東晋時代35 東晋成帝(十) 襄陽奪還 332年

今回は東晋成帝咸和七年です。

 

東晋成帝咸和七年

成漢武帝玉衡二十二年/後趙明帝建平三年/前涼文王太元九年

壬辰 332年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月辛未(十五日)、東晋が大赦しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

後趙明帝(趙主・石勒)が群臣を集めて大饗(酒宴を開いて労うこと)しました。

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『晋春秋』には「陶侃が使者を派遣して後趙を聘問させた。趙王・勒がこれを饗じた(もてなした)」と書かれています。しかし陶侃と石勒には使者を通じさせる道理がないので、『資治通鑑』は採用していません。『晋書・載記第五』には「石勒が高句麗と宇文屋孤の使者を饗じた」とありますが、『資治通鑑』は「群臣を大饗した」とだけ書いています。

 

本文に戻ります。

明帝が徐光にこう問いました「朕は古から今までで、どのような君主と比べることができるか(朕可方自古何等主)?」

徐光が言いました「陛下の神武謀略は漢高(西漢高祖)を越えており、(それよりも)後の世においては比べられる者がいません。」

石勒が笑って言いました「人がどうして自分を知らずにいられるか(人豈不自知)。卿の言は度を過ぎている(卿言太過)。朕がもし漢高祖に遇っていたら、北面してこれに仕え、韓・彭(韓信・彭越)と肩を並べただろう(朕若遇漢高祖,当北面事之,与韓彭比肩)(しかし)もし光武に遇っていたら、並んで中原を駆けたはずであり、誰の手で鹿が死んだかはわからない(鹿は天下の比喩です。東漢光武帝の時代に生まれていたら天下を争っていた、という意味です。「若遇光武,当並駆中原,未知鹿死誰手」)。大丈夫が事を行う時は、礌礌落落(光明、明亮な様子)として日月のように皎然(明亮潔白)としているべきであり、曹孟徳(曹操)や司馬仲達(司馬懿)のように、人の孤児や寡婦を欺いて、狐媚(人を惑わすこと)によって天下を取った姿には、最後まで倣うべきではない(大丈夫行事,宜礌礌落落,如日月皎然,終不效曹孟徳、司馬仲達欺人孤児寡婦,狐媚以取天下也)。」

群臣は皆、頓首して万歳を唱えました。

 

明帝は学問を修めたことがありませんでしたが、諸生に書を読ませてそれを聞くのが好きでした。時には明帝が自分の意見を元に古今の得失を論じることもあり、それを聞いて悦服しない者はいませんでした。

かつて人に『漢書』を読ませて、酈食其が西漢高祖に六国の後代を立てるように勧めた故事(西楚覇王三年・漢王三年・前204年参照)に至りました。明帝はそれを聞くと驚いて「そのような方法は失敗する。どうして(高祖は)天下を取れたのだ(此法当失,何以遂得天下)」と言い、留侯(張良)が高祖を諫めたと聞くと、「それが(張良の諫言)があったおかげだ(頼有此耳)」と言いました。

 

[三] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

三月、西中郎将・趙胤と司徒中郎・匡術が石勒(後趙)の馬頭塢を攻めて克ちました。

 

[四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

石勒(後趙)の将・韓雍が南沙と海虞を侵しました。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

後趙の将・郭敬が襄陽を破壊し、退いて樊城を守った時(成帝咸和五年・330年参照)、晋人がまた襄陽を取りました。

夏四月、郭敬が再び襄陽を攻めて攻略し、戍(守備兵)を留めて帰りました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

後趙の右僕射・程遐が明帝(趙主・石勒)に進言しました「中山王(石虎)は勇悍で権略(権謀)があり、群臣で及ぶ者がいません。その志を観るに、陛下の他には眼中に誰もいないかのようです(原文「自陛下之外,視之蔑如」。『資治通鑑』胡三省注によると、この「蔑」は「無」の意味です)。加えて残賊安忍(安んじて残虐な行為ができること)で、久しく将帥となり、威が内外を振るわせ、その諸子(『資治通鑑』胡三省注によると、石邃と石宣を指します)も年が長じていて、皆、兵権を典じています(掌握しています)。陛下がいる間は、当然、変事がありませんが、恐らく少主(幼い新君)の臣下ではありません。早くこれを除いて、大計における便(利、益)とするべきです(陛下在自当無他,恐非少主之臣也。宜早除之以便大計)。」

明帝が言いました「今、天下はまだ安んじておらず、大雅(石弘の字です)も沖幼(幼少)なので、強輔を得るべきだ。中山王は骨肉至親で、佐命の功(帝王の創業を輔佐した功績)があるので、正に伊・霍(伊尹・霍光)の任を委ねるべきである。なぜ卿が言うようなことになるだろう(何至如卿所言)。卿は帝舅(皇帝の母の兄弟)としての権勢を専断できないことを恐れているだけだ(卿正恐不得擅帝舅之権耳)。私は卿にも顧命(遺命)に参与させる。過度に憂いる必要はない(吾亦当参卿顧命,勿過憂也)。」

程遐が泣いて言いました「臣が憂慮しているのは公家の事なのに、陛下はそれを私計とみなして拒否しました。(このようなことで)忠言はどこから入るのでしょう(臣所慮者公家,陛下乃以私計拒之,忠言何自而入乎)。中山王は皇太后に養われましたが、陛下の天属(父子。直接の親族)ではありません(『晋書・載記第六』によると、石虎は石勒の従子(甥。または一世代下の親族)です。祖父は㔨邪、父は寇覓といいました。石勒の父・朱(周曷朱。西晋恵帝永興二年・305参照)が、幼い石虎を自分の子として育てたため、石勒の弟と称す者もいました)。たとえ微功(わずかな功績)があっても、陛下が報いとして彼等父子に与えた恩栄は既に充分足りています(雖有微功,陛下酬其父子恩栄亦足矣)。しかしその志願(石虎の野心、願望)は極まることがありません。どうして将来、益をもたらす者なのでしょうか(豈将来有益者乎)。もし彼を除かないようなら、臣には宗廟に血食(祭祀の犠牲)がなくなるのが見えます(石虎を除かなかったら、宗廟の祭祀が途絶えることになります。原文「若不除之,臣見宗廟不血食矣」)。」

明帝はやはり諫言を聴きませんでした。

 

程遐が退いて徐光に告げると、徐光はこう言いました「中山王は常に我々二人に対して切歯(痛恨)しているので、恐らく、国を危うくするだけではなく、家の禍にもなるでしょう(恐非但危国,亦将爲家禍也)。」

他日、徐光が機会を探して明帝にこう問いました「今は国家に事(大事、変事)がないのに、陛下の神色(態度、様子)は楽しくなさそうです(若有不怡)。なぜですか(何也)?」

明帝が言いました「呉(東晋)と蜀(成漢)を平定できずにいるので、私は後世の者が私を受命の王(天命を受けた帝王)とみなさないのではないかと恐れているのだ。」

徐光が言いました「(三国時代は)魏が漢の運(国運)を継承しました。劉備が蜀で興りましたが、どうして漢が亡びなかったとみなせるでしょう(漢豈得為不亡乎)。孫権が呉にいたのは、今の李氏(成漢)のようなものです。陛下は二都(長安と洛陽)を苞括(包括)し、八州(『資治通鑑』胡三省注によると、冀・幽・并・青・兗・豫・司・雍州です)を平蕩(掃蕩平定)しました。帝王の統(正統)が陛下になくて、誰にあるのでしょうか。そもそも、陛下は腹心の疾(身近にある重要な問題)を憂いていないのに、かえって四支(四肢。重要ではないこと)を憂うるのですか。中山王(石虎)は陛下の威略を借りて、向かう所で全て克っており、天下は皆、その英武が陛下に次ぐ(其英武亜於陛下)と言っています。しかも彼の資性(資質、性格)は不仁で、利を見て義を忘れ、(既に)父子が並んで権位を占有して、勢が王室を傾けているのに、耿耿(不安な様子)として常に不満の心をもっています。最近は東宮(太子宮)の宴に侍って皇太子を軽んじる色(態度、様子)がありました。臣は陛下の万年(崩御)の後、(中山王を)制御できなくなることを恐れます。」

明帝は黙ってしまいました(または「黙って納得しました」。原文「勒黙然」)

 

(徐光の諫言を聴いて)明帝は始めて太子に尚書の奏事を省可(閲覧・裁可)するように命じ、更に、中常侍・厳震に可否を参綜(参与・掌握)させ、征伐や断斬(死刑)といった大事だけは明帝に報告させることにしました。

 

この後、厳震の権勢が主相(主君と宰相。または特に宰相を指します)を越えるようになり、中山王・石虎の門は雀羅(雀を捕まえる網)を設けられるほどになりました(原文「門可設雀羅矣」。門前に雀羅を設けるというのは、人がいなくなって静寂としていることの比喩です)

石虎はますます怏怏(不満な様子)として不快になりました。

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

五月、大水(洪水)がありました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

秋七月丙辰(初三日)、東晋成帝が詔を発し、諸養獣の属(獣類を飼育する官だと思います)は損費(浪費)が多いので、一切を除くことにしました(諸養獣之属,損費者多,一切除之)

 

[九] 『資治通鑑』からです。

後趙の郭敬が南に向かって江西(『資治通鑑』胡三省注によると、江西は邾城以東から歴陽に至る地を指します)を掠めました。

 

東晋の太尉・陶侃が子の平西参軍・陶斌と南中郎将・桓宣を派遣し、虚に乗じて樊城を攻めさせました。陶斌等は樊城を攻略して郭敬の衆を全て捕虜にします。

 

郭敬が引き返して樊を救おうとしましたが、桓宣が涅水(『資治通鑑』胡三省注によると、涅水は涅陽県西北の岐棘山から出て、東南に流れて涅陽県を通り、更に東南に流れて安衆県を通り、新野県に至ってから東に向かって淯水に入りました)で郭敬と戦って破り、郭敬が掠めた物を全て得ました。

 

陶侃の兄の子・陶臻と竟陵太守・李陽が新野を攻めて攻略しました。

郭敬が懼れて遁去(遁走、撤退)したので、桓宣が襄陽を攻略しました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「太尉・陶侃が子の平西参軍・陶斌と南中郎将・桓宣を派遣して石勒の将・郭敬を攻めさせ、(陶斌等は)これを破って樊城を攻略した。竟陵太守・李陽が新野と襄陽を抜き、(東晋は)これを機に守備を置いた(因而戍之)」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

陶侃は桓宣に襄陽を鎮守させました。

桓宣は帰順したばかりの人々を招懐(懐柔)し、刑罰を簡潔にして、威儀(儀礼)を簡略にし、農桑(農業)を勧課(奨励して義務づけること)しました。時には鉏耒(農具)を軺軒(軽車)に載せて、自ら民を率いて芸穫(農耕。「芸」は田地の雑草を抜くこと、「穫」は収穫することです)しました。

襄陽にいた十余年間、趙人が再度攻めて来ても、桓宣が寡弱な兵で拒守(抵抗・守備)したため、趙人は勝つことができませんでした。

時の人は桓宣が祖逖や周訪に次ぐ人材だとみなしました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

成漢の大将軍・李寿が寧州を侵しました。征東将軍・費黒を前鋒にして広漢から出撃させ、鎮南将軍・任回を越巂から出撃させて、寧州の兵を分散させます。

 

冬十月、李寿と費黒が朱提に至り、朱提太守・董炳は城に籠って守りを固めました。

寧州刺史・尹奉が建寧太守・霍彪を派遣して、兵を率いて助けさせました。

李寿が迎撃して霍彪を拒もうとしましたが、費黒がこう進言しました「城中は食糧が少ないので、霍彪を自由に入城させて、共にその穀物を消費させるべきです。なぜ彼を拒むのですか(城中食少,宜縦彪入城,共消其穀,何為拒之)。」

李寿はこの意見に従いました。

 

しかし久しくしても城が落ちないため、李寿が急攻しようとしました。費黒がまた進言しました「南中は険阻で屈服させるのが難しいので、日月をかけて制し、敵の智と勇が共に困窮した後に、これを取るべきです(南中険阻難服,当以日月制之,待其智勇俱困,然後取之)。溷牢の物(柵の中の家畜。「溷牢」は豚や犬が住む場所です)に対して、なぜ汲汲(急ぐこと)とする必要があるのですか(溷牢之物,何足汲汲也)。」

李寿は従いませんでしたが、実際に急攻しても利がなかったため、結局、全ての軍事を費黒に任せることにしました。

 

[十一] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月壬子朔、東晋が太尉・陶侃の官を進めて大将軍とし、「剣履上殿(剣を帯びて履物を履いたまま上殿できること)」「入朝不趨(入朝時に小走りになる必要がないこと)」「賛拝不名(朝会等で天子を拝す際、儀礼の官員から直接名を呼ばれないこと)」の特権を与えました。

しかし陶侃は固辞して受け入れませんでした。

 

[十二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋成帝が詔を発して賢良を挙げさせました。

 

[十三] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月庚戌(二十九日)、東晋成帝が新宮に遷りました。

新宮は成帝咸和五年(330年)に建築が始まりました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

この年、涼州の僚属が張駿に対して、涼王を称して秦・涼二州の牧を兼任し(領秦涼二州牧)、魏武・晋文(東漢末の曹操と魏の司馬昭)の故事に倣って自ら公卿百官を置くように勧めました。

張駿は「これは人臣が発言するべきことではない(此非人臣所宜言也)。敢えてこのような発言をする者は、その罪を赦すことができない(敢言此者,罪不赦)」と言いましたが、境内では皆が張駿を王と呼びました。

 

張駿が次子・張重華を世子に立てました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代36 東晋成帝(十一) 後趙明帝の死 333年(一)

 

 

 

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