東晋時代17 東晋元帝(十七) 司馬氶、甘卓の死 322年(4)

今回で東晋元帝永昌元年が終わります。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

東晋の王敦が西陽王・司馬羕を太宰に任命し、王導に尚書令を加え、王廙を荊州刺史にしました。

これは『資治通鑑』の記述で、まだ三月ですが、『晋書・第六・元帝紀』は「五月壬申(二十日)、王敦が太保・西陽王・司馬羕を太宰にして、司空・王導に尚書令を加えた」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

王敦は百官および諸軍鎮を改易(交替、変更)しました。転徙・黜免(左遷・罷免)された者が百を数えます。

また、朝に政令を発したのに日が暮れたら改めるということもあり、意が欲するままにしていました(或朝行暮改,惟意所欲)

 

王敦が武昌に還ろうとした時、謝鯤が王敦に言いました「公は都に至って以来、疾(病)と称して入朝していないので、勲(功績)を建てたのに、人心には実に達していない者がいます(心中で満足していない者、理解していない者がいます。原文「雖建勲而人心実有未達」)。今、天子を朝見すれば、君臣を釈然(対立や不満を解くこと)とさせることができるので、物情(民情)が皆、悦服するでしょう。」

王敦が言いました「君は(入朝した時)変事が起きないと保証できるか(君能保無変乎)?」

謝鯤が答えました「鯤(私)が近日入覲(入朝)した時、主上(陛下)は側席(正面の席を避けて坐ること。賢人を遇す姿です)して公に会える時を待っており(主上側席,遅得見公)、宮省(宮内の官署)も穆然(和順・恭敬の様子)としていました。憂慮する必要はありません(必無虞也)。公が入朝するなら、鯤(私)が侍従を請います。」

王敦は勃然(怒りで興奮して顔色を変えること)として「再び君等のような者を数百人殺しても、正に時(時局)において損なうことはない(正復殺君等数百人,亦復何損於時)!」と言い、結局、入朝することなく去りました。

 

夏四月、王敦が武昌に還りました。

 

以前、宜都内史・天門の人・周級(『資治通鑑』胡三省注によると、呉末帝・孫皓が武陵を分けて天門郡を置きました。充県の松梁山に石があり、石が開いている場所は数十丈もあって、その高さは天を仰いで弩を射ても届かないほどだったので「天門」と呼ばれました。これが郡名の由縁です。隋になって、郡を廃して石門県に改められます)は、譙王・司馬氶が挙兵したと聞き、兄の子・周該を送って秘かに長沙を訪ねさせ、司馬氶に誠心を表明しました。

 

魏乂等が湘州を攻めると、司馬氶は危急に陥ったため、救援を求めようとして、周該と従事・邵陵の人・周崎(『資治通鑑』胡三省注によると、呉末帝が零陵北部都尉を分けて邵陵郡を置きました)に隙を見て外に出させました。しかしどちらも邏者(巡邏の兵)に捕えられてしまいます。

魏乂は周崎を使って城中にこう語らせました「大将軍が既に建康に克ち、甘卓は襄陽に還った。外援は理において絶たれた(外から援軍が来る道理はない。原文「外援理絶」)。」

周崎は偽ってこれに同意し、城下に至ると、大声でこう呼びかけました「援兵は間もなく至る。努力して堅守せよ(援兵尋至,努力堅守)!」

魏乂は周崎を殺し、周該も拷問して死に至らせました(考該至死)。しかし周該が最後まで経緯(周級が周該を派遣して司馬氶に忠誠を誓ったこと)を話さなかったため、周級は禍を免れることができました(竟不言其故,周級由是獲免)

 

魏乂等の攻戦が日に日に緊迫しました。

王敦も台中(朝廷)の人から得た書疏(上表や書信)を魏乂に送り、城中に射させて司馬氶に示しました。城中の人々は朝廷の不守(失陥)を知り、悵惋(悲傷・同情)しない者がいませんでした。

 

双方が対峙して百日近くが経ちました。劉翼(衡陽太守)は戦死し、死傷した士卒が枕を並べます(士卒死傷相枕)

 

癸巳(十日)、魏乂が長沙を攻略しました。司馬氶等が皆、捕えられます。

魏乂が虞悝を殺そうとした時、その子弟が虞悝に向かって号泣しましたが、虞悝はこう言いました「人生には死があって当然だ。今、闔門(満門。全家)が忠義の幽鬼となるのに、また何を恨むのだ(人生会当有死,今闔門為忠義之鬼,亦復何恨)。」

 

魏乂は司馬氶と易雄を檻車に載せて武昌に送りました。司馬氶の佐吏は皆、奔散しましたが、主簿・桓雄、西曹書佐・韓階(『資治通鑑』胡三省注によると、府の諸曹にはそれぞれ書佐がいました)、従事・武延だけは服の等級を落として僮(奴僕)になり(毀服為僮)、司馬氶に従って左右から離れませんでした。

魏乂は桓雄の姿貌・挙止が凡人ではないのを見て、憚って(恐れて)殺しました。しかし韓階と武延は志を守り、ますますそれを堅固にしました(執志愈固)

 

荊州刺史・王廙が王敦の意旨を受けて道中で司馬氶を殺しました。

韓階と武延は司馬氶の喪(霊柩)を送って都に至り、埋葬してから去りました。

 

易雄は武昌に至っても意気が忼慨(激昂、憤慨)しており、全く懼れる様子がありませんでした。

王敦が人を派遣し、檄文を易雄に示して譴責すると、易雄はこう言いました「そのような事は確かにあった(檄文は私が書いた。原文「此実有之」)。惜しくも雄(私)の地位が低くて力が弱かったので(位微力弱)、国難を救うことができなかったのだ。今日の死は、元から願っていたことだ。」

王敦はその辞正(言辞が正しいこと)を憚って(恐れて)釈放し、家に帰らせました。

衆人が皆、祝賀しましたが、易雄は笑って「私がどうして生きていられるのだ(吾安得生)」と言いました。

暫くして、王敦が人を送って秘かに易雄を殺しました。

 

魏乂が鄧騫を探し求めました。その様子が甚だ急迫していたため、郷人が皆、鄧騫に代わって懼れを抱きましたが、鄧騫は笑ってこう言いました「これは私を用いようと欲しているのだ(此欲用我耳)。彼は州を得たばかりなのに多くの忠良を殺したので、私を求めることで人々の望みを満足させたいのだ(彼新得州,多殺忠良,故求我以厭人望也)。」

鄧騫が魏乂を訪ねると、魏乂は喜んで「君は古の解揚(春秋時代、晋の義臣)だ」と言い、別駕に任命しました。

 

元帝が詔を発して陶侃(広州刺史)に湘州刺史を兼任させましたが(領湘州刺史)、王敦が上書して陶侃を広州に帰らせ、散騎常侍を加えました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

甲午(十一日)、前趙の羊后が死にました。諡号を「献文」といいます。

 

羊氏は、かつては西晋恵帝の皇后でした。『晋書・列伝第一・后妃上』では「恵羊皇后」としており、「偽諡献文皇后」と書かれているので、「献文」は前趙が贈った諡号です。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

鎮南大将軍・甘卓の家人が皆、甘卓に対して王敦に備えるように勧めましたが、甘卓は従わず、兵を全て解散させて農耕に従事させました(悉散兵佃作)

甘卓は諫言を聞くといつも怒り出しました。

 

襄陽太守・周慮が秘かに王敦の意を受けて、湖中にたくさんの魚がいると偽り、甘卓に左右の者を全て派遣して魚を獲らせるように勧めました。

 

五月乙亥(二十三日)、周慮が兵を率いて寝室で甘卓を襲い、殺して首を王敦に伝えました(送りました)。併せて甘卓の諸子も殺します。

王敦は従事中郎・周撫を督沔北諸軍事に任命し、甘卓の代わりに沔中(『資治通鑑』胡三省注によると、南鄭から襄陽は沔水が流れるので、沔中と呼ばれました)を鎮守させました。周撫は周訪の子です。

 

王敦は志を得てから暴慢(暴虐・驕慢)をますます甚だしくさせました。四方の貢献(貢物)は多くが王敦の府に入れられ、将相や岳牧(地方の長官)は皆、王敦の門から出るようになります。

王敦は沈充と銭鳳を謀主とし、二人の言なら全て従いました。二人に讒言されて死ななかった者はいません(所譖無不死者)

また、諸葛瑤、鄧岳、周撫、李恆、謝雍を爪牙としました。

沈充等は並んで凶険驕恣(凶悪・陰険・驕慢・放縦)で、大いに営府を建造し、人の田宅を侵し、市の道でも剽掠(強盗、略奪)を行ったため、識者は皆、彼等がもうすぐ敗亡することになると知りました。

 

[十三] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

蜀賊・張龍が巴東を侵しましたが、建平太守・柳純がこれを撃って走らせました。

 

[十四] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

石勒が騎兵を派遣して河南を侵しました。

 

[十五] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

六月、旱害がありました。

 

[十六] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月、後趙の中山公・石虎が泰山(太山)を攻略し、徐龕を捕えて襄国に送りました。

後趙王・石勒は徐龕を囊(袋)に入れて、百尺の楼の上から落として殺し(原文「盛之以囊於百尺楼上撲殺之」。この「撲殺」は高い所から落として殺す、という意味です)、王伏都等の妻子に命じて、徐龕の死体を割いて食べさせました(原文「刳而食之」。王伏都は元帝大興三年・320年に徐龕に殺されました)

また、投降した徐龕の士卒三千人を阬(生き埋め)に処しました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

東晋の兗州刺史・郗鑒は鄒山に三年おり、数万の衆を有していました(郗鑒は西晋愍帝建興元年・313年に兗州刺史になって鄒山を守りました。本年は322年なので、十年近く経っています。『資治通鑑』胡三省注は、「鄒山に三年いて数万の衆を有したというのは、郗鑒が鄒山を鎮守した後、三年の間に民で帰順した者がこの数に達したという意味だ」と解説しています)

しかし戦争が止まないため、百姓は饑饉に苦しみ、野鼠や蟄燕(冬の間、岩穴に隠れている燕)を掘って食糧にしていました。

やがて、後趙に逼迫されたため、郗鑒は退いて合肥に駐屯しました。

 

尚書右僕射・紀瞻が、郗鑒は声望が優れていて徳が高潔なので(雅望清徳)、台閣(朝廷の官府)で従容とするべきだ(朝廷に留まるべきだ、悠々と才能を発揮するべきだ)と考え、上書して召還するように請いました。

そこで元帝は郗鑒を召して尚書に任命しました。

 

(郗鑒が去ったため)徐・兗一帯では諸塢の多くが後趙に降りました。後趙は守宰(郡県の長)を置いてそれらを慰撫しました。

 

郗鑒に関する記述は、『晋書』の「本紀」「列伝」とも『資治通鑑』と少し異なります。

『晋書・第六・元帝紀』は「秋七月、王敦が自ら兗州刺史・郗鑒に安北将軍を加えた。石勒の将・石季龍(石虎)が太山を攻めて攻略し、守将・徐龕を捕えた(上述)。兗州刺史・郗鑒が鄒山から退いて合肥を守った」と書いており(尚書に任命された、という記述はありません)、『晋書・列伝第三十七(郗鑒伝)』は「永昌初、郗鑒を召還して領軍将軍に拝し、(郗鑒が)至ると尚書に転じたが、(郗鑒は)病を理由に拝命しなかった(以疾不拝)」と書いています。

 

[十八] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

八月、王敦が兄の王含を衛将軍にし、自ら寧益二州都督を兼任しました(領寧益二州都督)

 

『資治通鑑』は王含には触れず、王敦が自ら寧益二州都督を兼任したことを七月に置いています。

 

[十九] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

琅邪太守・孫黙が叛して石勒に降りました。

 

[二十] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

冬十月、大疫に襲われ、死者が十分の二三に上りました(死者十二三)

 

[二十一] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

己丑(初九日)、荊州刺史・武陵侯・王廙(諡号は康侯です)が死にました。

 

『資治通鑑』では、王廙は「荊州刺史・武陵康侯」ですが、『晋書・元帝紀』では「都督荊梁二州諸軍事・平南将軍・荊州刺史・武陵侯」です。『晋書・列伝第四十六(王廙伝)』を見ると、王廙は「平南将軍・領護南蛮校尉・荊州刺史」になり、間もなくして死んでいます。

 

辛卯(十一日)、王敦が下邳内史・王邃を征北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事に任命して淮陰を鎮守させ、衛将軍・王含を都督沔南諸軍事・領荊州刺史に、武昌太守・丹楊(丹陽)の人・王諒を交州刺史に任命しました(『晋書・列伝第五十九・忠義伝(王諒伝)』を見ると、王諒は王敦に抜擢されて、永興三年に交州刺史になっています。しかし、「永興」は西晋恵帝の年号で、永興三年は恵帝光熙元年(306年)に当たるので、『資治通鑑』胡三省注が「『王諒伝』は誤り」と指摘しています)

 

その後、王敦は王諒に命じて、交州刺史・脩湛と新昌太守・梁碩(『資治通鑑』胡三省注によると、呉末帝・孫皓が交趾を分けて新興郡を置き、西晋武帝が新昌郡に改名しました)を逮捕して殺させようとしました。

 

王諒が脩湛を誘い出して斬りましたが、梁碩は挙兵して龍編(『資治通鑑』胡三省注によると、龍編県は交趾郡に属し、州と郡の治所がありました)で王諒を包囲しました。

 

[二十二] 『晋書・第六・元帝紀』からです。

東晋の京師で大霧が発生し、黒気が天を覆って日月に光が無くなりました(黒気蔽天,日月無光)

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

東晋の祖逖が死んでから、後趙がしばしば河南を侵し、襄城と城父を攻略して譙を包囲しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、城父県は、西漢は沛郡に属し、東漢は汝南郡に属し、魏・晋は譙国に属しました。この「河南」は黄河の南という意味で、特に河南郡を指しているわけではありません。

 

後趙軍が豫州刺史・祖約の別軍を破りました。

祖約は後趙軍を防げなくなったため、退いて寿春を拠点にしました。

後趙が陳留を取り、梁・鄭の間がまた騷然としました。

 

[二十四] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月、東晋が司徒・臨潁公・荀組(諡号は元公)を太尉に任命しました。

辛酉(十二日。「辛酉」としているのは『資治通鑑』で、『晋書・元帝紀』では「己酉」です。但し、この年の十一月は「庚戌」が朔なので、「己酉」はありません)、荀組が死にました。

 

[二十五] 『晋書・第六・元帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が司徒を廃して丞相府と併せました。

王敦は司徒の官属を留府(留守中の官府)に置きました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、王敦は武昌に還ってからも朝政を遥制(遠くから制御すること)するため、建康に留府を設けていました。

 

[二十六] 『晋書・第六・元帝紀』『晋書・第六・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋元帝が憂憤のため病を患いました。

閏十一月己丑(初十日)、元帝が内殿で死にました。四十七歳でした。

建平陵に埋葬され(実際に埋葬されるのは翌年二月のことです)、廟号は中宗と定められます。

 

司空・王導が遺詔を受けて新帝を輔政することになりました。

 

元帝は、恭倹は余りあるほどでした、明断は不足していました。そのため、大業をまだ回復できないうちに、内部で禍乱が興りました。

『晋書・元帝紀』に、元帝の為人や予言等に関する記述がありますが、別の場所で書きます。

東晋元帝

 

庚寅(十一日)、太子・司馬紹が皇帝の位に即き、大赦を行いました。

司馬紹の諡号は明帝といいます。

 

明帝が生母・荀氏を尊んで建安君にしました。

『晋書・明帝紀』では、荀氏を「建安郡君」にしていますが、『晋書・列伝第二・后妃下』を見ると、荀氏は明帝が即位した時、「建安君」に封じられており、明帝の子・成帝の時代になってから、荀氏が死んで「豫章郡君」に追封されています。『晋書・明帝紀』校勘記は「初封で郡君になるはずはない」と指摘しており、『資治通鑑』も「建安君」としています。

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

十二月、漢趙帝(趙主・劉曜)が自分の父母を粟邑に埋葬して大赦しました。

陵下の周りは二里、陵上の高さは百尺もあり、合計六万の人夫が用いられて、百日かけてやっと完成しました。役者は夜も脂燭を使って作業を継続し、民がこれを甚だ苦としました。

游子遠が諫めても漢趙帝は聴きませんでした。

 

[二十八] 『資治通鑑』からです。

後趙の濮陽侯・張賓(諡号は景侯です)が死にました。

後趙王・石勒が哀哭して激しく悲痛し(哭之慟)、こう言いました「天は私の大事を成就させようと欲しないのか(天不欲成吾事邪)。なぜ私の右侯を奪うのがこのように早いのだ(何奪吾右侯之早也)!」

 

程遐が張賓に代わって右長史になりました。程遐は石勒の世子・石弘の舅(母の兄弟)です。

 

石勒は程遐と議論して意見が合わないと、常に嘆いて「右侯が私を捨てて去ったので、私にこのような輩と事を共にさせるようになった(右侯捨我去,乃令我與此輩共事)。酷いことではないか(豈非酷乎)」と言い、終日涙を流しました。

 

[二十九] 『資治通鑑』からです。

前涼の張茂が将軍・韓璞を派遣し、衆を率いて隴西・南安の地を取らせ、秦州を置きました。

『資治通鑑』胡三省注は、「南陽王・司馬保が既に死に、陳安では(隴西・南安の地を)有すことができなくなったので、張茂がこれを取った」と解説しています。

 

[三十] 『資治通鑑』からです。

慕容廆が世子・慕容皝を派遣して段末柸を襲わせました。

慕容皝は令支(『資治通鑑』胡三省注によると、令支県は、漢代は遼西郡に属しましたが、晋になって省かれました。段氏がこの地を占拠しています)に入って居民千余家を奪い、帰還しました。

 

次回に続きます。

東晋時代18 東晋明帝(一) 明帝

 

3 thoughts on “東晋時代17 東晋元帝(十七) 司馬氶、甘卓の死 322年(4)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です