東晋時代13 東晋元帝(十三) 祖逖の死 321年

今回は東晋元帝太興四年です。

 

東晋元帝太興(大興)四年

成漢武帝玉衡十一年/漢趙帝(劉曜)光初四年

後趙趙王(石勒)三年/前涼成王永元二年

辛巳 321年

 

[一] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

春二月、徐龕がまた衆人を率いて東晋に投降を請いました。

 

[二] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

鮮卑の末波(人名)が皇帝の信璽(印璽)を奉じて東晋に送りました。

庚戌(二十一日)、東晋元帝が太廟に報告して信璽を受け取りました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前涼の張茂が霊鈞台を築き、基(基台、土台)の高さが九仞もありました。

武陵の人・閻曾(『資治通鑑』胡三省注は、「武陵」は恐らく「武威」が正しい、と解説しています)が夜に府門を叩いてこう叫びました「武公(張軌の諡号です)が私を遣わして、『なぜ民を労して台を築くのだ』と言わせました(武公遣我来言何故労民築台)。」

有司(官員)が妖(妖言、妖人)とみなして閻曾を殺すように請いましたが、張茂は「私は確かに民を労している。閻曾は先君の命と称することで私を諫めたのだ。なぜ妖とみなすのだ(吾信労民。曾称先君之命以規我,何謂妖乎)」と言い、これを機に労役を中止しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

三月癸亥(初四日)、太陽の中に黒子(黒点)が現れました(日中有黒子)

『資治通鑑』胡三省注によると、太陽に黒子が現れたというのは、陰が陽を侵していることを意味します。当時は王敦の驕悖(驕慢無道)がしだいに甚だしくなっていたため、天象として現れました。

 

尚、『晋書・第六・元帝紀』は二月の「癸亥」に「日鬥」と書いていますが、この年二月には、「癸亥」はありません。「日鬥」というのは、「二つの太陽が闘った」という意味だと思います。

 

『資治通鑑』に戻ります。

著作佐郎・河東の人・郭璞は、元帝の刑を用いる様子が度を越えていると考え(用刑過差)、上書してこう主張しました「陰陽が錯繆(錯乱)しているのは全て繁刑(頻繁かつ苛酷な刑罰)がもたらしているのです。頻繁に赦免を行うべきではないというのは、実に聖旨の通りです(陛下の考えの通りです。『資治通鑑』の原文は「赦不欲数(赦は数を欲しない。頻繁に赦免するべきではない)」だけで、意味が通じにくいので、この一文は『晋書・列伝第四十二・郭璞伝』の「赦不宜数,実如聖旨」を参考にしました)(しかし)子産は、刑書を鋳ることは政の善(政事を行う最良の方法)ではないと知っていましたが、やはりそれを作らなければなりませんでした。これは弊害を除く必要があったからです(原文「赦不欲数,然子産知鋳刑書非政之善,不得不作者,須以救弊故也」。東周景王九年・前536年参照)。今、(罪人を)赦免すべきであるのは、それと同じ道理です(今之宜赦,理亦如之)。」

 

[五] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

東晋が『周易』『儀礼』『公羊』の博士を置きました。

 

[六] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

癸酉(十四日)、東晋が平東将軍・曹嶷を安東将軍に任命しました。

 

[七] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

夏四月辛亥(二十三日)、東晋元帝が自ら庶獄(諸獄。諸々の刑獄・訴訟に関する事)を観覧しました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

後趙の中山公・石虎が厭次で幽州刺史・段匹磾を攻撃し、孔萇が統内の諸城(段匹磾統治下の諸城)を全て攻略しました。

段文鴦が段匹磾に言いました「私は勇によって名が知られているので、民が倚望(恃み、仰望)するところとなっています(我以勇聞,故為民所倚望)。今、民が奪われているのを視ても救わないのは、怯(臆病)というものです(今視民被掠而不救,是怯也)。民が望(希望、恃み)とするところを失ったら、誰がまた我々のために命を棄てるでしょう(民失所望,誰復為我致死)。」

段文鴦は壮士数十騎を率いて出撃し、甚だ多数の後趙兵を殺しましたが、馬が疲労して、伏したまま起ちあがれなくなりました。

石虎が段文鴦に呼びかけました「兄(あなた)と私はどちらも夷狄なので、久しく兄と共に一家になりたいと欲していました。今、天が(私の)願いに違えなかったので、ここで会うことができました。なぜまだ戦うのですか。武器を棄てることを請います(請釈仗)。」

しかし段文鴦は罵ってこう言いました「汝は寇賊となり、死ぬべき日が来て久しくなる(既に死んでいるはずだった。原文「汝為寇賊,当死日久」)。私の兄(段疾陸眷)が私の策を用いなかったから、汝をここに至らせることができたのだ(段文鴦はかつて石勒との講和に反対しました。西晋懐帝永嘉六年・312年参照)。私はたとえ闘って死んだとしても、汝のために屈することはない(我寧闘死,不為汝屈)。」

段文鴦は馬から下りて困難な戦いを続け(下馬苦戦)(長矛)が折れても刀に持ち替えて戦いを止めませんでした。

戦闘は辰(午前七時から九時)から申(午後三時から五時)に至りました。

後趙兵が四面で馬羅披(馬の防具、泥除け)を解いて自分の盾にしながら前に進み、段文鴦を捕えようとします(後趙兵四面解馬羅披自鄣,前執文鴦)

段文鴦はついに力が尽きて捕虜になり、城内が気(士気、戦意)を奪われました。

 

段匹磾は単騎で帰朝しようと欲しました(東晋の朝廷に帰順しようとしました)

しかし邵続の弟・楽安内史・邵洎が兵をまとめて段匹磾の指示を拒否し(段匹磾の帰朝を妨害し)、しかも台使(晋朝の使者)・王英を捕えて石虎に送ろうとしました。

段匹磾が色を正して邵洎を譴責し、こう言いました「卿は兄の志を遵守することができず、私に迫って帰朝できないようにした。それだけでも既に甚だしいのに、更に天子の使者を捕えようと欲している。私は夷狄だが、このような事は聞いたことがない(卿不能遵兄之志,逼吾不得帰朝亦已甚矣,復欲執天子使者,我雖夷狄所未聞也)。」

 

邵洎は兄の子・邵緝、邵竺等と共に、棺を携えて(原文「輿櫬」。投降の姿です)城を出て(石虎に)降りました(『晋書・列伝第三十三(段匹磾伝)』によると、段匹磾も王英を南に帰らせてから、石虎に会いに行きました)

 

段匹磾は石虎に会うとこう言いました「私は晋の恩を受けており、志は汝を滅ぼすことにある。不幸にもここに至ったが、汝のために敬意を表すことはできない(不幸至此,不能為汝敬也)。」

後趙王・石勒と石虎は段匹磾と兄弟の関係を結んでいたため、石虎はすぐに立ち上がって拝礼しました。

 

石勒は段匹磾を冠軍将軍に、段文鴦を左中郎将に任命し、諸々の流民三万余戸を分散して本業に帰らせ、守宰(地方の長官)を置いて慰撫させました。

こうして幽・冀・并三州の地が全て後趙に入ります。

 

段匹磾は石勒の礼(後趙の儀礼・制度)を受け入れず、常に晋の朝服を身に着けて晋の符節を持ちました。

久しくして、段匹磾、段文鴦、邵続とも後趙に殺されました。

 

『晋書・第六・元帝紀』はこの出来事を「石勒が猒次(厭次)を攻めて落とした。撫軍将軍・幽州刺史・段匹磾が石勒によって没した」と書いています。

 

[九] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

五月、旱害に襲われました。

 

[十] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

庚申(初二日)、東晋元帝が詔を発しました「昔、漢の二祖(高祖と光武帝)および魏武(曹操)は、皆、良人を免じた(良人なのに難に遭って奴隷になった者は、身分を回復された)(西晋)武帝の時、涼州が覆敗(覆滅・敗亡)して(涼州が鮮卑に占拠された事件を指すと思われます。西晋武帝咸寧五年・279年参照)、奴婢となっていた諸人も籍を回復された(涼州覆敗,諸為奴婢亦皆復籍)。これは累代の成規(代を重ねて守られてきた規則)である。よって、中州(中原)の良人で、難に遭って揚州諸郡の僮客(奴隷、奴僕)になった者は(奴婢の身分を)免じ、そうすることで征役(徴兵、徭役)の備えとする。」

 

これは尚書令・刁協の謀によるものです。そのため、衆人がますます刁協を怨むようになりました(奴奴を奪われた豪族が刁協を怨みました)

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

終南山が崩れました。

『資治通鑑』胡三省注によると、終南山は長安南の山です。当時は劉曜(漢趙帝)が関中を占拠していたので、漢趙に対する亡国の徵(兆)です。よって、『晋書』は「本紀」ではなく『載記第三(劉曜載記)』に書いています。

 

[十二] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

秋七月、大水(洪水)がありました。

 

[十三] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲戌(十七日)、東晋が尚書僕射・戴淵(「尚書僕射・戴淵」は『資治通鑑』の記述で、『晋書・元帝紀』では「尚書・戴若思」です。「若思」は「戴淵」の字です)を征西将軍・都督司兗豫并雍冀六州諸軍事・司州刺史に任命して合肥を鎮守させ(『資治通鑑』胡三省注によると、合肥県は淮南郡に属しました)、丹楊(丹陽)尹・劉隗を鎮北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事・青州刺史に任命して淮陰を鎮守させました(『資治通鑑』胡三省注によると、淮陰県は、西漢は臨淮郡に属し、東漢は下邳郡に属し、晋は広陵郡に属しました)。それぞれに符節を授けて兵を統領させます(假節領兵)

どちらも名分は胡を討つためとされましたが、実際は王敦に備えるための配置でした。

 

劉隗は外にいましたが、朝廷の機事(機密、大事)や士大夫の進退に関して、元帝は全て劉隗と密謀しました。

王敦が劉隗に書を送りました「近頃は聖上(陛下)の顧眄(信任、器重)が足下に向けられている(頃承聖上顧眄足下)。今は大賊がまだ滅びず、中原が鼎沸(沸騰した鼎のように混乱していること)としているので、足下および周生の徒(周生のような者達。『資治通鑑』胡三省注によると、「周生」は周顗を指します。王敦は以前から周顗を憚っていました)と一緒に、王室に対して戮力(尽力)し、共に海内を静めたいと欲している。もし泰(良。うまくいくこと)であったら、帝祚(帝位、国運)がそれによって興隆するだろう(若其泰也,則帝祚於是乎隆)。もし否(失敗すること)であったら、天下には永遠に望みが無くなる(若其否也,則天下永無望矣)。」

劉隗はこう答えました「『魚は江湖において互いに忘れ、人は道術(道義。道を得た世界)において互いに忘れる(魚は広い江湖において自分が魚であることすら忘れて自由に泳ぎ回り、人は正しい道においてそれぞれ自由に行動するものである。『荘子』の言葉が元になっています。原文「魚相忘於江湖,人相忘於道術」)』『股肱の力を尽くし、忠貞によってそれを発揮する(原文「竭股肱之力,效之以忠貞」。『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代、晋の大夫・荀息の言葉です)』これが私の志です(婉曲に王敦との協力を断っています)。」

返書を得た王敦は甚だしく怒りました。

 

壬午(二十五日)、元帝が驃騎将軍・王導を侍中・司空・假節・録尚書・領中書監に任命しました。

 

元帝は王敦が原因で王導も疏忌(猜疑して疎遠にすること)していました。

そこで、御史中丞・周嵩が上書しました「王導は忠素(忠誠実直)で誠を尽くしており、大業を輔佐して完成させました(忠素竭誠,輔成大業)。孤臣(孤陋の臣。見識見聞がない臣)の言を聴いて疑似の説(正しいようで間違っている説)に惑わされるべきではありません。旧徳を放逐して、佞臣と賢才を同列にしたら(放逐旧徳以佞伍賢)、既往の恩(過去の恩)を損なって将来の患(王導が王敦と組むこと)を招くことになります。」

元帝は頗る感寤し、そのおかげで王導も身を守ることができました(由是得全)

『資治通鑑』胡三省注は「周顗兄弟が王導を保護した」と解説しています。

 

[十四] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月、常山が崩れました。

『資治通鑑』胡三省注によると、常山は常山郡上曲陽県の西北にあり、当時は石勒(後趙)に属していました。

 

[十五] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の鎮西将軍・豫州刺史・祖逖は、戴淵(征西将軍・都督司兗豫并雍冀六州諸軍事)が呉士だったため(『資治通鑑』胡三省注によると、戴淵は広陵の人です。広陵は西漢時代に呉楚七国の乱を起こした呉王・劉濞の都でした)、たとえ才望(能力と声望)はあっても弘致(大義。または大志)と遠識(遠見。深遠な見識)はないとみなしていました。しかも祖逖は自分で荊棘を切り除いて(道を開いて)河南の地を收復したのに、戴淵は雍容(従容。悠然とした様子)として一旦においてそれを統領しに来たので、心中で甚だ怏怏(不服、不満の様子)としていました。

また、王敦と劉・刁(劉隗、刁協)の間で対立が生まれており、いずれ内難(内乱)が起きると聞いて、大功を成し遂げることはできないと知り、激昂して病を患いました(感激発病)

 

九月壬寅(『晋書・元帝紀』『資治通鑑』とも「九月壬寅」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年九月は「丁巳」が朔なので、「壬寅」はないはずです)、祖逖が雍丘で死にました。

豫州の士女は父母を喪ったように悲しみ、譙・梁の間では皆、祠を建てて祀りました。

 

王敦は久しく異志を抱いており、祖逖が死んだと聞いてますます憚ることが無くなりました。

 

冬十月壬午(『晋書・元帝紀』『資治通鑑』とも「十月壬午」としていますが、これも恐らく誤りです。『二十史朔閏表』によると、この年十月は「丙戌」が朔です)、東晋が祖逖の弟に当たる侍中・祖約を平西将軍・豫州刺史に任命して祖逖の衆を統領させました。

しかし祖約には綏御(安撫・制御)の才がなく、士卒が帰心するところとはなれませんでした。

 

以前、范陽の人・李産が乱を避けて祖逖を頼りましたが、祖約の志趣(志向、抱負)が異常なのを見て、親しい人にこう言いました「私は北方が鼎沸(鼎が沸くように混乱すること)としているので、遠くからここに来て、宗族を保全することを望んだ(吾以北方鼎沸,故遠来就此,冀全宗族)(しかし)今、祖約が為していることを観るに、測り知れない志(相応しくない志)がある(有不可測之志)。私は姻親を理由に早く自分のために計を為すつもりだ(故郷での婚姻を理由に帰るつもりだ、という意味だと思います)(彼に)仕えてまたこの身を不義に陥れるわけにはいかない(吾託名姻親,当早自為計,無事復陷身於不義也)。汝等も目前の利によって長久の策を忘れてはならない(爾曹不可以目前之利而忘長久之策)。」

こうして李産は子弟十余人を率いて間道から郷里に帰りました。

 

祖約は後に蘇峻の乱に参加して身を滅ぼすことになります。

『資治通鑑』胡三省注によると、李産父子は後に慕容儁に仕えます。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

十一月、東晋元帝に皇孫・司馬衍が生まれました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

後趙王・石勒が武郷の耆旧(声望がある高齢者)を全て召して襄国を訪ねさせ、共に坐して歓飲しました。

石勒が微賎だった時、李陽が隣に住んでおり、しばしば漚麻の池(「漚麻」は麻を水に浸して発酵させることです)を争って殴り合ったため、李陽だけは今回の宴に来ようとしませんでした。

すると石勒は「李陽は壮士だ。漚麻は布衣の恨である(漚麻の件は、平民だった頃の恨みである)。孤(私)はまさに天下を兼容(兼併)しようとしている。どうして匹夫(平民)を讎とすることがあるか(豈讎匹夫乎)」と言い、急いで李陽を招いて一緒に飲みました。

更に石勒は李陽の臂(腕)を引いて「孤(私)は往日において卿の老拳を厭い、卿もまた孤(私)の毒手に飽きていた(私も卿の拳をあきるほど浴びたが、卿も私の拳をあきるほど浴びた。原文「孤往日厭卿老拳,卿亦飽孤毒手」)」と言い、これを機に参軍都尉に任命しました。

石勒は武郷を豊・沛(西漢皇室の故郷)に比して三世の賦役を免除しました(復之三世)

 

石勒は、民が本業を回復したばかりで資儲(資産、貯蓄)が豊かではなかったため、酒の醸造を厳しく禁止する法令を制定しました(重制禁釀)

郊祀や宗廟ではすべて醴酒(甘酒)が用いられ、禁令が行われて数年後には、酒を醸造する者がいなくなりました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

十二月、東晋が慕容廆を都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧に任命し(『資治通鑑』胡三省注によると、『燕書』では「車騎大将軍・平州刺史」に任命されていますが、『晋書‧載記第八』では、先に「監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史」になり、間もなくして「使持節・都督幽州東夷諸軍事(「都督幽平二州東夷諸軍事」が正しいはずです。中華書局『晋書‧載記第八』校勘記参照)・車騎将軍・平州牧」を加えられています。『晋書・第六・元帝紀』でも、「持節・都督幽平二州東夷諸軍事・平州牧」になっています。『資治通鑑』は『晋書』に従って「車騎将軍・平州牧」としています)、遼東郡公に封じました。単于は以前のままです。

 

元帝は謁者を派遣して現地で印綬を授け、慕容廆が承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって官司・守宰(自分の官署・官吏や地方の長官)を置くことを許可しました。

そこで慕容廆は僚属を配置し、裴嶷と游邃を長史に、裴開を司馬に、韓寿を別駕に、陽耽を軍諮祭酒に、崔燾を主簿に、黄泓と鄭林を参軍事に任命しました(鄭林はかつて慕容廆から車牛・粟帛を贈られましたが、全て受け取らず、野を耕して暮らしました(東晋元帝太興二年・319年参照)。『資治通鑑』胡三省注によると、この事があったため、慕容廆に任用されました)

 

慕容廆は子の慕容皝を世子に立てました。

東横(学舎。「東庠」とも書きます)を建てて平原の人・劉讃を祭酒に任命し、慕容皝と諸生に命じて共に学業を受けさせました。慕容廆も暇ができたら自ら東横に臨んで聴講します。

慕容皝は雄毅(勇武剛毅)で権略が多く、経術を好んだため、国人に称賛されました。

 

慕容廆は慕容翰を遷して遼東を鎮守させ、慕容仁に平郭を鎮守させました(『資治通鑑』胡三省注によると、平郭県は、漢代は遼東郡に属しましたが、晋代になって省かれました)

慕容翰は民夷を撫安して甚だ威恵があり、慕容仁も(能力、名声が)それに次ぎました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

拓跋猗㐌の妻・惟氏が代王・鬱律(西晋愍帝建興四年・316年参照)の強盛を嫌い、自分の子にとって不利になるのではないかと恐れたため、鬱律を殺して子の賀傉を立てました。大人の死者が数十人に上ります。

この時、鬱律の子・什翼犍はまだ幼く、襁褓にいました。母の王氏が袴の中に隠してこう祈りました「天がもし汝を活かそうとしているなら、泣いてはなりません(天苟存汝則勿啼)。」

什翼犍は久しい間、泣くことなく、禍から逃れることができました。

 

惟氏が国政を専制するようになり、使者を送って後趙を聘問させました。後趙の人はこの使者を「女国使」と呼びました。

 

次回に続きます。

東晋時代14 東晋元帝(十四) 王敦挙兵 322年(1)

 

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