西晋時代82 西晋懐帝(十三) 漢趙昭武帝 312年(1)

今回は西晋懐帝永嘉六年です。三回に分けます。

 

西晋懐帝永嘉六年

成漢武帝玉衡二年/漢趙昭武帝嘉平二年

壬申 312年

晋懐帝は前年、漢趙に捕えられました。晋の朝廷は皇帝不在の状態ですが、新帝がまだ即位していないため、懐帝の年号である「永嘉」が続いています。

 

[一] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

春正月、晋懐帝は平陽(漢趙の都)にいます。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

漢趙の呼延后(皇后・呼延氏)が死にました。諡は武元です。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

漢趙の鎮北将軍・靳沖と平北将軍・卜珝が并州を侵しました。

辛未(十九日)、晋陽を包囲しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

甲戌(二十二日)、漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が、(皇后・呼延氏が死んだため)司空・王育と尚書令・任顗の娘を左・右昭儀に、中軍大将軍・王彰、中書監・范隆、左僕射・馬景の娘を全て夫人に、右僕射・朱紀の娘を貴妃にし、皆に金印紫綬を授けました。

昭武帝は太保・劉殷の娘も納れよう(娶ろう)としましたが、太弟・劉乂(劉义)が強く諫めました(同姓だからです)

昭武帝が太宰・劉延年と太傅・劉景に意見を求めると、二人はこう言いました「太保は自ら劉康公の後代だと言っており、陛下とは源が異なります。これを納れて、何の害があるのでしょう(原文「太保自云劉康公之後,與陛下殊源,納之何害」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。劉康公は周の卿士で、劉(地名)を食采にしたため、それが氏になりました。劉聡は匈奴の後代で、漢帝の甥という立場から劉氏を名乗っているので、劉康公の劉氏とは起源が異なります)。」

この意見を聞いて悦んだ昭武帝は、劉殷の二人の娘である劉英と劉娥を左・右貴嬪とし、位を昭儀の上にしました。

また、劉殷の孫娘四人も納れて全て貴人とし、位を貴妃の下にしました。

この後、六劉(左・右貴嬪と四人の貴人)の寵が後宮を傾け、昭武帝はほとんど外に出なくなり、諸事は中黄門が奏決(皇帝に上奏して裁決を請うこと)するようになりました。

 

以上、昭武帝が立てた妃嬪十二人をまとめるとこうなります。

左・右貴嬪(劉英、劉娥。劉殷の娘)

左・右昭儀(王育と任顗の娘)

夫人(三人。王彰、范隆、馬景の娘)

貴妃(朱紀の娘)

貴人(四人。全て劉殷の孫娘)

 

[五] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

劉聡(漢趙昭武帝)が太原を侵しました。

 

[六] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

故鎮南府(元鎮南大将軍府。新野王・司馬歆の将軍府です。司馬歆は西晋恵帝太安二年・303年に、張昌に殺されました)の牙門将・胡亢が竟陵で衆を集めて荊土(荊州)で寇掠(侵略・略奪)を為し、自ら楚公を号しました。

胡亢は司馬歆の南蛮司馬だった新野の人・杜曾を竟陵太守にしました。

杜曾は勇が三軍に冠し、甲冑を身につけたまま水中で泳ぐこともできました。

 

[七] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

二月壬子朔、日食がありました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

石勒が葛陂(『資治通鑑』胡三省注によると、汝南郡鮦陽県に葛陂がありました)に営塁を築き、農務を監督・奨励して舟を建造し(課農造舟)、建業を攻撃しようとしました。

琅邪王・司馬睿は江南の衆を寿春に大集結させ、鎮東長史・紀瞻(鎮東大将軍・司馬睿の長史です)を揚威将軍に任命して、諸軍を都督して石勒を討たせました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』はこう書いています「癸丑(初二日)、鎮東大将軍・琅邪王・司馬睿が尚書に上書し、石勒を討つために四方に檄した(檄文を送った)。大司馬・王浚が天下に檄を移し(檄文を送り)、中詔(皇帝が直接発した詔)を授かったと称して承制(皇帝の代わりに命令を発すること)し、荀藩を太尉にした。」

『資治通鑑』は、王浚が承制して荀藩を太尉に任命したことを前年七月に書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

ちょうど大雨が降り、三カ月にわたって止みませんでした。石勒の軍中では飢疫のため死者が太半に上っています。

しかも晋軍がすぐに至ると聞いたため、石勒は将佐を集めて会議を開きました。

右長史・刁膺が、まずは司馬睿に送款し(情意を送ること、帰順の意を示すこと)、河朔の掃平(掃討・平定)によって贖罪することを求め、司馬睿の軍が退くのを待って、改めてゆっくり策を図るように請いました。

石勒は愀然長嘯しました(「愀然」は憂愁の様子、「長嘯」は長く声を発することです)

中堅将軍・夔安(『資治通鑑』胡三省注によると、中堅将軍は石勒が置いたようです。夔姓は春秋時代・夔子(夔国の主)の後代です)が、高地に移って水を避けるように請うと、石勒は「将軍はなぜ怯むのだ(将軍何怯邪)」と言いました。

孔萇等三十余将が、それぞれ兵を率いて、道を分けて夜のうちに寿春を攻め、呉将の頭を斬り、その城を占拠し、その粟(食糧)を食べ、このようにして、年内に丹陽を破って江南を定めることを請いました(要以今年破丹陽定江南)

石勒は笑って「これは勇将の計である」と言い、鎧馬一疋(匹)を下賜しました。

石勒が顧みて張賓に問いました「君の意は如何だ(於君意何如)?」

張賓が言いました「将軍は京師を攻陷(攻略)し、天子を囚執し(捕え)、王公を殺害し、妃主(妃嬪・公主)を妻略(侵犯・凌辱)しました。将軍の髪を抜いても、将軍の罪を数え尽くすには足りません(擢将軍之髪,不足以数将軍之罪)。どうしてまた臣下として(晋朝を)奉じることができるでしょう(柰何復相臣奉乎)。去年、既に王彌を殺してしまったので、ここに来るべきではありませんでした(王彌は漢趙の将として東方を守っていましたが、石勒に殺されました。王彌が生きていれば、石勒の後援になったはずです)。今、天が霖雨(長雨、大雨)を数百里にわたって降らせたのは、ここに留まるべきではないと将軍に示しているのです。鄴は三台の固(堅固な守り)があり,(『資治通鑑』胡三省注によると、鄴城の西北に三台がありました。中央は銅台で、高さが十丈あり、後に石虎が二丈を増やします。南には金雀台があり、高さは八丈、北には冰井台があり、高さは同じく八丈でした)、西は平陽(漢趙の都)に接し、山河が四塞しているので(四方を塞いでいるので)(将軍は)北に遷ってこれを占拠することで、河北を経営するべきです。河北が既に定まったら、天下には将軍の右(上)にいる者がいなくなります。晋は寿春を保って(守って)いますが、将軍が攻めて来ることを畏れているだけなので(自ら攻撃に転じる勇気はないので)、我々が去ったと彼等が聞いたら、自分を保全できたことに大喜びします。我々の後を追って襲い、我々の不利を為すような余裕がどこにあるでしょう(彼聞吾去,喜於自全,何暇追襲吾後,為吾不利邪)。将軍は輜重を北道から先発させ、将軍自ら大兵を率いて寿春に向かうべきです。輜重が遠くまで進んでから、大兵がゆっくり還れば、進退の地がないことを憂いる必要はありません(何憂進退無地乎)。」

石勒は袖をまくって髭を鼓動させ(攘袂鼓髥)、「張君の計が是である(張君計是也)!」と言うと、刁膺を譴責しました「君は輔佐となったのだから、共に大功を成すべきである。どうして急いで孤(私)に投降を勧めるのだ(柰何遽勧孤降)。この策は斬るべきであるが、かねてから君が臆病であることを知っているので、特別に寛恕する(此策応斬,然素知君怯,特相宥耳)。」

石勒は刁膺を免じて将軍とし、張賓を右長史に抜擢しました。張賓は「右侯」と号されます。

 

石勒は兵を率いて葛陂を発しました。石虎を派遣し、騎兵二千を率いて寿春に向かわせます。

石虎軍が晋の運船(輸送船)に遭遇したため、将士が争って奪おうとしましたが、紀瞻に敗れました。

紀瞻は百里にわたって奔走する石虎の兵を追い、前進して石勒の軍(本営)に至りました。しかし石勒が陣を構えて待機していたため、紀瞻は敢えて攻撃することができず、退いて寿春に還りました。

 

[九] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

汝陽王・司馬熙(汝南王・司馬亮の子。司馬亮は司馬懿の子で、八王の乱で殺されました)が石勒に害されました(司馬熙の死に関しては、『晋書・列伝第二十九』にも「永嘉末、石勒に殺された(没於石勒)」と書かれているだけで、詳細はわかりません)

 

[十] 『資治通鑑』からです。

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が晋懐帝(司馬熾。当時は漢趙の平阿公です)を会稽郡公に封じ、儀同三司を加えました。

 

昭武帝が従容(落ち着いた様子、平然とした様子)とした態度で懐帝に言いました「卿が昔、豫章王だった時、(朕が)王武子(武子は王済の字です)と共に卿を訪ね、武子が卿の前で朕を称賛した。すると卿は、『その名を聞いて久しくなる』と言い、朕に柘弓(柘木の弓)と銀硏(銀の硯)を贈った。卿はまだ覚えているか(卿頗記否)?」

懐帝が言いました「臣がどうして忘れられるでしょう(臣安敢忘之)。あの日はまだ龍顔(天子の顔)を知らなかったことを、ただただ悔やんでいます(但恨爾日不早識龍顔)。」

昭武帝が問いました「卿の家の骨肉はなぜこのように害しあったのだ(卿家骨肉何相残如此)。」

懐帝が言いました「大漢(漢趙)が天に応じて命を受けようとしていたので、陛下のために自ら互いに駆除しあったのです。これは恐らく天意であって、人によって起こされた事ではありません(此殆天意,非人事也)。そもそも、臣の家がもし武皇帝の業を奉じることができて、九族が敦睦(親善)だったら、陛下はどうしてこれを得られたでしょう(陛下何由得之)。」

昭武帝はこの回答に喜び、小劉貴人(劉殷の孫の一人)を懐帝の妻にして、「これは名公(声望がある貴族や高官)の孫である。卿は善く遇せよ」と言いました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

代公・猗盧が兵を派遣して晋陽を救いました。

三月乙未(十四日)、漢趙の兵が敗走しました。

卜珝の士卒が先に奔ったため、靳沖が自分の判断で卜珝を捕えて斬りました。

すると漢趙昭武帝は大怒して使者を派遣し、符節を持って(持節)靳沖を斬首させました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

漢趙昭武帝が、舅子(母の兄弟の子)に当たる輔漢将軍・張寔の二人の娘・張徽光と張麗光を納れて(娶って)貴人にしました。太后・張氏の意によるものです。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。この張寔は、河西の張軌の子とは別人です。張氏は劉淵の側室でしたが、劉聡を生んだため、太后になりました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

涼州主簿・馬魴が張軌に言いました「将に命じて師(兵)を出し、帝室を翼戴(補助・奉戴)するべきです。」

張軌はこれに従い、檄を関中に馳せさせて、共に秦王を尊輔(尊奉・輔佐)するように呼びかけました。

あわせて張軌はこう言いました「今、前鋒督護・宋配を派遣し、歩騎二万を率いて、直接、長安に向かわせる。西中郎将・寔(張寔)に中軍三万を率いさせ、武威太守・張琠に胡騎二万を率いさせ、相継いで出発させる(絡繹継発)。」

 

[十四] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月丙寅(十六日)、晋の征南将軍・山簡が死にました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

漢趙昭武帝が子の劉敷を渤海王に、劉驥を済南王に、劉鸞を燕王に、劉鴻を楚王に、劉勱を斉王に、劉権を秦王に、劉操を魏王に、劉持を趙王に封じました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

漢趙で魚蟹(魚や蟹。魚介類)の供給が止まったことがあったため、昭武帝がそれを理由に左都水使者・襄陵王・劉攄(『資治通鑑』胡三省注によると、襄陵県は、漢代は河東郡に属し、晋代は平陽郡に属しました)を斬りました。

また、温明と徽光の二殿を造らせたのに完成しなかったため、将作大匠・望都公・靳陵を斬りました。

 

昭武帝は汾水で漁を観て、夜暗くなっても帰らないことがありました(昏夜不帰)

中軍大将軍・王彰が昭武帝を諫めて言いました「最近、陛下の為すことを観て、臣は実に痛心疾首(痛心・頭痛)しています。今、愚民の漢に帰す志(心)はまだ専らではなく(固まっておらず)、晋を思う心がなお盛んで、劉琨が咫尺(近距離。劉琨の拠点・晋陽は、漢趙の都・平陽から遠くない場所にありました)におり、刺客が縦横しています。帝王が軽率に外出したら、一夫でも敵うものです(帝王軽出,一夫敵耳)。陛下の改往修来(過去を改めて善行を修めること)を願います。そうすれば、億兆(万民)の幸甚となります。」

昭武帝は大いに怒って王彰を斬るように命じました。しかし王夫人(王彰の娘)が叩頭して命乞いをしたため(叩頭乞哀)、王彰は斬首を免れて幽囚されました。

 

太后・張氏は、昭武帝の刑罰が度を越えているため、三日間食事をしませんでした。

太弟・劉乂(劉义)と単于・劉粲も棺を従えて直諫しました(輿櫬切諫)

しかし昭武帝は怒って「私は桀・紂だというのか。汝等は(私が)生きているのに哀哭しに来たのか(吾豈桀紂,而汝輩生来哭人)!」と言いました。

 

太宰・劉延年、太保・劉殷等、公卿・列侯百余人も、皆、冠を脱いで涕泣し、こう言いました「陛下は功が高くて徳が厚く、古から今まで、比べられる者はわずかしかいません(曠世少比)。過去における唐・虞(堯・舜)が、今日の陛下です(往也唐虞,今則陛下)。ところが、最近、わずかな不供(魚介類を供給できなかったことや宮殿を完成できなかったこと)によって、すぐに王公(劉攄と靳陵)を斬り(頃来以小小不供亟斬王公)、直言が意に逆らったため、すぐに大将(王彰)を捕らえました(直言忤旨遽囚大将)。これは臣等が心中で理解できないことです(此臣等竊所未解)。そのため、(臣等は)互いに憂慮して、寝食も忘れるほどです(故相與憂之,忘寝與食)。」

昭武帝が慨然(憤然とすること、感慨すること)として言いました「朕は以前、大いに酔っていたのだ。本心ではない(朕昨大酔,非其本心)。公等がこれを言わなかったら、朕は過失を聞くことがなかった(微公等言之,朕不聞過)。」

昭武帝はそれぞれに帛百匹を下賜し、侍中に符節を持たせて(持節)、王彰を赦す宣言をさせました「先帝は君を左右の手のように頼りとし、君は二代にわたって勲功を明らかにした(先帝頼君如左右手,著勲再世)。朕がどうしてそれを忘れられるだろう(朕敢忘之)。この度の(朕の)過ちを、君が心中に留めないことを願う(此段之過,希君蕩然)。君が心意を尽くして国を憂うることができるなら、それは朕が望むことだ(君能尽懐憂国,朕所望也)。今、君を驃騎将軍・定襄郡公に進める。後に足りないことがあった時にも、しばしばそれを匡正してもらえれば幸いだ(後有不逮,幸数匡之)。」

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

王彌が死んでから、漢趙の安北将軍・趙固と平北将軍・王桑は石勒に併呑されることを恐れ、兵を率いて平陽に帰ろうとしました。しかし軍中で食糧が欠乏し、士卒が互いに食します(士卒相食)。そこで、䂭磽津から西に(黄河を)渡りました(『資治通鑑』胡三省注によると、二人は河北の郡県を侵しました)

 

晋の劉琨(并州刺史)が兄の子・劉演を魏郡太守にして鄴を鎮守させました。

王桑は劉演に邀撃されることを恐れたため、長史・臨深(『資治通鑑』胡三省注によると、臨姓は大臨の後代です。大臨は顓頊の八才子の一人です)を質(人質)として劉琨に送ります。

劉琨は趙固を雍州刺史に、王桑を豫州刺史にしました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

晋の安定太守・賈疋等が長安を包囲して数カ月が経ちました。

漢趙の中山王・劉曜は連戦して全て敗れたため、士女八万余口を駆掠(駆逐・略奪)して平陽に奔りました。

秦王・司馬鄴(または「司馬業」)が雍から長安に入ります。

 

五月、漢趙昭武帝が劉曜の位を落として龍驤大将軍・行大司馬にしました。

 

昭武帝は河内王・劉粲に三渚の傅祗を攻撃させ(『資治通鑑』胡三省注によると、傅祗は盟津の小城に駐屯していました。盟津は河平侯祠に二渚があり、また、淘渚があったため、「三渚」と呼ばれていました)、右将軍・劉参に懐の郭黙を攻撃させました。

ちょうど傅祗が病死したため、城が陥落しました。

劉粲は傅祗の子や孫と士民二万余戸を併せて平陽に遷しました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代83 西晋懐帝(十四) 石勒北進 312年(2)

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