東晋時代12 東晋元帝(十二) 王敦 320年(3)

今回で東晋元帝太興三年が終わります。

 

[十八] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

八月戊午(二十六日)、東晋元帝が敬王后・虞氏を尊んで敬皇后にしました(皇后の位を追贈しました)

 

『晋書・列伝第二・后妃伝下』によると、元敬虞皇后(敬皇后。「元」は元帝の死後につけられました)は名を孟母といい、元帝が琅邪王だった頃に娶って妃にしましたが、子ができず、西晋懐帝永嘉六年(312年)に三十五歳で死にました。

 

[十九] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

辛酉(二十九日)、東晋が神主(牌位)を太廟に遷しました。

 

[二十] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月辛未(『晋書・元帝紀』『資治通鑑』とも「辛未」としていますが、この年八月は「癸巳」が朔なので、「辛未」はありません)、東晋の梁州刺史・安南将軍・周訪が死にました。

 

周訪は善く士人を慰撫したため、衆人が皆、命を懸けました(皆為致死)

王敦に不臣の心があると知って、心中で常に切歯(憤懣を表します)していました。そのため王敦も周訪の世が終わるまでは(周訪が死ぬまでは)、敢えて叛逆を為すことができませんでした。

 

[二十一] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

東晋の皇太子・司馬紹が太学で釋奠(先聖・先師を祭る儀式)を行いました。

 

[二十二] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

王敦が従事中郎・郭舒を派遣して襄陽軍を監督させましたが、元帝が湘州刺史・甘卓を安南将軍・梁州刺史・督沔北諸軍事に任命して襄陽を鎮守させました。

郭舒が引き還すと、元帝が郭舒を招聘して右丞に任命しましたが、王敦は郭舒を留めて朝廷に送りませんでした(王敦は当時、武昌にいたと思われます)

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

後趙王・石勒が中山公・石虎を派遣し、歩騎四万を率いて徐龕を撃たせました。

徐龕は妻子を送って質(人質)とし、投降を乞います。

石勒はこれに同意しました。

 

東晋の徐州刺史・蔡豹が卞城(『資治通鑑』胡三省注によると、卞県は魯国に属しました)に駐屯しました。

石虎が撃とうとしたため、蔡豹は退いて下邳を守りましたが、徐龕に敗れました。

 

石虎は兵を率いて封丘に城を築いてから引き還しました。士族三百家を移して襄国崇仁里(『資治通鑑』胡三省注によると、崇仁里は石勒が命名しました。衣冠の族が住んだ場所です)に置き、公族大夫を配置して統領させました。

 

[二十四] 『資治通鑑』からです。

後趙王・石勒は法を用いる姿勢が甚だ厳しく、「胡」という字を特に嫌って避けていました(諱胡尤峻)

宮殿が完成して門戸の禁(禁令)ができたばかりの時、酔った胡人が馬に乗ったまま止車門に突入したことがありました。

石勒が大怒して宮門小執法・馮翥(『資治通鑑』胡三省注によると、「執法」は御史(監察)の官です。晋の旧臣が石勒のために官制を定め、宮門に執法を置きました。張賓が大執法として朝政を総監したので、宮門の執法は「小執法」と呼ばれました)を譴責すると、馮翥は惶懼(恐惶、恐惧)して諱(忌避。「胡」という字を避けること)を忘れ、こう答えました「先ほど、酔胡(酔った胡人)がおり、馬に乗って馳せ入ったので、激しく叱責して防ごうとしましたが、話ができませんでした(向有酔胡乗馬馳入,甚呵禦之而不可與語)。」

石勒は笑って「胡人はまさに元々話をするのが難しいものだ(胡人正自難與言)」と言い、寛恕して罪を問いませんでした。

 

石勒は張賓に領選(官人登用の管理を兼任すること)させました。初めは官位に五品を定め、後に改めて九品を定めます。

また、公卿および州郡に命じ、秀才・至孝・廉清・賢良・直言・武勇の士を毎年各一人挙げさせました。

 

[二十五] 『資治通鑑』からです。

西平公・張茂が兄の子・張駿を世子(後嗣)に立てました。

 

[二十六] 『資治通鑑』からです。

東晋の徐州刺史・蔡豹は徐龕に敗れてから、建康を訪ねて罪に帰そうとしましたが、北中郎将・王舒が制止しました。

 

一方、元帝は「蔡豹が退いた」と聞いて、使者を派遣して捕えさせました。

すると王舒が夜の間に兵を率いて蔡豹を包囲しました。蔡豹は他寇(別の敵)が攻めてきたと思い、麾下を率いて撃とうとしましたが、詔が下されたと聞いて止めました。王舒が蔡豹を捕えて建康に送ります。

 

冬十月丙辰(二十五日)、蔡豹が斬られました。

 

『晋書・第六・元帝紀』は「冬十月丙辰(二十五日)、徐州刺史・蔡豹が畏懦(臆病・惰弱の罪)によって誅に伏した」と書いています。

 

[二十七] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の王敦が武陵内史・向碩を殺しました。

 

元帝がかつて江東を鎮守していた時(即位前です)、王敦と従弟の王導が同心になって司馬睿(元帝)を翼戴(補佐・擁戴)し、司馬睿も誠意をもって信任しました(推心任之)。その後、王敦は征討を総監し、王導は機政(国家中枢の政務)を専らにするようになります(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。西晋懐帝時代、司馬睿が王敦を揚州刺史に任命し、都督征討諸軍事を加えました。華軼、杜弢、王機、杜曾の討滅は全て王敦の功績です。王導は録尚書事になりました。尚書は万機の本(諸政務の根本)です)

また、王敦の群従(諸従兄弟、親戚)や子弟も顕要に布列(遍布、分布)したため、時の人はこの状態を称して「王(王氏)と馬(司馬氏)が天下を共にしている(王與馬,共天下)」と言いました。

しかし後に王敦は、自分の功績を恃みとし(自恃有功)、しかも宗族も強盛になったため、しだいに驕恣(驕慢放縦)になっていきました。

 

元帝は王敦を畏れて憎悪し、劉隗、刁協等を引き入れて腹心にしました。少しずつ王氏の権勢を抑損(抑制、削減)し、王導も徐々に疎外されるようになります。

中書郎・孔愉が元帝に「王導は忠賢であり、佐命の勲(天命を輔佐した勲功)があるので、委任(信任、任用)を加えるべきです」と陳述しましたが、元帝は孔愉を中書から出して司徒左長史にしました。

 

王導は任真推分(「任真」は自然、率直なこと、「推分」は自分の本分を守ることです)な態度でいることができ、澹如(淡白、寡欲)だったので、有識者は皆、「王導は善く興廃に対処できる(地位や立場の昇降にうまく対応できる。原文「善処興廃」)」と称賛しました。しかし王敦はますます不平を抱き、ついに嫌隙を構えることになります(元帝との対立を深めました)

 

以前、王敦が呉興の人・沈充を招聘して参軍に任命しました。

沈充が同郡の銭鳳を推薦したたため、王敦は銭鳳を鎧曹参軍にしました。

二人は巧みにおもねり、凶悪かつ狡猾で(巧諂凶狡)、王敦に異志があると知ると、秘かにそれを支持して王敦のために画策しました(陰賛成之,為之画策)。王敦も二人を寵信したため、二人の権勢が内外を圧倒するようになります(勢傾内外)

 

王敦が上書して王導のために訟屈(不遇を訴えること)しました。その辞語には怨望(怨恨)が表れています。

王導はそれに封をして王敦に返しましたが(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。王導は尚書を主管しているので、先に王敦の上書を読むことができました)、王敦は再び送って上奏しました。

左将軍・譙王・司馬氶(『資治通鑑』は、晋王(司馬睿。東晋元帝)建武元年・317年には「司馬承」と書いていますが、ここでは「承」を「氶」としており、胡三省注が「承は誤り」と解説しています。司馬氶は司馬遜の子で、司馬遜は司馬懿の弟・司馬進の子です)は忠厚で志行(忠烈な志と行い)があったため、元帝に親信(親近、信任)されていました。

夜、元帝が司馬氶を召して王敦の上書を示し、こう言いました「王敦は近年の功によって位任(官位と職責)が充分になっているのに、要求が止むことなく、言がこのようになっている。今後、どうなるだろう(王敦以頃年之功,位任足矣,而所求不已,言至於此,将若之何)。」

司馬氶が言いました「陛下が早くこれを処理しなかったので、今日に至ったのです。王敦は必ず患を為します(陛下不早裁之以至今日,敦必為患)。」

 

劉隗が元帝のために謀を為し、心腹の臣を中央から出して方面(地方)を鎮守させました。

ちょうど王敦が上表して、宣城内史・沈充を甘卓の代わりに湘州刺史に任命するように求めました。

元帝が司馬氶に言いました「王敦の姦逆は既に著しくなった。朕が恵皇となるのは、遠くないはずだ(朕が恵帝のように強臣に抑制される日が来るのは遠くない。原文「朕為恵皇,其勢不遠」)。湘州は(長江)上流の地勢を占拠しており、三州が隣接する要地を制御している(『資治通鑑』胡三省注によると、「三州」は荊・交・広州を指します。原文「湘州拠上流之勢,控三州之会」)。叔父(あなた。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。古では、天子と同姓の諸侯は伯父・叔父と呼ばれました。また、司馬氶は宣帝の従孫(兄弟の孫)で、元帝は宣帝の曾孫に当たるので、叔父の関係になります)をそこに居させたいと欲するが、どうだ。」

司馬氶が言いました「臣が詔命を承ったら、ただ力を尽くして行動するのみです。どうして辞退することがあるでしょう(臣奉承詔命,惟力是視,何敢有辞)。しかし湘州は蜀寇の余を経ており(『資治通鑑』胡三省注によると、杜弢の乱を経験したことを指します)、民も物も凋落・疲弊しているので、もしこの部(州)を得ても、三年経たなければ戦事に赴くことはできません(湘州経蜀寇之余,民物凋弊,若得之部,比及三年乃可即戎)。三年に及ばないようなら、たとえ身を灰にしたとしても、益はありません(苟未及此,雖復灰身,亦無益也)。」

 

十二月、元帝が詔を発しました「晋室の開基(建国)から、方鎮の任は親賢(親族と賢才)を並用してきた。よって譙王・氶を湘州刺史とする。」

長沙の人・鄧騫はこれを聞いて、嘆いて「湘州の禍はここにあるのではないか(ここから始まるだろう。原文「湘州之禍,其在斯乎」)」と言いました。

 

司馬氶が出発して武昌に至ると、王敦が宴を開いて司馬氶に言いました「大王はかねてから佳士(高雅の士。品行・才学が優良な士)なので、恐らく将帥の才ではないでしょう(大王雅素佳士,恐非将帥才也)。」

司馬氶が言いました「公が見知っていないだけだ。鉛刀にどうして一割の用もないのだ(原文「公未見知耳,鉛刀豈無一割之用」。「鉛刀豈無一割之用」は東漢・班超の言葉が元になっており、鉛の刀でも物を割ることができる、という意味です。ここから「鉛刀一割」という成語ができました)。」

 

王敦は銭鳳に「彼は懼れることを知らないのに壮語を学んだ。その不武(軍事に精通していないこと)を知るに足りる。(彼は)何も為すことができない(無能為也)」と言い、司馬氶が鎮に行くことに同意しました。

『資治通鑑』胡三省注は「司馬氶は、忠は余りあるほどだったが才が足りなかった。王敦はそれを窺い見て何も為せないと知った」と解説しています。

 

当時、湘土は荒残(荒廃)しており、公私とも困弊(困窮疲弊)していました。

司馬氶は自ら倹約に努め、心を尽くして綏撫(平定・慰撫)したため、甚だ能名(能力があるという名声)がありました。

 

[二十八] 『資治通鑑』からです。

高句麗が遼東を侵しましたが、慕容仁が戦って大破しました。

この後、高句麗は慕容仁の辺境を侵さなくなりました。

 

次回に続きます。

東晋時代13 東晋元帝(十三) 祖逖の死 321年

 

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