)が我が国に帰すことになります。これは霸王の基(基礎)です。」

慕容廆は笑って「孺子(の考え)がここに及ぶことができたか(孺子乃能及此乎)」と言うと、部衆を率いて東に向かい、連・津を撃つことにしました。慕容翰を前鋒に任命します。

 

慕容翰は連・津を破って斬り、二部の衆を全て併呑しました。

慕容廆は連・津が奪った民三千余家を得ましたが、これまでに慕容廆に帰順した者と合わせて、全て郡に送り還しました。そのおかげで遼東は存続できるようになりました(遼東頼以復存)

 

封釋が病を患い、孫の封奕を慕容廆に託しました。

封釋が死んでから、慕容廆は封奕を召して会談し、(会談の内容に)悦んで、「奇士だ」と言いました。封奕に小都督の職を補わせます。

封釋の子・冀州主簿・封悛と幽州参軍・封抽も喪に駆けつけました。

慕容廆は彼等に会って「この家の者は天から降ってきた千斤の雄牛のようだ(原文「此家抎抎千斤犍也」。「抎」は「隕」に通じ、「高い所から落ちる」という意味です。「犍」は去勢した牛ですが、恐らくここは「壮健な牛」の意味です)」と言いました。

 

封悛と封抽は、道が通じていなかったため、葬儀後に還ることができず(喪不得還)、どちらも留まって慕容廆に仕えました。慕容廆は封抽を長史に、封悛を参軍にしました。

 

王浚は封釋の代わりに妻舅(妻の兄弟)に当たる崔毖を東夷校尉にしました。崔毖は崔琰(東漢末、曹操に仕えました)の曾孫です。

この後、崔毖と慕容氏は対立するようになります。

 

 

次回に続きます。

西晋時代82 西晋懐帝(十三) 漢趙昭武帝 312年(1)

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