東晋時代15 東晋元帝(十五) 王敦進撃 322年(2)

今回は東晋元帝永昌元年の続きです。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

二月甲午(初十日)、東晋元帝が皇子・司馬昱を琅邪王に封じました。

 

『晋書・第六・元帝紀』は「三月甲午」の事としていますが、三月は「甲寅」が朔なので「甲午」はありません。『資治通鑑』は二月に置いており、ここは『資治通鑑』に従いました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

後趙王・石勒が子の石弘を世子に立てました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

後趙が中山公・石虎を派遣し、精卒四万を率いて徐龕を撃たせました。

徐龕が堅守して戦おうとしなかったため、石虎は長囲(長い包囲陣)を築いて包囲しました(築長囲守之)

 

[六] 『資治通鑑』からです。

漢趙帝(趙主・劉曜)が自ら兵を指揮して楊難敵を撃ちました。

楊難敵は逆戦(迎撃)しましたが、勝てなかったため、退いて仇池を守りました。

仇池の諸氐・羌および晋王・司馬保の将だった楊韜や隴西太守・梁勛が全て漢趙帝に降ります。

 

漢趙帝は隴西の一万余戸を長安に遷してから、仇池に進攻しましたが、軍中で大疫が流行り、漢趙帝自身も病を患ったので、兵を率いて還ることにしました。しかし、楊難敵に後ろを襲われる恐れがあります。そこで光国中郎将・王獷(『資治通鑑』胡三省注によると、光国中郎将は趙(漢趙、前趙)が置いた官号です)を派遣して楊難敵を説得させ、禍福の道理によって諭させました。

その結果、楊難敵が使者を派遣して藩を称したので、漢趙帝は、楊難敵を假黄鉞・都督益寧南秦涼梁巴六州隴上西域諸軍事・上大将軍・益寧南秦三州牧・武都王にしました(『資治通鑑』胡三省注によると、呉の孫氏が始めて上大将軍を置きました。「益寧南秦涼梁巴六州」のうち、南秦州と巴州は劉曜が命名しました。この後、北国の多くが楊氏を南秦州刺史に任命します。南秦州刺史は陰平・武都の二郡を統治しました)

 

秦州刺史・陳安が漢趙帝に朝見の許可を求めましたが、漢趙帝は病を理由に断りました。

陳安は怒りを抱き、漢趙帝は既に死んだと思って、大掠(大略奪)して帰りました。

 

漢趙帝は病がひどくなり、馬輿(馬車)に乗って還りました。その将・呼延寔に命じて、後方で輜重を監督させます。

しかし陳安が邀撃して呼延寔を捕えました。

陳安が呼延寔に言いました「劉曜は既に死んだ。子(汝)はまだ誰を輔佐しているのだ(子尚誰佐)。私は子と共に大業を定めようと思う(吾当与子共定大業)。」

呼延寔は叱咤してこう言いました「汝は人の寵禄を受けながらそれに叛したが、自らを視るに、主上(陛下)と比べて智能は如何だ(自視智能何如主上)?私には、汝が日を経ずに上邽の市で梟首(首を斬って晒す刑)に処されるのが見える(吾見汝不日梟首於上邽市)。なぜ大業などと言っているのだ。速やかに私を殺すべきだ(何謂大業,宜速殺我)。」

陳安は怒って呼延寔を殺し、呼延寔の長史・魯憑を参軍に任命しました。

 

陳安が弟の陳集を派遣し、騎兵三万を率いて漢趙帝を追撃させました。

しかし衛将軍・呼延瑜が逆撃して陳集を斬ります。

陳安は上邽に還り、将を派遣して汧城(『資治通鑑』胡三省注によると、汧県は扶風郡に属します)を襲わせ、攻略しました。隴上の氐・羌が全て陳安に附きます。

陳安は十余万の衆を擁し、自ら大都督・假黄鉞・大将軍・雍涼秦梁四州牧・涼王を称して、趙募を相国に任命しました。

 

魯憑が陳安に対して大哭して言いました「私には、陳安の死を見るのが忍びありません(吾不忍見陳安之死也)。」

陳安が怒って魯憑を斬るように命じると、魯憑はこう言いました「死はもともと私の分(本分。役割)です(死自吾分)。私の頭を上邽の市に懸けてください。趙が陳安を斬るのを観るためです。」

陳安は魯憑を殺しました。

 

これを聞いた漢趙帝は慟哭して「賢人とは民の望みである。陳安は求賢の秋(賢人を求めるべき時)にありながら、多くの賢者を殺した。私には、彼は何もできないということが分かる(吾知其無所為也)」と言いました。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

休屠王・石武(『資治通鑑』胡三省注によると、石武は匈奴に属すようです)が桑城を挙げて前趙に降りました。

前趙は石武を秦州刺史に任命して酒泉王に封じました。

 

[八] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月、東晋元帝が征西将軍・戴淵(『晋書』は唐高祖・李淵の諱(実名)を避けて「戴若思」としています)と鎮北将軍・劉隗を召還し、京都・建康に還って防衛させました。

劉隗が至ると、百官が道で迎えました。劉隗は岸幘大言(「岸幘」は頭巾を浅くかぶって額を出すことで、悠々とした態度を表します)して意気が自若としています。

劉隗は入見してから刁協と共に元帝に進言して、王氏を全て誅殺するように勧めました。しかし元帝が許可しなかったため、劉隗は始めて懼色(恐れを抱いた表情)を表しました。

 

司空・王導が弟(従弟)の中領軍・王邃、左衛将軍・王廙、侍中・王侃、王彬および諸宗族二十余人を率いて、每旦(毎日早朝)、台(朝廷)を訪ねて罪(刑。裁き)を待ちました。

周顗が入朝しようとしたので、王導が周顗を呼んでこう言いました「伯仁(周顗の字です)よ、百口をもって卿に累しよう(全家族の命を卿に託そう。原文「伯仁,以百口累卿」)!」

周顗は直接入朝して、王導を顧みませんでしたが、元帝に謁見すると王導の忠誠を語り、申救(冤罪を訴えて助けを請うこと)を極めました。元帝は周顗の進言を聞き入れます。

喜んだ周顗は酒を飲み、酔ってから退出しました。王導がまだ門にいて再び周顗を呼びましたが、周顗は王導に言葉をかけず、左右を顧みてこう言いました「今年は諸賊奴を殺し、斗(容量を量る道具)ほどの大きさもある金印を得て、肘の後ろに繋げよう(今年殺諸賊奴,取金印如斗大,繋肘後)。」

周顗は外に出てからもまた上表して王導の無罪を明らかにし、その言葉は甚だ切至(懇切で理を尽くすこと)でしたが、王導はそれを知らないため、周顗を深く恨みました。

 

元帝が(人に命じて)王導に朝服を返させ(人を派遣して王導に朝服を着させ。原文「帝命還導朝服」)、接見しました。

王導が稽首して言いました「逆臣賊子はどの時代もいなかったことがありませんが、図らずも、今は臣の親族という身近から出してしまいました(逆臣賊子何代無之,不意今者近出臣族)。」

元帝は裸足のまま王導の手をとってこう言いました「茂弘(王導の字です)よ、まさに卿に百里の命(国君の政令。朝廷の政務)を託そうとしているのに、何を言うか(茂弘,方寄卿以百里之命,是何言邪)。」

 

元帝は王導を前鋒大都督に任命し、戴淵に驃騎将軍を加えました。

元帝が詔を発しました「王導は大義によって親族の情を滅ぼした(以大義滅親)。よって、私が安東だった時の符節を授けるべきである(安東将軍は元帝が揚州を鎮守していた時の将軍号です。原文「可以吾為安東時節假之」)。」

 

『晋書・元帝紀』はここで、「丹楊諸郡(恐らく、丹陽と周辺諸郡の長官)に全て軍号を加えた(丹楊諸郡皆加軍号)」と書いていますが、『資治通鑑』は省略しています。

 

周顗を尚書左僕射に、王邃を右僕射にしました。

これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・元帝紀』は「僕射・周顗に尚書左僕射を、領軍・王邃に尚書右僕射を加えた」と書いています。

また、『晋書・元帝紀』には「太子右衛率・周莚を行冠軍将軍にし、兵三千を統率して沈充を討たせた」と書かれていますが、『資治通鑑』は採用していません。

 

元帝は王廙を派遣して、王敦に進軍を止めるように諭させました。

しかし王敦はこれに従わず、王廙を留めました。王廙は逆に王敦に用いられるようになります。

 

征虜将軍・周札はかねてから矜険(驕慢・陰険)で利を好みましたが、元帝は周札を右将軍・都督石頭諸軍事に任命しました。

王敦が都に至ろうとすると、元帝は劉隗を金城に駐軍させ(『資治通鑑』胡三省注によると、金城は丹楊の江乗蒲洲にありました)、周札に石頭を守らせました。元帝も自ら甲冑を身に着けて、郊外で六師(六軍。全軍)を巡視します。

また、安南将軍・甘卓を鎮南大将軍・侍中・都督荊梁二州諸軍事に(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・元帝紀』では、この時、甘卓に荊州を領させており(領荊州)、『晋書・列伝第四十(甘卓伝)』には「甘卓を鎮南大将軍・侍中・都督荊梁二州諸軍事・荊州牧に遷して梁州刺史はそのままとした」と書かれているので、『資治通鑑』は恐らく「領荊州牧(荊州牧を兼任させた)」が抜けています)、平南将軍・陶侃を領江州刺史に任命し、それぞれに自分が統領する兵を率いて王敦の後を追わせました。

 

王敦が石頭に至り、劉隗を攻撃しようとしました(『晋書・元帝紀』はここから四月の事としていますが、『資治通鑑』は三月に置いています。以下、『資治通鑑』の記述を元にします)

しかし杜弘が王敦にこう言いました「劉隗は死士の衆が多いので、まだ容易に克つことはできません(死士衆多,未易可克)。先に石頭を攻めるべきです(不如攻石頭)。周札は人に対する恩恵が少ないので、兵が彼のために働くことはありません(周札少恩,兵不為用)。彼を攻めれば必ず(周札が)敗れ、周札が敗れたら劉隗は自ら逃走します(攻之必敗,札敗則隗自走矣)。」

王敦はこの意見に従い、杜弘を前鋒にして石頭を攻撃させました。

果たして、周札は門を開いて杜弘を受け入れます。

 

王敦は石頭を占拠すると、嘆息して「私は二度と盛徳な事を為せなくなってしまった(吾不復得為盛徳事矣)」と言いました。

謝鯤が王敦に言いました「なぜそのようになるのでしょう(何為其然也)。ただ、今から後は、日々忘れて日々去らせるだけです(原文「但使自今以往日忘日去耳」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。一日一日と時間が経てば、しだいに前事は忘れられるので、君臣の猜嫌の迹(猜疑・嫌悪の形跡)も日に日に遠くなっていく、という意味です)。」

 

元帝が刁協、劉隗、戴淵に命じて、衆を率いて石頭を攻撃させ、王導、周顗、郭逸、虞潭等にも三道から出撃させました。しかし刁協等の兵は全て大敗します。

それを聞いた太子・司馬紹が自ら将士を率いて決戦することを欲し、車に乗って出陣しようとしました。

中庶子・温嶠が鞚(馬具の一つ。馬の頭に着けて動きを制御します)をつかんで諫め、「殿下は国の儲副(副君。太子。後継者)です。どうしてその身をもって天下を軽んじるのですか(柰何以身軽天下)」と言い、剣を抜いて鞅(馬の首や腹に着ける帯)を斬りました。

司馬紹は出撃を中止しました。

 

王敦は兵を擁したまま入朝せず、士卒を放って劫掠(略奪)させました。

宮省(皇宮)が奔散しましたが、安東将軍・劉超だけは兵を留めて直衛し(按兵直衛)、侍中二人も元帝の側に侍りました。

元帝は戎衣(軍服)を脱いで朝服に着替え、(周りを)顧みてこう言いました「(王敦が)私のいる場所を得たいと欲するのなら、早く言うべきだ。なぜこのように民を害すのだ(欲得我処,当早言。何至害民如此)。」

また、使者を派遣して王敦にこう伝えました「公がもしも本朝を忘れていないようなら、そこで兵を止めよ。そうすれば、まだ共に天下を安んじることができる。もしそうではないのなら、朕は琅邪に帰って賢人に路を譲ろう(公若不忘本朝於此息兵,則天下尚可共安。如其不然,朕当帰琅邪以避賢路)。」

 

刁協と劉隗は敗戦してから共に入宮し、太極の東除(東の階段)で元帝に謁見しました。

元帝は刁協と劉隗の手を取り、涙を流しながら嗚咽して、禍を避けるように勧令します。

刁協が「臣は死節を守ります。二心を抱くことはできません(臣当守死,不敢有貳)」と言いましたが、元帝は「今は事が逼迫している。どうして去らずにいられるか(今事逼矣,安可不行)」と言って、二人に人馬を与えるように命じ、後のことは自分で計を立てさせました(使自為計)

ところが、刁協は老いていたため騎乗に堪えず(乗馬ができず)、元から恩紀(恩情)もなかったため、従者を募っても、皆、押しつけ合って応じませんでした(皆委之)。刁協は皇宮を発って江乗に至りましたが、人に殺されて首を王敦に送られます。

劉隗は後趙に奔り、後に官位が太子太傅まで至って死にました。

『資治通鑑』胡三省注は「成帝咸和八年(333年)、劉隗という人物が石虎に従って潼関で死ぬが、この劉隗(東晋から降った劉隗)ではないか(豈即此劉隗邪)」と書いています(再述します)

 

元帝は公卿百官に命じ、石頭を訪ねて王敦に会見させました。

王敦が戴淵に問いました「先日の戦は余力があったか(前日之戦有余力乎)?」

戴淵が言いました「どうして余力を残すことができるでしょう。ただ力が足りなかっただけです(豈敢有余,但力不足耳)。」

王敦がまた問いました「私の今のこの挙に対して、天下はどうみなしているか(吾今此挙,天下以為何如)?」

戴淵が言いました「形だけを見たものは逆とみなしますが、誠を体現した者は忠とみなします(見形者謂之逆,体誠者謂之忠)。」

王敦が笑って言いました「卿は能言(口が上手いこと)ということができる(卿可謂能言)。」

王敦が周顗に言いました「伯仁(周顗の字)よ、卿は私を裏切った(原文「卿負我」。周顗は西晋愍帝建興元年(313年)に杜弢に包囲されて困窮した際、王敦に投じましたが、今回は王敦討伐の兵を指揮しました)。」

周顗が言いました「公の戎車(戦車)が順(正道)を犯したので、下官(私)は自ら六軍を統帥しました。しかしこの事を全うできず、王旅を奔敗させたので、それによって公(の期待)を裏切ることになってしまいました(公戎車犯順,下官親帥六軍,不能其事,使王旅奔敗,以此負公)。」

 

辛未(十八日)、東晋が大赦を行いました。

王敦を丞相・都督中外諸軍・録尚書事・江州牧に任命して武昌郡公に封じましたが、王敦は全て謙譲して受け入れませんでした(並譲不受)

 

次回に続きます。

東晋時代16 東晋元帝(十六) 周顗処刑 322年(3)

 

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