東晋時代29 東晋成帝(四) 蘇峻討伐 328年(2)

今回は東晋成帝咸和三年の続きです。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

庾亮と温嶠が兵を起こして蘇峻を討とうとしましたが、道路が断絶しており、建康の声聞(情報、消息)が分かりませんでした。

ちょうど南陽の人・范汪が尋陽に至ってこう言いました「蘇峻は政令が一定せず(政令不壹)、貪暴縦横なので、既に滅亡の兆しがあり、たとえ(今は)強盛でも弱小に変わります(滅亡已兆,雖強易弱)。朝廷に倒懸の急(転覆の危機)があるので、すぐに兵を進めて討つべきです(宜時進討)。」

温嶠は深く納得しました。

范汪は庾亮に召されて参護軍事に任命されました。

 

庾亮と温嶠はお互いを推して盟主に立てようとしました。

温嶠の従弟・温充(『資治通鑑』胡三省注によると、『晋春秋』は温充を温嶠の「従兄」としていますが、『資治通鑑』は『晋書‧列伝第三十七(温嶠伝)』に従って「従弟」としています)が言いました「陶征西は位が重くて兵が強いので、共に推すべきです(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。陶侃は当時、征西大将軍として荊・湘・雍・梁州を都督し、長江上流を制していました)。」

そこで温嶠は督護・王愆期を派遣して荊州を訪ねさせ、共に国難に赴くように陶侃を誘いました。

しかし陶侃はまだ顧命(明帝の遺命)に加われなかったことを恨んでいたため、こう答えました「私は疆埸(辺界、国境)の外将なので、敢えて局(職分)を越えることはできません(不敢越局)。」

温嶠がしばしば説得しましたが、陶侃の考えを変えることができなかったため、陶侃の意に順じることにして、使者を派遣してこう伝えました「仁公(仁徳の人に対する尊称。陶侃を指します)はとりあえず(任地を)守ってください。僕(私)が先に(長江を)下ります(仁公且守,僕当先下)。」

 

使者が去って二日経ってから、別の場所に使者として派遣されていた平南参軍・滎陽の人・毛寶(『資治通鑑』胡三省注によると、温嶠は平南将軍になってから毛寶を参軍にしました)が還り、このことを聞いて温嶠に説きました「およそ、大事を挙げる時とは、天下とそれを共にするものです(凡挙大事,当与天下共之)。師(軍)が克つかどうかは和にかかっており、異同(異なる意見)が存在するのは相応しくありません(師克在和,不宜異同)。たとえ疑いがあったとしても、外にはそれを覚っていない姿を示すべきであり、自ら攜貳を為すのは(心を異ならせるのは)、なおさら相応しくありません(假令可疑,猶当外示不覚,況自為攜貳邪)。急いで信(信書を持った使者)を追い、書を改め、必ず(陶侃の動きに)応じて共に進むと伝えるべきです(宜急追信改書,言必応俱進)。もし前の信に追いつかないようなら、改めて使者を送る必要があります(若不及前信,当更遣使)。」

温嶠は心中で過ちを悟り(意悟)、すぐに使者を追わせて書を改めました。

果たして、陶侃は温嶠に同意し、督護・龔登を派遣して、兵を率いて温嶠を訪ねさせました(前回書いた通り、『晋書・成帝紀』では春正月に陶侃が龔登を派遣しています)

 

温嶠には七千の衆がいました。そこで、列名で尚書に報告し(原文「列上尚書」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。温嶠等は陶侃を盟主に立ててから、連名で尚書に報告しました)、祖約、蘇峻の罪状を述べ、征鎮に移告(文書を送って告げること)して、涙を揮って舟に乗りました(灑泣登舟)

 

ところが、陶侃がまた(使者に)龔登の後を追わせて帰還させました。

温嶠が陶侃に書を送りました「軍とは、進むことはあっても退くことはなく、増やすことはできても減らすことはできないものです(夫軍有進而無退,可増而不可減)。最近、既に檄文を遠近に送り、盟府(盟主の府。陶侃の府です)における発言として、後の半月で大挙することを約束しました。既に諸郡の軍が並んで路上におり、ただ仁公の軍が至るのを待つだけで、そろって進もうとしています(近已移檄遠近,言於盟府,刻後月半大挙,諸郡軍並在路次,惟須仁公軍至,便斉進耳)。仁公は今、軍を召して還らせ、遠近を疑惑させましたが、成敗の由縁はまさにここにあります(成敗之由,将在於此)。僕(私)は才が軽いのに任が重いので、実に仁公の厚い愛に頼り、遠くで成規(既に作られた規制、決まり。恐らくここでは陶侃の指示を意味します)を受け入れています(実憑仁公篤愛,遠稟成規)。最初に戎行を開くこと(先鋒として進軍すること)に至っては、敢えて辞退することはありません(至於首啓戎行,不敢有辞)。僕(私)と仁公は、首と尾が互いに守りあい、唇と歯が頼りあっているのと同じです(如首尾相衛,唇歯相依也)。一部の者が高旨(陶侃の立派な考え)に達することができず、仁公が賊の討伐を緩めていると考えることを恐れます。このような声は、追うのが難しいものです(撤回させるの困難です。原文「恐或者不達高旨,将謂仁公緩於討賊,此声難追」)。僕(私)と仁公は並んで方嶽の任(地方を治める任務)を受けているので、安危休戚(「休戚」は歓喜と憂愁です)は理において同じはずです(理既同之)。そもそも、最近の交流以来、(使者が)緊密に往来し、情が深く義が重くなっているので、(私自身に)一旦にして急があったら、やはり仁公がことごとく衆を発して救援することを望んでいます。社稷の難に対してなら、なおさらでしょう(且自頃之顧,綢繆往来,情深義重,一旦有急,亦望仁公悉衆見救,況社稷之難乎)。今日の憂は、どうして僕(私)一州だけのことなのでしょうか。文武(百官)で翹企(頭や踵を上げて待ち望むこと)していない者はいません(今日之憂,豈惟僕一州,文武莫不翹企)。もしこの州(温嶠がいる江州です)を守れなくなったら、祖約と蘇峻はここに官長を樹置(任命、配置)するので、荊楚(陶侃がいる荊州です)の西は強胡に逼り、東は逆賊に接しています。そのうえ飢饉があったら、(荊楚の)将来の危難は、この州の今日よりも甚だしくなります(荊楚西逼強胡,東接逆賊,因之以饑饉,将来之危,乃当甚於此州之今日也)

仁公は、(挙兵して)進んだら大晋の忠臣となり、桓・文の功(春秋時代の覇者、斉桓公と晋文公の功績)に加わることになります(進当為大晋之忠臣,参桓文之功)。退いても、慈父の情によって愛子の痛みを雪ぐことになります(陶侃の子・陶瞻は本年二月に戦死しました。原文「退当以慈父之情,雪愛子之痛」)。今、祖約と蘇峻は凶逆無道なので、哀痛が天地に感応し、人心がそろって一つになり、皆が切歯しています(痛感天地,人心斉壹,咸皆切歯)。今の進討(進軍・討伐)は、石を卵に投げるようなものです。もしまた兵を召して還らせたら、それは成功を目前にして失敗を招くようなものです(是為敗於幾成也)(私が)述べた内容を深く察することを願います(願深察所陳)。」

 

王愆期も陶侃に言いました「蘇峻は豺狼です。もし(彼に)志を遂げることができたら、たとえ四海が広大でも、公にどうして容足の地(足を置く地)があるでしょう(如得遂志,四海雖広,公寧有容足之地乎)。」

陶侃は深く感悟し、すぐに戎服を着て舟に乗りました。陶瞻の喪(霊柩)が至っても臨(哀臨。哭礼)せず(喪至不臨)、昼夜兼行して前進します。

 

郗鑒は広陵にいましたが、城が孤立して食糧も少なく、胡寇に近接していたため、人々には固志がありませんでした(人心が安定していませんでした)しかし郗鑒は詔書を得ると涙を流し、国難に赴くことを衆人に誓いました。将士が争って奮起します。

そこで、将軍・夏侯長等を派遣し、間行(近道を進むこと。または秘かに進むこと)させて温嶠にこう伝えました「賊は天子に強制して東の会稽に入ろうとしているとも聞きました(或聞賊欲挟天子東入会稽)。先に営塁を建てて、要害に屯拠(占拠駐屯)するべきです。(そうすれば)その越逸(逃走)を防ぎ、しかも賊の糧運を断つことができます(既防其越逸,又断賊糧運)。その後、清野堅壁(近隣の民や物資を移して敵が略奪できるものをなくし、城を堅守すること)して賊を待てば、賊は城を攻めても抜くことができず、野には掠めるもの(奪うもの)もなく、東道が既に断たれ、糧運も自然に絶えるので、必ず自潰(自滅)します。」

温嶠は深く納得しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、晋都・建康の糧運は全て三呉に頼っていたので、郗鑒は先に東道を断とうとしました。胡三省注は「王敦・蘇峻の乱において、匡復の謀(国を救う謀)は郗鑒が多かった」と評しています。

「三呉」については、漢が呉郡を置き、呉が呉郡を分けて呉興郡を置き、晋が更に呉興と丹楊を分けて義興郡を置きました。これを三呉といいます。または、呉郡、呉興、会稽を三呉とする説、呉郡、呉興、丹楊を三呉とする説があります。

 

五月、陶侃が衆を率いて尋陽に至りました。

議者が皆、「陶侃は庾亮を誅殺して天下に謝そう欲している」と言いました。

甚だ懼れた庾亮は、温嶠の計を用いて、陶侃を訪ねて拝謝しました。

陶侃は驚いてそれを制止し、「庾元規が陶士行を拝すのですか!」と言いました(元規は庾亮の字、士行は陶侃の字です)

庾亮が咎を認めて自責し、その風止(様子、挙止)が立派だったため(引咎自責,風止可観)、陶侃は知らず知らずにわだかまりを静めて(不覚釈然)こう言いました「君侯(あなた)は石頭を修築して老子(私)に対しましたが(成帝咸和元年・326年参照)、今日、逆に会いに来て(協力を)求めるとは思いませんでした(君侯脩石頭以擬老子,今日反見求邪)。」

陶侃は庾亮と終日談宴してから、庾亮、温嶠と共に建康に向かいました。四万の戎卒を擁し、旌旗が七百余里に連なり、鉦鼓の声(音)が遠近を震わせます。

 

蘇峻は西方の兵が起きたと聞くと、参軍・賈寧の計を採用して、姑孰から還って石頭を占拠し、兵を分けて陶侃等を拒むことにしました。

 

乙未(十八日)、蘇峻が成帝に逼って石頭に遷らせました。司徒・王導が頑なに争っても従いません。

成帝は哀泣して車に乗り、宮中が慟哭しました。

この時、天が大雨を降らせ、道路が泥濘(ぬかるみ)になりました。劉超と鍾雅が歩いて左右に侍っており、蘇峻が馬を与えても乗ろうとせず、悲哀によって慷慨(憤慨、激昂)しています。

蘇峻はそれを聞いて二人を憎みましたが、敢えて殺すことはできませんでした(然未敢殺也)。そこで、蘇峻は自分の親信(親近、信任している者)である許方等に司馬督や殿中監の任務を補わせ、外見は宿衛を理由にして、内実は劉超等を防禦しました。

蘇峻は倉屋(倉庫)を帝宮とし、日々、成帝の前に来て醜言(悪口。耳障りな言葉)をほしいままにしました。

劉超、鍾雅と右光禄大夫・荀崧、金紫光禄大夫・華恆(『資治通鑑』胡三省注によると、左・右光禄大夫は金章紫綬をもち、光禄大夫は銀章青綬をもちました。光禄大夫でも金章紫綬を加えられた者は金紫光禄大夫といいました)、尚書・荀邃、侍中・丁潭が侍従して、成帝の側から離れませんでした。

 

当時は饑饉のため米が貴くなっていましたが、蘇峻が問遺(慰問・贈与)しても、劉超は一切受け取りませんでした。

劉超は朝から夜まで成帝の側を離れず(繾綣朝夕)、臣の節がますます恭敬になり、幽厄(困厄、災難)の中にいても、成帝を啓蒙して『孝経』や『論語』を教授しました。

 

蘇峻が左光禄大夫・陸曄に留台(皇帝不在の朝廷)を守らせ、居民を逼迫して全て後苑に集めました。

匡術に苑城を守らせました。

 

『晋書・第七・成帝紀』はここで「(蘇峻が)管商、張瑾、弘徽を派遣して晋陵を侵し、韓晃を派遣して義興を侵した」と書いていますが、『資治通鑑』は省略しており、この後、蘇峻がその将・管商、張健、弘徽等を派遣して東方の兵に対抗させます(下述)。『晋書・成帝紀』の「張瑾」は『資治通鑑』の「張健」と同一人物のようです(『晋書・成帝紀』校勘記参照)

 

尚書左丞・孔坦が陶侃に奔り、陶侃は孔坦を長史にしました。

 

以前、蘇峻が尚書・張闓を派遣して暫時、東軍を監督させました。

司徒・王導は密かに張闓に命じて、太后の詔を用いて三呉の吏士を諭させました。吏士に義兵を起こして天子を救わせようとします。

その結果、会稽内史・王舒が庾冰に奮武将軍を代行させ(行奮武将軍)、兵一万を率いて西の浙江を渡らせました。

呉興太守・虞潭、呉国内史・蔡謨、前義興太守・顧衆等も皆、義兵を挙げてこれに応じます。

 

虞潭の母・孫氏が虞潭に言いました「汝は生(命)を捨てて義を取るべきです。私の老齢が理由で(義挙が)妨げられてはなりません(汝当捨生取義,勿以吾老為累)。」

孫氏は家僮を全て送り出して従軍させ、自分の環珮(装飾品)を売って軍資にしました。

 

蔡謨は庾冰が旧任(呉国内史)に戻るべきだと考え、郡(呉国)を去って庾冰に譲りました。

 

蘇峻は東方でも兵が起きたと聞いて、その将・管商、張健、弘徽等を派遣して拒ませました(上述)

虞潭等は彼等と戦いましたが、どちらにも勝敗があり、前に進めなくなりました。

 

陶侃と温嶠が茄子浦(『資治通鑑』胡三省注によると、この地で多くの人が茄子を栽培したため、浦(水辺)の名になったようです)に駐軍しました。

温嶠は、南兵(陶侃と温嶠の兵)は水に習熟しており、蘇峻の兵は歩戦に長けているので(便歩)、令を下して「将士で岸に登った者は死刑に処す(将士有上岸者死)!」と宣言しました。

 

ちょうど蘇峻が米一万斛を輸送して祖約に届けました。祖約は司馬・桓撫等を派遣してこれを迎え入れさせます。

それを見た毛寶が千人を率いて温嶠の前鋒になり、その衆に告げました「兵法は、『軍令には従わない内容もある(軍令有所不従)』といっている。賊を視ることができて撃つこともできるのに、なぜ岸に登ってそれを撃たないのだ(豈可視賊可撃,不上岸撃之邪)!」

毛寶は自分の判断で出陣して桓撫を襲い、その米を全て獲得しました。斬獲(斬首・捕獲)した者が万を数えます。

この後、祖約は飢乏するようになりました。

温嶠は上表して毛寶を廬江太守にしました。

 

陶侃が上表して王舒を監浙東軍事に、虞潭を監浙西軍事に、郗鋻を都督揚州八郡諸軍事にしました。王舒と虞潭には郗鑒の節度(指揮)を受けさせます。

 

郗鑒は衆を率いて渡江し、陶侃等と茄子浦で会しました(合流しました)

雍州刺史・魏該も兵を率いて会しました。

 

丙午(二十九日。『資治通鑑』は「丙辰」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年五月は「戊寅」が朔なので、「丙辰」はありません。『晋書・成帝紀』は「丙午(二十九日)」としており、ここは『晋書』に従いました)、陶侃等の舟師が直接、石頭を目指し、蔡洲に至りました。陶侃は查浦に駐屯し、温嶠は沙門浦に駐屯します(『資治通鑑』胡三省注によると、蔡洲は石頭西岸にありました。查浦は大江(長江)南岸にあり、秦淮口に当たりました)

 

この部分は『資治通鑑』の記述で、『晋書・成帝紀』はこう書いています「丙午(二十九日)、征西大将軍・陶侃、平南将軍・温嶠、護軍将軍・庾亮、平北将軍・魏該の舟軍四万が蔡洲に駐軍した。」

 

蘇峻は烽火楼に登って(温嶠等の)士衆の盛いを眺め見ると、懼色を抱いて左右の者にこう言いました「私は元から温嶠が衆(衆心、人心)を得られるということを知っていた(吾本知温嶠能得衆也)。」

 

庾亮が督護・王彰を派遣して蘇峻の党・張曜を撃たせましたが、逆に敗れました。庾亮は節伝(符節と伝言)を送って陶侃に謝ります。

陶侃はこう返答しました「古人は三敗しました(春秋時代、斉を破った魯将・曹沫を指します)。君侯(あなた)は二敗したばかりです(君侯始二)。当今は形勢が危急の時なので、しばしばこのようにするのは相応しくありません(当今事急,不宜数爾)。」

 

庾亮の司馬・陳郡の人・殷融も陶侃を訪ねて敗戦の謝罪をしましたが、こう言いました「将軍(庾亮)がこうしたのです。融(私)等が決められることではありません(将軍為此,非融等所裁)。」

逆に王彰は陶侃の前に至るとこう言いました「彰(私)が自らこうしたのです。将軍は知りません(彰自為之,将軍不知也)。」

陶侃が言いました「昔は殷融が君子で王彰は小人だったが、今は王彰が君子で殷融が小人になった。」

 

宣城内史・桓彝は京城が陥落したと聞いて、慷慨(激昂・憤慨)して涙を流し、兵を進めて涇県に駐屯しました(『資治通鑑』胡三省注によると、桓彝は広徳から進軍しました)

当時は州郡の多くが使者を派遣して蘇峻に投降していたので、裨恵も桓彝に対して、とりあえずは蘇峻と使者を通じさせ、交至の禍(蘇峻に投降した四方の州郡によってもたらされる禍)を緩めるべきだ、と勧めました。

しかし桓彝は「私は国の厚恩を受けたので、義は致死にある(義によって命をかけなければならない。原文「義在致死」)。恥を忍んで逆臣と通問(交流。情報のやり取り)することができるか(焉能忍恥与逆臣通問)。もし成功しなくても、それは命(天命)(如其不済,此則命也)」と言い、将軍・兪縦を派遣して蘭石(『資治通鑑』胡三省注によると、蘭石は涇県東北に位置します)を守らせました。

 

蘇峻は自分の将・韓晃を派遣して蘭石を攻撃させました。

兪縦が敗れそうになったため、左右の者が退軍(撤退)を勧めましたが、兪縦は「私は桓侯の厚恩を受けたので、死によって報いなければならない(当以死報)。私が桓侯を裏切ることができないのは、桓侯が国を裏切ることができないのと同じだ(吾之不可負桓侯,猶桓侯之不負国也)」と言い、力戦して死にました。

韓晃は軍を進めて宣城の桓彝を攻めました。

 

六月、桓彝が力戦しましたが、韓晃が城を落とし、桓彝を捕えて殺しました。

 

陶侃が率いる諸軍は石頭に至ってすぐに決戦を欲しました。

しかし陶侃はこう言いました「賊衆はまさに盛んなので、鋒(鋭鋒、気勢)を争うのが難しい。歳月をかけて、智計(計謀)を用いてこれを破るべきだ(当以歳月智計破之)。」

 

その後、(諸軍が)しばしば戦いましたが、功を立てられなかったため、監軍部将・李根が白石塁を築くように請いました。

陶侃はこれに従い、夜に塁を築いて、曉(早朝)には完成させました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、当時、同盟した諸将には軍事を監督する者(監軍部将)はいませんでした(同盟諸将無監軍事者)。胡三省注は、「李根は恐らく郗鑒軍部将(郗鑒の軍の部将)である」と解説しています。ここで「監軍部将」と書かれているのは、恐らく、先人が史書を書き写す際に、「郗鑒軍部将」から「郗」の字が漏れて「鑒軍部将」になり、更に後の人が「鑒」を「監」に改めたためです。

白石塁は石頭東北にあり、峻極(極めて険峻なこと)かつ険固でした。

 

諸将は皆、蘇峻軍の厳声(『資治通鑑』胡三省注によると、戦鼓を敲いて隊を整える音です)を聞くと、蘇峻が攻めてくるのではないかと懼れました。

しかし孔坦がこう言いました「そのようなことはない(不然)。もしも蘇峻が塁を攻めるなら、必ず東北の風が急になって、我が水軍が救いに行けなくなるのを待つはずだ(必須東北風急,令我水軍不得往救)。今は天が清静なので、賊が来るはずはない(賊必不来)。彼等が隊を整えたのは、軍を派遣して江乗から出し、京口以東を掠めるために違いない(所以厳者,必遣軍出江乗,掠京口以東矣)。」

果たしてその通りになりました。

 

陶侃は庾亮に二千人を率いて白石を守らせました。

蘇峻が歩騎一万余を指揮して四面から攻撃しましたが、克てませんでした。

 

王舒、虞潭等はしばしば蘇峻の兵と戦いましたが、利がありませんでした。

孔坦が言いました「本来、郗公を召す必要はありませんでした。(郗公を召してしまったので)東門に限(制限。障壁)がなくなったのです(本不須召郗公,遂使東門無限)。今からでも送り還すべきです。たとえ晩くても、派遣しないよりはましです(今宜遣還,雖晚,猶勝不也)。」

そこで陶侃は郗鑒と後将軍・郭黙を帰らせて京口を占拠させました。大業、曲阿、庱亭に三塁を建てて蘇峻の兵勢を分散させ、郭黙にそのうちの大業を守らせます。

『資治通鑑』胡三省注によると、曲阿は秦の雲陽県で、西漢は会稽郡に、東漢は呉郡に、晋は毗陵郡に属しました。大業は里名で、曲阿の北にありました。庱亭は呉興にありました。

 

壬辰(十五日)、平北将軍・雍州刺史・魏該が軍中で死にました。

 

祖約が祖渙と桓撫を派遣して湓口(『資治通鑑』胡三省注によると、湓口は尋陽にありました)を襲わせました。

それを聞いた陶侃が自ら祖渙等を撃とうとします。

しかし廬江太守・毛寶がこう言いました「義軍は公を恃みにしています。公は動くべきではありません。寶(私)がこれを討つことを請います。」

陶侃は毛寶の意見に従いました。

 

祖渙と桓撫が皖を通り、それを機に譙国内史・桓宣を攻めました(『資治通鑑』胡三省注によると、桓宣は皖県の馬頭山に駐屯していました)

毛寶が桓宣を救いに行きましたが、祖渙と桓撫に敗れました。箭(矢)が毛寶の髀(太腿)を貫き、馬鞍に刺さります(徹鞍)。毛寶は人に命じて、鞍を踏みつけて箭(矢)を抜かせました(使人蹋鞍抜箭)。血が流れて鞾(靴)を満たします。しかし祖渙と桓撫に還撃(反撃)して二人を敗走させました。

桓宣はやっと脱出して、温嶠軍に帰しました。

 

毛寶は兵を進めて東関で祖約の軍を攻め、合肥の戍(守備営)を攻略しました。

この時、温嶠に召されたので、また石頭に帰りました。

 

祖約の諸将が秘かに後趙と通謀(共謀)し、(後趙が兵を向けたら)内応することに同意しました。

そこで、後趙の将・石聡と石堪が兵を率いて淮水を渡り、寿春を攻めました。

 

秋七月、祖約の衆が潰え、祖約は歴陽に奔りました。

趙聡等は寿春の二万余戸を捕虜にして帰りました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代30 東晋成帝(五) 劉曜の死 328年(3)

 

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