西晋時代85 西晋懐帝(十六) 晋懐帝の死 313年(1)

今回で西晋懐帝の時代が終わります。

 

西晋懐帝永嘉七年 愍帝建興元年

成漢武帝玉衡三年/漢趙昭武帝嘉平三年

癸酉 313年

二月に晋懐帝が殺されますが、新帝の即位が四月なので、それまでは懐帝の時代とされます。

 

[一] 『晋書・第五・孝懐帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月丁丑朔、漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が光極殿で宴を開き、晋懐帝(会稽公・司馬熾)に命じて、青衣(卑賎な者が着る服)を着て酒を注いでまわらせました(著青衣行酒)

晋の侍中・庾珉、王雋等(西晋懐帝永嘉五年・311年の記述では「王儁」です)が悲憤に堪えられず号哭しました。昭武帝はそれを嫌います。

 

ある人が、「庾珉等は平陽を挙げて劉琨に応じようと謀っている」と告発しました。

 

二月丁未(初一日。『晋書・孝懐帝紀』は「丁未」を正月に置いていますが、二月初一日です。中華書局『晋書』校勘記が指摘しています)、昭武帝が庾珉、王雋等、晋の旧臣十余人を殺しました。

晋懐帝も平陽で害されます。この時、三十歳でした。

 

昭武帝が大赦し、再び会稽劉夫人(会稽公・司馬熾の夫人。西晋懐帝永嘉六年・312年参照)を自分の貴人にしました。

 

以下、『晋書・孝懐帝紀』からです(一部、西晋恵帝光熙元年・306年の記述と重複します)

懐帝(司馬熾)が生まれたばかりの時、嘉禾が豫章の南昌に生えました。

以前、望気の者が「豫章に天子の気がある」と言いました。果たして、後に司馬熾は豫章王の身から皇太弟になりました。

司馬熾が東宮(太子宮)にいる時は、恂恂(慎重で温順な様子)として謙損(謙虚。謙遜して腰が低いこと)で、朝士を引見して書籍について講論しました。

即位してからは、旧制を遵守するようにして、太極殿に臨み、尚書郎に時令(季節ごとの政令)を読ませ、また、東堂(太極殿東堂)で聴政しました。

宴会の時でも、いつも群官と衆務について論じ、経籍を考察しました。

黄門侍郎・傅宣が感嘆して「今日、また武帝の世を見ることができた(今日復見武帝之世矣)」と言いました。

 

(懐帝の死後)秘書監・荀崧(曹操の謀臣・荀彧の玄孫)も常に人にこう語りました「懐帝は天姿(天性の容姿)が清劭(清雅・優美)で、若い頃から英猷(良謀、良才)が明かになっていた(少著英猷)。もし承平(太平の世)に遇っていたら、守文の佳主(先代の法度を守って国を治める善主)となるに足りた。しかし恵帝の擾乱の後を継ぎ、東海(司馬越)が専政したため、幽厲の釁(西周幽王、厲王のように国を衰退させた罪)はなかったのに、流亡の禍があった。」

 

[二] 『資治通鑑』からです。

乙亥(二十九日)、漢趙の太后・張氏(昭武帝・劉聡の母)が死にました。諡号を「光献」といいます。

丁丑(『資治通鑑』は二月に置いていますが、三月初二日のはずです)、張后も悲哀に堪えられず、死んでしまいました。諡号を「武孝」といいます。

 

張皇后は張寔の娘で、張寔は張太后の兄弟の子です(西晋懐帝永嘉六年・312年参照)

 

[三] 『資治通鑑』からです。

己卯(『資治通鑑』は二月に置いていますが、三月初四日のはずです)、漢趙の定襄公・王彰(諡号は忠穆公)が死にました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

三月、漢趙昭武帝(漢主・劉聡)が貴嬪・劉娥を皇后に立てて、劉皇后のために䳨儀殿(「䳨」は「凰」の異体字です)を建築しました。

 

廷尉・陳元達が切諫してこう言いました「天は民を生み、民衆のために君主を樹立して、彼等を司牧(管理、統治)させました。(君主と臣民がいるのは)兆民(万民)の命によって一人の欲を追究するためではありません(天生民而樹之君,使司牧之,非以兆民之命窮一人之欲也)。晋氏が徳を失って大漢がそれ(天命)を受けたので、蒼生(民衆)は首を延ばして息肩(肩の荷を卸すこと。労役が止むこと)を期待しています(蒼生引領,庶幾息肩)。そのため、光文皇帝(劉淵)は身に大布(目が粗い布)を着て住居には重茵(厚くて柔らかい座布団)がなく(身衣大布,居無重茵)、后妃は錦綺を着ず、乗輿の馬は粟を食べませんでした。これは民を愛したからです。(ところが)陛下は践阼(即位)以来、既に殿観を四十余カ所も造り、加えて軍旅をしばしば興して、餽運(食糧の輸送)が止むことなく、(しかも)饑饉・疾疫に襲われ、死亡(民衆の死と逃亡)が相継いでいます。それなのにますます営繕(造営、修築)を思うとは、これを民の父母としての意(心)といえるでしょうか(豈為民父母之意乎)。今は晋の遺類(遺臣、遺民)がおり、西は関中を占拠して、南は江表を専断しています(西拠関中,南擅江表)(そのうえ)李雄が巴・蜀を奄有(占有)し、王浚と劉琨が肘腋を窺い(窺窬肘腋)、石勒と曹嶷は貢稟(『資治通鑑』胡三省注によると、「貢」は貢献、「稟」は詔命を受け入れることです)がしだいに疎かになっています。陛下はこれらの事を放置して憂うることなく(釈此不憂)、逆に中宮のために殿を造っていますが、これが目前の急務なのでしょうか(豈目前之所急乎)。昔、太宗(西漢文帝)は治安の世に居て、粟帛が流衍(普及、充満)していたのに、なお百金の費を愛して(惜しんで)、露台の役(建築)を中止しました(西漢文帝後七年・前157年参照)。陛下は荒乱の余(残り。後)を継承し、所有している地は太宗の二郡にも過ぎず(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。昭武帝が当時統治していた地は、漢代の河東・西河の二郡に当たる地のみでした)、戦守の備えは、ただ匈奴と南越に対してだけではありません。それなのに宮室の侈(奢侈)がここに至っているので、臣は敢えて死を冒して諫言しないわけにはいきません(臣所以不敢不冒死而言也)。」

 

昭武帝が大いに怒って言いました「朕は天子である。一殿を造営するのに、なぜ汝のような鼠子(鼠のように取るに足りない者)に意見を求めなければならないのだ(朕為天子,営一殿,何問汝鼠子乎)。汝は敢えて妄言によって衆人の意気を損ねさせた(乃敢妄言沮衆)。この鼠子を殺さなければ、朕の殿も完成しない(不殺此鼠子,朕殿不成)!」

昭武帝は左右に「引きだして斬れ(曳出斬之)!あわせてその妻子も東市で梟首(首を斬って晒す刑)に処し、群鼠に穴を共にさせよ(鼠の群れを同じ穴に葬れ。原文「并其妻子同梟首東市,使群鼠共穴」)!」と命じました。

 

この時、昭武帝は逍遥園の李中堂にいました。陳元達はあらかじめ鎖を腰に巻いて入見しており、(昭武帝が激怒すると)すぐに鎖で自分を堂下の樹に縛って、こう叫びました「臣が発言した内容は、社稷の計です。しかし陛下は臣を殺そうとしています。朱雲には『臣は龍逢や比干と遊ぶことができれば満足だ(足矣)』という言がありました(西漢の朱雲も危険を冒して切諫しました。西漢成帝元延元年・前12年参照)!」

左右の者が陳元達を引っぱりましたが、動かせませんでした。

 

大司徒・任顗、光禄大夫・朱紀、范隆、驃騎大将軍・河間王・劉易等が叩頭して血を流しながら言いました「元達は先帝に知られ(認められ)、受命の初めに(天命を受けて漢を建てたばかりの時に)、招かれて門下に置かれ、忠を尽くして思慮をめぐらし、知っていることなら何でも発言してきました(尽忠竭慮,知無不言)。臣等は功もないのに禄を受け取り、安逸を偸んでいるので(竊禄偸安)、彼を見るたびに、慚愧しないことがありません(每見之未嘗不発愧)。今、彼が発言したことは狂直(無礼なほど率直なこと)ですが、陛下がこれを許容することを願います。諫諍(諫言、諫争)によって列卿を斬ったら、後世は如何みなすでしょう(其如後世何)。」

昭武帝は黙ってしまいました。

 

この事を聞いた劉皇后は、秘かに左右の者に勅命して刑を止めさせ、手疏(直筆の書)を提出して昭武帝にこう伝えました「今、宮室は既に備わっているので、わざわざ更に造営する必要はありません(無煩更営)。四海が一つになっていないので、民力を愛す(惜しむ)べきです(四海未壹,宜愛民力)。廷尉の言は社稷の福なので、陛下は封賞を加えるべきなのに、逆に誅殺しようとしています。四海は陛下をどうみるでしょう(四海謂陛下何如哉)。忠臣で諫言を進める者は、元からその身を顧みないものです。そして、人主で諫言を拒む者も、その身を顧みていません。陛下が妾(私)のために宮殿を造営して諫臣を殺したら、忠良に舌を結ばせるのは妾が原因となり、遠近を怨怒させるのも妾が原因となり、公私を困弊(困窮疲弊)させるのも妾が原因となり、社稷を危険に臨ませるのも妾が原因となり、天下の罪が全て妾に集まることになります。妾がどうしてこれに当たることができるでしょう(陛下為妾営殿而殺諫臣,使忠良結舌者由妾,遠近怨怒者由妾,公私困弊者由妾,社稷阽危者由妾,天下之罪皆萃於妾,妾何以当之)。妾が古から(今まで)の敗国喪家(国家の敗亡)を観たところ、婦人から始まらなかったことはなく、心中で常にこれを嫌っていましたが(心常疾之)、今日この身で自らそうすることになるとは思いませんでした(不意今日身自為之)(このままでは)妾が昔の人を視るように、後世の人に妾を視させることになります(使後世視妾由妾之視昔人也)。妾は誠に再び巾櫛を奉じる面目がないので(「巾櫛を奉じる」というのは、夫が顔を洗う時、顔を拭く布や櫛をもって傍に侍るという意味で、妻として夫につかえることを意味します)、この堂で死を賜り、陛下の過ちを塞ぐ(阻止する、補う)ことを願います(願賜死此堂,以塞陛下之過)。」

昭武帝は劉皇后の書を読んで顔色を変えました。

 

任顗等がいつまでも叩頭して涙を流したままでいたため、昭武帝がゆっくり言いました「朕は近年以来、少し風疾を得たので、喜怒が度を越えても自制できなくなってしまった(喜怒過差不復自制)。元達は忠臣であるが、朕はそれを察していなかった(朕未之察)。しかし諸公は破首して(頭から血を流して)それを明らかにすることができた。誠に輔弼の義(帝王を輔佐する臣下の道理)を得ている。朕は心中で慚愧の念を抱いている。どうして今回の事を忘れることができるだろう(朕愧戢于心,何敢忘之)。」

昭武帝は任顗等に命じて、冠を被って履物を履いてから席に就かせ(冠履就坐)、陳元達を招いて(堂上に)登らせ、劉氏の表(書)を示してこう言いました「外では公のような者が(朕を)輔佐し、内では皇后のような者が輔佐している。朕はまた何を憂うる必要があるだろう(外輔如公,内輔如后,朕復何憂)。」

昭武帝は任顗等にそれぞれ差をつけて穀帛を下賜し、逍遥園を納賢園に、李中堂を愧賢堂に改名しました。

昭武帝が陳元達に言いました「卿が朕を畏れるはずだったが、逆に朕に卿を畏れさせることになってしまった(卿当畏朕,而反使朕畏卿邪)。」

 

[五] 『資治通鑑』からです。

西夷校尉・向沈が死にました。

衆人は汶山太守・蘭維(『資治通鑑』胡三省注によると、鄭穆公の名を蘭といい、その支庶が「蘭」を氏にしました。漢代には武陵太守・蘭広がいました。匈奴にも蘭氏がいましたが、この蘭氏とは異なります)を推して西夷校尉にしました。

 

蘭維は吏民を率いて北に出て、巴東に向かおうと欲しました(『資治通鑑』胡三省注によると、晋に帰ろうとしました)

しかし成漢の将・李恭と費黒が邀撃して蘭維を捕えました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代86 西晋愍帝(一) 愍帝即位 313年(2)

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