東晋時代28 東晋成帝(三) 蘇峻の進撃 328年(1)

今回は東晋成帝咸和三年です。三回に分けます。

 

東晋成帝咸和三年

成漢武帝玉衡十八年/漢趙帝(劉曜)光初十一年

後趙趙王(石勒)十年 太和元年/前涼文王太元五年

戊子 328年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月、東晋の温嶠が建康に入って朝廷を救うため、尋陽に駐軍しました(温嶠は武昌を鎮守していました)

 

『晋書・成帝紀』は「春正月、平南将軍・温嶠が師(軍)を率いて京師を救うため、尋陽に駐軍した。督護・王愆期、西陽太守・鄧嶽、鄱陽太守・紀睦を前鋒にした。征西大将軍・陶侃が督護・龔登を派遣して温嶠の節度(指揮)を受けさせた。鍾雅、趙胤等は慈湖に駐軍し、王愆期、鄧嶽等は直瀆に駐軍した」と書いていますが、『資治通鑑』では、陶侃が温嶠に協力して龔登を送るのは四月になってからの事です(再述します)

 

本文に戻ります。

韓晃が慈湖で司馬流を襲いました。

司馬流は元々懦怯(臆病)だったため、戦いに臨むと、肉を炙って食べようとしても口がどこにあるのか分からなくなるほど動揺し(食炙不知口処)、兵が敗れて死にました(『晋書・成帝紀』は司馬流の死を前年に書いています)

 

丁未(二十八日)、蘇峻が祖渙、許柳等の衆二万人を指揮して横江を渡り、牛渚で上陸して陵口に駐軍しました(『資治通鑑』によると、牛渚山の下に磯があり、船着場になっていました。陵口は牛渚山東北の東陵口を指すようです)

台兵(朝廷軍)が蘇峻を防ごうとしましたが、連敗しました。

 

二月庚戌(初一日)、蘇峻が蒋陵覆舟山に至りました(蒋陵は呉大帝・孫権の陵墓です。『資治通鑑』胡三省注によると、覆舟山は覆舟(転覆した舟)のような形をしていたので、そう命名されました)

 

陶回が庾亮に言いました「蘇峻は石頭に重戍(重兵による守備)があることを知っているので、敢えて直接下ろうとせず、必ず小丹楊に向かい、南道から歩いて来ます(原文「不敢直下,必向小丹楊南道歩来」。『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の丹陽郡は宛陵県が治所でしたが、西晋武帝が丹陽を分けて宣城郡を置き、その治所を宛陵にしました。丹陽の治所は建業に遷されます。建業は漢代の秣陵です。呉が建業に改名しましたが、晋が秣陵に戻し、武帝が秣陵の水北(川の北)を分けて改めて建業にしました。後に愍帝の諱(実名)を避けて建康と呼ばれるようになり、東晋元帝が南渡してからは、建康に丹陽尹が置かれ、台城西に治所が設けられました。丹楊太守の旧治所は秣陵県にあり、俗に小丹楊と呼ばれるようになりました)。兵を伏せてこれを邀撃するべきです。そうすれば、一戦にして擒にできます(宜伏兵邀之,可一戦擒也)。」

庾亮はこの意見に従いませんでした。

 

果たして蘇峻は小丹楊から進みました。途中で道に迷い、しかも夜間に行軍したため、各部隊を配備できないほど混乱します(迷失道,夜行,無復部分)

庾亮は(後に)それを聞いて(伏兵を置かなかったことを)後悔しました。

 

朝士は京邑に危機が迫っていると思い、多くの者が家人を送り出し、東に入って避難させました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。呉郡や会稽郡が建康の東の地に当たります)しかし左衛将軍・劉超だけは妻孥(妻子)を遷して宮内に入居させました。

 

朝廷が詔によって卞壼を都督大桁東諸軍事に任命し、侍中・鍾雅と共に郭黙、趙胤等の軍を率いて、西陵で蘇峻と戦わせました。

しかし卞壼等が大敗し、死傷した者が千を数えました。

これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・列伝第四十(卞壺伝)』では、蘇峻が東陵口に至った時、詔によって卞壼を都督大桁東諸軍事・假節とし、更に領軍将軍・給事中を加えています(これ以前に卞壺は尚書令・右将軍・領右衛将軍になっています)

『晋書・成帝紀』は「領軍将軍・卞壼に符節を授けて(假節)、六軍を率いさせた。蘇峻と西陵で戦い、王師が敗績(敗戦)した」と書いています。

 

本文に戻ります。

丙辰(初七日)、蘇峻が青溪柵を攻めました。

尚書令・領軍将軍・卞壼が諸軍を率いて拒撃(迎撃、抗戦)しましたが、阻止できませんでした(不能禁)

 

蘇峻は風を利用して火を放ちました。王師がまた大敗し、台省や諸営寺署(文武の官署)が焼かれ、一時にして蕩尽(消え尽くすこと)します。

卞壼は背の癰(できもの)を治療したばかりで、傷口がまだ癒合していませんでしたが、病をおして左右の者を指揮し、苦戦して死亡しました(力疾帥左右苦戦而死)。二子の卞眕と卞盱も父の後に続き、敵前に赴いて死にました。

母がその屍を撫でて、哀哭して言いました「父は忠臣となり、子は孝子となりました。何を恨むことがあるでしょう(父為忠臣,子為孝子,夫何恨乎)。」

 

丹楊尹・羊曼が兵を指揮して雲龍門を守っていましたが、黄門侍郎・周導、廬江太守・陶瞻と共に戦死しました。死者が数千人に上ります。

庾亮は衆を率いて宣陽門内に陣を構えようとしましたが、隊列を為す前に、士衆が皆、甲冑を棄てて逃走してしまいました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・成帝紀』は「庾亮も宣陽門内で敗れた」と書いています)

庾亮は諸弟の庾懌、庾條、庾翼および郭黙、趙胤と共に尋陽(温嶠)に奔りました。

 

庾亮が走ろうとした時、振り向いて鍾雅に言いました「後の事は深く委ねた(後の事はくれぐれも頼んだ。原文「後事深以相委」)。」

鐘雅が言いました「棟(家屋の中央に通された最も重要な梁)が折れて榱(屋根を支える木材)が崩れたのは、誰の咎ですか(棟折榱崩,誰之咎也)。」

庾亮が言いました「今日の事は、これ以上、語る必要はない(今日之事,不容復言)。」

 

庾亮が小船に乗ると、乱兵が剝掠(略奪、強奪)を始めました。

庾亮の左右の者が賊を射ましたが、誤って柁工(船頭、舵取り)に命中し、弦の音に応じて倒れてしまいました。

船上の者が皆、色を失って離散しようとしましたが、庾亮は動かず、ゆっくりこう言いました「そのような腕で、どうして賊に中てることができるか(此手何可使著賊)。」

(庾亮の落ち着いた姿を見て)衆人はやっと安定しました。

 

蘇峻の兵が台城に入りました。

司徒・王導が侍中・褚翜に言いました「至尊(皇帝)は正殿を御すものです(正殿を制すべきです。正殿にいるべきです)。君は(陛下に)進言して速やかに出て来させるべきです(至尊当御正殿,君可啓令速出)。」

褚翜はすぐ上閤に入り(原文「翜即入上閤」。「上閤」は恐らく宮門です。あるいは、「入上」が動詞で、「閤(宮門)に入った」という意味かもしれません)、自ら成帝を抱いて太極前殿に登りました。

王導と光禄大夫・陸曄、荀崧(『資治通鑑』は「光禄大夫・陸曄、荀崧」としていますが、『晋書・成帝紀』では「右光禄大夫・陸曄、荀崧」です。『晋書・列伝第四十七(陸曄伝)』と『列伝第四十五(荀崧伝)』を見ると、陸曄は左光禄大夫に、荀崧は右光禄大夫なっているので、ここは「左右光禄大夫・陸曄、荀崧」とするのが最も正しいようです)、尚書・張闓も共に太極殿の御床(皇帝が坐る場所)に登って成帝を擁衛(護衛)します。

また、劉超を右衛将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、晋文帝(司馬昭。当時は魏の時代で、司馬昭は晋王です)が中衛将軍を置き、武帝(司馬炎)が命を受けてから(晋を建国してから)左・右衛に分けて、羊琇を左衛に、趙序を右衛にしました)に任命し、鍾雅、褚翜と共に左右に立って侍らせ、太常・孔愉に朝服を着て宗廟を守らせました。

 

当時は百官が奔散しており、殿省(宮殿・朝廷)は蕭然(空寂な様子)としていました。

蘇峻の兵が入ると、戦勝に乗じて戈を揮い、帝座に接近して、叱咤して褚翜を下りさせようとしました。しかし、褚翜は正立して動かず、逆に叱ってこう言いました「蘇冠軍(蘇峻は沈充を討った功績によって冠軍将軍になっていました)が至尊に朝覲しに来たのに、軍人がなぜ侵逼(侵犯・逼迫)できるのだ!」

蘇峻の兵は敢えて上殿することができなくなり、太后がいる後宮に突入しました。宮人や太后の左右に仕える侍人が皆、掠奪されます。

 

蘇峻の兵は百官を駆役(駆使、使役。労役に駆り立てること)しました。光禄勳・王彬等が皆、捶撻(棒や鞭で打たれること)を被り、擔を担いで蒋山に登らされます(『資治通鑑』胡三省注によると、蒋山は鍾山を指します。古は金陵山といいました。漢末に秣陵尉・蒋子文(蒋歆)が賊を討ってここで戦死したため、呉大帝・孫権が廟を建てました。そこから、蒋山と呼ばれるようになりました。また、孫権の祖(祖父、またはそれ以前の先祖)の諱(実名)が孫鍾だったため、鐘を避けて蒋山に改めたともいいます)

蘇峻の兵が士女の衣服を奪って裸にしたため(裸剝士女)、人々は皆、破れた蓆や苫草で体を隠し(壊席苫草自鄣)、草がない者は地面に坐って土で自分を覆いました(坐地以土自覆)

百姓が号泣し、哀号の声が都邑内外に響いて震動させました。

 

姑孰が陥落した時、尚書左丞・孔坦が人にこう言いました「蘇峻の勢いを観るに、必ず台城を破るが、私は戦士ではないので、戎服(軍服)は必要ない。」

台城が陥落すると、戎服の者は多くが死にましたが、白衣(平服)の者は無事でした(白衣者無他)

 

当時、官府には布二十万匹、金銀五千斤、銭億万、絹数万匹があり、他の物もこれらに相当するほどの蓄えがありました(他物称是)

しかし蘇峻がそれを全て費やしたため、太官は残った数石の米を焼いて御膳(皇帝の食事)に提供するだけとなりました。

 

ある人が鍾雅に言いました「君は性(性格)が亮直(誠実正直)なので、寇讎(賊、敵)に受け入れられるはずがない(必不容於寇讎)。なぜ早くこれのために計らないのだ(なぜ早く自分を守る計を立てないのだ。なぜ速く逃げないのだ。原文「盍早為之計」)。」

鐘雅が言いました「国が乱れたのに匡正できず、主君が危ういのに救うこともできず、それぞれ遁逃して禍から免れることを求めたら、何をもって臣とするのだ(そのような者を臣下といえるか。原文「国乱不能匡,君危不能済,各遁逃以求免,何以為臣」)。」

 

丁巳(初八日)、蘇峻が詔と称して大赦を行いました。但し、庾亮兄弟だけは赦免の列から外しました(不在原例)

王導には徳望があったので、今までの官位のまま、自分の右(蘇峻の上)に居させることにしました(猶使以本官居己之右)

祖約を侍中・太尉・尚書令とし、蘇峻自ら驃騎将軍・録尚書事になり、許柳を丹楊尹に、馬雄を左衛将軍に、祖渙を驍騎将軍に任命しました。

弋陽王・司馬羕が蘇峻を訪ね、蘇峻の功績を称述(称賛・陳述)しました。蘇峻は司馬羕を西陽王・太宰に戻して録尚書事にしました(司馬羕は東晋成帝咸和元年・326年に太宰を罷免され、西陽王から弋陽県王に落とされました)

 

蘇峻が兵を派遣して呉国内史・庾冰(『資治通鑑』では「呉国内史」、『晋書・成帝紀』では「呉郡太守」です)を攻撃させました。

庾冰は防ぐことができず、郡(国)を棄てて会稽に奔りました。

庾冰が浙江に至った時、蘇峻が賞を懸けて甚だ厳しく探し求めました(峻購之甚急)。そこで、呉の鈴下卒(門衛、侍従)は、庾冰を船に引き入れると蘧蒢(目が粗い蓆)で覆い、歌を歌いながら船をこぎ(吟嘯鼓枻)、川を遡って去りました(泝流而去)。邏所(船着場等、巡邏の士卒が置かれた場所)に至る度に、杖で船を叩いて、敢えて「どこで庾冰を探すのだ。庾冰ならまさにここに居るぞ(何処覓庾冰,庾冰正在此)」と言います。人々は彼が酔っていると思い、逆に疑いませんでした。

こうして庾冰はなんとか逃れることができました。

 

蘇峻は侍中・蔡謨を呉国内史に任命しました。

 

温嶠は建康が失陥したと聞いて号慟(慟哭)しました。温嶠を訪ねに来た者も、向かいあって悲哭します(人有候之者,悲哭相対)

庾亮が尋陽に至って太后の詔を宣布し、温嶠を驃騎将軍・開府儀同三司に任命しました。また、徐州刺史・郗鑒に司空を加えました。

しかし温嶠は「今日は賊を滅ぼすことを急務とするべきです(今日当以滅賊為急)。まだ功績がないのに、先に官を拝したら、何をもって天下に示すのでしょうか(天下に示しがつきません。原文「未有功而先拝官,将何以示天下」)」と言って受け入れませんでした。

 

温嶠はかねてから庾亮を重んじていたため、庾亮が奔敗(敗戦・奔走)して来ても、ますます推奉(推戴・尊重)し、兵を分けて庾亮に配しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

後趙王・石勒が大赦を行い、趙王十年から太和元年に改元しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、『晋春秋』には「石勒が帝位に即き、太和に改元した」とあります。しかし石勒は後趙の建平元年(東晋成帝咸和五年・330年)になって初めて帝位に即くので、『資治通鑑』は『晋書・載記』に従って、本年は帝位に即いたことに触れず、太和元年に改元したことだけを書いています(『晋書・載記第五』には「(東晋成帝)咸和三年を改年して太和とした(以咸和三年改年曰太和)」とあります)

 

[三] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月丙子(『晋書・成帝紀』『資治通鑑』とも「三月丙子」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年三月の朔は「己卯」なので、「丙子」はないはずです)、東晋の皇太后・庾氏が憂崩(憂死)しました。

『晋書・列伝第二・后妃伝下』には「后は逼辱(逼迫・凌辱)されたため、憂崩した(后見逼辱,遂以憂崩)」と書かれています。この時三十二歳でした。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

蘇峻が南に移動して于湖に駐屯しました。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月、後趙の将・石堪が宛を攻めました。

南陽太守・王国が東晋に叛して後趙に降りました。

 

石堪が兵を進めて淮上に駐軍している祖約を攻めると、祖約の将・陳光も兵を起こして祖約を攻撃しました。

祖約の左右に仕える閻禿は容貌が祖約に似ていたため、陳光は祖約だと思って閻禿を捕まえました。祖約はその間に壁を越えて免れることができました(踰垣獲免)

陳光は後趙に奔りました。

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

壬申(二十四日)、東晋が明穆皇后(庾太后)を武平陵に埋葬しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代29 東晋成帝(四) 蘇峻討伐 328年(2)

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