東晋時代33 東晋成帝(八) 石勒即位 330年

今回は東晋成帝咸和五年です。

 

東晋成帝咸和五年

成漢武帝玉衡二十年/後趙明帝太和三年 建平元年/前涼文王太元七年

庚寅 330年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月、劉胤の首が建康に至りました。

司徒・王導は郭黙が驍勇なので、制御するのが難しいと考えました。

己亥(初一日)、大赦を行い、劉胤の首を大航(朱雀橋)に曝しました(梟胤首於大航)

また、郭黙を江州刺史に任命しました。

 

ところが、この事を聞いた太尉・陶侃が袂を投じて(袖を揮って)起ち上がり、「これは必ず偽りがある(此必詐也)」と言って、すぐに兵を率いて郭黙を討ちました。

郭黙は使者を派遣して妓妾や絹を贈り、併せて中詔(宮中が発した詔。恐らく、劉胤討伐を命じた偽の詔です)を書き写して陶侃に提出しました。

陶侃の参佐の多くが諫めてこう言いました「郭黙が詔を被っていなかったら、どうしてこのようにできたでしょう(黙不被詔,豈敢為此)。もし進軍を欲するなら、詔報(詔による回答。出兵の許可)を待つべきです。」

陶侃は顔色を厳しくしてこう言いました(厲色曰)「国家(陛下)は年幼なので、詔令が胸懐(胸中)から出ることはない。劉胤は朝廷に礼遇されていた。方任(地方を治める任務)においてはその才ではなかったが、どうして妄りに極刑を加えることができるのだ(劉胤為朝廷所礼,雖方任非才,何縁猥加極刑)。郭黙は勇に恃んでおり、所在する地で貪暴を行っている。大難(蘇峻の乱)が除かれたばかりで、禁網(禁令・法令)が寛簡(寛大、寛広)になったので、その機会に乗じて、縦横をほしいままにしようとしているのだ(欲因際会騁其従横耳)。」

陶侃は使者を送って上表し、朝廷に実情を報告しました。同時に王導にも書を送ってこう伝えます「郭黙は方州(州郡の長官)を殺したのに、(あなたは)すぐに彼を用いて方州にしました。もし宰相を害したら、宰相にするのでしょうか(郭黙殺方州即用為方州,害宰相便為宰相乎)。」

王導は見せしめとして曝した劉胤の首を回収して、陶侃に返答の書を送りました「郭黙は上流の勢を占拠しており、加えて現有する船艦の助けもあるので、わざと寛大にして耐え忍び、その地を所有させて、(その間に)朝廷が潜厳(秘かに警戒を強めること)できるようにしたのだ(黙拠上流之勢,加有船艦成資,故苞含隠忍,使有其地,朝廷得以潜厳)。足下の軍が到るのを待って、風のように迅速に赴くつもりだ(風発相赴)。これは大事を定めるために時勢に従って待機するということではないか(原文「豈非遵養時晦以定大事者邪」。「遵養時晦」は「遵時(時勢に従うこと)」と「養晦(隠れて自分を養うこと、機会を待つこと)」です)。」

陶侃は笑って「これは時勢に従って賊を養うことだ(是乃遵養時賊也)」と言いました。

 

豫州刺史・庾亮も郭黙を討つ許可を請いました。

朝廷は詔によって庾亮に征討都督を加え、歩騎二万を率いて陶侃と合流させました。

 

西陽太守・鄧岳と武昌太守・劉詡はどちらも桓宣が郭黙と一緒になるのではないかと疑いました(桓宣は前年、郭黙に誘われましたが、拒否しました)

しかし豫州西曹・王隨が「桓宣は祖約にも附きませんでした(成帝咸和二年・327年参照)。どうして郭黙と一緒になるでしょう(豈肯同郭黙邪)」と言ったため、鄧岳と劉詡は王隨を派遣し、桓宣を訪ねて観察させました。

王隨が桓宣に説きました「明府(あなた)の心はそのようでなくても(裏切るつもりがなくても)、自分を弁明する方法がないので、賢子を随(私)に預けるしかありません(心雖不爾,無以自明,惟有以賢子付隨耳)。」

桓宣はその子・桓戎を送り出して、王隨と共に陶侃を迎えさせました。

陶侃は桓戎を召して掾に任命し、上表して桓宣を武昌太守にしました(武昌太守・劉詡と交替させたようです)

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

癸亥(二十五日)、東晋が詔によって諸将の任子(任子の法。諸将が子を人質として朝廷に差し出すことで忠誠を示す制度)を除きました(詔除諸将任子)

 

[三] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

二月、東晋が尚書・陸玩を尚書左僕射に、孔愉を右僕射にしました(この記述は、『資治通鑑』にはありません。『資治通鑑』では、陸玩は前年春正月の時点で既に尚書左僕射になっています。前年参照)

 

[四] 『資治通鑑』からです。

後趙の群臣が後趙王・石勒に対して皇帝の位に即くように請いました。

石勒は大趙天王を称し、皇帝の代理として政務を行うことにしました(行皇帝事)

 

妃・劉氏を王后に、世子・石弘を太子に立てました。

また、子の石宏を驃騎大将軍・都督中外諸軍事・大単于にして秦王に封じ、石斌を左衛将軍にして太原王に封じ、石恢を輔国将軍にして南陽王に封じました。

中山公・石虎は太尉・尚書令にして爵位を王に進め、石虎の子・石邃を冀州刺史にして斉王に封じ、石宣を左将軍に任命し、石挺を侍中にして梁王に封じました。

更に、石生を河東王に封じ、石堪を彭城王に封じました。

左長史・郭敖を尚書左僕射に、右長史・程遐を右僕射・領吏部尚書に、左司馬・夔安、右司馬・郭殷、従事中郎・李鳳、前郎中令・裴憲を全て尚書に、参軍事・徐光を中書令・領祕書監に任命しました。

その他の文武百官も、それぞれ差をつけて封拝(封爵・任官)しました。

 

中山王・石虎が怒って秘かに斉王・石邃に言いました「主上(石勒)は襄国に都を置いて以来(西晋懐帝永嘉六年・312年)、端拱仰成(「端拱」は姿勢を正して拱手することで、ここでは、自分自身は何もしないことを意味します。「仰成」は他者の成果に頼ることです)して、私の身を矢石に当たらせてきた(主上自都襄国以来,端拱仰成以吾身当矢石)(私は)二十余年にわたって、南は劉岳を擒にし、北は索頭(拓跋氏)を走らせ、東は斉・魯を平らげ、西は秦・雍を定め(『資治通鑑』胡三省注によると、斉・魯は徐龕と曹嶷を指し、秦・雍は劉氏(漢趙)と苻氏・姚氏を指します)、十三州を攻略してきた。大趙の業を成したのは私である。(よって)大単于は私に授けられるべきだ。(しかし)今、それを黄吻の婢児(奴婢が生んだ小僧。「黄吻」は幼児を意味します)に与えた。これを念じると(思うと)、人を気塞(息ができないこと。極端な憤怒を表します)させて寝食もできなくなる。主上の晏駕(崩御)の後、その種(子孫)を留める必要はない(不足復留種也)。」

 

程遐が石勒に言いました「天下がおおよそ定まったので、逆順(道理に逆らう者と順じる者)を顕明(顕著、明確)にするべきです(天下粗定,当顕明逆順)。そうするために、漢高祖は季布を赦して丁公を斬りました(西漢高帝五年・前202年参照)。大王は起兵して以来、自分の主君に忠誠を示した者は全て褒め称え、背叛して臣下の節を失った者は全て誅殺しました(見忠於其君者輒褒之,背叛不臣者輒誅之)。だから天下が(大王の)盛徳に帰したのです。(しかし)今は(裏切り者の)祖約がまだ存在しているので、臣は心中で困惑しています(今祖約猶存,臣竊惑之)。」

安西将軍・姚弋仲も同じ進言をしました。

 

石勒は祖約を捕え、その親属中外百余人(「中外」も親属を意味します。「中」は父側の親属、「外」はそれ以外の親族(例えば母の親兄弟や、姉妹の夫等)です)を全て誅殺し、妻妾や児女(息子と娘。子供達)は分けて諸胡に下賜しました。

 

以前、祖逖(祖約の父)には王安という胡奴がおり、祖逖に甚だ愛されていました。

しかし、祖逖が雍丘にいた時、王安にこう言いました「石勒は汝の種類(種族。同族)だ。私は汝一人がいなくなってもかまわない(吾亦無在爾一人)。」

祖逖は王安に厚い資本を与えて送り出しました。

王安は勇幹(勇猛で能力があること)によって後趙に仕え、左衛将軍になりました。

祖約が誅殺されることになると、王安は嘆いて「どうして祖士稚(士稚は祖逖の字です)の後代をなくさせることができるか(豈可使祖士稚無後乎)」と言い、刑を観るために市に行きました。この時、祖逖の庶子・祖道重は十歳になったばかりでした。王安は秘かに祖道重を連れ出して帰り、隠匿して、服を変えて沙門(出家した仏教徒)にさせました。

石氏(後趙)が亡んでから(351年)、祖道重は江南に帰りました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

郭黙が尋陽から南に向かって豫章を占拠しようとしましたが、ちょうど太尉・陶侃の兵が至りました。

郭黙は出戦しても利がなかったため、城に入って守りを固め、米を集めて塁壁を造り、余りがある姿を示しました(聚米為塁以示有余)

陶侃は土山を築いて郭黙に臨みました。

 

三月、庾亮の兵が湓口(『資治通鑑』胡三省注によると、湓浦口です)に至り、諸軍が大集結しました。

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

夏五月、旱害があり、飢疫にも襲われました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

乙卯(十九日)、郭黙の将・宋侯が郭黙父子を縛って出降(投降)しました。

太尉・陶侃が尋陽の軍門で郭黙を斬って首を建康に伝えました。同党の死者は四十人に上ります。

 

朝廷は詔を発して陶侃に江州を都督させ、刺史を兼任させました(原文「都督江州領刺史」。『資治通鑑』胡三省注によると、陶侃は八州を都督することになりました)

また、鄧岳を督交広諸軍事・領広州刺史にしました。

 

陶侃は巴陵に還ってから、これを機に鎮を武昌に遷しました(武昌は江州に属します)

庾亮は蕪湖に還り、爵賞を辞退して受け入れませんでした。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

後趙の将・劉徵が数千の衆を率いて、海路から東晋東南の諸県を侵しました(浮海抄東南諸県)。南沙都尉・許儒を殺して海虞(地名)に進入します。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、晋陵太守の下に南沙令がいました。元は呉県の司塩都尉署(塩政を監督する官署)で、(管轄下の地が)呉の時代に沙中と命名され、呉が平定されてから、晋が曁陽(県)を立てて司塩都尉署(沙中)を属させました。東晋成帝時代に塩署(塩政の官署)を廃して、南沙県を立てました。

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

六月癸巳(二十八日)、東晋が初めて田地に税を課し、一畝当たり三升の穀物を納めさせることにしました(原文「初税田,畝三升」。東晋哀帝隆和元年・362年に再述します)

 

[十] 『資治通鑑』からです。

前涼の張駿が前趙(漢趙)の滅亡に乗じて再び河南の地を収め、狄道に至り、五屯護軍を置いて後趙と国境を分けました張駿は成帝咸和二年・327年に河南の地を失っていました。『資治通鑑』胡三省注によると、「五屯護軍」は武街、石門、侯和、漒川、甘松に置かれました)

 

後趙が鴻臚・孟毅を派遣して張駿を征西大将軍・涼州牧に任命し、九錫を加えました。

しかし張駿は後趙の臣となることを恥じて受け入れず、孟毅を留めて帰らせませんでした。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

丁零の翟斌は代々、康居に住んでいましたが、後に中国(中原)に移住しました。

この頃になって、後趙に入朝したため、後趙は翟斌を句町王にしました。

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『晋書春秋』では「翟真」が句町王になっていますが、ここは「翟真」ではなく「翟斌」とするのが正しいようです。翟真は翟斌の兄の子に当たります(胡三省注が詳しく解説していますが、省略します)

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

後趙の群臣が石勒に対して頑なに尊号を正すように請いました。

 

秋九月、趙王・石勒が皇帝の位に即きました。

『晋書・第七・成帝紀』は「秋八月、石勒が皇帝を僭称して位に即いた(僭即皇帝位)」と書いていますが、ここは『資治通鑑』に従いました。

石勒の諡号は明帝です。『資治通鑑』は「趙主・勒」と書いていますが、この通史では「後趙明帝(趙主・石勒)」と書くことにします。

 

『晋書・載記第四』によると、石勒は字を世龍といい、元の名は「㔨」といいました。上党武郷の羯人で、その祖先は匈奴別部・羌渠の冑(後胤)に当たります。石勒の祖父は耶奕于(『資治通鑑』胡三省注は「耶奕千」としていますが、恐らく「千」は「于」の誤りです)といい、父は周曷朱、一名を乞翼加といいました。どちらも部落の小帥になりました。

 

本文に戻ります。

後趙が太和三年から建平元年に改元しました。

『晋書・載記第五』はここで「襄国から臨漳に都を遷した」と書いています。「臨漳」は「鄴」です。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は、「石虎(後趙天王)の建武元年(335年)九月に至って、始めて鄴に遷った。石勒はまだ鄴を都にしなかった」と解説しています。

 

文武諸官をそれぞれ差をつけて封進(封爵・昇格)しました。

妻の劉氏を皇后に、太子・石弘を皇太子に立てました。

 

石弘は属文(作文、文章)を好み、儒素(儒者の品格や行動)に親しんで敬っていました。

石勒が徐光に言いました「大雅(石弘の字です)は愔愔(静寂な様子、または柔弱な様子)としており、全く将家の子に似ていない(殊不似将家子)。」

徐光が言いました「漢祖(西漢高祖)は馬上で天下を取り、孝文(西漢文帝)は玄黙(沈静)によってそれを守りました。聖人の後には、必ず残(暴力)に勝って殺(殺戮、刑罰)を除く者(残虐乱暴な者を制御して善に導き、その結果、刑罰なくすことができる者)がおり、それが天の道というものです(聖人之後,必有勝残去殺者,天之道也)。」

石勒は甚だ悦びました。

これを機に徐光が説きました「皇太子は仁孝かつ温恭(温和・恭順)ですが、中山王(石虎)は雄暴多詐(雄猛乱暴で策謀が多いこと)なので、陛下に一旦にして不諱があったら(崩御したら)、臣は社稷が太子の有すものではなくなることを恐れます(臣恐社稷非太子所有也)。徐々に中山王の権勢を奪って、太子に早く朝政に参与させるべきです(宜漸奪中山王権,使太子早参朝政)。」

石勒は心中でその通りだと思いましたが、従うことができませんでした。

 

[十三] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

後趙の将である荊州監軍・郭敬が襄陽を侵しました。

東晋の南中郎将・周撫が沔北の軍事を監督して(監沔北軍事)襄陽に駐屯しました。

 

後趙明帝(趙主・石勒)が駅書を送って郭敬に勅命し、退いて樊城に駐屯させました。更に旗幟を倒して隠し、人がいないように静寂にさせます(偃藏旗幟,寂若無人)。また、明帝はこう伝えました「彼(敵)がもし人を使って観察させたら、彼等に告げてこう言え『汝等は自愛して堅守するべきだ。七八日後には、大騎(騎兵の大軍)が至って我々と策応(呼応)する。(汝等は)走れなくなるだろう(または「七八日後には、大騎が至る。計るに、(汝等は)走れなくなるだろう」。原文「汝宜自愛堅守,後七八日,大騎将至,相策,不復得走矣」)』。」

 

郭敬は人に命じて津(渡し場)で馬に水浴びをさせ、一巡するとまた始めから繰り返し、昼夜に渡って絶えさせませんでした。

東晋の偵者が還ってその状況を周撫に報告すると、周撫は後趙の大軍が至ったと思い、懼れて退き、武昌に奔りました。

 

郭敬が襄陽に入りました。中州(中原)の流民がことごとく後趙に降ります。元雍州刺史・魏該の弟・魏遐もその部衆を率いて石城から郭敬に降りました。

郭敬は襄陽城を破壊してその民を沔北に移し、樊城に築城して守りました。

後趙は郭敬を荊州刺史に任命しました。

 

周撫は罪に坐して免官されました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

休屠王羌(『資治通鑑』胡三省注によると、石武の部落に属すようです。なお、中華書局『資治通鑑』は「休屠王・羌」としていますが、漢語大詞典出版社『二十四史全訳・晋書(第四冊)』は「休屠・王羌」としています。以下、「羌」と書きます)が後趙に叛しましたが、後趙の河東王・石生が撃破しました。羌は涼州に奔りました。

 

西平公・張駿は懼れて孟毅を送り還し、自分の長史・馬詵を派遣して、後趙に対して臣と称して入貢しました(『晋書・成帝紀』は十二月に書いています。再述します)

 

[十五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです(『晋書・成帝紀』は石勒の即位を八月に置いており、ここから九月としています。『資治通鑑』では、石勒は九月に即位しています)

東晋が改めて新宮を建造し、苑城(宮城)の修繕を開始しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。蘇峻の乱によって宮闕が焼毀したため、改めて建造しました。

 

[十六] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲辰(十日)、東晋が楽成王・司馬欽を河間王に遷し、彭城王・司馬紘の子・司馬俊を高密王に封じました。

 

『晋書・列伝第二十九(司馬顒伝)』によると、河間王・司馬顒(司馬孚の孫。司馬孚は司馬懿の弟です)が八王の乱で死んだため、西晋懐帝永嘉年間に、詔によって彭城王・司馬植の子・司馬融が司馬顒の跡を継ぐことになり、楽成県王に改封されました(司馬植は諡号を元王といい、彭城穆王・司馬権の子です。司馬権は司馬馗の子で、司馬馗は司馬懿の弟です)

しかし、司馬融の死後、子がいなかったため、西晋愍帝建興年間に、元帝(司馬睿。当時はまだ帝位に即いていません)がまた彭城王・司馬釈の子・司馬欽を司馬融の後嗣にしました(司馬釈は諡号を康王といい、司馬植の子です)

本年、司馬欽が旧封の河間王に戻されました。

 

高密王は彭城穆王・司馬権の弟に当たる司馬泰(諡号は文献王です)が封じられました。司馬泰には司馬越、司馬騰、司馬略、司馬模という四子がおり、司馬越は東海王に、司馬騰は新蔡王になったため、司馬略が高密王を継ぎました。司馬模は南陽王になりました。

司馬略の諡号は孝王といい、西晋懐帝永嘉三年(309年)に死にました。子の司馬拠が高密王を継ぎましたが、子がいなかったため、彭城康王・司馬釈(上述)の子・司馬紘が後嗣として高密王になりました。

しかし彭城王・司馬雄(彭城康王・司馬釈の子)が蘇峻に加担して誅殺されたため、司馬紘は本宗の彭城王を継ぐことになりました(司馬紘は司馬雄の弟に当たります。東晋成帝咸和四年・329年参照)

本年、司馬紘の子・司馬俊を高密王に封じて、高密文献王・司馬泰の祭祀を継がせることにしました。

尚、中華書局『晋書・成帝紀』校勘記によると、「司馬俊」は「司馬浚」とも書かれます。

 

[十七] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

冬十月丁丑(十四日)、東晋成帝が司徒・王導の邸宅を行幸し、大規模な酒宴を開きました(置酒大会)

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

成漢の大将軍・李寿が征南将軍・費黒等を督し、巴東と建平を攻めて攻略しました。

巴東太守・楊謙(中華書局『晋書・成帝紀』校勘記によると、「陽謙」とも書かれます)と監軍・毌丘奥は退いて宜都を守りました。

 

[十九] 『晋書・第七・成帝紀』からです(『資治通鑑』は九月に書いています)

十二月、張駿が石勒に対して臣を称しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代34 東晋成帝(九) 成帝と王導 331年

 

2 thoughts on “東晋時代33 東晋成帝(八) 石勒即位 330年

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です