東晋時代11 東晋元帝(十一) 祖逖と石勒 320年(2)

今回は東晋元帝太興三年の続きです。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

六月丙辰(二十三日)、趙将・解虎と長水校尉・尹車が反叛を謀って巴酋・句徐、厙彭等と結びましたが、事が発覚して解虎、尹車とも誅に伏しました。

漢趙帝(趙主・劉曜)は、句徐、厙彭等五十余人を阿房(『資治通鑑』胡三省注によると、「阿房」は秦の阿房宮があった地です。「阿城」ともいいます)に幽囚して殺そうとしました。

光禄大夫・游子遠が「聖王が刑を用いる時は、ただ元悪(元凶、大悪)を誅すだけです。多くを殺すべきではありません」と言って諫争し、叩頭して血を流しました。

すると、漢趙帝は怒って游子遠が叛逆を助けていると思い、囚禁してしまいました。

句徐、厙彭等は全て殺され、その死体は市に十日間曝されてから水(川)に投げ捨てられました(尸諸市十日乃投於水)

 

この事件がきっかけで巴衆がことごとく反し、巴酋・句渠知を推して主に立てました。自ら「大秦」と称して平趙元年に改元します。

四山の氐人、羌人、巴人、羯人で句渠知に応じた者が三十余万人もおり、関中が大いに混乱して、昼でも城門が閉ざされるようになりました。

 

游子遠が獄中からも上表して諫争しました。

しかし漢趙帝は自分の手で上表を破り棄て、「大荔奴め(大荔は異民族です。『資治通鑑』胡三省注は「游子遠は戎(異民族。大荔)の出身だったのだろう(蓋戎出也)」と書いています)!自分の命が短いことを憂いず、まだ敢えてこのようにするとは、死ぬのが晩いことを嫌っているのか(早く死にたいのか。原文「不憂命在須臾,猶敢如此,嫌死晚邪」)!」と言うと、左右の者に叱咤して速く殺すように命じました。

中山王・劉雅、郭汜、朱紀、呼延晏等が諫めて言いました「子遠は幽囚されて禍が不測にあるのに(いつ死ぬかもわからないのに)、なお諫争を忘れていません。これは忠心の極みです(子遠幽囚,禍在不測,猶不忘諫争,忠之至也)。陛下が(彼を)用いないとしても、どうして殺す必要があるのでしょうか(陛下縦不能用,柰何殺之)。もし子遠が朝に誅殺されたら、臣等も夕(夜)に死んで、陛下の過失を明らかにします(若子遠朝誅,臣等亦当夕死,以彰陛下之過)。天下が陛下を捨てて去ったら、陛下は誰と居るのでしょうか(誰と天下を共にするのでしょうか。原文「陛下誰与居乎」)。」

漢趙帝は怒りを解いて(意解)、やっと游子遠を赦免しました。

 

漢趙帝が勅令を発して内外に戒厳させ、自ら句渠知を討伐しようとしました。

しかし游子遠がまた諫めて言いました「陛下がもし臣の策を用いることができるなら、一月で定められます(平定できます)。大駕が親征する必要はありません。」

漢趙帝が言いました「卿は試しに策を語ってみよ(卿試言之)。」

游子遠が言いました「彼は大志があって非望(不相応な野望)を図ろうと欲したのではなく、ただ陛下の威刑を畏れて死から逃げようと欲しただけです。陛下は広く大赦を行い、彼等と新たに始めるべきです(陛下莫若廓然大赦,與之更始)。先日、解虎・尹車等の事に連座した家の老弱で(官奴として)奚官(官署名)に没入された者は、皆、釈放して家に帰し、互いに誘い合って帰順させ、旧業に復すことを許可するべきです(応前日坐虎車等事,其家老弱没入奚官者,皆縦遣之,使之自相招引,聴其復業)。彼等が既に生路を得たら、(句渠知等は)どうして投降しないでしょう(彼既得生路,何為不降)。もしその中に自分の罪が重いことを知って、屯結(集結、駐屯)したまま解散しない者がいたら、臣に弱兵五千を貸すことを願います。必ず陛下のために彼等を梟(首を斬って晒す刑)に処してみせます(必為陛下梟之)。このようにしなかったら、今、反者は山を満たして谷を覆っているので(彌山被谷)、天威をもって臨んだとしても、恐らく歳月(一年や一月。短時間)で除けるものではありません(恐非歳月可除也)。」

漢趙帝は大いに悦び、即日、大赦を行いました。

また、游子遠を車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事に任命しました。

 

游子遠が雍城に駐屯すると、十余万人が投降し、軍を安定に移すと、離反した者が全て降りました。

しかし、句氏の宗党五千余家だけは陰密を守りました。

游子遠は進攻して句氏を滅ぼし、その後、兵を率いて隴右を巡行しました。

 

これ以前に氐・羌の十余万落(戸)が険阻な地を拠点にして帰服せず、その酋・虚除権渠が自ら秦王を号していました。

游子遠が前進してその営壁に向かうと、虚除権渠は兵を出して拒みましたが、五戦して全て敗れたため、投降しようとしました。

しかし虚除権渠の子・伊餘が衆人に向かって大言しました「以前、劉曜が自ら来たのに、我々をどうすることもできなかった。その偏師ならなおさらだ。なぜ投降するのだ(往者劉曜自来,猶無若我何,況此偏師,何謂降也)!」

伊餘は勁卒(強兵)五万を率いて、晨(朝、早朝)、游子遠の塁門に迫りました。

 

游子遠の諸将が出撃を欲しましたが、游子遠は「伊餘は勇悍で、当今において敵がおらず、率いている兵も我々より精鋭だ(精於我)。また、その父が敗れたばかりなので、まさに怒気が盛んになっている。その鋒(鋭鋒)は当たるべきではない。時間をおいて、(敵の)気を尽きさせてから撃った方がいい(不如緩之,使気竭而後撃之)」と言い、営壁の守りを堅めて戦おうとしませんでした(堅壁不戦)

 

伊餘には驕色(驕り)がありました。

游子遠は伊餘に備えがないことを伺い知り(伺其無備)、夜の間に兵を整え、寝る場所で朝食をとらせました(夜,勒兵蓐食)

(早朝)、ちょうど大風が吹いて砂塵で空が暗くなりました(値大風塵昏)。游子遠が部衆を全て率いて出撃し、伊餘を急襲します。伊餘は生捕りされ、その衆も全て捕虜になりました。

 

権渠は大いに懼れ、被髪・剺面(「被髪」は髪を束ねないこと、「剺面」は刀で顔に傷つけることです)して投降を請いました。

游子遠がこれを漢趙帝に報告します。

権渠は征西将軍・西戎公に任命され、伊餘兄弟とその部落二十余万口は権渠から分けて長安に遷されました。

 

漢趙帝は游子遠を大司徒・録尚書事にしました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

漢趙帝(趙主・劉曜)が太学を建てました。

民から神志(精神と知性)が優れていて教育を受けるのに相応しい者(神志可教者)を千五百人選抜し、儒臣を選んで教えさせます。

 

酆明観および西宮を築き、滈池(鎬池。『資治通鑑』胡三省注によると、長安西南に鎬池がありました)に陵霄台を建てました。また、霸陵(西漢文帝陵)の西南に寿陵(生前に造る墓陵)を造営しました。

 

侍中・喬豫と和苞が上書して諫めました「衛文公は乱亡の後を継承しましたが、節用して(費用を節約して)民を愛し、宮室の営建(造営、建設)が時制(時節と制度)を得ていたので、康叔の業を興して九百の祚(国運)に延ばすことができました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。春秋時代、衛は狄人に滅ぼされましたが、文公が復興させたおかげで、康叔から始まる衛の国運を、秦に滅ぼされるまでの九百余年に延ばすことができました)。以前、詔書を奉じて酆明観を造営した時、市道の細民は皆、その奢(奢侈)を謗って『この一観の功(事業、労力)を用いれば、涼州を平定するに足りるだろう(以一観之功,足以平涼州矣)』と言いました。今また阿房を擬して(真似て)西宮を建てようと欲し、瓊台(夏桀・殷紂が建てた玉台)に法って陵霄を起こそうと欲していますが、それによる労費(労力・費用)は酆明の億万倍になり(其為労費,億万酆明)、もしそれを軍旅の資本にすれば、呉・蜀(東晋と成漢)を兼併して斉・魏(曹嶷と後趙)を統一することができます(若以資軍旅,乃可兼呉蜀而壹斉魏矣)。また、聞くところによると、寿陵を営建して、周囲は四里、深さは三十五丈もあり、銅で椁(棺)を造り、装飾は黄金を使うとのことですが、功費がこのようであったら、恐らく国内で処理できるものではありません(功費若此,殆非国内所能辦也)。秦始皇は、下は三泉(地下水)を塞ぎましたが(原文「下錮三泉」。秦始皇帝は地下を深く掘って三泉に至り、溶かした金属でそれを塞ぎました。秦始皇帝三十七年・前210年参照)、土がまだ乾かないうちに発毀(発掘、破壊)されました。古から滅亡しなかった国はなく、発掘されなかった墓もありません(自古無不亡之国,不掘之墓)。だから聖王の倹葬(質素な埋葬)とは深遠の慮(深遠な考慮)によるものなのです。陛下は中興の日にありながら、なぜ亡国の事を追うのですか(原文「陛下柰何於中興之日而踵亡国之事乎」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。劉曜は靳氏の難を平定して自立したため、中興と称されました)。」

 

漢趙帝が詔を下しました「二侍中は懇懇(誠意ある様子)として古人の風があり、社稷の臣ということができる。ここに宮室の諸役を悉く中止し、寿陵の制度は一切を霸陵の法に準じることにする(寿陵制度,一遵霸陵之法)。喬豫を安昌子に、和苞を平輿子に封じ(どちらも子爵です)、並んで諫議大夫を兼任させる(並領諫議大夫)。これを天下に布告して、区区の朝(小さな朝廷。我が朝廷)は過失を聞くことを欲していると知らしめよ(仍布告天下,使知区区之朝欲聞其過也)。」

 

また、酆水囿を省いて貧民に与えました。

『資治通鑑』胡三省注によると、豊水が京兆南山から出て東北に流れ、渭水に注ぎました。劉曜は豊水周辺に囿(帝王が狩猟や遊楽する園地)を造っていました。これが酆水囿です。

 

[十六] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

秋七月丁亥(二十四日)、東晋武帝が詔を発しました「先公武王(司馬伷。司馬懿の子。元帝の祖父)と先考恭王(司馬覲。元帝の父)は主君として琅邪に臨んで四十余年(臨君琅邪四十余年)、恵沢を百姓に加え、遺愛(死後に残した仁愛、恩恵)を人情(人心)に結んだ。(そのため)朕が天符に応じて江表(江南)で創基(創業)すると、兆庶(万民)が宅心(帰心)し、幼い子を背負って来た(琅邪から老幼の者が助けあって江南に来た。原文「繈負子来」)。琅邪の国人でここにいる者は千戸近くにもなるので、今、懐徳県を立てて丹楊(丹陽)郡に属させる(今立為懐徳県,統丹楊郡)。昔、漢高祖は沛を湯沐邑とし(湯沐邑は諸侯や公主、貴族等の私邑です。西漢高祖が故郷の沛を自分の湯沐邑としたので、沛の民は諸侯や州郡に税を納める必要がなくなりました)、光武もまた南頓を復した(南頓の賦税・徭役を免除した)(懐徳県に対する)優復の科(優遇や賦役の免除に関する決まり)は一切を漢氏の故事に則ることにする(一依漢氏故事)。」

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

祖逖の将・韓潜と後趙の将・桃豹が陳川故城を分けて占拠しました。桃豹は西台に住んで韓潜は東台に住み、桃豹は南門から出入りして韓潜は東門から出入りし、互いに堅守して四旬(四十日)が経ちます。

 

祖逖が布囊(布袋)に土を入れて米が入っているように見せ、千余人にそれを運んで台(東台)に上らせ、また、数人に本物の米を担いで道で休息させました。

桃豹の兵がそれを追うと、休んでいた兵が擔(肩に担ぐ棒)を棄てて逃走しました。

桃豹の兵は久しく飢えていたため、晋兵の米を得て、祖逖の士衆は豊飽(食糧が豊富で満腹な状態)だと思い、ますます懼れました。

 

後趙の将・劉夜堂が千頭の驢馬で食糧を運んで桃豹に送ろうとしましたが、祖逖が韓潜および別将・馮鉄に汴水(『資治通鑑』胡三省注によると、蒗𦿆渠水が中牟から東に流れ、浚儀県に至って二水に分かれました。南に流れる川を沙水、東に流れる川を汴水といいます。汴水は東に向かって梁郡に入ります)で邀撃(迎撃。移動中の敵を道中で攻撃すること)させ、全て獲得しました。

桃豹は夜に遁走して東燕城に駐屯しました(『資治通鑑』胡三省注によると、この東燕は漢代の東郡燕県です。後魏(北魏)になって、東燕県を置いて陳留郡に属させ、隋は胙城県に改名して東郡に属させ、唐は滑州に属させます。桃豹の兵は既に懼れを抱いており、しかも食糧を奪われたため、夜の間に遁走しました)

 

祖逖は韓潜に兵を進めさせ、封丘に駐屯して桃豹に迫らせました。馮鉄が二台を占拠し、祖逖は雍丘を鎮守します(『資治通鑑』胡三省注によると、封丘、雍丘の二県とも陳留郡に属します。雍丘はかつての杞国です)

 

祖逖はしばしば兵を派遣して後趙の兵を邀撃させました。

祖逖に帰順する後趙の鎮戍(守備兵や営塁)が甚だ多くなり、後趙の境土が徐々に縮小します。

 

これ以前は趙固、上官巳、李矩、郭黙が互いに攻撃しあっていましたが、祖逖が使者を馳せさせ、彼等を和解させて禍福(利害)を示したため、皆が祖逖の節度(指揮)を受けるようになりました。

 

この月(七月)、東晋元帝が詔によって祖逖に鎮西将軍を加えました。

 

『晋書・第六・元帝紀』は『資治通鑑』と少し異なり「祖逖の部将・衛策が石勒の別軍を汴水で大破した。祖逖に鎮西将軍を加えた」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

祖逖は軍にいて将士と甘苦を共にし、自分を律して施しに務め(約己務施)、農業を奨励・監督し(勧課農桑)、新たに帰附した者を受け入れて慰撫し(撫納新附)、疏賎の者(関係が遠い者や身分が低い者)でも皆、恩礼をもって交わりました(皆結以恩礼)

河上の諸塢で、これ以前から後趙に任子(人質)を置いている者は、全て両属(晋趙両方に仕えること)を許可し、時には游軍を送って諸塢を侵犯するふりをして(偽抄之)、まだ彼等が晋に帰順していない姿を示しました。

塢主は皆、恩を感じ、後趙に異謀があるとすぐ秘かに報告するようになります。こうして祖逖は克獲(戦勝、虜獲)が多くなり、黄河以南の多くの者が後趙に叛して晋に帰順しました。

 

祖逖は兵を鍛えて穀物を蓄え、河北を取る計を為しました。

後趙王・石勒はこれを患い、幽州に命じて祖逖のために祖父と父の墓を修築させ、守冢(墓守)を二家置きました(『資治通鑑』胡三省注によると、祖逖は范陽の人で、祖父と父の墓がそこにありました)

石勒はこれを機に祖逖に書を送り、通使(使者を往来させること)と互市(市を開いて交易すること)を求めました。

祖逖は返答の書を送りませんでしたが、互市には同意して十倍の利益を収めました。

 

祖逖の牙門・童建(『資治通鑑』胡三省注によると、顓頊の子・老童の後代が童を氏にしました)が新蔡内史・周密を殺して後趙に降りました。

しかし石勒は童建を斬り、首を祖逖に送ってこう伝えました「叛臣・逃吏は私の深仇(深く憎む者)だ。将軍が悪とする者は、私にとっても悪である(叛臣逃吏,吾之深仇,将軍之悪,猶吾悪也)。」

祖逖はこれを深く徳とし(感謝し)、この後、後趙の人が叛して祖逖に帰順しても、祖逖は全て受け入れず、諸将が後趙の民を侵暴することも禁止しました。

辺境の間がわずかに休息を得ます。

 

 

次回に続きます。

東晋時代12 東晋元帝(十二) 王敦 320年(3)

2 thoughts on “東晋時代11 東晋元帝(十一) 祖逖と石勒 320年(2)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です