東晋時代32 東晋成帝(七) 漢趙滅亡 329年(2)

今回で東晋成帝咸和四年が終わります。

 

[十一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月乙未(二十三日)、東晋の驃騎将軍・始安公・温嶠(諡号は忠武公です)が死に、豫章に埋葬されました。

朝廷は温嶠のために、元・明二帝陵の北に大墓を造営しようとしました。しかし太尉・陶侃が上表して諫めました「温嶠の忠誠は聖世において顕著になり、勲義は人神を感動させました。もし亡くなっても知覚があるなら、今日の労費の事をどうして楽しむ(喜ぶ)でしょう(嶠忠誠著於聖世,勲義感於人神,使亡而有知,豈楽今日労費之事)。陛下の慈恩によって、移葬を停止することを願います(願陛下慈恩,停其移葬)。」

成帝は詔を発してこの意見に従いました。

 

平南軍司・劉胤を江州刺史に任命しました(『資治通鑑』胡三省注によると、劉胤は温嶠の軍司でした)

 

陶侃と郗鑒がそろって劉胤は方伯(地方の長)の才ではないと言いましたが、司徒・王導は従いませんでした。

ある人が王導の子・王悦にこう言いました「今は大難の後なので、紀綱(綱紀)が弛頓(弛緩、停滞)しており、江陵から建康に至る三千余里では、流民が万を数えて江州に分布しています。江州は国の南藩であり、要害の地です。しかし劉胤は忲侈(驕慢放縦)な性によって、臥してこれに対しているので、たとえ外変がなくても必ず内患があるでしょう(以忲侈之性,臥而対之,不有外変,必有内患矣)。」

しかし王悦は「これは温平南(平南将軍・温嶠)の意だ」と言いました。

 

[十二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

秋七月、孛星(異星。彗星の一種)が西北に現れました。

 

[十三] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

会稽、呉興、宣城、丹楊で大水(洪水)がありました。

 

[十四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋成帝が詔を発し、賊の害に遭った郡県は三年の租税を免除することにしました(復遭賊郡県租税三年)

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

八月、漢趙の南陽王・劉胤が数万の衆を率いて上邽から長安に向かいました。

隴東(『資治通鑑』胡三省注によると、隴東郡は涇陽、祖厲、撫夷の三県を管轄しました。後趙が安定を分けて置いたようです)、武都、安定、新平、北地、扶風、始平の諸郡に住む戎夏(異民族と漢人)が皆、兵を挙げてこれに応じます。

 

劉胤は仲橋(『資治通鑑』胡三省注によると、鄭国渠が仲山を流れ、渠上に橋があり、それを仲橋といいました。九嵕山の東に位置します)に駐軍しました。

『晋書・第七・成帝紀』は「八月、劉曜(漢趙)の将・劉胤等が衆を率いて石生を侵し、雍に駐軍した」と書いています。。

 

後趙の石生は城に籠って守りを固め(嬰城自守)、中山公・石虎が騎二万を率いて救いに行きました。

 

九月、石虎が義渠(『資治通鑑』胡三省注によると、義渠は戰国時代に義渠戎が住んだ地です。西漢が義渠県を置きましたが、東漢と晋は省きました)で漢趙の兵を大破しました。

劉胤は奔って上邽に還りましたが、石虎が勝ちに乗じて追撃し、屍が千里に連なって(枕尸千里)上邽が潰滅しました。

石虎は漢趙の太子・劉熙、南陽王・劉胤およびその将や王公・卿・校(軍官)以下、三千余人を捕えて全て殺しました。

『晋書・第七・成帝紀』は「九月、石勒(後趙)の将・石季龍(石虎)が劉胤を撃ってこれを斬り、(兵を)進めて上邽を屠した(皆殺しにした)。劉氏を滅ぼし尽くし、その党三千余人を坑した(生き埋めにした)」と書いています。

 

こうして漢趙(前趙)が滅亡し、中国は北方の後趙、西北の前涼、西南の成漢、東南の東晋の四国が並立することになりました。

尚、『晋書・載記第三』は、「元海(光文帝・劉淵)が懐帝永嘉四年(310年)に僭位してから(帝王の位を僭称してから)劉曜に至るまで、三世合計二十七載(年)。成帝咸和四年(本年。329年)に滅んだ」と書いています。しかし、劉淵が漢王を称したのは西晋恵帝永興元年(304年)なので、本年までは二十六年(足掛け)しかなく、劉淵が帝を称したのは西晋懐帝永嘉二年(308年)なので、本年までは二十二年(足掛け)にしかなりません。また、懐帝永嘉四年(310年)は劉淵ではなく、劉聡(昭武帝)が帝位に即いた年です(以上、『晋書・載記第三』校勘記参照)

 

後趙は台省(朝廷)の文武百官や関東の流民、秦‧雍の大族九千余人を襄国に遷し、五郡の屠各(『資治通鑑』胡三省注によると、屠各は匈奴の種族で、漢趙の族類(同族)です。五郡の屠各は匈奴五部の衆を指します)五千余人を洛陽で阬に処しました(生き埋めにしました)

更に兵を進めて河西で集木且羌を攻め、これに克って数万を俘獲しました(捕虜にしました)。こうして秦・隴が全て平定されます。

 

氐王・蒲洪と羌酋・姚戈仲が共に石虎に降りました。

『晋書・第七・成帝紀』は前年に「石勒(後趙)の将・石季龍(石虎)が隴山で氐帥・蒲洪を攻めて、これを降した」と書いています(既述)

 

石虎は上表して蒲洪を監六夷軍事に、姚弋仲を六夷左都督にしました。

氐・羌の十五万落(戸)を司州と冀州に遷しました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

以前、隴西の鮮卑・乞伏述延が苑川に居住しており(『資治通鑑』胡三省注によると、乞伏は鮮卑の部落名で、後に氏になりました。苑川水は、天水勇士県子城の南の山から出て、東の子城川を経て、北に向かって牧師苑を通りました。そこは漢が牧苑(牧場)にした地で、東・西の苑城があり、二城は七里離れていました。西城が乞伏が都にした場所です)、周辺の部落を侵して併合し、士馬が強盛になりました。

漢趙が亡びると、述延は懼れて麦田(『資治通鑑』胡三省注によると、麦田山は安定北界にありました。山の東北には麦田城があり、北には麦田泉がありました)に遷りました。

述延の死後、子の傉大寒が立ち、傉大寒の死後、子の司繁が立ちます。

 

[十七] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

冬十月、廬山が崩れました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

東晋の江州刺史・劉胤は矜豪(驕慢放縦)が日に日に甚だしくなり、専ら商販(商業、商売)に務めて、集めた財貨が百万に上りました(殖財百万)。しかもほしいままに酒を飲んで歓楽に耽り、政事を顧みなくなります(縦酒耽楽,不恤政事)

 

十二月、成帝が詔を発して後将軍・郭黙を招き、右軍将軍に任命しました。

ところが、郭黙は喜んで辺将の任に就いていたため(楽為辺将)、宿衛になることを願わず(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。郭黙は蘇峻を平定してから尋陽に戻りましたが、今回、朝廷に召還されました。魏明帝の時代に左軍があったので、左軍将軍は魏の官です。西晋武帝の時代に前軍と右軍が置かれ、更に後軍が置かれて四軍になりました。全て宿衛の兵です)、心情を劉胤に訴えました。

劉胤はこう言いました「これは小人が及ぶことではありません(小人に口出しできることではありません。原文「此非小人之所及也」。『資治通鑑』胡三省注によると、晋代以後、文武の士はそろって自分を「小人」と称しました)。」

郭黙は召還に応じて朝廷に向かうことにし、劉胤に資金を求めました。しかし劉胤が与えなかったため、郭黙は劉胤を怨むようになりました。

 

劉胤の長史・張満等はかねてから郭黙を軽視しており、(正装せず)裸のまま郭黙に会ったこともありました(或倮露見之)。そのため、郭黙は常に切歯(憤怒、怨恨)していました。

 

臘日(十二月の祭祀の日)、劉胤が郭黙に豚や酒を贈りましたが、郭黙は使者の前でそれを水中(川の中)に投じました。

ちょうど有司(官員)が上奏しました「今、朝廷は空竭(空虚)となり、百官にも禄がなく、ただ、江州からの運漕(輸送)だけに頼っていますが(惟資江州運漕)、劉胤自身の商旅は路に相継ぎ、(劉胤は)(私事。私利)によって公(公事)を廃しています。劉胤の官を免じることを請います。」

書が下されましたが(上奏文が朝廷に下されて追求されましたが)、劉胤はすぐに罪を認めようとせず、弁明ばかりしました(不即帰罪,方自申理)

 

(この頃)僑人(外地から移住した人)・蓋肫が人の娘を奪って自分の妻にしました(掠人女為妻)。張満が蓋肫に命じて娘を家に還らせようとしましたが、蓋肫はこれに従わず、郭黙にこう言いました「劉江州は免官の命を受け入れず(不受免)、秘かに異図(謀反の計画)を抱いており、張満等と日夜計議しています。ただ、郭侯一人を忌みしており(懼れており)、先に除こうと欲しています。」

郭黙はその通りだと思い、自分の徒を率いて、早朝に門が開くのを待って、劉胤を襲いました(帥其徒候旦門開襲胤)。劉胤の将吏が郭黙を拒もうとしたので、郭黙が叱咤して言いました「私は詔を被り、討伐すべき者がいる。動く者は三族を誅滅する(我被詔有所討,動者誅三族)!」

郭黙は中に入って内寝(寝室)に至り、劉胤を牽きずり出して斬首しました。

その後、部屋を出て劉胤の僚佐・張満等を捕え、大逆の罪を誣告して、全て斬りました。

 

郭黙は劉胤の首を京師に送り、詔書(劉胤誅滅を命じる詔書)を偽造して内外にこの事を宣示しました。更に劉胤の娘や諸妾および金宝を奪って船に還り、始めは都に下ると言いましたが(原文「初云下都」。京師に行くには長江を下るので、「下都」といいます)、暫くして劉胤の故府に留まることにしました。

 

郭黙が譙国内史・桓宣を招きましたが、桓宣は任地を固守して従いませんでした(『資治通鑑』胡三省注によると、桓宣は前年、温嶠に帰してから武昌に駐屯しました)

 

『晋書・第七・成帝紀』は「十二月壬辰(二十四日)、右将軍・郭黙が平南将軍・江州刺史・劉胤を害した。太尉・陶侃が衆を率いて郭黙を討った」と書いています。『資治通鑑』は陶侃による郭黙討伐を翌年に書いています。

 

[十九] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

この年、天が西北で裂けました(原文「天裂西北」。どのような現象かはわかりません)

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

賀蘭部および諸大人が共に拓拔翳槐を代王に立てました(賀蘭大人・藹頭は翳槐を擁護していました。成帝咸和二年・327年参照)

 

代王・紇那は宇文部に奔りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、宇文氏の先祖は炎帝から出ており、炎帝が黄帝に滅ぼされてから、その子孫が逃げて朔野(北方の荒野)に住みました。後代に大人・普回という者がおり、狩猟の際に玉璽を得ました。そこには「皇帝璽」と刻まれています。普回は天から授かったものだとみなし、彼等の言葉では天子を「宇文」というため、国号を宇文にして、それを氏にしました。

但し、胡三省注は「これは宇文氏が関西で興隆してから、その臣子が宇文氏のために縁飾(粉飾)したのだろう」と書いています。実際には、宇文部の先祖は南単于の遠属に当たり、代々東部大人になっていたようです。

 

翳槐は弟の什翼犍を質(人質)として後趙に派遣し、和を請いました。

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

河南王・慕容吐延(慕容吐谷渾を継ぎました。晋王(司馬睿。東晋元帝)建武元年・317年参照)は雄勇でしたが、猜忌(猜疑)が多かったため、羌酋・姜聡に刺されました。

吐延は剣を抜かずにその将・紇扢埿を招き、子の葉延を輔佐して白蘭(『資治通鑑』胡三省注によると、白蘭は吐谷渾の西南にありました。その地は険遠で、羌の別種が住んでいました。西北は利摸徒に接し、南界は郍鄂に接します)を守るように命じてから、剣を抜いて死にました。

 

葉延は孝順かつ好学で、「礼によるなら、公孫の子は王父(祖父)の字を氏とするものだ(礼,公孫之子得以王父字為氏)」と考えたため、その国を吐谷渾と号しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、(周代は)諸侯の子を公子、公子の子を公孫といい、公孫の子は王父(祖父)の字を氏とするものでした。

 

 

次回に続きます。

東晋時代33 東晋成帝(八) 石勒即位 330年

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