東晋時代34 東晋成帝(九) 成帝と王導 331年

今回は東晋成帝咸和六年です。

 

東晋成帝咸和六年

成漢武帝玉衡二十一年/後趙明帝建平二年/前涼文王太元八年

辛卯 331年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月(『晋書・成帝紀』は「正月癸巳(初一日)」としていますが、『資治通鑑』は「癸巳」を省略しています)、後趙の劉徵が再び婁県を侵し、武進を掠めました。

『資治通鑑』胡三省注によると、婁県は、西漢は会稽郡に属し、東漢と晋代は呉郡に属しました。

武進は、呉の孫権が丹徒を改めて武進にしました。その後、西晋武帝が丹徒に戻し、丹徒と曲阿を分けて改めて武進県を置きました。毗陵郡に属します。尚、毗陵は晋代に晋陵に改められました。

 

『晋書・成帝紀』には、「乙未(初三日)、司空・郗鑒を都督呉国諸軍事に進めた」とありますが、『資治通鑑』は採用していません。

『晋書・列伝第三十七(郗鑒伝)』を見ると、劉徵が東晋を侵した時、郗鑒は「都督揚州之晋陵呉郡諸軍事」を加えられています。

 

郗鑒が劉徵を撃退しました。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

戊午(二十六日)、東晋で運漕(水陸の輸送)が続かなくなったため、王公以下千余丁を動員して、それぞれに米六斛を運ばせました(「丁」は成人男性、または労働する男性です。王公以下、貴族や官員の家から千余人の「丁」を動員させたのだと思います。原文「発王公已下千余丁,各運米六斛」)

 

[三] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

二月己丑(『二十史朔閏表』によると、この年二月は「壬辰」が朔なので、「己丑」はありません)、東晋が幽州刺史・大単于・段遼を驃騎将軍にしました。

 

[四] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月壬戌朔、日食がありました。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

癸未(二十二日)、東晋成帝が詔を発して賢良・直言の士を挙げさせました。

 

[六] 『晋書・第七・成帝紀』からです。
夏四月、旱害がありました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

六月丙申(初七日)、故河間王・司馬顒の爵位を回復し、彭城王・司馬植の子・司馬融を楽成王にしました。

章武王・司馬混の子・司馬珍を章武王に封じました。

 

これは『晋書・成帝紀』の記述ですが、司馬融に関しては誤りがあります。当時、司馬融は既に死んでおり、司馬融を継いでいた楽成王・司馬欽が前年九月に河間王になりました(既述)。「故河間王・司馬顒の爵位を回復した」というのは、前年九月に司馬欽が河間王に改封されたことを指します。「司馬植の子・司馬融を楽成王にした」という部分は、中華書局『晋書・成帝紀』は「衍文(余分な文字)」と判断しています。

 

また、『晋書・成帝紀』は章武王に封じられた司馬珍を司馬混の子としていますが、正確には司馬混の孫で、司馬滔の子ではないかと思われます。

元々、章武王は司馬休で、成帝咸和二年(327年)に蘇峻の乱に加担しました。『晋書・列伝第七(宗室伝)』によると、蘇峻が平定された時、司馬休は既に戦死していたようです。

司馬休は司馬滔の子で、司馬滔は司馬混の子です(章武王・司馬混は河間王・司馬洪(諡号は平王)の子、司馬洪は義陽王・司馬望(諡号は成王)の子、司馬望は安平王・司馬孚(諡号は献王)の子、司馬孚は司馬懿の弟です)

本年、改めて章武王に封じられた司馬珍は、『晋書・列伝第七(宗室伝)』では司馬休の弟となっており、蘇峻が平定された時、まだ八歳だったため、兄の罪に連座しなかったようです(弟珍年八歳,以小弗坐)。よって、司馬珍の父は司馬混ではなく司馬滔が正しいはずです。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

この夏、後趙明帝(趙主・石勒)が鄴に入り、新宮を造営しようとしました。

廷尉・上党の人・續咸が苦諫(苦心して諫めること)したため、明帝が怒って斬ろうとしました。

中書令・徐光が言いました「續咸の言を用いることができないとしても、寛容にするべきです(咸言不可用,亦当容之)。どうして一旦にして直言を理由に列卿を斬るのですか(柰何一旦以直言斬列卿乎)。」

明帝が嘆息して言いました「人君となりながら、このように、独断することもできないのか(為人君,不得自専如是乎)。匹夫でも家貲(家財)が百匹(絹・布の単位)を満たしたら邸宅を買おうと欲するものだ。四海を富有するのならなおさらではないか(匹夫家貲満百匹,猶欲市宅,況富有四海乎)。この宮殿は、いずれは造営するが、とりあえず勅令して建築を停止することで、我が直臣の気を成就させよう(此宮終当営之,且敕停作以成吾直臣之気)。」

明帝はこれを機に續咸に絹百匹と稲百斛を下賜しました。

また、詔を発して、公卿以下に毎年、賢良・方正を挙げさせ、挙人(推挙された者)にも互いに薦引(推薦)させて、求賢の路(賢才を求める路)を広げました。

 

更に明帝は、明堂(政令を発したり祭祀を行う堂)、辟雍(学校)、霊台(天文台)を襄国城西に築きました。

『資治通鑑』胡三省注は「石勒はその獷悍の習(粗野・強暴な習俗)を矯正して文を修める(文徳を振興させる)ことができた」と評価しています。

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月、成漢の大将軍・李寿が陰平と武都を攻めて、氐帥・楊難敵が成漢に降りました(または「李寿が陰平を侵して、武都氐帥・楊難敵が成漢に降りました」。中華書局『資治通鑑』の原文は「成大将軍寿攻陰平、武都,楊難敵降之」、中華書局『晋書・成帝紀』の原文は「李雄将李寿侵陰平,武都氐帥楊難敵降之」です)

 

[十] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

八月庚子(十二日)、東晋が左僕射・陸玩を尚書令にしました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

九月、後趙明帝(趙主・石勒)が再び鄴宮の造営を開始しました。

洛陽を南都として、行台(臨時の政府機関)を置きました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

冬、東晋が太廟で蒸祭(冬の祭祀)を行い、成帝が詔を発して胙(祭祀で使った肉)を司徒・王導に帰しました(贈呈しました)。しかも王導には下拝しないように命じます。

王導は病と称して辞退し、敢えて受け入れようとしませんでした(辞疾不敢当)

 

成帝は沖幼(幼少)で即位したため、王導に会う度に必ず拝礼しており、王導に手詔(直筆の詔)を与える時には「惶恐言(恐縮ですが発言します)」と書き、中書が詔を作った時には「敬問(恭しくお尋ねします)」と書きました。

有司(官員)が討議して言いました「元会(元日の朝会)の日、帝は王導に対して敬(特別な礼)を用いるべきでしょうか(帝応敬導不)。」

博士・郭熙と杜援がこう主張しました「礼においては、(帝王が)臣下を拝すという文(きまり)はないので、敬を除くべきだと考えます(礼無拝臣之文,謂宜除敬)。」

侍中・馮懐が言いました「天子が辟雍(学校)に臨んだら三老を拝すものです。先帝の師傅に対してならなおさらです。敬を尽くすべきだと考えます(謂宜尽敬)。」

侍中・荀奕が言いました「三朝の首(元旦。「三朝」は年・月・日の朝です)は、君臣の体を明らかにするべきなので、敬を用いる必要はありません(宜明君臣之体,則不応敬)。もし他日の小会なら、自ずから礼を尽くすべきです。」

成帝は詔を発して荀奕の意見に従いました。

荀奕は荀組(西晋以来の大臣。東晋元帝時代に太尉になりました。元帝永昌元年・322年参照)の子です。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

慕容廆が使者を派遣して東晋の太尉・陶侃に牋(書信)を送ることにしました。兵を興して北伐するように勧め、共に中原を清めようとします。

 

この時、慕容廆の僚属・宋該等が共に議論してこう言いました「廆は一隅(一地方)で功を立てましたが、位が低いまま責任が重くなっています(位卑任重)。等差(等級、官位)が特別でなかったら、華夷(漢人と異民族)を鎮めるに足りません(等差無別不足以鎮華夷)。上表して廆の官爵を進めるように請うべきです。」

参軍・韓恆が反対して言いました「功を立てた者とは、信義が明らかにならないことを憂いるものであり、名位が高くないことは患いないものです(夫立功者患信義不著,不患名位不高)。桓・文(春秋時代の覇者・斉桓公と晋文公)には匡復の功(国を助けて復興させた功績)がありましたが、先に礼命(君王の策命、任命)を求めてから諸侯に号令したのではありません(不先求礼命以令諸侯)。甲兵(甲冑・兵器)を修繕して、群凶を除き、功を成した後、九錫が自ずから至ったのです。これは主君に寵遇を要求するよりも、栄誉なことではありませんか(比於邀君以求寵,不亦栄乎)。」

慕容廆はこの意見に悦ばず、韓恆を外に出して新昌令(『資治通鑑』胡三省注によると、新昌県は遼東郡に属します)にしました。

 

東夷校尉・封抽等が書信を陶侃府に献上し、慕容廆を燕王に封じて大将軍の政務を代行(行大将軍事)させるように請いました。

 

陶侃が返書を送りました「功が成ったら爵を進めるというのは、古の成制(既存の制度)である。車騎(車騎将軍・慕容廆)はまだ官(朝廷)のために勒(石勒)を打ち破っていないが、忠義によって誠を尽くしている(車騎雖未能爲官摧勒,然忠義竭誠)。今、牋(封抽等の書信)を伝えて上(陛下)にお聴かせしよう。可否や遅速(遅いか速いか)は、天台(天子がいる朝廷)しだいである(今騰牋上聴,可不遅速,当在天台也)。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代35 東晋成帝(十) 襄陽奪還 332年

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