東晋時代18 東晋明帝(一) 明帝

今回から東晋明帝の時代です。

 

粛宗明皇帝

姓は司馬、名は紹、字は道畿といいます。東晋元帝の長子です。

 

以下、『晋書・第六・明帝紀』からです。

明帝は幼い頃から聡哲(聡明・英哲)だったため、元帝に寵異(寵愛・優遇)されました。

まだ数歳だった頃、元帝(実際はまだ即位していません。西晋時代の出来事です)の膝の前に坐っていると、ちょうど長安から使者が来ました。

元帝がそれを機に司馬紹に問いました「汝は日(太陽)と長安のどちらが遠いと思うか(汝謂日與長安孰遠)?」

司馬紹が答えました「長安が近いです。人が日(太陽)から来たとは聞いたことがないので、はっきりと知ることができます(不聞人従日返来,居然可知也)。」

元帝はこれを異としました(普通の子の答えではないと思いました)

翌日、群僚と宴を開き、また司馬紹に同じ質問をすると、司馬紹はこう答えました「日が近いです。」

元帝は色を失って「なぜ前回言ったことと異なるのだ(何乃異間者之言乎)?」と問いました。

司馬紹が答えました「目を挙げたら日が見えますが、長安は見えません(挙目則見日,不見長安)。」

元帝はますます奇としました(特別視しました)

 

建興(西晋愍帝の年号)の初め、司馬紹は東中郎将を拝命して広陵を鎮守しました。

元帝が晋王になった時、晋王太子に立てられ、元帝が尊号に即くと皇太子に立てられました。

 

司馬紹は性格が至孝(極めて孝順なこと)で、文武の才略があり、賢才を敬って客を愛し、かねてから文辞(文章・文学)を好みました。

当時の名臣は、王導を始め、庾亮、温嶠、桓彝、阮放等、全て司馬紹に親待(親近、優待)されました。

かつて、聖人に対する真假の意(聖人の真偽に関する意見)について論じたことがありましたが、王導等には司馬紹を言い負かすことができませんでした。

また、司馬紹は武芸に習熟し、善く将士を慰撫しました。(そのおかげで)当時の東朝(東宮。太子宮)は済済(人材が豊富な様子)として、遠近が属心(帰心)しました。

 

王敦の乱が起きて六軍が敗績(敗戦)すると(以下、東晋元帝永昌元年・322年の出来事です)、司馬紹は自ら将士を指揮して決戦したいと思い、車に乗って出撃しようとしました。しかし中庶子・温嶠が固く諫め、剣を抜いて鞅(馬具の一つ。馬の首や腹に着ける帯)を斬ったため、中止しました。

王敦は以前から司馬紹を神武明略とみなし、朝野に欽信(敬服・信頼)されていたため、不孝を理由に誣告して太子の地位を廃そうとしました。そこで百官を大いに集めて会を開き、温嶠に問いました「皇太子は何の徳があってその地位に相応しいのだ(または「何の徳によって称えられているのだ」。原文「皇太子以何徳称」)?」

王敦は声も表情も厳しくしており、必ず温嶠に(皇太子の廃位について)発言させようとしました(声色俱厲,必欲使有言)

しかし温嶠はこう答えました「(太子には)鉤深致遠の才があります(「鉤深致遠」は深くの物を探索して遠くの物を至らせることで、奥深い道理を探ることを意味します)。思うに、浅局(見識が浅いこと)が量れるものではありません。(但し)礼に基いて観るなら、孝ということができます(鉤深致遠,蓋非浅局所量。以礼観之,可称為孝矣)。」

衆人も皆、正にその通りだとみなしたため、王敦は謀を中止しました。

 

元帝永昌元年(322年)閏十一月己丑(初十日)、元帝が死にました。

庚寅(十一日)、太子が皇帝の位に即いて大赦しました。

生母・荀氏を尊んで建安君(『晋書・明帝紀』の原文は「建安郡君」ですが、「建安君」が正しいはずです。前回参照)にしました。

 

次回に続きます。

東晋時代19 東晋明帝(二) 陳安 323年(1)

 

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