西晋時代84 西晋懐帝(十五) 石勒と段疾陸眷 312年(3)

今回も西晋懐帝永嘉六年の続きです。

 

[三十二] 『資治通鑑』からです。

冬十月、漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が子の劉恆を代王に、劉逞を呉王に、劉朗を潁川王に、劉皋を零陵王に、劉旭を丹陽王に、劉京を蜀王に、劉坦を九江王に、劉晃を臨川王に封じ、王育を太保に、王彰を太尉に、任顗を司徒に、馬景を司空に、朱紀を尚書令に、范隆を左僕射に、呼延晏を右僕射に任命しました。

 

[三十三] 『資治通鑑』からです。

代公・猗盧が晋陽を攻めるために、子の六脩と兄の子・普根および将軍・衛雄、范班、箕澹を派遣して、数万の衆を指揮させて前鋒にしました。猗盧も自ら二十万の衆を指揮して後に続きます。

劉琨が離散した士卒数千人を集めて郷導(先導)になりました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「冬十月、猗盧が自ら六万騎を率いて盂城に駐軍した」と書いています。

 

『資治通鑑』の「子の六脩と兄の子・普根」という部分は、胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『十六国春秋』は「子の利孫と宥六須」と書いており、『晋書・載記第二』は「子の利孫と賓六須」としています。『劉琨集』では「左・右賢王」としており、「右賢王」を「撲速根」としています。『資治通鑑』は『後魏書』に従っています。

また、「箕澹」は、『晋書・載記第二』『晋書・載記第四』『十六国春秋』『後魏書』では「姫澹」と書かれていますが、『資治通鑑』は『晋書・列伝第三十二(劉琨伝)』に従って「箕澹」としています。

 

本文に戻ります。

六脩が漢趙の中山王・劉曜と汾東で戦いました。劉曜は兵が敗れて落馬し、七つの傷を負います。

討虜将軍・傅虎が劉曜に馬を授けましたが、劉曜は受け取らず、こう言いました「卿が乗って逃れるべきだ。私の傷は重いので、自らを測るに、ここで死ぬだろう(卿当乗以自免,吾創已重,自分死此)。」

傅虎が泣いて言いました「虎(私)は大王の識抜(評価、抜擢)を蒙ってここに至ったので、常に效命(命を懸けること)したいと思っていました。今がその時です。しかも漢室は基礎ができたばかりなので、天下に虎(私)がいないことは許されても、大王がいないことは許されません(漢室初基,天下可無虎,不可無大王也)。」

傅虎は劉曜を抱きかかえて馬に乗せ、(馬を)駆けさせて(劉曜に)汾水を渡らせてから(駆令渡汾)、自分だけ戻って戦死しました。

 

劉曜は晋陽に入り、夜、大将軍・劉粲、鎮北大将軍・劉豊と共に晋陽の民を奪って、蒙山(『資治通鑑』胡三省注によると、上艾(後の石艾県)と晋陽の二県に跨って蒙山がありました)を越えて帰還しました。

 

十一月、猗盧が漢趙軍を追撃して藍谷(『資治通鑑』胡三省注によると、藍谷は蒙山の西南にありました)で戦いました。漢趙の兵が大敗し、猗盧が劉豊を捕えて邢延等三千余級を斬ります(邢延は前年、劉琨に叛しました)。屍が数百里にわたって横たわりました(伏尸数百里)

猗盧はこれを機に寿陽山(『資治通鑑』胡三省注によると、寿陽山は楽平寿陽県にありました。寿陽県は晋が置いた県で、漢代は楡次県の地でした)で大獵(大規模な狩猟)を行いました。獲物の皮や肉を並べて観覧させたところ、そのために山が赤くなりました(陳閲皮肉,山為之赤)

 

劉琨が営門から歩いて入って猗盧に拝謝し、進軍するように強く請いました。

しかし猗盧はこう言いました「私が速く来なかったために、卿(あなた)の父母が害されることになってしまい、誠に慚愧しています(誠以相愧)(しかし)今、卿は既に州境を恢復し、私は遠くから来て士馬が疲弊しているので、とりあえず後挙(今後の行動の機会)を待ちます。劉聡はまだ滅ぼすことができません。」

猗盧は劉琨に馬・牛・羊を各千余疋(匹)と車百乗を贈って帰還し、その将・箕澹、段繁等を留めて晋陽を守らせました。

 

劉琨は移動して陽曲(『資治通鑑』胡三省注によると、陽曲県は太原郡に属しました。晋陽の北に位置します)に遷り、逃亡離散した者を招集しました。

 

『晋書・第五・孝懐帝紀』は「十一月甲午(十七日)、劉粲が遁走した。劉琨が自分の遺衆を収めて陽曲を守った」と書いています。

 

盧諶は劉粲の参軍になっていましたが、(劉粲が敗れると)逃亡して劉琨に帰順しました。

漢趙の人は盧諶の父・盧志および弟の盧謐、盧詵を殺しました。

また、傅虎に幽州刺史の官位を追贈しました。

 

『晋書・載記第二』では、盧志は太弟・劉乂(劉义)に乱を為すように勧めたため、誅殺されています。

『資治通鑑』はこの説を採らず、『晋書・列伝第十四(盧諶伝)』に従っています。

 

[三十四] 『資治通鑑』からです。

十二月、漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が張氏を皇后に立てて、その父・張寔を左光禄大夫にしました。

 

[三十五] 『資治通鑑』からです。

彭仲蕩の子・彭天護が群胡を率いて賈疋を攻めました(彭蕩仲は前年、賈疋に殺されました)

彭天護が勝てないふりをして逃走したため、賈疋が追撃しましたが、夜、澗中(「澗」は山間の小渓や谷です)に落ちてしまいました。

彭天護は賈疋を捕えて殺しました。

 

『晋書・第五・愍帝紀』には「賈疋が賊・張連を討って害に遇った」と書かれており(西晋愍帝の即位時に再述します)、『晋書・列伝第三十(賈疋伝)』には「彭蕩仲の子・彭夫護(彭天護)が群胡を率いてこれ(賈疋)を攻め、賈疋は敗走したが、夜、澗に堕ち、彭夫護に害された」とあります。

胡三省注によると、『資治通鑑』の記述は『十六国春秋』に従っています。

 

本文に戻ります。

漢趙が彭天護を涼州刺史に任命しました。

 

衆人が始平太守・麴允を推して雍州刺史を兼任させました(領雍州刺史)

閻鼎が京兆太守・梁綜と権勢を争い、梁綜を殺したため、麴允が撫夷護軍・索綝、馮翊太守・梁粛と兵を合わせて閻鼎を攻めました。

閻鼎は雍に出奔しましたが、氐の竇首に殺されました。

 

『資治通鑑』胡三省注はこう評しています「(当時は)胡・羯がまさに強くなっている時であり、賈疋、閻鼎、麴允、索綝が心を落ち着かせて一つになり(降心相従)、協力して晋室を輔佐したとしても、なお、全うできないことを懼れるべき状況だったのに、自ら殺し合っていたらなおさらではないか(況自相屠乎)。長安の敗徵(敗亡の兆)はここに見えている。」

 

[三十六] 『資治通鑑』からです。

広平の人・游綸(『資治通鑑』胡三省注によると、游氏は広平の望姓(声望がある姓)です。鄭の公子偃が字を子游といい、その後代が「游」を氏にしました)と張豺が数万の衆を擁して苑郷(『資治通鑑』胡三省注によると、苑郷城は広平郡にありました。東漢の南䜌県の地に後趙の石氏が苑郷県を置き、唐代には任県にして邢州に属させました)を占拠し、王浚の假署(仮りの任官)を受けました。

 

石勒が夔安、支雄等の七将を派遣して苑郷を攻撃させ、外塁を破りました。

これに対して王浚は、督護・王昌を派遣し、諸軍と遼西公・段疾陸眷、その弟・匹磾、文鴦、従弟の末柸の部衆五万を指揮して襄国の石勒を攻撃させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、『後魏書』は「段疾陸眷」を「段就陸眷」としており、『晋書・載記第四』では「段就六眷」としています。また、『後魏書』は「末柸」を「末破」としています(『晋書・載記第四』では『資治通鑑』と同じく「末柸」です)。『資治通鑑』は『晋書・列伝第九(王浚伝)』に従って、それぞれ「段疾陸眷」「末柸」としています。

 

段疾陸眷が渚陽(『中国歴史地図集(第三冊)』を見ると、渚陽は襄国の北に位置します)に駐屯しました。

石勒が諸将を派遣して出撃させましたが、皆、段疾陸眷に敗れます。

 

段疾陸眷が大いに攻具(攻城兵器)を造って城を攻めようとしたため、石勒の部衆が甚だ懼れました。

そこで、石勒が将佐を招いて策を謀り、こう言いました「今は城塹(城壁・塹壕)がまだ堅固ではなく、糧儲(食糧の蓄え)も多くなく、(兵は)敵が多くて我々が少なく(彼衆我寡)、外には救援もない。私は全ての兵を動員して戦を決したいと思うが、如何だ(吾欲悉衆与之決戦,可如)?」

諸将は皆、「堅守することで敵を疲れさせ、退くのを待ってから攻撃した方がいいでしょう(不如堅守以疲敵,待其退而撃之)」と言いました。

しかし張賓と孔萇がこう言いました「鮮卑の種では段氏が最も勇悍であり、中でも末柸が突出しているので(末柸尤甚)、その鋭卒は皆、末柸の所にいます。今、聞くところによると、疾陸眷は刻日(即日、数日内)に北城を攻めようとしていますが、その大衆(大軍)は遠くから来て、連日戦闘しており、(しかも)我々は孤弱で敢えて出戦(出撃)することはないと思っているので、戦意が必ず懈惰(弛緩、怠惰)しています(意必懈惰)。とりあえずは出撃せず、怯えているように見せて、北城に二十余道の突門(城内に秘かに設けた突撃用の門)を穿って敵が来るのを待ち、列守(隊列・守備)が定まる前にその不意に出て、直接、末柸の帳を衝くべきです。そうすれば、彼(敵)は必ず震駭(震撼・驚愕)して計を為す暇もないので、必ず破ることができます(破之必矣)。末柸が敗れたら、残りの者は攻撃しなくても潰えます。」

石勒はこの意見に従い、秘かに突門を造りました。

 

暫くして段疾陸眷が北城への攻撃を開始しました。

石勒が城壁に登って眺め見ると、段疾陸眷の将士には(油断して)武器を手から放して寝ている者もいました(釈仗而寝)。そこで、石勒は孔萇に命じて、鋭卒を監督して突門から出撃させました。城壁の上で鼓譟(戦鼓を敲いて喚声を上げること)して助勢します。

孔萇は末柸の帳を攻めましたが、克てずに退きました。末柸がそれを追います。ところが、塁門に入った末柸は石勒の衆に捕えられてしまいました。段疾陸眷等の軍が皆、退走します。

孔萇が勝ちに乗じて追撃し、屍が三十余里も並びました(枕尸三十余里)。孔萇は鎧馬(鉄甲を着た馬)五千頭を獲ます。

段疾陸眷は余衆を集めて引き還し、渚陽に駐屯しました。

 

石勒は末柸を人質にして、使者を派遣して段疾陸眷に和を求めました。段疾陵眷はこれに同意します。

文鴦が諫めて「今、末柸一人のために垂亡の虜(滅亡に瀕した賊)を放ったら、王彭祖(王浚)に怨まれて、後患を招くことになるのではありませんか」と言いましたが、段疾陸眷は従わず、逆に賄賂として鎧馬や金銀を石勒に贈りました。併せて末柸の三弟を人質として送り、末柸を返すように請います。

 

石勒の諸将は皆、末柸を殺すように勧めましたが、石勒はこう言いました「遼西鮮卑は健国(強健な国)であり、我々とは元々仇讎がなく、王浚に利用されただけである(為王浚所使耳)。今、一人を殺すことで一国の怨を結ぶのは、良計ではない(非計也)。彼を帰らせれば、必ず我々を深く徳とし(我々に感謝し)、再び王浚に利用されることはなくなるだろう(帰之,必深徳我,不復為浚用矣)。」

こうして石勒は厚く金帛を贈って応え、石虎を派遣して、渚陽で段疾陸眷と会盟して兄弟の契りを結ばせました(原文「遣石虎與疾陸眷盟于渚陽,結為兄弟」。石虎が段疾陸眷と会盟して兄弟の契りを結んだのか、石虎は会盟しただけで、石勒が段疾陸眷と兄弟の契りを結んだのか、はっきりしません)

段疾陸眷が引き帰したため、王昌も一人で留まるわけにはいかず、兵を率いて薊に還りました。

 

石勒は末柸を招いて共に燕飲(宴飲)し、父子の関係を結ぶことを誓って、遼西に還らせました。

末柸は遼西への道中、毎日南に向かって三回拝礼しました。

この後、段氏は専心して石勒に附くようになり、王浚の勢力がしだいに衰えました。

 

游綸と張豺は石勒に投降を請いました。

 

石勒が信都を攻めて冀州刺史・王象を殺しましたが、王浚が邵挙を行冀州刺史に任命して信都を守らせました。

 

[三十七] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

この年、大疫に襲われました。

 

[三十八] 『資治通鑑』からです。

王澄は若い頃から兄の王衍と共に海内で名が知られていました(名冠海内)

かつて、劉琨が王澄にこう言いました「卿は、形は散朗(世俗にとらわれず、直爽快朗なこと)としているが、内実は動侠(軽率で豪俠なこと)だ。そのようにして処世したら、その死(天寿。良い死に方)を得るのは難しい(以此処世,難得其死)。」

 

王澄は荊州にいるようになってから、成都内史・王機を気に入り、自分に次ぐ人材だとみなして、内では心膂(中枢)を治めさせ、外に対しては自分の爪牙にしました(内綜心膂,外為爪牙)

 

王澄はしばしば杜弢に敗れたため、望実(声望・実績)とも損なわれましたが、なお、傲然として得意になっており、憂懼の心がありませんでした(猶傲然自得,無憂懼之意)。ただ王機と日夜、ほしいままに酒を飲み、博弈(棋盤を使う遊戯。賭博)をして過ごします。

上下の者が離心するようになり、南平太守・應詹がしばしば諫めましたが、王澄は聴きませんでした。

 

王澄が杜弢を撃つために自ら軍を出して作塘(『資治通鑑』胡三省注によると、作唐県は、東漢は武陵郡に属し、晋は南平郡に属しました。南平郡の治所は江安です)に駐軍しました。

 

山簡の元参軍・王沖が衆人を擁して應詹を迎え、刺史(荊州刺史)にしようとしましたが、應詹は王沖が無頼なので(「品行が良くないので」または「頼りにならないので」。原文「以沖無頼」)、放棄して南平に還りました。

そこで王沖が自ら刺史を称しました。

 

これを懼れた王澄は、自分の将・杜蕤に江陵を守らせて、治所を孱陵に遷し、暫くして、更に沓中に奔りました(『資治通鑑』胡三省注によると、孱陵県は、漢代は武陵郡に属し、晋代は南平郡に属しました。沓中は孱陵の東に位置します)

 

別駕・郭舒が王澄を諫めて言いました「使君(あなた)は州に臨んでから異政(特殊な政績)がないものの、依然として一州の人心が繋がっています。今、西は華容(『資治通鑑』胡三省注によると、華容県は南郡に属しました)の兵を収めれば(集めれば)、この小醜を捕えるに足ります(足以擒此小醜)。どうして自ら棄てて、急いで奔逃するのですが(柰何自棄,遽為奔亡乎)。」

王澄は従わず、郭舒も一緒に東下させようとしました。

しかし郭舒は「舒(私)は万里の紀綱となりながら(「万里」は大きな州で、ここでは荊州を指します。「紀綱」は法度を管理することで、ここでは州の官員を指します。郭舒は州別駕だったので、「万里紀綱」といいました)、匡正することができず、使君(あなた)を奔亡させることになってしまいました。誠に渡江するのは忍びないことです」と言って留まり、沌口(『資治通鑑』胡三省注によると、沌水が南に向かって沔陽県の太白湖に通じ、更に湖水が東南に向かって長江に通じました。その地(長江に合流する地)を沌口といいます)に駐屯しました。

 

この事を聞いた琅邪王・司馬睿は、王澄を召して軍諮祭酒に任命し、代わりに軍諮祭酒・周顗を送って王澄と交替させました。

王澄は司馬睿の召還に応じました。

 

周顗が州に至ったばかりの時、建平の流民・傅密等が叛して杜弢を迎え入れました。杜弢の別将・王真が沔陽(『資治通鑑』胡三省注によると、当時の沔陽は竟陵郡界内にあったようです)を襲います。

周顗は狼狽して拠点を失いました。

そこで、征討都督・王敦(「征討都督」は「都督征討諸軍事」です。王敦は懐帝永嘉五年・311年に、都督征討諸軍事を加えられました)が武昌太守・陶侃、尋陽太守・周訪、歴陽内史・甘卓(『資治通鑑』胡三省注によると、晋恵帝が淮南の烏江、歴陽二県を分けて歴陽郡を置きました)を派遣し、共に杜弢を撃たせました。

王敦自身も兵を進めて豫章に駐屯し、諸軍の継援(後援)になります。

 

王澄が王敦を訪ねに行きましたが、自分の名声がかねてから王敦の右(上)に出ていると思っていたため、この時も旧意(以前からの考え)によって王敦を侮りました。

怒った王敦は王澄が杜弢と通信(交流)していると誣告し、壮士を送って搤殺(絞殺)しました。

 

『晋書・列伝第十三(王澄伝)』には「当時、王敦が江州(刺史)になり、豫章を鎮守していた。王澄が王敦を訪ねに行った」とありますが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)が、「王敦は当時、揚州刺史・都督征討諸軍になっていた。江州(刺史)ではない」と解説しています。

 

王機は王澄が死んだと聞いて、禍を懼れました。そこで、自分の父・王毅と兄の王矩がどちらもかつて広州刺史だったので、王敦を訪ねて広州に行くことを求めました。

王敦はこれを拒否しましたが、ちょうど広州の将・温卲等が刺史・郭訥に叛して王機を刺史に迎えたため、王機は奴客や門生千余人を率いて広州に入りました。

 

『資治通鑑』胡三省注がこう解説しています「王澄が死に、周顗が敗れ、王敦が豫章を鎮守し、王機が広州に入ったことについて、『本紀』『列伝』とも年月が書かれていない。『晋書・列伝第六(衛玠伝)』を見ると、衛玠が豫章にいる王敦に頼っており、永嘉六年(本年)に死ぬので(「王敦が豫章に駐軍したのは本年で、衛玠は豫章の王敦に頼っており、衛玠が死ぬのも本年なので」。衛玠の死については下述します)(これらの出来事を)ここに置いた。」

 

本文に戻ります。

郭訥が兵を派遣して王機を拒みましたが、将士は皆、王機の父兄が広州にいた頃の部曲だったので、戦わずに王機を迎え入れて投降しました。

郭訥は位を避けて州を王機に授けました。

『資治通鑑』胡三省注は、「王機の父・王毅が広州刺史にだった時、甚だ南越の情を得ていた」と解説しています。

 

[三十九] 『資治通鑑』からです。

王如の軍中が飢乏したため、官軍がこれを討ちました。党人の多くが投降します。

計に窮した王如は王敦に降りました。

 

『資治通鑑』胡三省注が解説しています「王如の投降も年月がわからないが、翌年には王如の余党が漢中に入るので、ここに置いた。」

 

[四十] 『資治通鑑』からです。

この頃、鎮東軍司・顧榮と前太子洗馬・衛玠が死にました。

 

衛玠は衛瓘(魏後期から西晋初期の重臣)の孫で、風神(風采)を美しくし、清談を善くしました。常に、「人に及ばないこと(完全ではない部分)があっても、情理によって寛恕すべきあり、意図せずに侵犯されたことは、道理によって解決すべきだ(人有不及可以情恕,非意相干可以理遣)」と考えていたため、終身(終生)、喜愠(喜怒)の色を見せませんでした。

 

[四十一] 『資治通鑑』からです。

江陽太守・張啓(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の江陽は犍為郡に属す県でしたが、蜀漢が分けて江陽郡を置きました。隋になって陵州隆山県に併合され、唐代には眉州彭山県になります)が益州刺史・王異(『資治通鑑』は「益州刺史」としていますが、正しくは「行益州刺史」です。王異は前年から三府の政務を代行しています。三府は平西将軍府、益州刺史府、西戎校尉府を指します)を殺して自ら替わりました。

張啓は張翼(蜀漢の将)の孫です。

 

張啓は暫くして病死しました。

三府の文武諸官は共に上表して涪陵太守・向沈を行西夷校尉にしました。(向沈は)南に遷って涪陵を守りました。

 

[四十二] 『資治通鑑』からです。

南安赤亭の羌人・姚弋仲が東の楡眉に遷りました。戎・夏(異民族と漢人)で襁負(子供や荷物を背負うこと)して従った者が数万人に上ります。

姚弋仲は自ら護羌校尉・雍州刺史・扶風公を称しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、東漢霊帝が獂道を分けて南安郡を置きました。赤亭水が南安郡の東山赤谷から出ており、西に向かって城北を流れ、南に向かって渭水に入りました。楡眉は漢代の扶風隃麋県です。晋代になって省かれました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代85 西晋懐帝(十六) 晋懐帝の死 313年

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