東晋時代26 東晋成帝(一) 蘇峻 326年

今回から東晋成帝の時代です。

 

顕宗成皇帝

姓は司馬、名は衍、字は世根といいます。明帝の長子です。

東晋明帝太寧三年(325年)三月戊辰(初二日)に皇太子に立てられました。

閏八月戊子(二十五日)、明帝が死にました。

己丑(二十六日)、太子・司馬衍が皇帝の位に即きました。

大赦して文武(百官)の位を二等(二級)増やし、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)に一人あたり二匹ずつの帛を下賜しました。

皇后・庾氏を尊んで皇太后にしました。

 

前年の出来事は既に書いたので、省略します。

 

東晋成帝咸和元年

成漢武帝玉衡十六年/漢趙帝(劉曜)光初九年

後趙趙王(石勒)八年/前涼文王太元三年

丙戌 326年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春二月丁亥(二十七日)、東晋が大赦して、太寧四年から咸和元年に改元しました。

 

五日間の大酺(国を挙げて行う慶祝の宴)を行い、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤老(孤児や身寄りがない老人)に一人当たり二斛の米を下賜し、京師から百里以内は一年間の賦役を免除しました(京師百里内復一年)

 

[二] 『資治通鑑』からです。

漢趙が汝南王・劉咸を太尉・録尚書事に、光禄大夫・劉綏を大司徒に、卜泰を大司空にしました。

 

劉皇后が病を患ったため、漢趙帝(趙主・劉曜)が言い残したいことがないか問うと(問所欲言)、劉氏は泣いてこう言いました「妾(私)は幼くして叔父・昶に養われました(原文「妾幼鞠於叔父昶」。『資治通鑑』胡三省注によると、「鞠」は「養」の意味です)。陛下が彼を貴ぶことを願います。また、叔父・皚の女(娘)・芳には徳色があるので、後宮に備えることを願います。」

劉后は言い終わると死にました。

 

漢趙帝は劉昶を侍中・大司徒・録尚書事に任命し、劉芳を皇后に立てました。

間もなくして、更に劉昶を太保にしました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

三月、後趙王・石勒が夜の間に微行(おしのび)し、諸営衛(営塁の警衛)を検察しました。金帛を携行して、賄賂として門者(門番)に渡し、外に出る許可を求めます。

永昌門候(候は警備の官吏です)・王假が石勒を收捕(逮捕)しようとしましたが、(石勒の)従者が至ったので(従者が説明したので)止めました。

(早朝)、石勒が王假を召して振忠都尉(『資治通鑑』胡三省注によると、振忠都尉は後趙が置いた官です)に任命し、爵位を関内侯にしました。

 

石勒が記室参軍・徐光を召したことがありましたが、徐光は酔って至らなかったため、牙門に降格されました。

後に徐光が侍直(宿直)した際、愠色(怨怒の様子)があったため、石勒は怒って徐光と妻子を一緒に囚禁しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

夏四月、後趙の将・石生が汝南を侵して内史・祖済を捕えました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「夏四月、石勒がその将・石生を派遣して汝南を侵し、汝南の人が内史・祖済を捕えて叛した」と書いています。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

甲子(初五日)、東晋の尚書左僕射・鄧攸が死にました。

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

五月、大水(洪水)がありました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

六月癸亥(初五日)、東晋の使持節・散騎常侍・監淮北諸軍事・北中郎将・徐州刺史・泉陵公・劉遐(『資治通鑑』胡三省注によると、泉陵県は零陵郡に属します)が死にました。

 

癸酉(十五日)、車騎大将軍(『資治通鑑』では「車騎大将軍」、『晋書・成帝紀』では「車騎将軍」です)・郗鑒に徐州刺史を兼任させました(領徐州刺史)

また、征虜将軍・郭黙を北中郎将・假節・監淮北諸軍事(『資治通鑑』では「監淮北諸軍事」、『晋書・成帝紀』では「監淮北諸軍」です)に任命し、劉遐の部曲を統領させました。

 

以下、『資治通鑑』からです。

劉遐の子・劉肇はまだ若かったものの、劉遐の妹の夫・田防や故将・史迭等が他の者に帰属することを喜ばなかったため(不楽他属)、共同して劉肇に劉遐の故位(生前の官位)を継承させ、朝廷に叛しました。

しかし、臨淮太守・劉矯が劉遐の営を掩襲(急襲、奇襲)して田防等を斬りました(『資治通鑑』胡三省注によると、劉遐は泗口に駐屯していました。臨淮と下邳に間に位置します)

 

劉遐の妻は邵續の娘で、驍果(勇猛果敢)な姿には父の気風がありました。以前、劉遐が後趙に包囲された時には、妻が単独で数騎を指揮し、万衆の中から劉遐を救い出したことがありました。

田防等が乱を為そうと欲した時、劉遐の妻が止めようとしましたが、田防等は従いませんでした。

そこで劉遐の妻は秘かに火を起こし、甲仗(武器・甲冑)を焼き尽くしました。

そのため、田防等はすぐに敗亡しました。

 

朝廷は詔によって劉肇に劉遐の爵(泉陵公)を継承させました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「劉遐の部曲の将・李龍と史迭が劉遐の子・劉肇を奉じて劉遐の位に代わらせ、郭黙に抵抗した。臨淮太守・劉矯がこれを撃って破り、李龍を斬って首を京師に伝えた」と書いていますが、『資治通鑑』には、「李龍」の名がありません。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

東晋の司徒・王導は病と称して入朝していませんでしたが、郗鑒が徐州刺史に任命されると、個人的に郗鑒を見送りました。

 

卞壼が上奏しました「王導は法を損ねて私情に従い(虧法従私)、大臣の節がないので、免官を請います。」

この件は取り上げられませんでしたが、卞壺は朝廷を挙げて畏れられました(雖事寝不行,挙朝憚之)

 

卞壼は倹素廉絜で、裁断(判断・決定)が切直(適切・率直)でした。官に当たったら幹実(正直・誠実)でしたが、性格は弘裕(寛容)ではなく、軽率に時好(世俗の好み、流行)に同調しようとしなかったため、諸名士に軽んじられていました(原文「為諸名士所少」。『資治通鑑』胡三省注によると、この「少」は「軽」に通じます)

阮孚(竹林の七賢の一人・阮咸の子です)が卞壺に言いました「卿は常に閒泰(悠閑安泰。安らぐこと)がなく、(口に)瓦石を含んでいるようだが、疲れないのか(如含瓦石,不亦労乎)。」

卞壼が言いました「諸君子は道徳(道家の徳)を恢弘(光揚)させて、風流を互いに尊んでいる。鄙吝(庸俗)を守る者は、壼(私)でなければ誰がいるのだ(諸君子が道家の思想を尊んで実務を軽んじているので、私までそのようにしたら、世事を行う者がいなくなってしまう。原文「諸君子以道徳恢弘,風流相尚,執鄙吝者,非壼而誰」)。」

 

当時、貴游(貴族)の子弟は多くが王澄や謝鯤を慕って放達(放縦闊達。礼法に束縛されないこと)を為していました。

卞壼が朝廷で厲色して(様相を厳しくして)言いました「礼に逆らって教化を損なうこと、これよりも大きな罪はありません(悖礼傷教,罪莫大焉)。中朝(中原の朝廷。西晋)の傾覆は、実にここから始まったのです。」

卞壼は上奏して罪を追究したいと思いましたが(欲奏推之)、王導や庾亮が同意しなかったため、止めました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

成人(成漢)が越巂の斯叟(部族名。東晋明帝太寧元年・323年参照)を討って破りました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

秋七月癸丑(二十五日)、東晋の観陽侯・應詹(諡号は烈侯です。『資治通鑑』胡三省注によると、観陽県は零陵郡に属しました。呉が立てた県です)が死にました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「秋七月癸丑(二十五日)、使持節・都督江州諸軍事・江州刺史・平南将軍・観陽伯・應詹が死んだ」と書いています。しかし應詹は東晋明帝太寧二年(324年)に観陽県侯になっているので、ここで「観陽伯」としているのは誤りです(『晋書・成帝紀』校勘記参照)

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

かつて王導が輔政していた頃は、寛和(寛大・温和)によって衆(人心)を得ていました。

しかし庾亮が用事するようになると(政事を行うようになると)、法に任せて事を裁いたため(厳しく法に則ったため。原文「任法裁物」)、すこぶる人心を失いました。

 

豫州刺史・祖約は、自分の名輩(名望と年齢の序列)が郗鑒や卞壺よりも後ろではないと思っていましたが、顧命(明帝の遺命)に参与することができず、また、開府を望んだのに得られず(『資治通鑑』胡三省注は「晋制では四征・四鎮大将軍が開府できた。祖約は平西将軍に過ぎないのに、どうして開府を望めるだろう」と書いています)、しかも、諸表請(上表・申請)の多くも許可されなかったため、怨望(怨恨)を抱いていました。

朝廷が遺詔によって大臣を褒進(褒賞・昇格)した時も、祖約と陶侃に及ばなかったため、二人とも庾亮が削除したのではないかと疑いました。

歴陽内史・蘇峻は国に対して功があり(『資治通鑑』胡三省注によると、沈充と銭鳳を破った功績です)、威望がしだいに顕著になっていました。鋭卒一万人を有し、器械(武器)は甚だ精良で、朝廷は江外(東晋から見た江外なので、江北です。歴陽は長江北岸に位置します)を蘇峻に委ねています。

しかし蘇峻はすこぶる驕溢(驕慢な自信)を抱いており、朝廷を軽視する志(心)がありました。亡命した者を招いて受け入れており、衆力(兵力)が日に日に増加します。(しかも彼等を養うため)県官に頼って全ての食糧を得ました(皆仰食県官)。各県からの運漕(陸路と水路の輸送)が相継ぎ、少しでも蘇峻の意にそわないと、いつも怨恨の言葉をほしいままにぶつけます(輒肆忿言)

 

庾亮は蘇浚と祖約を疑うようになり、また、陶侃が衆(人心)を得ていることを畏れました。

 

八月、丹楊尹・温嶠を都督江州諸軍事・江州刺史に任命して武昌を鎮撫させ、尚書僕射・王舒を会稽内史に任命して声援(後援)を拡大しました。

また、石頭を修築して備えにしました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は温嶠について「八月、給事中・前将軍・丹楊尹・温嶠を平南将軍・假節・都督・江州刺史にした」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

丹楊尹・阮孚は、太后が朝廷に臨んで政(政令・政策)が舅族(皇帝の母の兄弟とその親族。外戚)から出るようになったため、親しくしている者にこう言いました「今、江東は創業してまだ(日が)浅く、主君は幼くて時勢が艱難で(主幼時艱)、庾亮は年が若くて(『晋書・列伝第四十三(庾亮伝)』によると、庾亮は成帝咸康六年・340年に五十二歳で死ぬので、本年(326年)は三十八歳です)、徳信が(人を)信服させていない(庾亮年少,徳信未孚)。私がこれを観るに、もうすぐ乱が起きるだろう(乱将作矣)。」

阮孚は京師から離れて広州刺史になる許可を求めました。

 

[十二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

九月、旱害に襲われました。

 

[十三] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

李雄(成漢)の将・張龍が涪陵を侵して太守・謝俊を捕えました。

 

[十四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

冬十月、東晋が魏武帝(曹操)の玄孫に当たる曹勱(『晋書・成帝紀』校勘記によると「曹勵」と書くこともあります)を陳留王に封じ、魏の祭祀を継承させました。

 

[十五] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

丙寅(初十日)、東晋の衛将軍・汝南王・司馬祐(八王の乱で死んだ司馬亮の孫です)が死にました。

 

[十六] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

己巳(十三日)、東晋が成帝の同母弟・司馬岳(後の康帝です)を呉王に立てました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

南頓王・司馬宗は自分が失職したと思い、怨望(怨恨)を抱いていました(『資治通鑑』胡三省注によると、司馬宗は兵衛(防衛の職。禁兵を管理する職)を解かれたため、失職したと思っていました)。また、司馬宗は以前から蘇峻と友善な関係にありました。

そのため、庾亮は司馬宗を誅殺しようと欲し、司馬宗も(庾亮の)執政を廃したいと思っていました。

 

御史中丞・鍾雅が司馬宗の謀反を弾劾し、庾亮が右衛将軍・趙胤を送って逮捕させました。

司馬宗は兵を率いて拒戦(抗戦)しましたが、趙胤に殺されました。司馬宗の家族は皇族から身分を落として馬氏に改姓され(貶其族為馬氏)、三子の司馬綽、司馬超、司馬演は皆、(官爵を)廃されて庶人になりました。

更に朝廷は太宰・西陽王・司馬羕を罷免して弋陽県王に降封し、大宗正・虞胤を左遷して桂陽太守にしました(司馬羕は司馬宗の兄弟です。虞胤は司馬宗と共に明帝に親任されていました)

 

『晋書・第七・成帝紀』はこの事件を「車騎将軍・南頓王・司馬宗に罪があり、誅に伏した。その族を落として馬氏にした。太宰・西陽王・司馬羕を罷免して弋陽県王に降した」と書いていますが、司馬宗は「車騎将軍」ではなく、「驃騎将軍」が正しいはずです(前年、驃騎将軍になっています)

 

『資治通鑑』に戻ります。

司馬宗は宗室の近属で、司馬羕は先帝の保傅でしたが、庾亮が一旦にして翦黜(廃除・罷免)したため、ますます遠近の心を失いました。

 

司馬宗の党人・卞闡は逃亡して蘇峻に奔りました。

庾亮が符令を発して蘇峻に卞闡を送らせましたが(亮符峻送闡)、蘇峻は保匿(保護・隠匿)して与えませんでした。

 

成帝は司馬宗の死を知りませんでした。久しくして庾亮に「常日の白頭公(往日の白頭公。いつもよく見ていた白頭の公)はどこだ(常日白頭公何在)?」と問うと、庾亮は謀反によって誅に伏したことを説明しました。

成帝は泣いてこう言いました「舅(母の兄弟。庾亮。あなた)は『人が賊(害。謀反)を為した』と言ってすぐに殺したが、もしも人が『舅が賊を為した』と言ったら、どうするつもりだ(舅言人作賊,便殺之。人言舅作賊,当如何)。」

庾亮は懼れて顔色を変えました。

 

[十八] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

庚辰(二十四日)(京師から)百里以内で、五歳(年)以下の刑に処された者を赦しました(赦百里内五歳以下刑)

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

漢趙の将・黄秀、帛成等が鄼(『資治通鑑』胡三省注によると、鄼県は、漢代は南陽郡に属しましたが、晋代になって分けられ、順陽郡の治所になりました)を侵しました。

東晋の平北将軍・順陽太守・魏該は衆を率いて襄陽に奔りました。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

後趙王・石勒が程遐の謀を用いて鄴宮を建造し、世子・石弘に鄴を鎮守させました。禁兵一万人を配置し、車騎(車騎将軍・石虎)が統率していた五十四営を全て配属させます。また、驍騎将軍・領門臣祭酒・王陽に六夷を専統(専属・統領)させて石弘の輔佐にしました。

中山公・石虎は、自分には功績が多いと思っていたので、鄴を去る意思がありませんでしたが、鄴に三台が修築されると、その家室(家族)を遷しました。

この後、石虎が程遐を怨むようになります。

 

[二十一] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

十一月壬子(二十六日)、東晋が南郊で大閲(閲兵)を行いました。

 

[二十二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋が王侯の国秩を改定し、九分の一を秩禄とすることにしました(改定王侯国秩,九分食一)

 

[二十三] 『資治通鑑』からです。

後趙の石聡が寿春を攻めました。

祖約がしばしば上表して救援を請いましたが、朝廷は出兵しませんでした。

 

石聡は浚遒と阜陵(『資治通鑑』胡三省注によると、二県とも淮南郡に属します)を侵し、五千余人を殺掠(殺戮したり捕虜にすること)しました。

建康が大いに震撼します。

 

以上は『資治通鑑』の記述です。『晋書・成帝紀』は「石勒の将・石聡が寿陽(寿春)を攻めたが、克てなかったため、逡遒と阜陵を侵した」と書いています。

 

以下、『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋朝廷は詔を発して、司徒・王導に大司馬・假黄鉞・都督中外征討諸軍事(『資治通鑑』では「都督中外諸軍事」ですが、ここは『晋書・成帝紀』に従って「都督中外征討諸軍事」にしました)を加えて防がせました。王導が江寧に駐軍します。

 

しかし、蘇峻(『晋書・成帝紀』は「歴陽太守・蘇峻」としていますが、『資治通鑑』では東晋明帝太寧二年・324年に「歴陽内史」になっています。ここは『資治通鑑』に従って、官職は省きました)が自分の将・韓晃を派遣して石聡を撃ち、走らせたため、朝廷は王導の大司馬の職を解きました。

 

朝議が涂塘(涂水(滁水)の堤防。『資治通鑑』胡三省注によると、寿春は涂塘の外に位置します)を造って胡寇(異民族の侵攻)を阻止しようとしました。

それを聞いた祖約は「これは我々を棄てるつもりだ(是棄我也)」と言い、ますます憤恚(憤慨・怨恨)を抱きました。

 

[二十四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

当時は大旱で、六月から雨が降らず、この月(十一月)まで続きました。

 

[二十五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月、東晋の済岷太守・劉闓等(『資治通鑑』では「済岷太守」、『晋書・成帝紀』では「済瑉太守」です。『資治通鑑』胡三省注によると、魏が蜀を平定してから、蜀の豪将の家を済河の北に移して済岷郡を置いたといわれているようです)が下邳内史・夏侯嘉を殺し、下邳を挙げて叛して後趙に降りました。

 

後趙の石瞻が河南太守・王羨(『資治通鑑』では「王瞻」ですが、『晋書・載記第五』では「王羨」なので、ここは『晋書』に従って置き換えました)を邾(『資治通鑑』胡三省注によると、邾は鄒県鄒山の南二里の地にありました)で攻めて攻略しました。

 

東晋の彭城内史・劉續が蘭陵の石城(『資治通鑑』胡三省注によると、蘭陵県に石城山がありました)を占拠しましたが、石瞻がこれを攻めて落としました。

 

[二十六] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋の梁王・司馬翹(永嘉の乱で石勒に殺された司馬禧の子です。晋王(司馬睿)建武元年・317年参照)が死にました。

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

後趙王・石勒が牙門将・王波を記室参軍に任命して九流(儒・道・法等の諸家の学説)の考証を主管させ(典定九流)(後趙で)始めて秀孝試経の制(秀才や孝廉に経典を試験させる制度)を立てました。

 

[二十八] 『資治通鑑』からです。

涼州の張駿は趙人の逼迫を畏れていたため、この年、隴西と南安の民二千余家を姑臧に移しました。

また、使者を派遣して成漢と修好してから、武帝(成主・李雄)に書を送り、尊号(帝号)を除くことと、晋に対して藩と称すことを勧めました。

武帝は書を返してこう伝えました「私は過分にも士大夫に推されることになったが、本来は帝王になろうという心(野心)はなく、晋室の元功の臣となり、氛埃(汚れた空気。塵やほこり。戦乱の比喩です)を掃除することを思っていた(吾過為士大夫所推,然本無心於帝王,思為晋室元功之臣,掃除氛埃)。ところが、晋室は陵遅(衰弱)して徳声が振るわず(徳声が聞こえてくることがなく)(私は)首を伸ばして東(晋)を望み、既に年月を経ている(晋室陵遅,徳声不振,引領東望,有年月矣)。ちょうど貺(贈物。張駿の書)が来るのを獲て、情が闇に至った(「張駿の思いが届いた」「晋を想う気持ちが心中に届いた」という意味だと思います。原文「会獲来貺,情在闇至」)。なぜそれ(晋を想う気持ち)が止むだろう(有何已已)。」

この後、双方の聘使(聘問の使者)が相継ぐようになりました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代27 東晋成帝(二) 蘇峻・祖約挙兵 327年

 

2 thoughts on “東晋時代26 東晋成帝(一) 蘇峻 326年

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です