東晋時代27 東晋成帝(二) 蘇峻・祖約挙兵 327年

今回は東晋成帝咸和二年です。

 

東晋成帝咸和二年

成漢武帝玉衡十七年/漢趙帝(劉曜)光初十年

後趙趙王(石勒)九年/前涼文王太元四年

丁亥 327年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月、寧州の秀才・龐遺が義兵を起こし、李雄(成漢)の将・任回、李謙等を攻めました。

成漢武帝(成主・李雄)はその将・羅恆と費黒を派遣して救援させました。

 

東晋の寧州刺史・尹奉が裨将・姚岳と朱提太守・楊術を派遣して龐遺を援けさせましたが、台登で戦って姚岳等が敗績(敗北)し、楊術が死にました。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

三月、益州で地震がありました。

 

夏四月、旱害に襲われました。

己未(初五日)、豫章で地震がありました。

 

[三] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

五月甲申朔、日食がありました。

 

[四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

丙戌(初三日)、東晋が豫州刺史・祖約に鎮西将軍を加えました。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

戊子(初五日)、京師で大水(洪水)がありました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

漢趙の武衛将軍・劉朗が騎兵三万を率いて仇池の楊難敵を襲いましたが、攻略できず、三千余戸を掠めて(奪って)帰りました。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

涼州の張駿は漢趙の兵が後趙に敗れたと聞き、漢趙の官爵を除いて再び晋の大将軍・涼州牧を称しました。更に、武威太守・竇濤、金城太守・張閬、武興太守・辛巖(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋恵帝の時代に張軌が上表し、秦・雍から流れた移民を集合させて、姑臧西北に武興郡を置きました)、揚烈将軍・宋輯等を派遣して、数万の衆を率いて韓璞と合流してから漢趙の秦州諸郡を掠めさせます(『資治通鑑』胡三省注によると、韓璞は当時、冀にいました)

しかし、漢趙の南陽王・劉胤が兵を率いてこれを撃ち、狄道に駐屯したため、枹罕護軍・辛晏が急を告げました。

 

秋、張駿が韓璞と辛巖に辛晏を救わせました。韓璞等は兵を進めて沃干嶺(『資治通鑑』胡三省注によると、沃干嶺は晋興郡大夏県の東南、洮水の西北にありました)を越えます。

辛巖が速戦を望みましたが、韓璞はこう言いました「夏末(晩夏)以来、日星にしばしば変(異変)があるので、軽率に動くべきではない(不可軽動)。そもそも劉曜(漢趙帝)は石勒と攻撃し合っているので、劉胤が久しく我々と対峙できるはずがない(胤必不能久与我相守也)。」

韓璞は劉胤と洮水(『資治通鑑』胡三省注によると、洮水は狄道城西を流れます)を挟んで対峙し、七十余日に及びました。

 

冬十月、韓璞が辛巖を派遣して金城で食糧を督運(監督・輸送)させました。

それを聞いた劉胤が言いました「韓璞の衆は我々の十倍もおり、我々の食糧も多くないので、持久は難しい(韓璞之衆十倍於吾。吾糧不多難以持久)(しかし)今、虜(敵)は兵を分けて糧(食糧)を運んだ。これは天が我々に(勝利を)授けたのだ(天授我也)。辛巖を敗れば、韓璞等も自潰(自滅)するだろう。」

そこで劉胤は騎兵三千を指揮し、沃干嶺で辛巖を襲って敗りました。

そのまま前進して韓璞の営に迫ると、韓璞の衆も大潰(潰滅)しました。

劉胤は勝ちに乗じて奔走する敵を追い、河を渡り、令居(『資治通鑑』胡三省注によると、令居県は、漢代は金城郡に属しましたが、張寔が広武郡を置き、令居を金城から分けて属させました)を攻略して二万級を斬首しました。

更に兵を進めて振武(『資治通鑑』胡三省注によると、振武は姑臧東南、広武西北に位置します)を占拠します。

河西が大いに驚愕・震撼し、張閬と辛晏はその衆数万を率いて漢趙に降りました。

こうして張駿は河南の地を失いました。

 

『晋書・第七・成帝紀』はこう書いています「冬十月、劉曜がその子・劉胤を枹罕に侵攻させ、これを機に河南の地を攻略した。」

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の庾亮は、蘇峻が歴陽におり(蘇峻は、『晋書・成帝紀』では「歴陽太守」、『資治通鑑』では「歴陽内史」です)、最後には禍乱を為すと考え、詔を下して蘇峻を召還しようとしました。

そこで司徒・王導を訪ねて意見を求めると、王導はこう言いました「蘇峻は猜険(疑り深くて陰険なこと)なので、(召還しても)詔を奉じるはずがありません(必不奉詔)。とりあえずは苞容(包容、許容)するべきです(不若且苞容之)。」

 

しかし庾亮は朝廷でこう言いました「蘇峻には狼の子のような野心があるので、最後は必ず乱を為すはずだ(峻狼子野心,終必為乱)。今日、これを徵して(召して)、たとえ命に従わなかったとしても、その禍はまだ浅い(縦不順命為禍猶浅)。もしまた年を経たら、制すことができなくなる(若復経年不可復制)。これは漢における七国(西漢景帝時代に叛した呉楚七国)のようなものである(猶七国之於漢也)。」

朝臣には敢えて難とする者(詰難・反対する者)がいませんでしたが、光禄大夫・卞壼だけは争ってこう言いました「蘇峻は強兵を擁しており、京邑に逼近(逼迫)していて、路は朝を越えません(一朝の時間があれば京師に至ることができます。原文「逼近京邑,路不終朝」。『資治通鑑』胡三省注は「歴陽と建康は一江の隔てがあっただけだ」と解説しています)。一旦変があったら、容易に蹉跌(転倒、挫折)してしまうので、深く考慮するべきです(一旦有變,易為蹉跌,宜深思之)。」

それでも庾亮が従わないため、卞壼は庾亮が必ず敗れることになると知り、温嶠に書を送ってこう伝えました「元規(庾亮の字です)が蘇峻を召す意は定まった。これは国の大事だ。蘇峻は既に狂意(反逆の意)を出しているのに、これを召すのは、更にその禍いを速めることになり、必ず毒蠚(毒害)をほしいままに放って朝廷に向かうだろう。朝廷の威力は盛んだが、果たして擒にすることができるかどうかはわからない。王公(王導)もこの情(思い)に同じている(王公も同じ考えだ)。私は彼(庾亮)と争って甚だ懇切(誠心を尽くすこと)にしたが、どうすることもできなかった(吾与之争甚懇切,不能如之何)。元々は足下を出して外援にしたが、今は逆に足下が外にいることを恨んでいる。もし卿が内にいて共に諫めたら、必ず従っただろう(『資治通鑑』の原文は「不得相與共諫止之,或当相従耳」ですが、理解が困難なので、ここは『晋書・列伝第四十(卞壼伝)』の「若卿在内俱諫,必当相従」を元にしました)。」

温嶠も庾亮を止めるために繰り返して書を送りました。(その結果)朝廷を挙げて不可とみなすようになりましたが(朝廷中が反対しましたが)、庾亮は全て聴きませんでした。

 

蘇峻は庾亮が自分を召還したと聞き、司馬・何仍を派遣して庾亮を訪ねさせ、こう伝えました「賊を討つという外の任務においては、遠近に関わらず全て命に従います(討賊外任,遠近惟命)。しかし内輔(朝廷内での輔佐)に至っては、誠に(私の能力が)堪えられることではありません(至於内輔,実非所堪)。」

 

庾亮はこれを許さず、北中郎将・郭黙を召して後将軍・領屯騎校尉とし(『資治通鑑』胡三省注によると、郭黙は当時、淮北軍を監督していました)、司徒右長史・庾冰を呉国内史にして、それぞれに兵を指揮して蘇峻に備えさせました。庾冰は庾亮の弟です。

 

その後、優詔(優待を示す詔)を下して、蘇峻を召還して大司農に任命し、散騎常侍を加え、位を特進とし、弟の蘇逸に部曲を代領させました。

 

蘇峻が上表しました「昔、明皇帝が自ら臣の手をとって、臣に北の胡寇を討たせました。今、中原がまだ安定していないのに、臣がどうして安逸を選ぶことができるでしょう(今中原未靖,臣何敢即安)。青州界内の一荒郡(の太守)を補うことで、鷹犬の用(狩猟で使う鷹や犬のような役割。「鷹犬」は忠臣の比喩です)を発揮する機会を乞います(乞補青州界一荒郡,以展鷹犬之用)。」

庾亮はやはり同意しませんでした。

 

蘇峻は準備を整えて召還に応じようとしましたが(厳装将赴召)、躊躇して決断できませんでした。

参軍・任譲が蘇峻に言いました「将軍は荒郡にいることを求めたのに、(それすら)許されませんでした。事勢がこのようになっているので、恐らく生路はありません。兵を整えて自分を守った方がいいでしょう(不如勒兵自守)。」

阜陵令・匡術(『資治通鑑』胡三省注によると、阜陵県は淮南郡に属しました)も蘇峻に造反を勧めました。

蘇峻はついに命に応じないことにしました。

 

それを聞いた温嶠は、すぐに衆を率いて(長江を)下り、建康を防衛しようとしました。三呉も義兵を起こそうとします。

しかし庾亮は全て同意せず、温嶠に返書を送ってこう伝えました「私は西陲(『資治通鑑』胡三省注によると、陶侃を指します)を憂いており、(その憂いは)歴陽(蘇峻)を越えている(吾憂西陲,過於歴陽)。足下は雷池を一歩も越えてはならない(原文「足下無過雷池一歩也」。『資治通鑑』胡三省注によると、雷池は大雷の東にありました)。」

 

同時に朝廷は使者を派遣して蘇峻を諭しました。

しかし蘇峻はこう言いました「台下(朝廷)は私が造反を欲していると言っている。どうして活きることができるだろう(台下云我欲反,豈得活邪)。私は、山頭から廷尉(法官、または牢獄)を眺めることはあっても、廷尉から山頭を眺めることはできない(我寧山頭望廷尉,不能廷尉望山頭)。かつて国家が累卵(卵を重ねた状態)のように危くなった時(王敦の乱を指します)、私がいなかったら救済できなかった(往者国家危如累卵,非我不済)。狡兔が死に尽くしたら、猟犬は煮られるべきものだ。(私は)ただ死に当たっても陰謀を為した者(庾亮)に報いるだけだ(狡兔既死,猟犬宜烹。但当死報造謀者耳)。」

 

蘇峻は豫州刺史・祖約が朝廷を怨んでいると知り、参軍・徐会を派遣して祖約を推崇(推重・尊重。擁戴)して、共に庾亮を討つように請いました。

祖約は大いに喜び、従子(甥)の祖智と祖衍もそろって大業を成すように勧めましたが(並勧成之)、譙国内史・桓宣が祖智にこう言いました「元々、強胡がまだ滅んでいないので、力を尽くしてこれを討とうとしていました(本以強胡未滅,将勠力討之)。使君(祖約)が雄霸(雄大な覇業)を為そうと欲するのなら、なぜ国を助けて蘇峻を討たないのですか。そのようにすれば、威名を自ずから挙げることができます。今、(逆に)蘇峻と共に反したら、どうして長久を得られるでしょう(此安得久乎)。」

祖智は従いませんでした。

 

桓宣が祖約を訪ねて会見を請いましたが、祖約は桓宣が諫言を欲していると知り、拒絶して中に入れませんでした。

この後、桓宣は祖約との関係を断ち、行動を共にしなくなりました(『資治通鑑』胡三省注によると、祖約は蘇峻に応じましたが、桓宣はその衆を率いて馬頭山に駐営しました)

 

十一月、祖約と蘇峻が叛しました。

祖約は兄の子に当たる沛内史・祖渙と女壻(娘婿)に当たる淮南太守・許柳を派遣し、兵を率いて祖峻と合流させました。

祖逖の妻が許柳の姉に当たり、(許柳を)固く諫めましたが、(許柳は)従いませんでした。

 

朝廷がまた詔を発して、卞壼を尚書令・領右衛将軍に、鄶稽内史・王舒を行揚州刺史事に(『資治通鑑』胡三省注によると、「鄶稽」は「会稽」です。王舒は父の名が「会」だったため、同じ字を避けて「鄶稽」に改めました)、呉興太守・虞潭を督三呉等諸郡軍事に任命しました。

 

尚書左丞・孔坦と司徒司馬・丹楊の人・陶回が王導に進言し、こう請いました「蘇峻がまだ至らないうちに、急いで阜陵を断ち、江西当利(地名)の諸口を守れば(『資治通鑑』胡三省注によると、阜陵には麻湖の阻(障害)があり、当利の諸口を守れば、蘇峻の兵は渡江できなくなりました)、彼は少数で我々は多数なので、一戦で決することができます(彼少我衆,一戦決矣)。もし蘇峻が来なかったら、前進してその城に迫ることもできます(若峻未来,可往逼其城)。今、(我々が)先に行かなかったら、蘇峻が必ず先に至り、蘇峻が至ったら人心が危駭(危惧、驚愕)するので、戦うのが難しくなります(難与戦矣)。この時を失ってはなりません(此時不可失也)。」

王導はこの意見に納得しましたが、庾亮が従いませんでした。

 

十二月辛亥(初一日)、蘇峻がその将・韓晃、張健等に姑孰を襲わせて攻略し、塩や米を取りました(『資治通鑑』胡三省注によると、姑孰は江渚に臨んでおり、舟船が集まっていました。晋はこの地に塩や米を蓄えていました)

庾亮はこの時になってやっと後悔しました。

 

韓晃等は于湖を屠しました(皆殺しにしました)

 

壬子(初二日)、彭城王・司馬雄と章武王・司馬休が叛して蘇峻に奔りました。

『晋書・列伝第七(宗室伝)』によると、彭城王・司馬雄は司馬釋(諡号は康王)の子で、司馬釋は司馬植(元王)の子、司馬植は司馬権(穆王。彭城王に封じられました)の子、司馬権は司馬懿の弟・司馬馗(魏の東武城侯)の子です。

司馬休は司馬滔の子で、司馬滔は司馬混(章武王になりました)の子、司馬混は河間王・司馬洪(諡号は平王)の子、司馬洪は義陽王・司馬望(成王)の子、司馬望は安平王・司馬孚(献王)の子、司馬孚は司馬懿の弟です。

 

庚申(初十日)、京師が戒厳し、護軍将軍・庾亮に符節を授けて(假節)、都督征討諸軍事に任命しました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・成帝紀』は「護軍将軍・庾亮に符節を授けて征討都督にした」と書いています)

左衛将軍・趙胤(『資治通鑑』では「左衛将軍」、『晋書・成帝紀』では「右衛将軍」です。『晋書・列伝第四十(劉超伝)』に「蘇峻が逆(反逆)を謀ると、劉超が趙胤に代わって左衛将軍になった(下述)」とあるので、ここは『資治通鑑』に従って「左衛将軍」としました)を冠軍将軍・歴陽太守に任命しました。

左将軍・司馬流に命じて、兵を指揮して慈湖(『資治通鑑』胡三省注によると、慈湖は姑孰にありました)を占拠させ、蘇峻を拒みました。

『晋書・成帝紀』は「左将軍・司馬流に師(軍)を率いて祖峻を拒ませたが、慈湖で戦って、司馬流が敗れて死んだ」と書いています。『資治通鑑』は司馬流の死を翌年正月に置いています。

また、『晋書・成帝紀』はここで「驍騎将軍・鍾雅に符節を授け(假節)、舟軍を指揮して趙胤と共に前鋒とし、蘇峻を拒ませた」と書いていますが、『資治通鑑』は省略しています。

 

前射声校尉・劉超を左衛将軍に任命し(上述。『晋書・成帝紀』には記述がありません)、侍中・褚翜に征討軍事を管理させました(典征討軍事)

 

更に庾亮は、弟の庾翼に白衣(平民)の身分で数百人を統領させ、石頭で備えさせました(以白衣領数百人備石頭)

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

丙寅(十六日)、東晋が琅邪王・司馬昱(元帝の子)を会稽王に遷し、呉王・司馬岳を琅邪王(明帝の子)に遷しました。

 

[十] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

宣城内史・桓彝が兵を起こして朝廷に赴こうと欲しましたが、長史・裨恵(裨が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代、鄭の大夫・裨諶の後代です)は郡兵が寡弱で山民が容易に騒擾するので(山民の情勢が不安定なので。原文「山民易擾」。『資治通鑑』胡三省注によると、宣城西南には山越が住んでおり、呉の時代からしばしば寇乱を為していました)、暫くは出兵を抑えて待機するべきだと考えました(謂宜且按甲以待之)

桓彝が様相を厳しくして言いました「『主君に対して無礼な者を見たら、鷹鸇(鷹等の猛禽)が鳥雀(雀のような小鳥)を逐うように行動する(見無礼於其君者,若鷹鸇之逐鳥雀)』という(『春秋左氏伝』の言葉が元になっています)。今は社稷に危機が迫っているので、義において安逸にしているわけにはいかない(今社稷危逼,義無宴安)。」

 

辛未(二十一日)、桓彝が兵を進めて蕪湖に駐屯しました。

しかし韓晃が桓彝を撃って破り、そのまま進軍して宣城(『資治通鑑』胡三省注によると、宣城郡の治所は宛陵県なので、宣城は郡の治所とは別の県です)を攻めました。桓彝は退いて広徳(『資治通鑑』胡三省注によると、広徳は東漢が置いた県で、晋が宣城(郡)に入れました(それ以前は恐らく丹陽郡に属しました。『中国歴史地図集(第三冊)』参照)を保ちます。

韓晃は諸県を大いに掠めて(略奪して)還りました。

 

徐州刺史・郗鑒が自分の統領する部衆を指揮して国難に赴こうと欲しましたが、朝廷は詔を発して、北寇(北方の敵)を理由に許可しませんでした。

『晋書・成帝紀』は「車騎将軍・郗鑒が広陵相・劉矩を派遣し、師(軍)を率いて京師に赴かせた」と書いていますが、『資治通鑑』は採用していません。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

この年、後趙の中山公・石虎が代王・拓跋紇那を撃ち、句注陘北(句注は山名で、恐らく雁門関があった場所です。「陘北」は陘嶺以北で、「陘嶺」は句注山の古名のようです。よって、「句注陘北」は雁門関北を指すと思われますで戦いました。

紇那は兵が敗れたため、都を大甯に遷して(後趙を)避けました。

『資治通鑑』胡三省注によると、「大甯」は「広甯」を指します。西漢時代は「広寧」といい、上谷郡に属す県でした。東漢時代に「広甯」になり、西晋武帝が分けて広甯郡を置きました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋鬱律の子・翳槐は舅(母の兄弟)の部族である賀蘭部に住んでいました。

紇那が使者を派遣して翳槐を求めましたが、賀蘭大人・藹頭は翳槐を擁護して送りませんでした。

紇那は宇文部と共に藹頭を撃ちましたが、克てませんでした。

 

 

次回に続きます。

東晋時代28 東晋成帝(三) 蘇峻の進撃 328年(1)

 

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