東晋時代14 東晋元帝(十四) 王敦挙兵 322年(1)

今回は東晋元帝永昌元年です。元帝最後の年です。四回に分けます。

 

東晋元帝永昌元年

成漢武帝玉衡十二年/漢趙帝(劉曜)光初五年

後趙趙王(石勒)四年/前涼成王永元三年

壬午 322年

 

[一] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月、東晋の郭璞が再び上書し、皇孫の誕生(司馬衍。前年十一月に生まれました)を理由に赦令を下すように請いました(郭璞は昨年にも罪人を赦免するように上書しました)

元帝はこれに従います。

 

乙卯(初一日)、大赦して永昌に改元しました。

 

[二] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

戊辰(十四日)、大将軍・王敦が劉隗誅殺を名(名分、名義)にして、武昌で挙兵しました。

龍驤将軍・沈充が衆を率いてこれに応じました。

 

以下、『資治通鑑』から詳しく見ていきます。

東晋の大将軍・王敦が郭璞を記室参軍にしました。

郭璞は卜筮が得意だったため、王敦が必ず乱を為して自分も禍に関与することになると知り、甚だ憂いました。

大将軍掾・潁川の人・陳述が死ぬと、郭璞は痛哭して哀情を極め、「嗣祖(陳述の字です)よ、どうして(死を)福ではないと知ることができるのか(今死んだのは、幸せなことかもしれない。原文「焉知非福也」)」と言いました。

 

王敦は既に朝廷と乖離していたため、朝士で時望(当時における声望)がある者を羈録(留めて任用すること)して自分の幕府に置き、羊曼と陳国の人・謝鯤を長史に任命しました。羊曼は羊祜(西晋建国の功臣)の兄の孫です。

 

羊曼と謝鯤は終日、酒に浸っていたため(終日酣酔)、王敦は政事を委ねませんでした。しかし王敦が乱を為そうとした時、謝鯤にこう問いました「劉隗は姦邪なので社稷を危うくさせるだろう。私は君側の悪(主君の側にいる悪者)を除きたいと欲するが、如何だ?」

謝鯤が答えました「劉隗は誠に禍を起こすでしょう。しかし彼は城狐や社鼠のような存在です(隗誠始禍,然城狐社鼠)。」

「城狐」は城壁に穴をあけて住家にする狐、「社鼠」は土地神の社に穴をあけて住家にする鼠です。どちらも退治しようとしたら城壁や社を破壊してしまうことになるので、手が出せません。ここでは、劉隗の後ろには元帝がいることを比喩しています。

 

王敦は怒って「君は庸才(凡才)だ。なぜ大体(大きな道理)に達することができるか(大体に達することはできない。原文「豈達大体」)」と言い、謝鯤を出して豫章太守に任命しようとしましたが、後にはやはり留めて派遣しませんでした。

 

戊辰(十四日)、王敦が武昌で挙兵し、劉隗の罪状を上書してこう称しました「劉隗は佞邪な讒賊(讒言を好む賊)であり、威福(賞罰・権勢)が制限を受けず(威福自由)、妄りに事役を興し、士民を労擾(辛労・攪乱)させ、賦役を煩重(煩瑣、多重)にしたため、怨嗟の声が路を満たしています(怨声盈路)。臣は位を宰輔(輔政の大臣)に備えており、坐して成敗(失敗)を視ていることはできないので、すぐに軍を進めて征討をもたらしました(臣備位宰輔,不可坐視成敗,輒進軍致討)。劉隗の首を朝に掲げることができたら、諸軍は夕(夜)にも引きあげます(隗首朝懸,諸軍夕退)。昔、太甲(商代の王)がその度(国の制度)を顛覆させましたが、幸いにも伊尹の忠を受け入れたため、殷(商)の道は再び興隆しました(昔太甲顛覆厥度,幸納伊尹之忠,殷道復昌)。陛下が深く三思を垂らすことを願います。そうすれば、四海が乂安(平安)になり、社稷が永固(永く安定すること)になります。」

 

沈充も呉興で兵を挙げて王敦に応じました。王敦は沈充を大都督・督護東呉諸軍事に任命します。

王敦は蕪湖に至ってから、更に刁協の罪状を上表しました。

 

乙亥(二十一日)、元帝が大いに怒って詔を発しました「王敦は寵霊(恩寵・幸運)を恃みにして敢えて狂逆を恣にし、朕を太甲とみなして幽囚されることを欲している(憑恃寵霊敢肆狂逆,方朕太甲欲見幽囚)。これを忍ぶことができるのなら、何を忍ぶことができないのだ(是可忍也,孰不可忍)(よって)今、六軍を親帥して(自ら率いて)大逆を誅す。王敦を殺した者は五千戸侯に封じる。」

 

王敦の兄に当たる光禄勳・王含は軽舟に乗って逃亡し、王敦に帰しました。

 

太子中庶子・温嶠が僕射・周顗に言いました「大将軍のこの挙は所在(理由、根拠)があるようです(似有所在)。濫(度を越えた事。狂逆)ではないのではありませんか(当無濫邪)。」

周顗が言いました「それは違う(不然)。人主(陛下)は元々堯・舜ではないので、どうして無失でいられるだろう(陛下は聖人ではないので、過失を犯すのは当然だ。原文「人主自非堯舜,何能無失」)。人臣がどうして兵を挙げてそれを脅かすことができるのだ。挙動がこのようであって、どうして乱ではないとみなせるのだ。處仲(王敦の字)は狼抗(傲慢・暴戻)(心中に)(主君)がないので、その意(心意、野心)にどうして限度があるだろう(狼抗無上,其意寧有限邪)。」

 

王敦は兵を挙げたばかりの時、使者を派遣して梁州刺史・甘卓に告げ、共に(長江を)下ることを約束しました。甘卓はこれに同意します。

しかし、王敦が舟に乗る時になっても甘卓は赴かず、(逆に)参軍・孫雙を派遣して、武昌を訪ねて王敦を諫止させました。

王敦が驚いて言いました「甘侯は以前、私に何と言ったのだ(甘侯前与吾語云何)。改めて異心を抱いたのは、正に私が朝廷を危うくすることを憂慮したからだ(而更有異正当慮吾危朝廷耳)。私は今、ただ姦凶を除こうとしているだけだ。もし事が成功したら、甘侯を公にしよう(若事済,当以甘侯作公)。」

孫雙が還って報告すると、甘卓は心中で狐疑(躊躇)しました。

ある人が甘卓にこう勧めました「とりあえずは偽って王敦に同意し、王敦が都に至るのを待ってこれを討つべきです(且偽許敦,待敦至都而討之)。」

しかし甘卓はこう言いました「昔、陳敏の乱でも、私は先に従ったが、後にこれを図った(西晋恵帝永興二年・305年および懐帝永嘉元年・307年参照)。論者は私が懼れて逼迫したので思いを変えたとみなしており、(私は)心中で常にこのことを慚愧している(論者謂吾懼逼而思変,心常愧之)。今もしまたそのようにしたら、どのように弁明できるのだ(今若復爾,何以自明)。」

 

甘卓が人を送って王敦の意旨を順陽太守・魏該に告げましたが、魏該は「私が兵を起こして胡賊を拒んだのは、正に王室に対して忠誠でありたいと欲したからだ(正欲忠於王室耳)。今、王公が兵を挙げて天子に向かったが、私が与すべきことではない(非吾所宜与也)」と言って王敦への協力を拒絶しました。

 

王敦が参軍・桓羆を派遣して譙王・司馬氶を説得し、軍司になるように請いました。

司馬氶が嘆いて言いました「私は死ぬだろう(吾其死矣)。地が荒廃して民が少なく、形勢が孤立して後援も途絶えている。どうして無事でいられるだろうか(地荒民寡,勢孤援絶,将何以済)。しかし忠義のために死を得られるなら、また何を求めるのだ(然得死忠義,夫復何求)。」

 

司馬氶が檄文を送って長沙の人・虞悝を長史にしました。

ちょうど虞悝が母の喪に遭ったため、司馬氶は弔問に行ってこう言いました「私は王敦を討とうと欲しているが、兵が少なく食糧も乏しいうえに、至ったばかりなので恩信がまだ広まっていない(兵少糧乏,且新到,恩信未洽)。卿の兄弟は湘中の豪俊であり、王室がまさに危うくなっている。金革の事(武器・軍装の事。戦事)とは、(たとえ喪中にいても)古人は辞さなかったものだ(卿兄弟,湘中之豪俊,王室方危,金革之事,古人所不辭)(卿は私に)何を教示してくれるか(将何以教之)?」

虞悝が言いました「大王は悝(私)の兄弟を猥劣(卑賎)とみなさず、自ら身を屈してここに臨みました(親屈臨之)。どうして命を棄てずにいられるでしょう(敢不致死)。しかし鄙州(我が州)は荒弊(荒廃・疲弊)しており、進討(進軍・討伐)するのが困難なので、とりあえずは衆を収めて(集めて)固守し、檄を四方に伝えるべきです。王敦は(兵を)分けなければならなくなるので、別々にこれを図れば、戦勝を望むこともできます(敦勢必分,分而図之,庶幾可捷也)。」

 

司馬氶は桓羆を捕え、虞悝を長史に、弟の虞望を司馬に任命して、諸軍を督護させました。

その後、零陵太守・尹奉、建昌太守・長沙の人・王循、衡陽太守・淮陵の人・劉翼、舂陵令・長沙の人・易雄(易が氏です。『資治通鑑』胡三省注は「斉に大夫・易牙がいた」と解説しています)と共に兵を挙げて王敦を討ちます。

『資治通鑑』胡三省注によると、建昌郡は西晋恵帝が長沙東北の下雋諸県を分けて置きました。

衡陽郡は呉の孫亮(廃帝)が長沙西部都尉を分けて置きました。

淮陵は臨淮郡に属す県でしたが、当時は分けられて郡になっていました。

舂陵県は、元は西漢の舂陵侯国でした。後に舂陵侯の国は南陽に遷され、更に後に呉が改めて舂陵県を立てて零陵郡に属させました。

 

易雄が遠近に檄文を移して王敦の罪悪を列ねました。

一州中が全て司馬氶に応じましたが、湘東太守・鄭澹(『資治通鑑』胡三省注によると、呉の孫亮(廃帝)が長沙東部都尉を分けて湘東郡を置きました)だけは従わなかったため、司馬氶が虞望に鄭澹を討たせて斬り、四境に示しました(以徇四境)鄭澹は王敦の姉の夫です。

 

司馬氶が主簿・鄧騫を派遣して襄陽に至らせました(『資治通鑑』胡三省注によると、晋代は梁州刺史が襄陽を鎮守していました。周訪から始まります。襄陽は漢代の中廬県の地です)

鄧騫が甘卓を説得して言いました「劉大連(大連は劉隗の字です)は驕蹇(驕慢・放縦)で衆心を失っているとはいえ、天下に対して害があるわけではありません。大将軍はその私憾(個人的な怨恨)によって、兵を起こして宮闕に向かいました(称兵向闕)。これは忠臣・義士の竭節の時(節を尽くす時)です。公は方伯(地方の長)の任を受けているので、辞(君命)を奉じて罪を伐てば、桓・文(春秋時代の覇者・斉桓公と晋文公)の功となります。」

甘卓が言いました「桓・文(の偉業)は私ができることではない(非吾所能)。しかし志は徇国(殉国)にあるので、共に詳しく考えよう(当共詳思之)。」

 

参軍・李梁が甘卓に説きました「昔(新末・東漢初)、隗囂が跋扈しましたが、竇融は河西を保って光武を奉じ(光武帝を奉戴し)、最後はその福を受けました。今、将軍は天下において重望(重い声望)があるので、ただ、兵を留めて坐したまま待つべきです(但当按兵坐以待之)。もし大将軍の事が成功したら、将軍に方面(地方の統領)を委ねるでしょう。成功しなくても、朝廷は必ず将軍をこれ(王敦)と代えさせます(使大将軍事捷,当委将軍以方面,不捷,朝廷必以将軍代之)。どうして富貴にならないことを憂いて、この廟勝(戦う前から確定している勝利)を放棄し、一戦において存亡を決する必要があるのでしょう(何憂不富貴而釈此廟勝,決存亡於一戦邪)。」

鄧騫が李梁に言いました「光武(の時代)は創業の初めに当たったので、隗・竇は文服(表面上の服従)によって、従容として顧望(傍観)できたのです。今、将軍の本朝における立場は、竇融の比ではなく、襄陽の太府(王敦府)に対する状況は、河西のように堅固ではありません(今将軍之於本朝,非竇融之比也。襄陽之於太府,非河西之固也)。もし大将軍が劉隗に克って武昌に還り、石城の戍(守備)を増やして荊・湘の粟を絶ったら、将軍はどこに帰すのですか(将安帰乎)。大勢が人の手にあるのに、自分が廟勝にいるというようなことは、未だに聞いたことがありません(勢在人手而曰我処廟勝,未之聞也)。そもそも、人臣となりながら、国家に難があるのに坐視したまま救わずにいて、義において安んじていられますか(且為人臣,国家有難,坐視不救,於義安乎)。」

甘卓はやはり躊躇しました。

鄧騫がまた言いました「今、既に義挙を為さず、また、大将軍の檄も受け入れなかったら、必ず禍を招くことになるのは、愚者にも智者にも見えることです(今既不為義挙,又不承大将軍檄,此必至之禍,愚智所見也)。そもそも、議者が(挙兵に)反対しているのは、彼(王敦)が強くて我々が弱いからです(且議者之所難,以彼強而我弱也)(しかし)今、大将軍の兵は万余を越えず、(そのうち、武昌に)留められる者は五千もいません(其留者不能五千)。これに対して将軍の現在の衆は既に倍もいます(将軍見衆既倍之矣)。将軍の威名をもってして、この府の精鋭を率い、符節を持って戦鼓を鳴らし(杖節鳴鼓)、順(正道)によって逆(逆賊)を討てば、どうして(武昌の)王含が(我々を)防御できるでしょう(豈王含所能禦哉)。遡流の衆(長江を遡る兵。東下した王敦が甘卓に対抗するために西に向ける兵)は、(武昌を)救えるはずがなく(勢不自救)、将軍が武昌を挙げるのは(占拠するのは)、枯れ朽ちた木を推したり引いたりして倒すようなものです(若摧枯拉朽)。何をまだ顧慮する必要があるのですか(尚何顧慮邪)。武昌が既に定まったら、その軍実(軍事物資)を占拠して二州(『資治通鑑』胡三省注によると、荊州と江州を指します)を鎮撫し、恩意を用いて士卒を招懐(招いて懐柔すること)し、帰還する者が家に帰るようにさせます(帰還する者は、自分の家に帰って来た時のように受け入れます。原文「使還者如帰」)。これは呂蒙が関羽に克った方法です(此呂蒙所以克関羽也)。今、必勝の策を釈いて(捨てて)、安坐することで危亡を待つのは、明智とは言えません(不可以言智矣)。」

 

王敦は甘卓が後ろで変を為すことを恐れたため、改めて参軍・丹楊(丹陽)の人・楽道融を派遣して甘卓を招かせ、必ず甘卓と共に東に向かおうとしました。

ところが、楽道融は王敦に仕えていましたが、その悖逆(反逆)に憤懣していたため、甘卓に説いてこう言いました「主上(陛下)は自分で万機(諸政務)に臨み、自ら譙王を用いて湘州(刺史)にしました。劉隗を専任しているのではありません。ところが、王氏は擅権(専権)して日が久しくなるのに、突然、政権を分けられたので(卒見分政)、すぐに職位を失ったとみなし(便謂失職)、恩に背いて凶逆をほしいままにし、兵を挙げて宮闕に向かいました(背恩肆逆,挙兵向闕)。国家は君(あなた)を遇して至厚なのに、今、彼と一緒になったら、大義に違えて背くことになるのではありませんか(国家遇君至厚,今與之同,豈不違負大義)。生きて逆臣となり、死んで愚鬼となり、永く宗室の恥となるのは、惜しいことではありませんか(生為逆臣,死為愚鬼,永為宗党之恥,不亦惜乎)。君(あなた)のために計るなら、偽って同意して命に応じてから、馳せて武昌を襲うべきです(莫若偽許応命而馳襲武昌)。大将軍の士衆がそれを聞いたら、必ず戦わずに自ら潰えるので、大勲を成就できるでしょう(大勲可就矣)。」

 

甘卓は元々王敦に従いたいとは思っていなかったため、楽道融の言を聞いて決心し、「(これは)私の本意だ」と言いました。

巴東監軍・柳純、南平太守・夏侯承、宜都太守・譚該(『資治通鑑』胡三省注によると、斉が譚を滅ぼしてから、譚の子孫が国名を氏にしました。漢代には河南尹・譚閎がいました。また、巴南の大姓にも譚氏がおり、盤瓠の後代といわれています)等と共に檄文を発布して王敦の逆状(反逆の様子)を数え上げ、統領する兵を率いて討伐を開始します。

また、参軍・司馬讃と孫雙を派遣し、上表を奉じて台(朝廷)に赴かせました。更に羅英を広州に到らせて陶侃と共に進むことを約束します。

 

この時、戴淵が江西におり(『資治通鑑』胡三省注によると、戴淵は合肥を鎮守していました)、最初に甘卓の書を得たため、上表して朝廷に提出しました。台内(朝廷内)が皆、万歳を唱えます。

陶侃も甘卓の信書を得ると、すぐに参軍・高寶を派遣して、兵を率いて北下させました(北に向かって川を下らせたのだと思います)

 

武昌の城中では、甘卓の軍が至ると伝え聞き、人々が皆、奔走・離散しました。

 

王敦が従母(母の姉妹)の弟に当たる南蛮校尉・魏乂と将軍・李恆を派遣し、甲卒二万を率いて長沙(司馬氶)を攻めさせました。

長沙は城池が完全ではなく、資儲(物資、貯蓄)も欠けていたため、人情(人心)が震恐します。

ある人が譙王・司馬氶を説得して、南の陶侃に投じるか、退いて零・桂(零陵・桂陽)を拠点にするように勧めました。

しかし司馬氶は「私の挙兵は、忠義のために死ぬことを志している(吾之起兵,志欲死於忠義)。どうして生を貪ってとりあえず禍から免れ、奔敗の将となることができるか(豈可貪生苟免,為奔敗之将乎)。事が成功しないとしても、百姓に私の心を知らしめるだけだ(事之不済,令百姓知吾心耳)」と言い、城に籠って守りを固めました(嬰城固守)

間もなくして、虞望が戦死しました。

 

甘卓は鄧騫を留めて参軍にしたいと思いましたが、鄧騫が同意しないため、参軍・虞沖と鄧騫を派遣して共に長沙に至らせ、譙王・司馬氶に書を送って固守するように勧めました。甘卓が兵を率いて沔口を出て、王敦の帰路を断てば、湘州の包囲は自ずから解けるはずだ、告げます。

 

司馬氶は返書を送ってこう称しました「江左(江東)が中興して草創(創建)の始めであるのに(江左中興,草創始爾)、どうして悪逆が寵臣の中から芽生えることを想像できただろう(豈図悪逆萌自寵臣)。私は宗室として任を受け、志は隕命(命を棄てること)にある。しかしここに至ってからまだ日が浅いので、全てが完全ではない(至止尚浅,凡百茫然)。足下が甲を巻いて(軽装で)雷電のように赴くことができれば、あるいは間に合うかもしれないが(能巻甲電赴,猶有所及)、もし狐疑(躊躇)するようなら、枯魚の肆(干魚を売る店)で私を求めることになるだろう(若其狐疑則求我於枯魚之肆矣)。」

甘卓はこの言葉に従うことができませんでした(長沙を援けに行きませんでした)

 

次回に続きます。

東晋時代15 東晋元帝(十五) 王敦進撃 322年(2)

 

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