東晋時代30 東晋成帝(五) 劉曜の死 328年(3)

今回で東晋成帝咸和三年が終わります。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

後趙の中山公・石虎が四万の衆を率いて軹関(『資治通鑑』胡三省注によると、軹関は河内軹県にありました)から西に入り、前趙の河東を撃ちました。石虎に呼応した県が五十余にも上ります。

石虎はそのまま兵を進めて蒲阪を攻めました。

 

漢趙帝(趙主・劉曜)はまず河間王・劉述を派遣して氐・羌の衆を動員させ、秦州に駐屯して張駿や楊難敵に備えさせました。漢趙帝自身は中外の精鋭である水陸諸軍を指揮して蒲阪を救援し、衝関から(黄河を)北に渡りました。

「衝関」は、『資治通鑑』原文では「衛関」としており、胡三省注が「汲郡汲県に衛関があった」と解説しています。しかし汲県は軹関より東に位置するので、方角が合いません。『晋書・載記第三』でも「衛関」としていますが、中華書局『晋書』校勘記によると、「衛」は「衝」の誤りのようです。「衝関」は「潼関」の別名です。

 

石虎は懼れて退却し、漢趙帝がこれを追撃しました。

 

八月、漢趙帝が高候で追いつき、石虎と戦って大破しました。石瞻が斬られ、二百余里に屍が並びます(枕尸二百余里)

漢趙帝が収めた資仗(物資、武器)は億を数えました。

石虎は朝歌に奔りました。

 

漢趙帝は大陽(『資治通鑑』胡三省注によると、大陽は河東郡にありました。春秋時代の茅津で、大河(黄河)の陽(北)なので大陽といいましたから黄河を渡り、金墉(洛陽)の石生を攻めて包囲し、千金堨を決壊させて水を注ぎました。

また、諸将を分遣して汲郡や河内を攻めさせました。

後趙の滎陽太守・尹矩、野王太守・張進(『資治通鑑』胡三省注によると、野王県は漢代以来、河内郡に属しましたが、後趙が郡にしました)等が全て漢趙に降り、襄国(後趙の都)が大いに震撼しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

張駿が兵を治めて、虚に乗じて長安を襲おうと欲しました。

理曹郎中・索詢(『資治通鑑』胡三省注によると、理曹郎中は涼州の張氏が置いた官で、刑獄を担当しました)が諫めて言いました「劉曜は東征しましたが、その子・劉胤が長安を守っているので、まだ軽視できません(未易軽也)。たとえわずかに獲るものがあったとしても、彼がもし東方の図(東方に対する計画)を解いて、戻って我々に対抗したら、禍難の期(禍難の限度、程度)は量ることができません(借使小有所獲,彼若釈東方之図,還与我校,禍難之期,未可量也)。」

張駿は出兵を中止しました。

 

[十] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

蘇峻の腹心・路永、匡術、賈寧は祖約が敗れたと聞き、大事が成功できないことを恐れ(恐事不済)、蘇峻に司徒・王導等の諸大臣を全て誅殺して代わりに腹心を立てるように勧めました。しかし蘇峻はかねてから王導を尊敬していたため、同意しませんでした。

路永等は蘇峻に対して二心を抱くようになりました(更貳於峻)

 

王導が参軍・袁耽を派遣して、秘かに路永を誘い、帰順させました。袁耽は袁渙(東漢末の官員。曹操に仕えました)の曾孫です。

九月戊申(初三日)、王導が二子と路永を連れて白石に奔りました。

 

陶侃、温嶠等は蘇峻と久しく対峙しましたが、決着がつきませんでした。

蘇峻は諸将を分遣して東西を攻掠(攻撃、略奪)させ、向かうところで多くの勝利を収めたため(所嚮多捷)、人心が恐懼しました(人情恟懼)

朝士で西軍に奔った者が皆こう言いました「蘇峻は狡黠(狡猾)で膽決(勇気、決断力)もあり、その徒は驍勇で、向かうところに敵がいません(峻狡黠有膽決,其徒驍勇,所向無敵)。もしも天が罪のある者を討つのなら、蘇峻は最後は滅亡します。しかし人事だけにおいて言うなら、まだ容易に除くことはできません(若天討有罪,則峻終滅亡。止以人事言之,未易除也)。」

温嶠が怒って言いました「臆病な諸君は、逆に賊を誉めるのか(諸君怯懦,乃更誉賊)!」

しかし戦を重ねても勝てないため、温嶠も恐れるようになりました。

 

温嶠は軍の食糧が尽きたため、陶侃から借りようとしました。

陶侃が怒って言いました「使君(あなた)は以前、良将および兵食が足りないことを憂う必要はなく、ただ老僕(私)を主(盟主)にしたいだけだと言った(使君前云不憂無良将及兵食,惟欲得老僕為主耳)。今、しばしば戦って全て敗北したが、良将はどこにいるのだ(今数戦皆北,良将安在)。荊州は胡・蜀の二虜に接しており、不虞(不測の事態)に備える必要がある。もしまた食糧もないようなら、僕(私)は西(荊州)に帰ることを欲する(若復無食,僕便欲西帰)。改めて良算(良策)を思案してから、ゆっくり賊を滅ぼしに来ても、晩くはない(更思良算,徐来殄賊,不為晚也)。」

温嶠が言いました「およそ、師克(軍の勝利)とは和にかかっており、これは古からの善教です(凡師克在和,古之善教也)。光武(東漢光武帝)が昆陽で成功したのも、曹公(曹操)が官渡で勝利したのも、少数で多数を敵にできたのは、義を守ったからです(光武之済昆陽,曹公之抜官渡,以寡敵衆,杖義故也)。蘇峻、祖約は小豎(小人、小僧)であり、凶逆が天を覆っているので、なぜ滅ぼせないことを憂いるのでしょう(峻約小豎,凶逆滔天,何憂不滅)。蘇峻は驟勝(連勝)して驕っており、自分の前を遮る者はいないと思っています(自謂無前)。今、これに挑んで戦えば、一鼓するだけで擒にできます。なぜ目前の功を捨てて、進退の計を設けるのですか(柰何捨垂立之功,設進退之計乎)。そもそも、天子が幽逼(幽閉、逼迫)されて、社稷が危殆(危急、危機)にあるので、(今は)四海の臣子が肝脳で地を塗る日(命を犠牲にする時。原文「肝脳塗地之日」)です。嶠(私)等は公と並んで国恩を受けました。もし事が克済(克服、成功)したら、臣主が祚(福)を共にできます。もし勝てなくても、身を灰にして先帝に謝るまでです(事若克済,則臣主同祚。如其不捷,当灰身以謝先帝耳)。今の事勢は、義において踵を返すわけにはいきません(今之事勢,義無旋踵)。虎に騎乗しているようなものなのに、どうして途中で降りることができるでしょう(譬如騎虎,安可中下哉)。公がもし衆に違えて一人で還るようなら、人心を失望させてしまいます。衆人を失望させて事を失敗させたら、義旗は向きを変えて公を指すことになるでしょう(公若違衆独返,人心必沮。沮衆敗事,義旗将迴指於公矣)。」

 

毛寶が温嶠に言いました「下官(私)は陶公を留めることができます。」

毛寶は陶侃を説得しに行ってこう言いました「公は本来、蕪湖を鎮守しており、南北の勢援(後援)となっていましたが、先頃、既に東下して来たので、今の形勢においては、還ることができません(前既已下,勢不可還)。そもそも、軍政には進むことはあっても退くことはありません。これは、ただ三軍を整えて、衆人に必死の覚悟を示す必要があると言っているだけではなく、退いたら拠点とする場所がなくなり、最後は滅亡に至るということも意味しているのです(軍政有進無退,非直整斉三軍,示衆必死而已,亦謂退無所拠,終至滅亡)。以前、杜弢は強盛ではない相手ではありませんでしたが(杜弢は強盛でしたが)、公はこれを滅ぼすことができました(往者杜弢非不強盛,公竟滅之)。なぜ蘇峻に至ったら、独り破ることができないのでしょうか(なぜ蘇峻だけは破ることができないのでしょう。原文「何至於峻独不可破邪」)。賊も死を畏れており、皆が勇健というわけではありません。公は試しに寶(私)に兵を与え、岸に登って賊の資糧を断たせるように命じてください(公可試与寶兵,使上岸断賊資糧)。もし寶(私)に效(功)を立てることができず、その後、公が去ったとしても、人心は(公を)恨まないでしょう。」

陶侃はこれに納得し、毛寶に督護を加えて派遣しました。

 

竟陵太守・李陽(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋恵帝が江夏の西界を分けて竟陵郡を置きました)が陶侃を説得してこう言いました「今、大事がもし成功しなかったら、公はたとえ粟(食糧)があっても、どうしてそれを食べることができるでしょう(安得而食諸)。」

陶侃は米五万石を分けて温嶠の軍に送りました。

 

毛寶は蘇峻が句容と湖孰に蓄えた食糧を焼きました(『資治通鑑』胡三省注によると、二県とも丹楊郡に属します)

蘇峻軍の食糧が乏しくなったため、陶侃は撤兵を中止して留まりました。

 

張健、韓晃等が大業を急攻しました。営塁の中は水が乏しかったため、人々は糞汁を飲むようになります。

懼れた郭黙は兵を留めて営塁を守らせ、自身は秘かに包囲を突破して外に出ました。

この時、郗鑒が京口におり、軍士が大業のことを聞いて、皆、色を失いました。

参軍・曹納が言いました「大業は京口の扞蔽(障壁)です。一旦、守りを失ったら、賊兵が直接至り、当たることができなくなります(一旦不守則賊兵徑至,不可当也)。広陵に還って後挙を待つことを請います(請還広陵以俟後挙)。」

郗鑒は僚佐と大会し(大いに僚佐を集め)、曹納を譴責してこう言いました「私は先帝の顧託の重(後事を託されるという重任)を受けたので、正にまたこの身を九泉に捨てても報いるには足りないと思っている(吾受先帝顧託之重,正復捐躯九泉,不足報塞)。今、強寇が近くにおり、衆心が危逼(危惧、緊張)しているが、君は腹心の佐(補佐官)でありながら、異端(誤った考え)を生んで増長させた(生長異端)。何をもって義衆の模範になり、三軍を鎮めて一つにするのだ(当何以帥先義衆,鎮壹三軍邪)。」

郗鑒は曹納を斬ろうとしましたが、久しくしてやっと釈放しました。

 

陶侃が大業を救おうとしましたが、長史・殷羨がこう言いました「我が兵は歩戦に習熟していません。大業を救って勝てなかったら、大事が去ってしまいます(吾兵不習歩戦,救大業而不捷,則大事去矣)。それよりも、石頭を急攻するべきです。そうすれば、大業(の包囲)は自然に解かれます(不如急攻石頭,則大業自解)。」

陶侃はこの意見に従いました。殷羨は殷融の兄です。

 

庚午(二十五日)、陶侃が水軍を監督して石頭に向かいました。

庾亮、温嶠、趙胤も歩兵一万人を率いて白石から南上し、戦いを挑もうとします。

蘇峻は八千人を率いて逆戦(迎撃)しました。まず、その子・蘇碩と将の匡孝に兵を分け与えて派遣し、趙胤軍に迫らせます。

蘇碩と匡孝は趙胤を敗りました。

この時、蘇峻は将士を労っていましたが、酔いに乗じて遠くを眺め、敗走する趙胤を見ると、「匡孝でも賊を破ることができたのだ。私が更に(彼にも)及ばないことがあるか(我更不如邪)!」と言い、その衆を捨てて、数騎だけ率いて北下し、敵陣に突撃しました。しかし、突入することができず、引き還して白木陂(『資治通鑑』胡三省注によると、白木陂は東陵の東にありました)に向かおうとした時、馬がつまづきました。そこに陶侃の部将・彭世、李千等が矛を投げつけ、蘇峻は馬から落ちて首を斬られました。肉が小さく切り割かれ、骨が焼毀されます(臠割之,焚其骨)

三軍が皆、万歳を唱え、蘇峻の余衆は大潰滅しました。

 

蘇峻の司馬・任讓等は共に蘇峻の弟・蘇逸を主に立てて、城門を閉じて守りを固めました。

 

この部分は『資治通鑑』の記述です。『晋書・成帝紀』は少し異なり、こう書いています「庚午(二十五日)、陶侃が督護・楊謙に石頭の蘇峻を攻めさせた。温嶠と庾亮が白石に陣を構え、竟陵太守・李陽が賊の南偏(南の部隊)に対抗した。蘇峻が軽騎で出戦したが、墜馬(落馬)したので、これを斬った。(蘇峻の)衆が大いに潰えた。賊党は再び蘇峻の弟・蘇逸を立てて帥にした。」

 

本文に戻ります。

温嶠は行台(臨時の朝廷)を立てて遠近に布告し、故吏で二千石以下の者は全て行台に赴かせました。行台に至った者が雲集します。

 

韓晃は蘇峻が死んだと聞いて、兵を率いて石頭に向かいました。

 

管商と弘徽が庱亭塁を攻めましたが、督護・李閎と軽車長史・滕含(『資治通鑑』胡三省注によると、軽車長史は軽車将軍の長史です)がこれを撃破しました。滕含は滕脩(元は呉に仕え、呉が亡んでから西晋に仕えました)の孫です。

 

管商は走って庾亮を訪ね、投降しました。余衆は皆、張健の軍に帰しました。

 

[十一] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

元交州刺史・張璉が始興を占拠して反し、広州に進攻しましたが、鎮南司馬・曾勰等がこれを撃って破りました。

 

[十二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

冬十月、李雄(成漢)の将・張龍が涪陵を侵し、太守・趙弼が賊に没しました(殺されました)

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

十一月、後趙王・石勒が自ら兵を率いて洛陽を救おうとしましたが、僚佐・程遐等が固く諫めてこう言いました「劉曜は千里に深入りしているので、その形勢は久しく支えることができません(懸軍千里,勢不支久)。大王が自ら動くべきではなく、もし動いたら万全ではなくなります(大王不宜親動,動無万全)。」

石勒は大いに怒って剣に手を置き、程遐等を叱咤して退出させました。

 

石勒は徐光を釈放させ(徐光は東晋成帝咸和元年・326年に捕まりました)、招いてこう言いました「劉曜は一戦の勝利に乗じて洛陽を包囲した(乗一戦之勝,囲守洛陽)。庸人の情(凡人の心)は、皆、その鋒(鋭鋒、勢い)には当たることができないと思っている。(しかし)劉曜は帯甲(甲冑を着た将兵)が十万もいながら、一城を攻めて百日経っても克てずにいる。師(軍)が長期の出兵で衰えたら、卒(兵)が怠惰になるものなので、我々の初鋭(勢いを失っていない精鋭)でこれを撃てば、一戦で擒にできるはずだ(師老卒怠,以我初鋭撃之,可一戦而擒也)。もし洛陽が失陥したら、劉曜は必ず冀州(後趙の都・襄国)に死を送りに来る(自ら冀州に攻めて来る。原文「若洛陽不守,曜必送死冀州」)。河(黄河)から北に席巻して来たら、我が事(大事)が去ってしまうだろう。程遐等は私が行くことを欲しないが、卿はどう思うか?」

徐光が答えました「劉曜は高候の勢いに乗じていますが、(兵を)進めて襄国に臨むことはできず、逆に金墉(洛陽)を包囲しています(更守金墉)。ここから、彼には何も為せないことが分かります(此其無能為可知也)。大王の威略によってこれに臨めば、彼は必ず旗を望み見ただけで奔敗します(望旗奔敗)。天下を平定するのは、今の一挙にかかっています。(機会を)失ってはなりません。」

石勒は笑って「徐光の言が是である(徐光の意見が正しい。原文「光言是也」)」と言い、内外に戒厳させて、諫言する者がいたら斬ることにしました。

石堪、石聡および豫州刺史・桃豹等にそれぞれ現有の衆を統率させて、滎陽で集結させます。

 

中山公・石虎が兵を進めて石門(『資治通鑑』胡三省注によると、東漢霊帝が敖城西北に石を重ねて門を作り、浚儀渠口を塞ぎました。これを石門といいます。また、滎瀆が河水を受ける場所にも石門がありました)を占拠し、石勒も自ら歩騎四万を率いて金墉に向かい、大堨(渡し場の名。延津の近くです)から黄河を渡りました(『資治通鑑』胡三省注によると、石勒は劉曜を襲う途中、延津(付近)を出ました。その時、黄河の氷がちょうと融けたため、石勒は神霊による助けだと思い、その場所を霊昌津と名づけました)

 

石勒が徐光に言いました「劉曜が成皋関で盛兵しているなら(兵を集結させているなら)、上策だ。洛水で阻むようなら、その次だ。坐して洛陽を守るようなら(そのまま洛陽の包囲を続けるようなら)、擒になるだけだ(坐守洛陽,此成擒耳)。」

 

十二月乙亥(初一日)、後趙の諸軍が成皋に集まりました。歩卒六万、騎兵二万七千です。

石勒は漢趙の守備兵がいないのを見て大いに喜び、手を挙げて天を指してから額に手を当てて(挙手指天復加額)「これは天意だ(天也)」と言いました。

 

石勒は甲冑をたたんで人馬に牧(声を立てないために口に入れる木片)をくわえさせ(巻甲銜枚)、詭道(間道)から兼行して鞏・訾の間に出ました(『資治通鑑』胡三省注によると、鞏県は河南郡に属しました。訾は鞏県の西南に位置します)

 

漢趙帝(趙主・劉曜)は専ら嬖臣(寵臣)と飲博(飲酒や賭博)をしており、士卒を慰撫しませんでした。左右に諫める者がいても、漢趙帝は怒って妖言とみなし、斬ってしまいました。

石勒が既に渡河したと聞いて、やっと滎陽の戍(守備)を増やして黄馬関(『資治通鑑』胡三省注によると、成皋県に黄馬坂があり、河水がその北を流れました。そこが黄馬関です)を閉じることを議論しました。

間もなくして、洛水の候者(斥候、巡邏の部隊)が後趙の前鋒と交戦し、羯人を捕えて漢趙帝に送りました。

漢趙帝が問いました「大胡(石勒)は自ら来たのか?その衆はどれほどだ(其衆幾何)?」

羯人が言いました「王が自ら来た。軍の勢いは甚だ盛んだ。」

漢趙帝は顔色を変え、金墉の包囲を撤収させて洛西に陣を構えました。十余万の衆がおり、陣は南北十余里に渡ります。

石勒はそれを眺め見てますます喜び、左右の者に「私を祝賀することになる(可以賀我矣)」と言って、歩騎四万を率いて洛陽城に入りました

 

己卯(初五日)、中山公・石虎が歩卒三万を率いて城北から西に向かい、漢趙の中軍を攻めました。

石堪、石聡等もそれぞれ精騎八千を率いて城西から北に向かい、漢趙の前鋒を撃ち、西陽門(『資治通鑑』胡三省注によると、西陽門は洛城宣陽門で、西面の南から一番目の門です。または、西陽門は南から二番目の「西明門」に当たるともいわれています)で大戦します。

石勒も自ら甲冑を身に着けて、閶闔門(『資治通鑑』胡三省注によると、閶闔門は洛城西面の一番北の門です)を出て挟撃しました。

 

漢趙帝は若い頃から酒が好きで、末年になったら更に甚だしくなりました(少而嗜酒,末年尤甚)(石勒が至った時も)戦の前に数斗の酒を飲みます。

この時、常に乗っている赤馬が理由もなく跼頓したため(『資治通鑑』胡三省注によると、「跼」は脚を曲げたまま伸ばせなくなること、「頓」は首を下げたまま挙げられなくなることです。馬が転んだまま立ち上がれなくなったようです)、漢趙帝は小馬に乗ることにしました。出陣に及んで更に一斗余の酒を飲みます。

漢趙帝は西陽門に至ってから、陣を指揮して平地に就かせました(平地で陣を構えさせました。原文「揮陳就平」)。ところが、その機に乗じて石堪が攻撃を開始し、漢趙兵は大いに潰えました。

漢趙帝は昏酔状態で退走しましたが、馬が石渠に落ちて、冰上に転落しました。十余カ所に傷を負い、三カ所が中に達します(恐らく傷が内臓に達したのだと思います。原文「被瘡十余,通中者三」)。こうして漢趙帝は石堪に捕えられました。

石勒は漢趙兵を大破して五万余級を斬首しました。

 

石勒が令を下しました「擒にしたいと思っていたのは一人だけであり、今、既にそれを獲た(所欲擒者一人耳,今已獲之)。よって、将士に鋒を抑えて鋭を止めるように勅令し、(敵兵には)自由に帰命(帰順)の路に就かせることにする(其敕将士抑鋒止鋭,縦其帰命之路)。」

 

漢趙帝が石勒に会って言いました「石王は重門の盟をしっかり覚えているか(『資治通鑑』胡三省注によると、重門城は河内共県故城の西北二十里の地にありました。この盟は、西晋懐帝永嘉四年・310年に劉曜(当時は始安王です)と石勒が共に河内を包囲した時の事を指すようです。原文「石王頗憶重門之盟否」)?」

石勒は徐光からこう言わせました「今日の事は、天がそうさせたのだ。また何を言う必要があるか(今日之事,天使其然,復云何邪)。」

 

『晋書・第七・成帝紀』は「十二月乙未(二十一日)、石勒が洛陽で劉曜を敗り、これを獲た」と書いています。「十二月乙未(二十一日)」は恐らく劉曜が捕えられたという情報が東晋朝廷に伝わった日です。

 

『資治通鑑』に戻ります。

乙酉(十一日)、石勒が兵を還し、征東将軍・石邃に兵を率いて劉曜を護送させました。石邃は石虎の子です。

劉曜の傷がひどかったため、馬輿(馬車)に乗せて、医者の李永に同乗させました。

 

己亥(二十五日)、襄国に至りました。

石勒は劉曜を永豊小城に住ませて妓妾を与え、兵を配置して包囲させました(厳兵囲守)

また、劉岳、劉震等を派遣し、男女を従わせて、盛服(華美な衣服)で劉曜に会いに行かせました(劉岳は東晋明帝太寧三年・325年に後趙に捕えられました。劉震は不明です)

劉曜が言いました「私は卿等が灰土になって久しいと思っていた(久為灰土)。石王の仁厚によって、全て寛恕されて今に至っていたのか(石王仁厚乃全宥至今邪)。私は石佗を殺したことを、とても後悔している(石佗は東晋明帝太寧三年・325年に殺されました。原文「我殺石佗,愧之多矣」)。今日の禍は、自分で招いたものだ(今日之禍,自其分耳)。」

劉曜は劉岳、劉震等を留めて終日宴を開いてから去らせました。

 

石勒は劉曜から太子・劉熙に信書を書かせて、速く投降するように諭させました。

しかし劉曜は、劉熙と諸大臣に「社稷を匡維(匡正・維持)せよ。私のために意思を変えてはならない(匡維社稷,勿以吾易意也)」とだけ命じました。

石勒はこれを見て憎み、久しくして劉曜を殺しました。

 

[十四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

この年、石勒(後趙)の将・石季龍(石虎)が隴山で氐帥・蒲洪を攻めて、これを降しました。

『資治通鑑』では翌年に蒲洪が石虎に投降します(再述します)

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

成漢の漢王・李驤(諡号は献王です)が死に、その子・征東将軍・李寿が喪(霊柩)を運んで成都に還りました。

成漢武帝(成主・李雄)は李玝を征北将軍・梁州刺史に任命し、李寿に代わって晋寿に駐屯させました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代31 東晋成帝(六) 内乱平定 329年(1)

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