西晋時代83 西晋懐帝(十四) 石勒北進 312年(2)

今回は西晋懐帝永嘉六年の続きです。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

六月、漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が貴嬪・劉英を皇后に立てようとしましたが、張太后が貴人・張徽光を立てるように欲したため、昭武帝はやむなくこれに同意しました。

劉英は暫くして死にました。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

漢趙の大昌公・劉殷(諡号は文献公です。『資治通鑑』胡三省注によると、劉淵(光文帝)が漢代の蒲子県に大昌郡を置きました)が死にました。

 

劉殷は相になってから、皇帝の尊厳を犯してまで強く意見に逆らうことはありませんでしたが(不犯顔忤旨)、事象に基いて意見を進め、甚だ多くの益をもたらしました(因事進規,補益甚多)

昭武帝が群臣と政事を議しても、劉殷はいつも是非とするところがありませんでしたが(賛成も反対もしませんでしたが)、群臣が退出してから、劉殷だけが留まり、昭武帝のために道理を詳しく述べて、事宜を討議しました(敷暢條理,商榷事宜)。それに対して、昭武帝は従わないことがありませんでした。

劉殷は常に子や孫を戒めてこう言っていました「主君に仕えたら幾諫(婉曲に諫めること)に務めるべきである(事君当務幾諫)。凡人でもその過失を面前で叱責してはならないのだから、万乗(天子)に対してならなおさらだ(凡人尚不可面斥其過,況万乗乎)。幾諫の功(功績、効果)は犯顔(尊厳を犯すこと。強い諫言)と異ならないが、主君の過失を明らかにしないので、その点で(犯顔よりも)優れている(夫幾諫之功,無異犯顔,但不彰君之過,所以為優耳)。」

 

劉殷は官が侍中・太保・録尚書に及び、「剣履上殿(剣を帯びて履物を履いたまま上殿できること)」「入朝不趨(入朝の際、小走りになる必要がないこと)」「乗輿入殿(輿に乗って入殿できること)」の特権を下賜されました。

しかし劉殷は公卿の間にいる時、常に恂恂(温順かつ慎重な様子)として卑譲の色(謙虚な姿)がありました。そのため、驕暴(驕慢暴虐)の国にいてもその富貴を保って令名(美名)を失うことなく、長寿を全うすることができました(以寿考自終)

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が河間王・劉易を車騎将軍に、彭城王・劉翼を衛将軍に任命し、並んで兵を管理して宿営させました(並典兵宿衛)

また、高平王・劉悝を征南将軍にして離石を鎮守させ、済南王・劉驥を征西将軍にして、西平城を築いて住ませました(『資治通鑑』胡三省注によると、西平城は平陽西に造られました)

魏王・劉操を征東将軍にして蒲子を鎮守させました。

 

[二十二] 『資治通鑑』からです。

趙固と王桑が懐から漢趙に使者を送り、自分達を迎え入れるように求めました。

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)は鎮遠将軍・梁伏疵を派遣し、兵を率いて二人を迎えさせました。しかし梁伏疵が至る前に、長史・臨深と将軍・牟穆が衆一万を率いて趙固等に叛し、劉演(晋の魏郡太守)に帰順しました。

趙固は梁伏疵に従って西に向かいました(『資治通鑑』の原文は「隨疵而西」なので、「梁伏疵」は「疵」が名かもしれません)。王桑は自分の部衆を率いて東の青州に奔りましたが、趙固が兵を派遣し、追撃させて曲梁(『資治通鑑』胡三省注によると、曲梁県は広平郡に属します。曹魏が広平郡を置き、曲梁城を治所にしました)で殺しました。

王桑の将・張鳳が余衆を率いて劉演に帰順しました。

 

昭武帝は趙固を荊州刺史・領河南太守に任命し、洛陽を鎮守させました。

 

[二十三] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。

秋七月、歳星、熒惑、太白が牛斗(牛宿と斗宿。星座名)に集まりました。

 

[二十四] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

石勒が葛陂から北に向かっていましたが、通過した地が全て守りを固めて田野に何も残していなかったため(堅壁清野)、虜掠(略奪)しようにも獲るものがなく、軍中が甚だしく飢えて、士卒が互いに食すようになりました(士卒相食)

東燕(『資治通鑑』胡三省注によると、東燕城は酸棗県東にあり、晋代は濮陽国に属しました。『中国歴史地図集(第三冊)』を見ると、「燕県(東燕)」となっています)に至った時、汲郡の人・向冰が数千の衆を集めて枋頭(『資治通鑑』胡三省注によると、淇水が黎陽に至って黄河に入りました。遮害亭の西十八里の地です。東漢末、曹操が川口に大枋木(大木材)で堤防を造り、淇水を止めて東の白溝に流れさせ、漕運(水運)を通しました。そのため、当時の人々はこの地を「枋頭」と呼びました)の営壁を守っていると聞きました。

石勒は黄河を(北に)渡ろうとしていましたが、(河北の)向冰に邀撃されることを恐れました。

すると、張賓がこう言いました「向冰の船は全て瀆中(川の中)にあり、岸に上っていないと聞きました(原文「聞冰船尽在瀆中未上」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。使わない船は運びやすくするため、岸に上げて乾かし、軽くしました。当時、向冰の船はまだ川に置いたままでした)。軽兵を派遣して間道(小路)から(船を)襲い取り、それを使って大軍を渡らせるべきです。大軍が既に渡ったら、向冰は必ず擒にできます。」

 

この月(七月)、石勒が支雄と孔萇を派遣し、木を縛って筏を造り、秘かに文石津から渡って船を奪わせました。

石勒も兵を率いて棘津から河を渡り(『資治通鑑』胡三省注によると、河水が東燕県故城の北を流れました。そこが棘津です)、向冰を撃って大破しました。向冰の資儲(物資、蓄積)をことごとく得て、軍勢が再び振うようになります。

その後、石勒は長駆して鄴に至りました。

 

劉演が三台を保って守りを固めました。

臨深、牟穆等はまたその衆を率いて石勒に降りました。

 

石勒の諸将は三台の攻撃を欲しましたが、張賓がこう言いました「劉演は弱いとはいえ、その衆はなお数千もおり、三台も険固なので、これを攻めても突然容易に攻略することはできません(攻之未易猝拔)(逆に)これを捨てて去れば、彼等は自ら潰えます(捨而去之,彼将自潰)。今は王彭祖や劉越石こそが公の大敵です(彭祖は王浚の字、越石は劉琨の字です)。先にこれらを取るべきであり、劉演は顧みるに足りません。そもそも、天下が饑乱しており、明公は大兵を擁していますが、各地を周遊して他郷に寄居し(遊行羈旅)、人に定志がありません(人々の心が安定していません)。これは万全を保って四方を制す方法ではありません(非所以保万全,制四方也)。利便のある地を択んでそこを占拠し、広く糧儲(食糧の蓄え)を集め、西の平陽(漢趙の都)を奉じて幽・并(幽州は王浚、并州は劉琨です)を図るべきです(不若択便地而拠之,広聚糧儲,西稟平陽以図幽并)。これが霸王の業です。邯鄲と襄国(『資治通鑑』胡三省注によると、邯鄲県は、漢代は趙国に属し、晋代は広平に属しました。襄国県は秦代の信都で、項羽が襄国に改めました。漢代は趙国に属し、晋代は広平に属しました。信都県は別の地に置かれ、西漢は信都国に、東漢は安平国に属しました)は形勝の地なので、一つを択んで都とすることを請います。」

石勒は「右侯の計が正しい(右侯之計是也)」と言い、兵を進めて襄国を占拠しました。

 

張賓がまた石勒に言いました「今、我々がここに居るのは、彭祖と越石が深く忌みしていることです。恐らく、(我々の)城壁や塹壕が堅固になっておらず、資儲(物資貯蓄)も広くなかったら(集まっていなかったら)、二寇が互いに至ります(恐城塹未固,資儲未広,二寇交至)。速やかに野穀(田野の穀物)を収め、あわせて使者を派遣して平陽に至らせ、この地を鎮守した意図を詳しく陳述するべきです(宜亟收野穀,且遣使至平陽,具陳鎮此之意)。」

石勒はこの意見に従い、諸将に命じて分かれて冀州を攻撃させました。郡県壁塁の多くが投降し、穀物を襄国に輸送します。

同時に石勒は漢趙昭武帝(漢主・劉聡)に上表しました。

昭武帝は石勒を都督冀幽并營四州諸軍事・冀州牧に任命し、爵位を進めて上党公に封じました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、当時、營州はまだありません。晋武帝が昌黎、遼東、玄菟、帯方、楽浪等の郡国を分けて平州を置いたので、「冀幽并營四州」は「冀幽并平四州」の誤りかもしれません。

 

[二十五] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

晋の平北大将軍・劉琨(『晋書・懐帝紀』は「平北将軍・劉琨」としていますが、「平北大将軍」が正しいはずです)が州郡に檄を移し、十月に平陽で集合して漢趙を撃つ約束をしました。

 

劉琨はかねてから奢豪で、声色を好みました。

河南の人・徐潤は音律によって劉琨の幸(寵)を得て、晋陽令に任命されました。

徐潤は驕恣で、政事に干預したため、護軍・令狐盛(令狐が氏です)がしばしば意見を述べ、更には劉琨に徐潤を殺すように勧めました。しかし劉琨はこれに従わず、逆に徐潤が劉琨に対して令狐盛を讒言したため、劉琨は令狐盛を捕えて殺してしまいました。

劉琨の母が言いました「汝は豪傑を駕御して(動かして)遠略を拡大することができず、専ら自分より勝る者を除いているので、必ず禍が私にも及びます(汝不能駕御豪傑以恢遠略,而専除勝己,禍必及我)。」

 

令狐盛の子・令狐泥が漢趙に奔って詳しく虚実(状況、情報)を述べました。

漢趙昭武帝(漢主・劉聡)は大いに喜び、河内王・劉粲と中山王・劉曜を派遣して、兵を率いて并州に侵攻させました。令狐泥を郷導(先導)にします。

 

それを聞いた劉琨は、東に出て常山と中山で兵を集め、その部将・郝詵と張喬に兵を率いて劉粲を拒ませ、同時に使者を送って代公・猗盧に救援を求めました。

しかし郝詵と張喬は共に敗死しました。

劉粲と劉曜が虚に乗じて晋陽を襲い、太原太守・高喬と并州別駕・郝聿が晋陽を挙げて漢趙に降りました。

 

『晋書・列伝第三十二(劉琨伝)』は、「ちょうど上党太守・襲醇(龐淳。西晋懐帝永嘉三年・309年参照)が劉聡に降り、雁門烏丸も反したため、劉琨が自ら精兵を率いて出禦した(出撃して防いだ)。劉聡は子の劉粲および令狐泥を派遣し、虚に乗じて晋陽を襲わせた」と書いています。

しかし、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、劉琨の『上太子牋(太子に送る書)』には「劉聡が七月十六日に再び計を決して死を送りに来たので(自ら死にに来たので。原文「復決計送死」)、臣はすぐに自ら東下し、中山、常山の卒を率いて、更に楽平、上党の諸軍を合わせましたが、まだ引き帰さないうちに、晋陽が傾潰(潰滅)しました(未旋之間而晋陽傾潰)」と書かれており、『十六国春秋』にも「劉琨が常山で兵を収めた」とあります(劉琨自身は漢趙軍と戦っていません)

胡三省注は、『晋書・列伝』の記述(「劉琨が自ら精兵を率いて出禦した」という内容)は誤りとしています。

 

本文に戻ります。

八月庚戌(初一日)、劉琨が戻って晋陽を救おうとしましたが、間に合わなかったため、左右の数十騎を率いて常山に奔りました。

 

辛亥(初二日)、劉粲と劉曜が晋陽に入りました。

壬子(初三日)、令狐泥が劉琨の父母を殺しました。

 

劉粲と劉曜が晋の尚書・盧志、侍中・許遐、太子右衛率・崔瑋を平陽に送りました。

漢趙昭武帝は再び劉曜を車騎大将軍に任命し、前将軍・劉豊を并州刺史にして晋陽を鎮守させました。

 

九月、昭武帝が盧志を太弟太師に、崔瑋を太傅に、許遐を太保に任命し、高喬と令狐泥をどちらも武衛将軍にしました。

 

[二十六] 『晋書・第五・孝懐帝紀』は、本年(永嘉六年・312年)八月辛亥(初二日)に「劉琨が猗盧に師(兵)を請い、上表して盧(猗盧)を代公にした」と書いています。

 

『資治通鑑』では、懐帝永嘉四年(310年)に「劉琨が上表して猗盧を大単于に任命し、代郡に封じて代公にした」と書いています。

 

以下、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)の解説を抜粋します。

『宋書‧索虜伝』は(猗盧の封侯を)永嘉三年(309年)に置いており、『晋春秋』は永嘉四年に置いて、「猗盧が万余家を率いて難を避け、雲中から雁門に入った」と書いている。『後魏‧序紀』は(魏)穆帝三年に置いており、この年は永嘉四年に当たる。『劉琨集』では、永嘉四年六月癸巳(初二日)の『上太傅府牋(太傅府に送る書)』に「盧(猗盧)が代に封じられた恩に感謝している(盧感封代之恩)」とあるので、(猗盧が代に封侯されたのは)永嘉四年六月より前の事だと分かる(『懐帝紀』が本年(永嘉六年・312年)に置いているのは誤りです)

また、劉琨の『與丞相牋(丞相に送る書)』ではこう言っている「(略)(猗盧)は新たに塵官(四散した官員だと思います)を併せ(盧新并塵官)、国が甚だ強盛であり、琨(私)に陘北の地を求めた(略)」これを観ると、盧(猗盧)は難を避けて来たのではない(『晋春秋』の記述にも誤りがあります)

 

[二十七] 『晋書・第五・孝懐帝紀』は八月に「己亥、陰平都尉・董沖が太守・王鑒を逐い、郡を挙げて叛し、李雄に降った」と書いています。

しかしこの年八月は「庚戌」が朔なので、「己亥」はありません。「九月己亥」だとしたら二十一日です。

 

[二十八] 『資治通鑑』からです。

九月己卯(初一日)、漢趙の衛尉・梁芬が長安(晋)に奔りました。

 

[二十九] 『晋書・第五・孝懐帝紀』からです。
己卯(初一日)、猗盧が子の利孫を劉琨の所に赴かせましたが、(利孫は)前に進めませんでした(不得進)

 

[三十] 『資治通鑑』からです(西晋愍帝即位時に再述します)

辛巳(初三日)、晋の安定太守・賈疋等が秦王・司馬鄴(または「司馬業」)を奉じて皇太子にしました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』はこう書いています「辛巳(初三日)、前雍州刺史・賈疋が三輔で劉粲を討って走らせ、関中が少し安定した。そこで衛将軍・梁芬、京兆太守・梁綜と共に秦王・司馬鄴を奉じ、長安で皇太子にした。」

しかし賈疋等は永嘉五年(前年)に漢趙軍と戦っており、劉粲が新豊で敗れて平陽に還ったので、賈疋等が秦王を奉じて雍城に入りました。その後、本年夏には劉曜が長安を棄てて撤退しています。よって、秦王が太子になった頃には、漢趙の兵は全て退いており、劉粲は晋陽にいました。『懐帝紀』の記述(「賈疋が三輔で劉粲を討って走らせ、関中が少し安定した」という内容)は誤りです(『資治通鑑』胡三省注参照)

 

『資治通鑑』に戻ります。

(司馬鄴が)長安に行台(臨時の政府)を設立し、壇に登って告類(天に報告する祭祀)を行い、宗廟・社稷を建てて、大赦しました。

閻鼎を太子詹事にして百官を統括させます(総摂百揆)

『資治通鑑』胡三省注が、「太子詹事は宮僚(宮中の属官)を統摂(総管・統括)したが、当時は太子が行台を建てたため、詹事が百揆(百官)を総管することになった。特別な位号に正されてはいないが、実際は丞相の職である」と解説しています。

 

賈疋に征西大将軍を加え、秦州刺史・南陽王・司馬保を大司馬にしました。

司空・荀藩に命じて遠近を督摂(監督)させ、光禄大夫・荀組を領司隸校尉・行豫州刺史にして、荀藩と共に開封(『資治通鑑』胡三省注によると、開封県は、漢代は河南郡に属し、晋代は滎陽郡に属しました)を守らせました。

 

[三十一] 『資治通鑑』からです。

秦州刺史・裴苞が険阻な地を占拠して涼州兵を拒みましたが、張寔、宋配等がこれを撃破しました。裴苞は柔凶塢(『資治通鑑』胡三省注によると、「桑凶塢」と書くこともあります)に奔りました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代84 西晋懐帝(十五) 石勒と段疾陸眷 312年(3)

 

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