東晋時代31 東晋成帝(六) 内乱平定 329年(1)

今回は東晋成帝咸和四年です。二回に分けます。

 

東晋成帝咸和四年

成漢武帝玉衡十九年/漢趙帝(劉曜)光初十二年

後趙趙王(石勒)太和二年/前涼文王太元六年

己丑 329年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月、東晋成帝は石頭にいます。

 

光禄大夫・陸曄と弟の尚書左僕射・陸玩が匡術を説得し、苑城(台城。宮城)を挙げて西軍に帰順させました(この部分は『資治通鑑』を元にしました。『晋書・成帝紀』は「賊将・匡術が苑城をもって帰順した」と書いています。尚、『資治通鑑』は陸玩を尚書左僕射としていますが、『晋書・成帝紀』では翌年二月に尚書左僕射になります。再述します)

 

百官が皆、苑城に赴き、陸曄を督宮城軍事に推しました。

陶侃は毛寶に南城を守らせ、鄧岳に西城を守らせました(『資治通鑑』胡三省注によると、苑城の南城と西城です)

 

右衛将軍・劉超、侍中・鍾雅と建康令・管斾等が策謀して、成帝を奉じて(石頭から)脱出し、西軍に赴こうとしました。しかし事が漏れたため、蘇逸がその将・平原の人・任譲に兵を率いて入宮させ、劉超と鐘雅を捕えました。

成帝は(劉超等を)抱きかかえて悲泣し(帝抱持悲泣)、「私の侍中と右衛を還せ」と言いましたが、任譲は二人を奪って殺しました。

 

任譲は若い頃から徳行がなかったため(譲少無行)、かつて太常・華恆が本州の大中正になった時(『資治通鑑』胡三省注によると、華恆は平原高唐の人です)、その品(等級)を落としました(黜其品)

任譲が蘇峻の将になってからは、権勢に乗じて多くの者を誅殺しましたが(乗勢多所誅殺)、華恆に会ったらいつも恭敬になり、敢えて縦暴(放縦、暴虐)にはできませんでした。

鍾雅と劉超が死んだ時、蘇逸は併せて華恆も殺そうとしましたが、任譲が心を尽くして救衛(救援、保護)したため、華恆は免れることができました。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

冠軍将軍・趙胤が部将・甘苗を派遣して歴陽の祖約を討たせ、敗りました。

戊辰(二十五日)、祖約が夜の間に左右の者数百人を率いて後趙に奔りました。

祖約の将・牽騰が衆を率いて(歴陽を)出て、(朝廷に)降りました。

 

[三] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

蘇逸(蘇峻の弟)、蘇碩(蘇峻の子)、韓晃が協力して台城を攻め、太極東堂および祕閣を焼き尽くしました。

毛寶が城壁に登って数十人を射殺すると、韓晃が毛寶にこう言いました「君は勇果(勇猛果敢)で名が知られているのに、なぜ出て闘わないのだ(君名勇果,何不出闘)。」

毛寶が言いました「君は健将として名が知られているのに、なぜ入って闘わないのだ(君名健将,何不入闘)?」

韓晃は笑って退きました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「(京師の)城中が大いに飢えて、米が一斗あたり万銭に高騰した(米斗万銭)」と書いていますが、『資治通鑑』は省略しています。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

漢趙の太子・劉熙は漢趙帝(趙主・劉曜)が捕えられたと聞いて大いに懼れ、南陽王・劉胤と謀って西の秦州を保とうとしました(長安から上邽に遷ることにしました)

尚書・胡勲が言いました「今は主君を喪ったとはいえ、境土はまだ完全で、将士も叛していません。とりあえずは力を併せて(石勒を)拒むべきです(今雖喪君,境土尚完,将士不叛,且当并力拒之)(我々の)力が拒めなくなってから走っても晩くはありません(力不能拒,走未晚也)。」

劉胤は怒って胡勲が衆人の意志を挫いているとみなし(以為沮衆)、斬ってしまいました。

その後、百官を率いて上邽に奔ります。

諸征鎮も皆、守っている場所を棄ててこれに従い、関中が大いに混乱しました(関中大乱)

 

将軍・蒋英と辛恕が数十万の衆を擁して長安を拠点とし、使者を送って後趙に降りました。

後趙は石生を派遣して、洛陽の衆(兵)を率いて長安に赴かせました。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

二月、大雨が続きました(大雨霖)

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

丙戌(十三日)、東晋朝廷の諸軍が石頭を攻めました。

竟陵太守・李陽が蘇逸と柤浦で戦いましたが、李陽の軍が敗れました。

しかし建威長史・滕含(『資治通鑑』胡三省注によると、滕含は軽車将軍の長史から建威将軍の長史に昇格していました)が精卒を率いて蘇逸を撃ち、今度は蘇逸等が大敗しました。

 

蘇碩が数百の驍勇を率いて、淮(『資治通鑑』胡三省注によると、秦淮水です)を渡って戦いましたが、温嶠が撃って斬りました。

韓晃等は懼れを抱き、その衆を率いて曲阿の張健に就こうとしましたが、門が狭くて一斉には外に出られないため、互いに踏みつけあって死者が万を数えました(門隘不得出,更相蹈藉,死者万数)

 

西軍が蘇逸を獲て斬りました(これは『資治通鑑』の記述です。『晋書・成帝紀』では、蘇逸はまだ死んでいません。下述します)

滕含の部将・曹據が成帝を抱きかかえて温嶠の船に奔りました。

成帝を見た群臣は頓首号泣して罪を請いました。

 

西陽王・司馬羕とその二子・司馬播と司馬充、孫の司馬崧および彭城王・司馬雄が併せて殺されました(司馬羕と司馬雄は蘇峻に附いていました。成帝咸和二年・327年と咸和三年・328年参照)

『晋書・成帝紀』は「弋陽王・司馬羕に罪があったため、誅に伏した(弋陽王羕有罪,伏誅)」と書いています。

 

陶侃は任譲と旧知だったため、任譲のために命乞いをしました(為請其死)

しかし成帝は「これは私の侍中と右衛を殺した者なので、赦すことはできない(是殺吾侍中右衛者,不可赦也)」と言って殺しました。

 

司徒・王導が石頭に入り、人に命じて故節を取りに行かせました(『資治通鑑』胡三省注によると、王導は王敦を討伐した時に符節を授かりましたが(假節)、石頭から出奔した時にそれを棄てました)

陶侃が笑って「蘇武の符節はそのようではなかったようだが(蘇武節似不如是)」と言ったため、王導は慙色(慚愧の表情)を表しました(西漢の蘇武は匈奴に捕えられても符節を守り続けました)

 

丁亥(十四日)、大赦を行いました。

 

張健は弘徽等が自分に対して二心を抱いていると疑い、全て殺してしまいました。

その後、舟師を率いて延陵(『資治通鑑』胡三省注と『中国歴史地図集(第三冊)』によると、延陵は漢代に毗陵に改名されましたが、晋が毗陵と延陵の二県を置き、どちらも毗陵郡に属させました)から呉興に入ろうとします。

 

乙未(二十二日)、揚烈将軍・王允之が張健と戦って大破し、男女一万余口を獲ました。

張健は韓晃、馬雄等と西の故鄣(『資治通鑑』胡三省注によると、故鄣県は、漢代は丹陽郡に属しましたが、呉が呉郡と丹陽郡を分けて呉興郡を置き、故鄣を属させました。秦代鄣郡の治所だったため、故鄣といいます)に向かいました。

しかし郗鑒が参軍・李閎を派遣して追撃させ、平陵山で追いついて全て斬りました(『資治通鑑』胡三省注によると、平陵山は溧陽界内にあったようです。呉が溧陽県を分けて永平県を置き、晋武帝がそれを永世県に改名しました。更に永世県は晋代に分けられて平陵県が置かれましたが、南宋文帝が永世、溧陽の二県を平陵県に合併させました。尚、『晋書・列伝第七十(蘇峻伝)』では、「平陵山」を「巖山」としています)

 

『晋書・第七・成帝紀』は「甲午(二十一日)、蘇逸が一万余人を率いて延陵湖から呉興に入ろうとした。乙未(二十二日)、将軍・王允之が蘇逸と溧陽で戦い、これを獲た」と書いていますが、『晋書・列伝第七十(蘇峻伝)』では、蘇逸は李湯に捕えられて車騎府で斬られており、揚烈将軍・王允之は呉興諸軍と共に張健を大破しています。『資治通鑑』は主に「列伝」に従っています。

 

当時は兵火の後で、東晋の宮闕が灰燼と化していたため、建平園を皇宮にしました。

温嶠は豫章への遷都を欲し、三呉の豪(豪族)は会稽に都を置くことを請いました。

両者の論が紛紜(紛糾)して決断できなかったため、司徒・王導がこう言いました「孫仲謀(孫権)も劉玄徳(劉備)も、共に『建康は王者が住む地だ(建康王者之宅)』と言った(東漢献帝建安十七年・212年参照)。古の帝王は、必ずしも豊倹(多寡)に基づいて都を移したのではない(不必以豊倹移都)。本業に務めて節約すれば、なぜ彫弊(凋落、衰弊)を憂いる必要があるだろう(苟務本節用,何憂彫弊)。もし農事を修めなかったら、楽土でも廃墟になってしまう(若農事不修則楽土為墟矣)。そもそも、北寇が游魂(浮遊)して我々の隙を伺っているので(且北寇游魂,伺我之隙)、一旦、弱い姿を示して、蛮越に逃げてから、そこで望実(名声と実力)を求めるのは、懼らく良計ではない(一旦示弱,竄於蛮越,求之望実,懼非良計)。今はただ安静にしてここを鎮守するべきであり、(そうすれば)群情も自然に安んじるはずだ(今特宜鎮之以静,群情自安)。」

こうして遷都は行われなくなりました。

 

褚翜を丹楊尹に任命しました。

当時は民物(民と物資)が彫残(衰落、喪失)していましたが、褚翜が散亡(離散逃亡した者)を集めて収容したため、京邑がやっと安定しました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

壬寅(二十九日)、東晋が湘州を荊州に合併しました。

湘州は西晋懐帝永嘉元年(307年)に置かれました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』はここで、「劉曜(漢趙帝)の太子・劉毗とその大司馬・劉胤が百官を率いて上邽に奔った。関中が大乱した」と書いています。

劉曜の太子・劉毗は、『晋書・載記第三』『載記第五』とも「劉熙」としており、『資治通鑑』も「載記」に従って「劉熙」としています。また、『資治通鑑』では、本年正月に劉熙が百官を率いて上邽に奔っています(上述)。

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月壬子(初十日)、東晋が蘇峻を平定した功績を論じて、征西大将軍・陶侃を侍中・太尉に任命し、長沙郡公に封じて、都督交広寧州諸軍事を加えました(『資治通鑑』胡三省注によると、陶侃はこれ以前に荊・襄・雍・梁の四州を都督しており、今回更に三州の都督を加えられました)

車騎大将軍(または「車騎将軍」)・郗鑒を侍中・司空に任命し、南昌県公に封じました。

平南将軍・温嶠を驃騎将軍・開府儀同三司とし(『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、驃騎将軍の位は公に次ぎました)、散騎常侍を加えて、始安郡公に封じました。

陸曄の爵位を江陵公に進めました。

その他にも侯・伯・子・男の爵位を下賜された者が甚だ多数おり、それぞれ差をつけて封拝(封爵・任官)されました。

卞壼と二子の卞眕、卞盱および桓彝、劉超、鍾雅、羊曼、陶瞻は、全て諡号を贈られました。

 

路永、匡術、賈寧は蘇峻の党でしたが、蘇峻が敗れる前に、蘇峻から去って朝廷に帰順しました。

王導が賞として官爵を与えようとしましたが、温嶠がこう言いました「路永等は皆、蘇峻の腹心で、最初に乱階(禍根)を為したので、これ以上の罪はなく(首為乱階,罪莫大焉)、晩くになって改悟したとはいえ、まだ前の罪を贖うには足りません(晚雖改悟,未足以贖前罪)。首領(首)を保全できるだけでも、幸が多いことです(命が助かっただけでも、充分幸せなことです)。どうしてまた褒寵(褒賞・寵遇)する必要があるのでしょうか(得全首領為幸多矣,豈可復褒寵之哉)。」

王導は中止しました。

 

庚午(二十八日)、右光禄大夫・陸曄を衛将軍・開府儀同三司にしました。

 

高密王・司馬紘を再び彭城王に遷しました。

司馬紘は蘇峻に加担して処刑された司馬雄の弟です(東晋成帝咸和五年・330年に再述します)

 

[十] 『資治通鑑』からです。

陶侃は江陵が偏遠なので、鎮を巴陵に遷しました(『資治通鑑』胡三省注によると、江陵は江北の辺遠にあり、建康から離れていました。巴陵は西晋武帝が立てた県で、長沙郡に属しましたが、後に建昌郡が置かれて、巴陵県もそこに属すことになりました)

 

朝議は温嶠を朝廷に留めて輔政させたいと思いました。しかし温嶠は王導が先帝に委任されていたため、固辞して藩に還りました。

但し、京邑が荒残(荒廃)して資用(物資、費用)を供出できなくなっていたため、資蓄(物資の貯蓄)を留めて器用(器物。必要物資)をそろえてから、武昌に還りました。

 

成帝が石頭を出た時、庾亮が成帝に謁見して、稽顙哽咽(叩頭してすすり泣くこと)しました。成帝は詔を発して、庾亮を大臣と共に御座に登らせました。

翌日、庾亮がまた泥首謝罪して(「泥首」は顔に泥を塗ること、または顔を地につけて叩頭することです)、引退を乞い(乞骸骨)、全門を挙げて山海に放逐されることを欲しました(欲闔門投竄山海)

成帝は尚書や侍中を派遣し、手詔(直筆の詔)で慰喩してこう伝えました「これは社稷の難であり、舅(あなた。母の兄弟)の責(責任)ではない。」

庾亮は上書して自らこう陳述しました「祖約、蘇峻が凶逆をほしいままにしましたが、その罪は臣から発したものです(祖約蘇峻縦肆凶逆,罪由臣発)。一寸ごとに斬られて殺戮されたとしても、七廟の霊に謝り、四海の譴責を塞ぐには足りません(寸斬屠戮,不足以謝七廟之霊,塞四海之責)。朝廷はまた何の道理によって臣を人次(人臣の列)の中にならべ、臣はまたどの顔によって自分を人理(人臣の道理)の中に列するのでしょうか(朝廷復何理歯臣於人次,臣亦何顔自次於人理)。たとえ陛下が寛宥を垂らして、この首領(庾亮の首)を保全させたとしても、やはりこれ(私)を棄てて、自存自没に任せるべきです(私の生死は私に委ねさせるべきです。朝廷から追放するべきです)。そうすれば、天下が勧戒の綱(善を勧めて悪を戒めるという原則・道理)を少しでも知ることができます(願陛下雖垂寛宥,全其首領,猶宜棄之,任其自存自没,則天下粗知勧戒之綱矣)。」

成帝は優詔(優待・慰喩を示す詔)を発して同意しませんでした。

 

それでも庾亮は山海に遁逃しようと欲し、暨陽(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋武帝が毗陵と無錫を分けて暨陽県を立て、毗陵郡に属させました)から東に出ました。

しかし成帝が有司(官員)に詔を発して舟船を録奪(押収)させたため、庾亮は(山海への移住をあきらめて)外地を鎮守することで、朝廷に貢献することを求めました。

 

朝廷は庾亮を朝廷から出して都督豫州揚州之江西宣城諸軍事・豫州刺史に任命し、宣城内史を兼任させ(領宣城内史)、蕪湖を鎮守するように命じました。

『資治通鑑』胡三省注によると、「豫州・揚州之江西」は淮南、廬江、弋陽、安豊、歴陽等の郡を指します。宣城は揚州に属します。

尚、『晋書・第七・成帝紀』は「護軍将軍・庾亮を平西将軍・都督揚州之宣城江西諸軍事・假節・領豫州刺史にして蕪湖を鎮守させた」と書いています。

 

陶侃と温嶠は蘇峻を討伐した時、檄文を征鎮(各地の拠点)に送り、それぞれ兵を率いて入援させました。

しかし、湘州刺史・益陽侯・卞敦は兵を擁したまま赴かず、軍糧も供給せず、ただ督護を派遣して、数百人を率いて大軍の後に従わせただけだったため、朝野で怪嘆(驚嘆。不思議に思って嘆くこと)しない者がいませんでした。

 

蘇峻が平定されると、陶侃が上奏して、卞敦が軍の士気を挫き、傍観して国難に赴かなかったことを訴え(奏敦沮軍,顧望不赴国難)、檻車で収監して廷尉に付す(送る)ように請いました。

『資治通鑑』胡三省注によると、陶侃は勤王の師において盟主となり、湘州も陶侃の監督下にあったので、陶侃が上奏して卞敦を糾弾しました。

 

王導は、喪乱の後には寛宥を加えるべきだと考え、卞敦を安南将軍・広州刺史に転任させましたが、卞敦が病のため赴かないので、朝廷に召して光禄大夫・領少府にしました。

しかし卞敦は憂愧(憂慮・慚愧)して死んでしまいました。

朝廷は卞敦に本官(元の官位)を追贈して散騎常侍を加え、諡号を「敬」としました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代32 東晋成帝(七) 漢趙滅亡 329年(2)

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