東晋時代10 東晋元帝(十) 前涼 320年(1)

今回は東晋元帝太興三年です。三回に分けます。

 

東晋元帝太興(大興)三年

成漢武帝玉衡十年/漢趙帝(劉曜)光初三年

後趙趙王(石勒)二年/前涼成王永元元年

庚辰 320年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、漢趙帝(趙主・劉曜)が陳倉を攻めました。

王連は戦死し、楊曼は南氐(『資治通鑑』胡三省注によると、陳倉南の氐種(族)を指し、仇池の楊氏に当たります)に奔ります。

 

漢趙帝が兵を進めて草壁を攻略し、路松多は隴城に奔りました。

更に漢趙帝は陰密を攻略しました。

 

晋王・司馬保は懼れて桑城に遷りました(『資治通鑑』胡三省注によると、洮水が臨洮県から東北に流れて索西城を通り、更に北に流れて門峽を出て、また東北に向かって桑城東を通り、北に向かって安故県を通りました。司馬保は桑城から河西に奔ろうとしたようです)

 

『晋書・第六・元帝紀』は「春正月丁酉朔、晋王・司馬保が劉曜に逼迫されたため、桑城に遷った」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

漢趙帝が長安に還り、劉雅を大司徒に任命しました。

 

張春が晋王・司馬保を奉じて涼州に奔ろうと謀りました。

張寔がその将・陰監を派遣し、兵を率いて司馬保を迎えさせます。但し、公けには翼衛(補佐、護衛)のためと宣言したものの、実際には司馬保の前進を拒むことが目的でした。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

段末柸が段匹磾を攻めて破りました。

 

段匹磾が邵続(東晋の冀州刺史)に言いました「私は本来、夷狄ですが、義を慕ったために家を滅ぼしました(吾本夷狄以慕義破家)。君(あなた)が久要(旧約。西晋愍帝建興二年・314年、段匹磾は邵続に書を送って共に司馬睿に帰順しました)を忘れていないようなら、共に末柸を撃つことを請います。」

邵続はこれに同意しました。段匹磾と共に末柸の後を追って撃ち、大破します。

 

段匹磾と弟の段文鴦が薊を攻めました(『資治通鑑』胡三省注によると、段匹磾が邵続に奔ってから、薊は石氏に占拠されていました)

後趙王・石勒は邵続の形勢が孤立していると知り、中山公・石虎に兵を指揮して厭次を包囲させました。また、孔萇に邵続の別営十一カ所を攻撃させ、全て攻略しました。

 

二月、邵続が自ら兵を出して石虎を撃ちました。しかし石虎が騎兵を伏せて後ろを断ち、邵続を捕えます。

石虎は邵続を使って城(厭次城)を投降させようとしました。

しかし邵続は兄の子・邵竺等にこう呼びかけました「私の志は報国を欲していたが、不幸にもこのようになってしまった(吾志欲報国,不幸至此)。汝等は努力して匹磾を奉じ、主とせよ。貳心(二心)を抱いてはならない。」

 

段匹磾が薊から戻りましたが、厭次に至る前に「邵続が既に没した(この「没」は「死亡した」という意味ではなく、「敗れた」「敵の手に陥ちた」という意味だと思います。以下同じです)」と聞き、衆人が懼れて離散しました。更に石虎に道を塞がれます。

しかし段文鴦が親兵数百を率いて力戦したおかげで、やっと城に入ることができました。邵続の子・邵緝、兄の子・邵存、邵竺等と共に城に籠って守りを固めます(嬰城固守)

 

石虎は邵続を襄国に送りました。

石勒は邵続を忠(忠貞、忠臣)とみなし、釈放して礼遇しました。更に従事中郎に任命し、これを機に令を下してこう言いました「今から後は、敵に克って士人を獲た場合、勝手に殺してはならず、必ず生きたまま到らせよ(自今克敵獲士人,毋得擅殺,必生致之)。」

 

『晋書・第六・元帝紀』はこう書いています「二月辛未(初六日)、石勒の将・石季龍(石虎)が猒次(厭次)を侵した。平北将軍・冀州刺史・邵続がこれを撃ったが、邵続が敗れ、陣で没した。」

『晋書・元帝紀』は、ここでは邵続を平北将軍としていますが、前年の記述では、祖逖が平北将軍です。

 

『資治通鑑』に戻ります。

邵続が攻撃された時、東晋の吏部郎・劉胤(元は邵続に仕えていました。西晋愍帝建興二年・314年参照)がそれを聞いて元帝に言いました「北方の藩鎮は既に消え尽くし、ただ邵続だけが残っています(北方藩鎮尽矣,惟余邵続而已)。もしまた石虎に滅ぼされたら、義士の心を孤立させ、帰本の路(朝廷に帰る路)を断たせることになってしまいます(孤義士之心,阻帰本之路)。愚見によるなら、兵を発してこれを救うべきです。」

元帝はこの意見に従うことができませんでした。

 

邵続が没すると(敵の手に陥ちると)、元帝は詔を下し、邵続の位を子の邵緝に授けて任官しました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

漢趙の将・尹安、宋始、宋恕、趙慎の四軍が洛陽に駐屯して叛し、後趙に降りました。

ところが、後趙の将・石生が兵を率いて赴くと、尹安等は再び叛して晋の司州刺史・李矩に降りました。

李矩は潁州太守・郭黙を派遣して、兵を率いて入洛させました。

 

石生は宋始の一軍を捕虜にしてから、北に向かって渡河しました。

この後、河南の民は皆、相継いで李矩に帰順し、洛陽が空になりました。

 

[四] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月、慕容廆が派遣した裴嶷(前年参照)が建康に至り、前年、宇文氏から得た玉璽三紐を献上しました。

裴嶷は盛んに慕容廆の威徳を称賛し、賢雋(賢人・俊才)が皆、慕容廆に用いられていることを語りました。

東晋朝廷が始めて慕容廆を重視するようになります。

 

元帝が裴嶷に言いました「卿は中朝(中原の朝廷。西晋)の名臣だったので、江東に留まるべきだ。朕は別に詔を発し、龍驤(慕容廆)に卿の家属を送らせよう。」

しかし裴嶷はこう言いました「臣は若い時から国恩を蒙り、省闥(宮中)を出入りしました(『資治通鑑』胡三省注によると、裴嶷は西晋時代に中書侍郎、給事黄門郎を歴任しました)。もしまた輦轂(皇帝の車)を奉じることができるなら、それは臣の至栄(光栄の極み)です。しかし、旧京が淪没(陥落)して山陵が穿毀(発掘・破壊)され、たとえ名臣・宿将でも雪恥できる者がいないのに、慕容龍驤だけは王室に忠を尽くし、凶逆を除くことを志しているので、臣に万里を越えて誠心を伝えさせました(故使臣万里帰誠)。今、臣が来たのに帰らなかったら、必ず朝廷がその僻陋(辺鄙、辺遠)を理由に(慕容廆を)棄てたと考え、義に向かう心を孤立させ、賊の討伐を怠らせることになります(原文「孤其嚮義之心,使懈体於討賊」。『資治通鑑』胡三省注が「懈体」の「体」は「怠」とするのが正しい、と解説しています)。これは臣が甚だ惜しむことです。だから、敢えて私情に従って公事を忘れることができないのです(是以不敢徇私而忘公也)。」

元帝は「卿の言う通りだ(卿言是也)」と言い、使者を派遣して裴嶷に従わせ、慕容廆を安北将軍・平州刺史に任命しました。

 

[五] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

閏三月、東晋が尚書・周顗を尚書僕射に任命しました。

『資治通鑑』では、周顗を尚書左僕射に任命していますが、元帝永昌元年(322年)に、周顗を尚書左僕射に、王邃を右僕射に任命しているので、ここは「尚書僕射」が正しいと思われます。

 

[六] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

夏四月壬辰(『二十史朔閏表』によると、この年四月は「乙未」が朔なので、「壬辰」はありません)、枉矢(大流星)が翼軫(星座。翼宿と軫宿)を流れました。

 

[七] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

五月丙寅(初三日)、西晋孝懐帝の太子・司馬詮が平陽で害に遇いました。

東晋元帝が三日間哀哭しました。

 

司馬詮は懐帝時代に皇太子に立てられました(懐帝永嘉元年・307年参照)。司馬遐の子で、司馬遐は恵帝の弟です。

尚、『晋書・列伝第三十四・武十三王伝』では「司馬詮」を「司馬銓」としており、「洛京が傾覆した時、劉聡(漢趙)によって没した」と書いています(原文「没于劉聡」。この「没」が、「殺された」という意味か、「捕まった」という意味かははっきりしませんが、『列伝第三十四』の記述は「没于劉聡」で終わっているので、恐らく、「殺された」という意味だと思います)。『資治通鑑』でも、司馬詮は懐帝永嘉五年(311年)に、当時、漢趙の将だった劉曜によって殺されています(曜殺太子詮)

 

[八] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

庚寅(二十七日)、地震がありました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

晋王・司馬保の将・張春と楊次は別将・楊韜と不協(不和、不仲)だったため、司馬保に楊韜の誅殺を勧め、更に陳安を攻撃する許可を請いました。しかし司馬保はどちらの意見にも従いませんでした。

 

この月(五月)、張春と楊次が司馬保を幽閉して殺しました。

司馬保は体が肥大で、重さが八百斤もありました。寝るのが好きで、読書を愛しましたが(喜睡好読書)、暗弱で決断力がなかったため、最後は難に及びました。

 

司馬保には子がいなかったため、張春は宗室の子・司馬瞻を世子に立てて、(自ら)大将軍を称しました。

しかし、司馬保の部衆は離散し、涼州に奔った者が一万余人いました。

 

陳安が漢趙帝(趙主・劉曜)に上表して司馬瞻等を討つように請いました。

漢趙帝は陳安を大将軍に任命して司馬瞻を撃たせました。司馬瞻は殺され、張春は枹罕(『資治通鑑』胡三省注によると、枹罕県は、西漢は金城郡に属し、東漢は隴西郡に属し、張軌が分けて晋興郡に属させました。唐代は河州になります)に奔ります。

陳安は楊次を捕え、司馬保の柩の前で斬って祭ってから、天子の礼で上邽に埋葬しました。

司馬保には元王という諡号が贈られます。

 

『晋書・第六・元帝紀』はこう書いています「この月、晋王・司馬保がその将・張春に害された。劉曜が陳安に張春を攻めさせて、これを滅ぼした。陳安はこれを機に劉曜に叛した。」

但し、陳安が確実に離反するのは後の事です。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

東晋の羊鑒が徐龕を討伐しましたが、下邳で兵を止めて、敢えて前に進もうとしませんでした。

 

徐州刺史・蔡豹が檀丘(『資治通鑑』胡三省注によると、魯国卞県の東南に位置します)で徐龕を敗り、徐龕は後趙に救援を求めました。

後趙王・石勒はその将・王伏都を派遣して援けさせ、更に張敬に兵を率いて後継(後続、後援)とさせました。

 

ところが石勒は徐龕に対して要求するものが多く、しかも王伏都が淫暴だったため、徐龕は患いを抱きました。

張敬が東平に到着すると、徐龕は自分を襲いに来たものと疑い、王伏都等三百余人を斬って、また東晋に投降を請いました。

 

石勒は大いに怒って張敬に命を発し、険要な地を占拠して守らせました。

東晋元帝も徐龕の反覆を嫌ったため、投降を受け入れず、羊鑒と蔡豹に勅令して、即時、兵を進めて討つように命じました。

しかし羊鑒がやはり疑憚(恐れて躊躇すること)して進まないため、尚書令・刁協が上奏して羊鑒を弾劾しました。

元帝は羊鑒に対して死罪は免じたものの、官籍から除名し(免死除名)、代わりに蔡豹にその兵を統領させました。

 

王導が相応しくない人材(羊鑒)を推挙した責任を負って、自ら位を落とすことを乞いました(王導以所挙失人乞自貶)

しかし元帝は同意しませんでした。

 

尚、徐龕について『晋書・第六・元帝紀』は五月に「石勒の将・徐龕が衆を率いて来降した」と書き、九月に「徐龕がまた叛して石勒に降った」と書いています(『資治通鑑』では八月に徐龕がまた石勒に降ります。後述します)

 

[十一] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

六月、大水(洪水)がありました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

後趙の孔萇が段匹磾を攻めましたが、戦勝に恃んで備えを設けなかったため、段文鴦が襲撃して大破しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

京兆の人・劉弘が涼州天梯山(『資治通鑑』によると、武威姑臧城南に天梯山がありました)に客居しており、妖術で衆人を惑わしていました。劉弘に従って道(教え)を受けた者は千余人もおり、西平公(諡号は元公)・張寔の左右の者も皆仕えるようになります。

 

帳下・閻渉と牙門・趙卬はどちらも劉弘の郷人でした。

劉弘が二人に「天が私に神璽を与えた。(私は)涼州の王になるべきだ(天与我神璽,応王涼州)」と語ると、二人はそれを信じ、秘かに張寔の左右の者十余人と共に張寔殺害を謀って、劉弘を主に奉じようとしました。

張寔の弟・張茂がこの陰謀を知り、劉弘の誅殺を請いました。張寔は牙門将・史初に命じて劉弘を逮捕させましたが、史初が至る前に閻渉等が刃を懐に隠して侵入し、外寝で張寔を殺しました。

 

劉弘は史初が来たのを見て「使君(張寔)は既に死んだ。私を殺して如何するのだ(殺我何為)」と言いました。

史初は怒って劉弘の舌を斬ってから逮捕し、姑臧(『資治通鑑』胡三省注によると、涼州と武威郡はどちらも姑臧県を治所にしていました)の市で轘(車裂)に処しました。併せて党与数百人も誅殺します。

 

張寔の子・張駿はまだ幼かったため、左司馬・陰元等は張茂を推して涼州刺史・西平公にしました。

張茂は境内で赦(特赦)を行い、張駿を撫軍将軍にしました。

 

『晋書・第六・元帝紀』はこの出来事を「丁酉(初四日)、盗(賊)が西中郎将・護羌校尉・涼州刺史・西平公・張寔を殺した。張寔の弟・張茂が後を継ぎ、領平西将軍・涼州刺史になった」と書いています。

『晋書・列伝第五十六(張寔伝)』では、閻渉と趙卬を「閻沙」「趙仰」としており、張寔が陰謀を知ったため劉弘を捕えて殺しましたが、閻沙等は劉弘が殺されたことを知らず、その夜、張寔を害しています。

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『晋春秋』が二人の名を「閻渉」「趙卬」としており、張寔が殺害された後に劉弘の死を書いています。『資治通鑑』は『晋春秋』に従っています。

 

尚、北京燕山出版社『中国歴代帝王年号』(陳光主編)は、張寔の代から晋愍帝の年号である「建興」と並んで、独自の年号を使っていたとしており(西晋愍帝建興二年・314年参照)、本年を前涼明王・張寔の「永安七年」、前涼成王・張茂の「永元元年」としています。

張寔、張茂が治める涼州を独立した国(前涼)とみなす場合は、東晋、成漢、前趙(漢趙)、後趙と前涼の五国が並立していることになります。

 

 

次回に続きます。

東晋時代11 東晋元帝(十一) 祖逖と石勒 320年(2)

 

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