西晋時代86 西晋愍帝(一) 愍帝即位 313年(2)

今回から西晋愍帝の時代です。

 

孝愍皇帝

姓は司馬、名は鄴、字は彦旗といいます。

 

愍帝の名ですが、『資治通鑑』は「司馬鄴」ではなく「司馬業」としています。

「司馬鄴」としているのは『晋書・第五・愍帝紀』で、愍帝建興元年(313年)八月に、愍帝の諱(実名)を避けて「建鄴(建業)」が「建康」に、「鄴」が「臨漳」に改名されます。

胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『三十国』と『晋春秋』は愍帝の名を「子業」としています。

一般的には「司馬鄴」と書かれるので、この通史でも「司馬鄴」を使っています。

 

以下、『晋書・第五・愍帝紀』からです(既述の内容です)

司馬鄴は武帝の孫で、呉孝王・司馬晏(愍帝建興四年・316年に「孝」という諡号が贈られます)の子ですが、呉王の家を出て伯父に当たる秦王・司馬柬(武帝の子。西晋恵帝元康元年・291年に死にました)を継ぎました。

 

西晋懐帝永嘉二年(308年)、司馬鄴は散騎常侍・撫軍将軍に任命されました。

洛陽が傾覆(陥落)すると(懐帝永嘉五年・311年)、司馬鄴は滎陽密県で難を避けましたが、舅(母の兄弟)の荀藩と荀組に遭遇してから、密を発って南の許・潁(許昌・潁水周辺)に向かいました。

この時、豫州刺史・閻鼎が前撫軍長史・王毗、司徒長史・劉疇、中書郎・李昕(または「李暅」「李絙」。懐帝永嘉五年・311年参照)および荀藩、荀組等と共に謀って司馬鄴を奉じ、長安に帰しました。

しかし劉疇等が途中でまた叛したため、閻鼎が後を追って殺しました。荀藩と荀組はなんとか逃れます(僅而獲免)

閻鼎は司馬鄴に強制して牛車に乗せ、宛から武関に向かいました。しばしば山賊に遭遇して士卒が亡散(死亡離散)します。

閻鼎等は藍田に駐軍し、雍州刺史・賈疋に(状況を)告げました。

賈疋はすぐに州兵を派遣して迎衛し(迎え入れて護衛し)、長安に到着してからも、輔国将軍・梁綜に助守させました。

この時、霸水から玉亀が現れ、城南で神馬が鳴きました。

 

懐帝永嘉六年(312年)九月辛巳(初三日)(賈疋等が)秦王・司馬鄴を奉じて皇太子にしました。

壇に登って告類(天に報告する祭祀)を行い、宗廟・社稷を建てて、大赦しました。

(長安の朝廷は)賈疋に征西大将軍を加え、秦州刺史・南陽王・司馬保を大司馬にしました。

しかし賈疋が賊・張連を討って害に遇ったため(『資治通鑑』では、彭天護に殺されています。西晋懐帝永嘉六年・312年参照)、衆人は始平太守・麴允を推して雍州刺史を兼任させ(領雍州刺史)、盟主にして承制選置させました(皇帝の代わりに命令を出して、人選・任官させました)

 

 

以下、西晋懐帝永嘉七年・愍帝建興元年(313年)の続きになります。

 

[一] 『晋書・第五・愍帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月丙午(初一日)、懐帝の凶問(弑殺されたという情報)が長安に至りました。

皇太子・司馬鄴が挙哀成礼(哀悼して葬礼を行うこと)し、これを機に元服しました。

 

壬申(二十七日)、司馬鄴が皇帝の位に即きました。これを愍帝といい、西晋最後の皇帝になります。この時十四歳です。

大赦して懐帝の永嘉七年から建興元年に改元しました。

 

衛将軍・梁芬を司徒に、雍州刺史・麴允を尚書左僕射・録尚書事に、京兆太守・索綝を尚書右僕射・領吏部・京兆尹にしました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・愍帝紀』では、衛将軍・梁芬は『資治通鑑』と同じく司徒になっていますが、雍州刺史・麴允は使持節・領軍将軍・録尚書事に、京兆太守・索綝は尚書右僕射になっています)

 

当時の長安城中は、戸数が百も満たさず、野草が生い茂っており(蒿棘成林)、公私の車は四乗しかなく、百官には章服(礼服)・印綬もなく、ただ桑版(桑の木の板)に官号が書かれていただけでした(唯桑版署号而已)

 

暫くして愍帝が索綝を衛将軍・領太尉に任命し、軍国の事を全て委ねました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

漢趙の中山王・劉曜と司隸校尉・喬智明が長安を侵し、平西将軍・趙染も衆を率いて長安に向かいました。

晋愍帝は麴允に詔を発し、黄白城に駐屯して防がせました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

石勒が石虎に鄴を攻めさせました。

鄴が潰滅して、劉演は廩丘(『資治通鑑』胡三省注によると、廩丘県は、西漢は東郡に属し、東漢は済陰郡に属し、晋代は濮陽国に属しました)に奔ります。三台の流民が皆、石勒に降りました。

石勒は桃豹を魏郡太守に任命して慰撫させましたが、久しくしてから、桃豹に代わって石虎に鄴を鎮守させました。

 

以前、劉琨(并州刺史)が陳留太守・焦求を用いて兗州刺史に任命しましたが、荀藩(司空)も李述を用いて兗州刺史にしました。

李述が焦求を攻めようとしましたが、劉琨が焦求を招いて還らせました。

鄴城が失守(陥落)すると、劉琨は再び劉演を兗州刺史に任命し、廩丘を鎮守させました。

 

前中書侍郎・郗鑒は若い頃から清節によって名が知られており、高平の千余家を率いて、乱を避けて嶧山を守っていました。

そこで、琅邪王・司馬睿が現地で郗鑒を兗州刺史に任命し、鄒山を守らせました。

『資治通鑑』胡三省注によると、嶧山は鄒県北にありました。繹邑がこの山に面していたため、「嶧山」と呼ばれるようになりました。山は東西二十里にわたり、石ばかりでほとんど土壤がありませんでした。胡三省注が更に詳しく解説していますが、省略します。

鄒山は魯郡鄒県にありました。

 

こうして三人がそれぞれ兗州刺史として一郡に駐屯したため(原文「三人各屯一郡」。三人は李述、劉演、郗鑒を指します。劉演は濮陽の廩丘に、郗鑒は魯郡の鄒山に駐屯しましたが、李述がどこにいたのかはわかりません)、兗州の吏民は誰に従えばいいのか分からなくなりました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

琅邪王・司馬睿が前廬江内史・華譚を軍諮祭酒に任命しました。

華譚はかつて寿春で周馥に身を寄せていたため、司馬睿が華譚に問いました「周祖宣(祖宣は周馥の字です)はなぜ反したのだ(西晋懐帝永嘉四年・310年参照)?」

華譚が言いました「周馥は死にましたが、天下にはまだ直言の士がいます。周馥は寇賊が滋蔓(蔓延、成長)するのを見て、遷都によって国難を除こうと欲しましたが(欲移都以紓国難)、執政(司馬越)が悦ばなかったので、兵を興してこれを討ったのです。周馥が死んでまだ間もない時に、洛都が淪没(陥落)しました(懐帝永嘉五年・311年参照)。もしそれを反したとみなすのなら、誣(誣告、冤罪。人に罪を着せること)ではありませんか(若謂之反,不亦誣乎)。」

司馬睿が言いました「周馥は位が征鎮になり、強兵を握っていたのに、(朝廷が)召しても入らず、(朝廷が)危うくなっても支えようとしなかった(召之不入,危而不持)。やはり天下の罪人である(亦天下之罪人也)。」

華譚が言いました「その通りです。(朝廷が)危うくなっても支えなかったというのは、天下と共にその責(責難、譴責)を受けるべきであり、周馥だけのことではありません(原文「然。危而不持,当与天下共受其責,非但馥也」。周馥に罪があるのは間違いないが、司馬睿を含む全ての人にも罪がある、という意味です)。」

 

司馬睿の参佐は多くが職責から逃げて自身の安逸を求めていました(避事自逸)

そこで、録事参軍・陳頵(『資治通鑑』胡三省注によると、録事参軍は、衆曹(諸官署)を総監してその文案を管理したり、過失を犯した者を弾劾して司察(督察、監察)の事を担当しました)が司馬睿に言いました「洛中が承平(太平)だった時、朝士は小心恭恪(慎重で恭敬なこと)を凡俗とみなし、偃蹇倨肆(傲慢放縦で無礼なこと)を優雅とみなし、このような気風に染まりあったため、ついに敗国に至りました(流風相染以至敗国)。今、僚属は皆、西台(洛陽)の余弊を受け継ぎ、虚名を養って自分を高く見せようとしていますが(養望自高)、これは、前の車が既に転覆したのに、後ろの車がまた跡を追おうとしているようなものです(是前車已覆而後車又将尋之也)。今からは、使命を受けながら病と称す者は全て免官することを請います(請自今臨使称疾者,皆免官)。」

司馬睿は従いませんでした。

 

三王が趙王・司馬倫を誅殺した時(西晋恵帝永寧元年・301年)、『己亥格(「格」は条例、制度です)』を制定して功績を賞しました。その後の褒賞も継続して『己亥格』の基準が用いられています。

そこで陳頵が上書しました「昔、趙王が簒逆して恵皇が位を失いましたが、三王が兵を起こしてこれを討ったので、(三人を)厚く賞すことで、(人々に)義に向かう心を抱かせました(厚賞以懐嚮義之心)。今は功の大小に関わらず、皆、『格』によって断じており(『己亥格』によって褒賞を決定しており)、その結果、金紫が士卒の身に佩され、符策(符節、策命)が僕隸の門に委ねられるまでに至っています。これは名器(名号・制度)を重んじて紀綱(綱紀・法度)を正すことではありません。一切を停止することを請います。」

 

陳頵は寒微(卑賎な家)の出身でしたが、しばしば正論を述べたため、府中の多くの者に嫌われました。

(司馬睿は)陳頵を出して譙郡太守にしました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

琅邪王・司馬睿は呉興太守・周玘の宗族が強盛だったので、とても疑憚(疑い畏れること)していました。

司馬睿の左右に仕えて政務を行っている者は(左右用事者)、多くが中州(中原)で官位を失って節操を棄てた士人(亡官失守之士)でした。しかし南下してから呉人を駕御(駆使、制御)するようになったため、呉人は彼等を非常に怨んでいました。

周玘は自分が職権を失ったと思っており(自以失職)、しかも刁協(軍諮祭酒)に軽視されていたため、恥恚(羞恥怨恨)がますます甚だしくなっていました。そこで、秘かに党人と謀り、執政している者を誅殺して、南方の諸人士に代えさせようとしました。

ところが事が漏れたため、周玘は憂憤して死んでしまいました。

周玘は死ぬ前に、子の周勰に「私を殺したのは諸傖子だ(「傖」は「粗俗」「卑賎」の意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、呉人は中原の人を「傖」と呼びました)。これを復せるのは(報復できるのは)、我が子だ(殺我者,諸傖子也。能復之,乃吾子也)」と言いました。

 

[六] 『晋書・第五・愍帝紀』と『資治通鑑』からです。

石勒が上白(『資治通鑑』胡三省注によると、上白城は安平広宗県にありました)で龍驤将軍・李惲(青州刺史)を攻めました。

李惲は敗れて斬られましたが、王浚がまた薄盛を青州刺史にしました。

李惲、薄盛とも「乞活」の帥です(西晋懐帝永嘉三年・309年参照)

 

[七] 『資治通鑑』からです。

王浚が棗嵩を派遣し、諸軍を督して易水に駐屯させました。

同時に段疾陸眷を召して共に石勒を攻撃しようと欲しましたが、段疾陸眷は来ませんでした(段疾陸眷は石勒と友好関係にあります。西晋懐帝永嘉六年・312年参照)

 

怒った王浚は重幣(重金。厚礼)を賄賂にして拓跋猗盧に贈り、更に慕容廆等にも檄文を発して共に段疾陸眷を討ちました。

猗盧は右賢王・六脩を派遣し、兵を指揮して王浚に合流させましたが、段疾陸眷に敗れました。

 

慕容廆は慕容翰を派遣して段氏を攻撃させました。

慕容翰は徒河と新城を取って陽楽(『資治通鑑』胡三省注によると、陽楽県は遼西郡に属しました)に至りましたが、六脩が敗れたと聞いて引き還しました。これを機に徒河に留まって鎮守し、青山に営壁を築きます。

 

以前、中国(中原)の士民で乱を避けた者は、多くが北に向かって王浚を頼りました。しかし王浚は人々を存撫(慰撫、安撫)することができず、しかも政法が確立していなかったため、士民は往々にして去って行きました。

段氏兄弟は専ら武勇を尊び(専尚武勇)、士大夫に対して礼を用いませんでした。

慕容廆だけは政事が脩明(整っていて明確なこと)で、人物(優秀な人材)を愛して尊重したため、士民の多くが帰心しました。

そこで、慕容廆は英俊な者を挙げて、才に則って授任(官を授けて任命すること)しました。河東の人・裴嶷、北平の人・陽躭、廬江の人・黄泓、代郡の人・魯昌を謀主とし、広平の人・游邃、北海の人・逄羨、北平の人・西方虔(『資治通鑑』胡三省注によると、少昊金天氏が西方を主管し、その子孫が西方を氏にしました)、西河の人・宋奭および封抽、裴開を股肱とし、平原の人・宋該、安定の人・皇甫岌、皇甫岌の弟・皇甫真、蘭陵の人・繆愷、昌黎の人・劉斌および封奕、封裕に機要(中枢、機密)を担当させました。封裕は封抽の子です。

 

このうち、裴嶷は清方(清廉公正)で幹略(才能智略)があり、これ以前に晋朝廷から昌黎太守に任命され、兄の裴武も玄菟太守になりました。

裴武が死んだ時、裴嶷は裴武の子・裴開と共に喪(霊柩)を運んで帰郷し、途中で慕容廆の地を通りました(『資治通鑑』胡三省注によると、裴嶷等は玄菟から西の河東に還る途中で棘城を通りました)

慕容廆は裴嶷を敬って礼遇し、裴嶷が去る時には厚く資財を加えて送り出しました。

裴嶷等は遼西に至りましたが、道が通じていませんでした。裴嶷は引き還して慕容廆に就こうとします。

すると裴開がこう言いました「郷里は南にあります。どうして北に行くのですか(柰何北行)。そもそも、同じく流寓(流亡して他郷に住むこと)するのなら、段氏が強くて慕容氏は弱いのに、なぜ必ずここを去って彼に就かなければならないのですか(且等為流寓,段氏強,慕容氏弱,何必去此而就彼也)。」

裴嶷が言いました「中国(中原)は喪乱(死亡禍乱)しているので、今そこに向かうのは、我々も一緒に虎の口に入るようなものだ(中国喪乱,今往就之,是相帥而入虎口也)。しかも道が遠い。どうして到達できるだろう(何由可達)。もし清通を待つとしても(道が通じて安全になるのを待つとしても)、一年や一月で期待できることではない(又非歳月可冀)。今は託足の地(足を託す地。身を安んじる地)を求めようと欲しているのに、どうして慎重にその人を択ばずにいられるだろう(豈可不慎択其人)。汝が諸段(段氏の家族)を観たところ、遠略があって国士を遇すことができるというのか(豈有遠略且能待国士乎)。慕容公は徳行を修めて仁義を守り、覇王の志がある(修行仁義,有霸王之志)。加えて国が豊かで民が安んじているので、今、赴いて彼に従ったら、高くは(上は)功名を立てることができ、下は宗族を庇護することができる(高可以立功名,下可以庇宗族)。汝は何を疑うのだ。」

裴開はこの意見に従いました。

裴嶷等が至ると、慕容廆は大いに喜びました。

 

陽躭は清直沈敏(清廉かつ実直、冷静かつ明敏)で、晋の遼西太守になりました。

慕容翰が陽楽で段氏を破った時、陽躭を獲ました。慕容廆は陽躭を礼遇して用いました。

 

游邃、逄羨、宋奭は、皆かつて昌黎太守になりましたが、黄泓と共に薊の地で乱を避け、後に慕容廆に帰順しました。

王浚がしばしば手書(直筆の書)を送って游邃の兄・游暢を招きました。游暢が赴こうとすると、游邃がこう言いました「彭祖(王浚)は刑政を修めず、華戎(漢族と異民族)が離叛しています。邃(私)がこれを測るに、久しくできるはずがありません(以邃度之,必不能久)。兄は暫く磐桓(逗留)して待機するべきです(兄且磐桓以俟之)。」

游暢が言いました「彭祖は残忍なうえに疑い深く(忍而多疑)、最近も流民が北に来たら、後を追って所在の地で殺すように命じた(命所在追殺之)。今回、手書が殷勤なので、私が稽留(停滞、逗留)して赴かなかったら、禍が卿にも及ぶことになる(将累及卿)。そもそも、乱世においては宗族を分けることによって、後代を残すことを希むべきだ(且乱世宗族宜分以冀遺種)。」

游邃は同意しました。

游暢は王浚と共に没することになります。

 

宋該は平原の人・杜群、劉翔と共にまずは王浚を頼り、その後、段氏を頼りましたが、どちらも身を託すには足りないとみなし、他の流寓している者達と一緒に慕容廆に帰順しました。

 

以前、東夷校尉・崔毖が皇甫岌を招いて長史に任命しようとし、辞を低くして説諭しましたが、ついに皇甫岌を至らせることはできませんでした。

しかし慕容廆が皇甫岌を招くと、皇甫岌と弟の皇甫真がすぐにそろって至りました。

 

遼東の人・張統が楽浪と帯方の二郡を占拠し、高句麗王・乙弗利と交戦して、何年も兵が解かれませんでした(連年不解)

楽浪の人・王遵が張統を説得して、その民千余家を率いて慕容廆に帰順するように勧めました。慕容廆は張統のために(改めて)楽浪郡を置き、張統を太守に任命して王遵を参軍事にしました。

 

 

次回に続きます。

西晋時代87 西晋愍帝(二) 祖逖 313年(3)

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