東晋時代16 東晋元帝(十六) 周顗処刑 322年(3)

今回も東晋元帝永昌元年の続きです。

 

[八(続き)] かつて西都(西晋)が覆没して、四方が皆、元帝に勧進した時、王敦は国政を専断しようと欲していたため、元帝が年長で制御するのが困難なことを嫌い、擁立すべき者を改めて議論しようとしました。しかし王導がこれに従いませんでした。

王敦は建康を攻略すると、王導にこう言いました「私の言を用いなかったので、一族を覆滅してしまうところだった(不用吾言,幾至覆族)。」

 

王敦は太子・司馬紹に勇略があり、朝野が帰心していたため(為朝野所嚮)、不孝の罪で太子を誣告して廃位しようとしました。

そこで、百官を大いに会して温嶠にこう問いました「皇太子は何の徳があってその地位にふさわしいのだ(または「何の徳によって称えられているのだ。原文「皇太子以何徳称」)?」

王敦は声も表情も厳しくしています(声色俱厲)

しかし温嶠はこう答えました「(太子は)鉤深致遠(「鉤深致遠」は深くの物を探索して遠くの物を至らせることで、奥深い道理を探求するという意味です)の才があり、思うに、浅局(見識が浅い者)が量れるものではありません。(但し)礼に基いて観るなら、孝ということができます(鉤深致遠,蓋非浅局所量,以礼観之,可謂孝矣)。」

衆人も皆、正にその通りだとみなしたため、王敦の謀は挫折しました。

 

元帝が周顗を広室(『資治通鑑』胡三省注によると、宮殿の名です)に召して言いました「近日の大事において、二宮(恐らく天子と皇太子です)は無事で諸人も平安だが、既に大将軍の望みに副ったのだろうか(二宮無恙,諸人平安,大将軍固副所望邪)?」

周顗が答えました「二宮は既に明詔(陛下の言葉)の通りですが、臣等についてはまだ分かりません(臣等尚未可知)。」

 

護軍長史・郝嘏等が周顗に対して王敦を避けるように勧めました(『資治通鑑』胡三省注によると、周顗はこれ以前に戴淵に代わって護軍将軍になっており、郝嘏を長史にしました)

周顗が言いました「私は位を大臣に備えたのに、朝廷が喪敗した。どうしてまた草間で活(命)を求め、外の胡・越に投じることができるか(寧可復草間求活,外投胡越邪)。」

 

王敦の参軍・呂猗はかつて台郎(『資治通鑑』胡三省注によると、晋代は尚書郎を台郎といいました)でしたが、性格が姦諂(姦悪で人に阿諛すること)だったため、戴淵が尚書だった頃、呂猗を嫌っていました。

呂猗が王敦に言いました「周顗と戴淵はどちらにも高名があるので、衆人を惑わすに足ります。最近の(王敦に答えた)言葉にも、怍色(慚愧の様子)が全く見られなかったので(近者之言,曾無怍色)、公が彼等を除かなかったら、恐らく必ず再挙の憂があります(再び挙兵する恐れがあります)。」

王敦はかねてから二人の才を憎んでいたため、心中で強く賛同しました。

そこで、従容(平然、悠々)とした様子で王導に問いました「周・戴は南北の望だ(『資治通鑑』胡三省注によると、周顗は汝南の人、戴淵は広陵の人です。晋氏が南渡してから、二人は名望が卓越していました)。三司(三公。『資治通鑑』胡三省注によると、太尉・司徒・司空です)に登るべきなのは疑いない(当登三司無疑也)。」

王導が答えないので、王敦がまた言いました「三司ではないのなら、ただ令僕(『資治通鑑』胡三省注によると、尚書令と左右僕射です)に応じさせるのか(若不三司,止応令僕邪)。」

王導はやはり答えません。

王敦が言いました「もしそうしないのなら、正に彼等を誅殺するべきだ(若不爾,正当誅爾)。」

王導は最後まで答えませんでした。

 

丙子(二十三日)、王敦が部将・陳郡の人・鄧岳を派遣して周顗と戴淵を逮捕させました。

 

以前、王敦が謝鯤にこう言いました「私は周伯仁を尚書令に、戴若思を僕射にするつもりだ(伯仁は周顗の字、若思は戴淵の字です)。」

この日、王敦が謝鯤に問いました「近来、人情(人心)は何如だ?」

謝鯤が言いました「明公の挙は、確かに社稷を大存しようと欲しましたが、悠悠の言(衆人の言)は実にまだ高義に達していません。もし実際に周・戴を挙用することができたら、群情が帖然(頭を下げて服従する様子)とするでしょう。」

王敦が怒って言いました「君は粗疏(粗略、いいかげん)だ。二子は(高位にいるのが)相応しくないから、私が既に逮捕した(君粗疏邪。二子不相当,吾已收之矣)!」

謝鯤は愕然自失しました。

 

参軍・王嶠が王敦に「『多くの士がそろい集まり、(西周)文王はそれによって(天下を)安寧にした(原文「済済多士,文王以寧」。『詩経‧大雅‧文王』の言葉です)』といいます。どうして諸名士を殺戮できるでしょう(柰何戮諸名士)」と言いましたが、王敦は大怒して王嶠を斬ろうとしました。衆人で敢えて発言しようとする者はいません。

しかし謝鯤が「明公は大事を挙げて一人も殺戮しなかったのに、王嶠が献替(進言、献策)して意旨に逆らったからといって釁鼓(人や犠牲を殺して戦鼓に塗る儀式。殺戮を意味します)するのは、度が過ぎていませんか(明公挙大事不戮一人。嶠以献替忤旨,便以釁鼓,不亦過乎)」と言ったため、王敦は王嶠を放し、降格して領軍長史にしました(『資治通鑑』胡三省注によると、大将軍府参軍から降格して領軍長史にしました)。王嶠は王渾(西晋初期の功臣)の族孫(父の兄弟の曾孫。または孫の世代に当たる親族)です。

 

周顗は捕えられてから、途中で太廟を通り、大声でこう言いました「賊臣・王敦は社稷を傾覆して忠臣を枉殺(冤罪で殺すこと)した。神祇に霊があるのなら、速やかにこれを殺せ!」

周顗を捕えた者が戟で周顗の口を傷つけました。血が流れて踵に至りましたが、周顗の容止(儀容挙止。様子)は平然自若としており、観ていた者が涙を流しました。

周顗と戴淵は共に石頭南門の外で殺されました。

 

元帝は侍中・王彬(王敦と王導の従弟)を送って王敦を労わせました。

王彬はかねてから周顗と親善な関係にあったため、まず周顗の弔哭に行き、その後、王敦に会いました。

王敦は王彬の様相が凄惨としているのを見て不思議に思い(怪其容惨)、理由を問いました。

王彬が言いました「先ほど、伯仁のために哭しました。情を抑えることができないのです(向哭伯仁,情不能已)。」

王敦が怒って言いました「伯仁は自ら刑戮を到らせたのだ。そもそも、(周顗は)汝を凡人として遇したのに、汝は何を哀しんで哭すのだ(且凡人遇汝,汝何哀而哭之)。」

王彬が言いました「伯仁は長者であり、兄(あなた)の親友でした。朝廷において謇愕(謇諤。実直な諫言)があったわけではありませんが、おもねって徒党を組むこともありませんでした(在朝雖無謇愕,亦非阿党)。それなのに、(三月辛未・十八日の)大赦の後に極刑を加えられたので傷惋(悲傷・同情)しているのです(赦後加之極刑,所以傷惋也)。」

王彬はこれを機に勃然(怒りで興奮して顔色を変えること)として王敦の罪を数え上げ、こう言いました「兄は旗を挙げて順を犯し(抗旌犯順)、忠良を殺戮し、不軌(造反)を為そうと図りました(図為不軌)。禍が門戸に及ぶでしょう!」

その辞気は慷慨(激昂した様子)としており、声と一緒に涙が落ちます(声涙俱下)

王敦が大いに怒って厳しい口調で言いました「汝の狂悖(狂乱・反逆)はここまで至ったか。私が汝を殺せないと思っているのか(爾狂悖乃至此,以吾為不能殺汝邪)!」

この時、王導も坐(席)におり、王彬のために危惧したため(為之懼)、王彬に立ち上がって謝罪するように勧めました。

しかし王彬は「脚が痛いので拝すことができません。そもそも、何を謝る必要があるのですか(且此復何謝)」と言い、王敦が「脚が痛いのと頸が痛いのを較べたらどうだ(脚痛孰若頸痛)?」と言っても、王彬は全く懼れる様子を見せず、最後まで拝礼しませんでした(殊無懼容,竟不肯拝)

 

王導は後に中書の故事(古い資料)を料検(点検・整理)した際、周顗が自分を救うおうとして提出した上表を見つけました。王導はそれを取って涙を流し、「私は(直接)伯仁を殺してはいないが、伯仁は私が原因で死んでしまった(王敦の三回の質問に答えなかったことを指します。原文「吾雖不殺伯仁,伯仁由我而死」)。幽冥(暗昏愚昧)の中で、この良友を裏切ってしまった(幽冥之中,負此良友)」と言いました。

 

沈充が呉国を攻略して内史・張茂を殺しました。

 

上述の通り、『資治通鑑』はここまでの記述を全て三月の事としていますが、『晋書・元帝紀』では四月になっています。以下、『元帝紀』の記述をまとめて書きます。

四月、王敦の前鋒が石頭を攻撃し、周札が城門を開いて応じました。

奮威将軍・侯禮が死にました。

王敦が石頭を占拠したので、戴若思と劉隗が衆を率いて王敦を攻め、王導、周顗、郭逸、虞潭等も三道から出戦しましたが、六軍(全軍)が敗績(敗戦)しました。

尚書令・刁協は江乗に奔りましたが、賊に害されました。鎮北将軍・劉隗は石勒に奔りました。

元帝が使者を派遣して王敦に言いました「公がもしも本朝を忘れていないようなら、そこで兵を止めよ。そうすれば、まだ共に天下を安んじることができる。もしそうではないようなら、朕は琅邪に帰って賢人に路を譲ろう(公若不忘本朝于此息兵,則天下尚可共安也。如其不然,朕当帰于琅邪以避賢路)。」

辛未(『二十史朔閏表』によると、この年四月は「甲申」が朔なので、「辛未」はありません。『資治通鑑』では「三月辛未(十八日)」です)、大赦を行いました。

王敦が自ら丞相・都督中外諸軍・録尚書事になり、自身を武昌郡公に封じました。邑は一万戸です(『資治通鑑』では、王敦は官爵を辞退しています。前回参照)

丙子(この月は「丙子」もないはずです。『資治通鑑』では「三月丙子(二十三日)」です)、驃騎将軍・秣陵侯・戴若思、尚書左僕射・護軍将軍・武城侯・周顗が王敦に害されました。

王敦の将・沈充が呉国を陥落させ、魏乂が湘州を陥落させ、呉国内史・張茂と湘州刺史・譙王・司馬承が並んで害に遇いました。

 

「張茂」の名は、『晋書・五行志中』では「張懋」としています。『五行志』にこう書かれています「呉郡太守・張懋が齋内(舎屋、書房)の床の下から犬の声を聞いたので、それを求めたが、得られなかった。しかし暫くすると、地が自ら裂けて二匹の犬子(幼犬)が現れた。そこで、それを取って養ったが、どちらも死んでしまった。間もなくして、張懋は沈充に害された。京房の『易伝』は「讒臣が側にいたら、犬が妖を生む」と言っている。」

「司馬承」は「司馬氶」が正しいはずです。司馬氶の死については、『資治通鑑』を元に再述します。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

以前、王敦は甘卓が挙兵したと聞いて大いに懼れました。

甘卓の兄の子・甘卬が王敦の参軍になっていたため、王敦は甘卬を帰して甘卓を説得させました。

甘卬が甘卓に言いました「君(あなた)がこうしたのは臣節によるものなので、責めるつもりはありません(君此自是臣節,不相責也)。しかし我が家の計が急なので、(私も)こうするしかないのです(我が家が生き延びるかどうかの危急の時なので、王敦のためにあなたを説得しなければなりません。原文「吾家計急,不得不爾」)。すぐ襄陽に軍を還すことを望みます。改めて好を結びましょう(想便旋軍襄陽,当更結好)。」

甘卓は忠義を慕って(思って)いましたが、その性格は疑い深くて決断力が乏しかったため(多疑少決)、豬口(『資治通鑑』胡三省注によると、沔水が東南に流れて江夏雲杜県の東を通り、夏水が西から流れて沔水に注ぎました。その場所を「䐗口」といいます。「䐗」は「豬」に通じます)に駐軍して、諸方面の兵を待ってから共に軍を出そうと欲しました。数十日も停留したまま前に進もうとしません。

その間に王敦が建康を得ました。そこで王敦は台使(朝廷の使者)を派遣し、騶虞幡(軍を止める時に使う旗)を持って甘卓の軍を駐留させました。

甘卓は周顗と戴淵が死んだと聞くと、涙を流して甘卬にこう言いました「私が憂いていたのは、正に今日の状況だ(吾之所憂,正為今日)。もし聖上が元吉なうえ太子が無恙で(陛下も太子も無事で)、私が王敦の上流に臨めば、(王敦も)敢えてすぐに社稷を危うくすることはできない(且使聖上元吉,太子無恙,吾臨敦上流,亦未敢遽危社稷)(逆に)私が今から直接、武昌を占拠したら、王敦は形勢が逼迫し、必ず天子に迫って四海の望を絶つはずだ(四海を絶望させるはずだ。原文「適吾径拠武昌,敦勢逼,必劫天子以絶四海之望」)。襄陽に還った方がいい。改めて後の計を考えよう(更思後図)。」

甘卓はすぐに旋軍(撤兵)を命じました。

 

都尉・秦康と楽道融が甘卓を説得しました「今、兵を分けて彭沢を断ち、王敦の上下(長江上流と下流の勢力)を互いに赴くことができないようにすれば、その衆は自然に離散し、一戦するだけで擒にできます(『資治通鑑』胡三省注によると、彭沢県は豫章郡に属しました。彭蠡湖がここで大江に入ります。兵を分けて彭沢の湖口を断てば、王敦の上下が通じなくなります)。義兵を起こしたのに途中で止めるようなことは、心中で思うに、将軍ならしないはずです(将軍起義兵而中止,竊為将軍不取)。そもそも、将軍の下では士卒がそれぞれその利(王敦討伐による利益)を求めているので、(将軍が)西還を欲しても、恐らくできないでしょう(欲西還,亦恐不可得也)。」

甘卓はこの意見に従いませんでした。

楽道融が昼夜にわたって泣きながら諫めても、甘卓はやはり聴きません。楽道融は憂憤して死んでしまいました。

 

甘卓は本来、性格が寛和でしたが、突然、強塞(強暴・頑固)になりました。直接、襄陽に還ってからも、意気が騷擾(不安定なこと)として挙動が常(常態、正常)を失います。

そのため、識者は甘卓の死が近いことを知りました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代17 東晋元帝(十七) 司馬氶、甘卓の死 322年(4)

 

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