東晋時代36 東晋成帝(十一) 後趙明帝の死 333年(一)

今回は東晋成帝咸和八年です。二回に分けます。

 

東晋成帝咸和八年

成漢武帝玉衡二十三年/後趙明帝建平四年/前涼文王太元十年

癸巳 333年

 

[一] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

春正月辛亥朔、新宮(前年参照)に遷った東晋成帝が詔を発しました「昔、犬賊が暴乱をほしいままにしたため、宮室が焚蕩(焼毀)し、(その後)元悪は殲滅されたが、まだ(宮室を)営築する暇(余裕)がなかった(昔犬賊縦暴,宮室焚蕩,元悪雖翦,未暇営築)。しかし有司(官員)が朝会の逼狭(狭窄)をしばしば陳述したので、この宮殿を造ることにし、子(汝等、臣民)が来て(力を)労したおかげで、日を経ずに完成できた(有司屢陳朝会逼狭,遂作斯宮,子来之労,不日而成)。既に(朕が新宮に)臨御できたので、群后(公卿諸侯)を大饗し(酒宴を開いて大いにもてなし)、九賓(諸侯群臣や各国の賓客)が庭を充たし、百官が序列に則って(宴に)参加した(既獲臨御,大饗群后,九賓充庭,百官象物)(朕は)君子は礼に勤め、小人は力を尽くすものだということを理解している(知君子勤礼,小人尽力矣)。密網(厳しい法令)を除いて皆がその恵みを同じくすることを思うので、ここに五歳の刑以下の者を赦免させる(思蠲密網,咸同斯恵,其赦五歳刑以下)。」

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋成帝が諸郡に令を下し、千五百斤以上の物を持ち上げることができる力人(力士)を挙げさせました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

成漢の大将軍・李寿が朱提を攻略し、董炳と霍彪が投降しました。李寿の威が南中を震わせます。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「丙寅(十六日)、李雄(成漢)の将・李寿が寧州を落とし、刺史・尹奉と建寧太守・霍彪がそろって降った」と書いています。

『資治通鑑』では、寧州刺史・尹奉の投降は三月に書いています(下述します)

 

[四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

癸酉(二十三日)、東晋が張駿を鎮西大将軍にしました。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

丙子(二十六日)、後趙明帝(趙主・石勒)が東晋に使者を派遣して賂(礼物、賄賂)を贈り、修好しようとしました。

しかし東晋成帝は詔を発して後趙の幣(礼物)を焼き棄てました(焚其幣)

 

[六] 『資治通鑑』からです。

三月、東晋の寧州刺史・尹奉が成漢に降りました。成漢が南中の地を全て有すことになります。

成漢が大赦して、大将軍・李寿に寧州の管理を兼任させました(領寧州)

 

[七] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

夏四月、東晋成帝が詔を発し、故新蔡王・司馬弼の弟・司馬邈を新蔡王に封じました。

 

新蔡王は司馬騰(諡号は武哀王です)から始まります。司馬騰は、元は東燕王で、東海王・司馬越(八王の乱で最後まで生き残って政権を握りました)の弟に当たります。父は高密王・司馬泰(文献王)で、司馬泰の父・司馬馗は司馬懿の弟です

司馬騰は西晋懐帝永嘉元年(307年)に汲桑に殺されました。

『晋書・列伝第七・宗室伝』によると、司馬騰の死後、子の司馬確(荘王)が立ちましたが、司馬確は西晋懐帝永嘉五年(311年)に石勒に殺され、新蔡王は空位になりました。

晋王(司馬睿。東晋元帝)建武元年(317年)になって、司馬弼が改めて新蔡王に封じられました。司馬弼は汝南王・司馬祐(威王)の子で、司馬祐は司馬矩(懐王)の子、司馬矩は司馬亮(司馬懿の子。八王の乱で殺された汝南文成王)の子です。

しかし司馬弼は即位した翌年に死に、子がいなかったため、新蔡王はまた空位になりました。

本年、司馬弼の弟・司馬邈が新蔡王に立てられました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

東晋成帝が束帛(束にした帛。聘問時の礼物です)を使って処士・尋陽の人・翟湯と会稽の人・虞喜を召しました。

 

[九] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

五月、肥郷に隕石が落ちました(有星隕于肥郷)

麒麟や騶虞(伝説の仁獣)が遼東に現れました。

 

[十] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲寅(『資治通鑑』は「甲寅」としており、五月初六日に当たります。『晋書・成帝紀』は「乙未」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年五月は「己酉」が朔なので、「乙未」はありません)、車騎将軍・遼東公・慕容廆(武宣公)が死にました。『晋書・載記第八』によると、六十五歳でした。

 

六月、世子・慕容皝が爵位を継ぎました。平北将軍の立場で平州刺史を代行し(行平州刺史)部内を督摂(代理として監督すること)して繋囚(囚人)を赦免しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、慕容皝は字を元真といい、慕容廆の第三子です。

 

長史・裴開を軍諮祭酒に、郎中令・高詡を玄菟太守に任命しました。

また、帯方太守・王誕を左長史に任命しましたが、王誕は遼東太守・陽騖の才を認めて位を譲りました。慕容皝はこれに従い、(陽騖を左長史にして)王誕を右長史にしました。

『資治通鑑』胡三省注は、「国が興る時は、その臣は賢才を推挙して能力がある者に譲るものだが(推賢讓能)、国が衰える時は、その臣は自分の才能を誇って自分より優れた者を嫌うものだ(矜己忌前)」と書いています。

 

[十一] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

六月甲辰(二十六日)、東晋の撫軍将軍・王舒が死にました。

 

[十二] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

後趙明帝(趙主・石勒)が病に臥せました。

中山王・石虎が禁中に入って明帝に侍り、矯詔(偽の詔)を発して、群臣・親戚が全て入れないようにしました。そのため、外には病の増損(増減、改善・悪化)を知る者がいなくなりました。

 

更に矯詔を発して秦王・石宏と彭城王・石堪を襄国に呼び戻しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、明帝は石宏を都督中外諸軍事に任命して鄴を鎮守させていました。石堪は河南にいたようです。

 

明帝は、病が少し善くなった時(疾小瘳)、石宏を見たため、驚いてこう言いました「私が王を藩鎮に居させたのは、正に今日に備えるためだ。王を召した者がいるのか、それとも自ら来たのか(有召王者邪,将自来邪)?召した者がいるのなら、法に則って誅殺するべきだ(有召者,当按誅之)。」

石虎は懼れて「秦王は(陛下を)思慕したので、暫く還っただけです。今、遣わします(送り出します)」と言いましたが、留めたまま送り出しませんでした。

数日後、明帝がまた問うと、石虎はこう言いました「詔を受けてすぐに遣わしました。今、既に半道(道中)にいます。」

 

この頃、広阿(『資治通鑑』胡三省によると、広阿県は、西漢は鉅鹿郡に属しましたが、東漢と晋は省きました。後魏(北魏)が再び広阿県を置き、南趙郡に属させます。隋になって大陸県に改められ、唐代には象城県になり、更に昭慶県になりました。趙州に属します)で蝗害がありました。

石虎は秘かに子の冀州刺史・石邃を派遣し、騎兵三千を率いて蝗害があった場所で巡遊させました(原文「遊於蝗所」。『資治通鑑』胡三省注によると、石虎は明帝の死後、変事が起きることを恐れたため、石邃を派遣して蝗を捕るふりをさせ、騎兵三千を外応(外援)にしました)

 

秋七月、明帝の病が篤くなり、遺命を発しました「大雅(石弘の字)兄弟は互いに善く守りあうべきである(宜善相保)。司馬氏は汝等の前車だ(兄弟親族で対立して国を滅ぼした司馬氏を、汝等は教訓とするべきである。原文「汝曹之前車也」)。中山王(石虎)は深く周・霍(幼主を輔佐した西周の周公と西漢の霍光)を思うべきであり、将来の口実(批難の対象)となってはならない(原文「勿為将来口実」)。」

 

戊辰(二十一日)、明帝が死にました。

『晋書・載記第五』によると、明帝は六十歳でした。

 

石虎が太子・石弘に強制して臨軒(正殿に登って政令を発すること)させました。(石弘の命によって)右光禄大夫・程遐と中書令・徐光を逮捕させて廷尉に下します。

また、石邃を召して、兵を指揮して宿衛に入らせました。

文武百官は皆、奔散し、石弘も大いに懼れて自分自身の劣弱を述べ、石虎に帝位を譲りました。

しかし石虎はこう言いました「主君が終わったら(亡くなったら)太子が立つ、これは礼の常です(君終,太子立,礼之常也)。」

それでも石弘が涙を流して頑なに譲ったため、石虎が怒って言いました「もし重任に堪えられないのなら、天下には自ずから大義がある(本当に重任に堪えられないようなら、自然に大義によってそれが明らかにされ、帝位を失うことになる。自ら帝位を譲る必要はない)。なぜ議論するに足りるのだ(若不堪重任,天下自有大義,何足豫論)!」

こうして石弘が即位することになりました

『晋書・載記第五』によると、石弘は字を大雅といい、明帝の第二子です。

石弘は後に廃されるので、諡号がありません。『資治通鑑』は「趙主・弘」としていますが、この通史では「後趙帝(趙主・石弘)」と書きます。

尚、『晋書・成帝紀』は石弘の即位について「石弘が偽位(偽の帝位)を継いだ」と書いています。

 

後趙帝が大赦しました。但し、程遐と徐光は殺されました。

その夜、明帝の喪(死体)が秘かに山谷に埋葬されました。その場所を知る者はいません。

己卯、儀衛を備えて、高平陵に虚葬(偽の埋葬)しました(これは『資治通鑑』の記述です。但し、『二十史朔閏表』によると、この年七月に「己卯」はありません。『資治通鑑』胡三省注は「石勒が死んで十二日で埋葬された。このように速かった者はいない」と書いています。石勒(明帝)が死んだのは七月戊辰(二十一日)なので、十二日後(足掛け)は八月己卯(初二日)に当たるはずです)

石勒は諡号を明帝、廟号を高祖と定められました。

 

後趙の将・石聡と譙郡太守・彭彪がそれぞれ東晋に使者を派遣し、譙を挙げて来降(投降)しました(『資治通鑑』胡三省注によると、石聡は当時、譙城を鎮守していました)

石聡は本来、晋人ですが、石氏を名乗っていました。

東晋朝廷が督護・喬球を派遣して石聡等を救援させましたが、到着する前に、石聡等は石虎に誅殺されました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

慕容皝が長史・勃海の人・王済等を派遣して、東晋に慕容廆の喪を告げました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

八月、後趙帝(趙主・石弘)が中山王・石虎を丞相・魏王・大単于にして、九錫を加え、魏郡等十三郡を魏国とし、百官を総領させました(総摂百揆)

石虎は境内で特赦を行い(赦其境内)、妻の鄭氏を魏王后に立てました。また、子の石邃を魏太子に立てて、使持節・侍中・都督中外諸軍事・大将軍・録尚書事を加え、次子・石宣を使持節・車騎大将軍・冀州刺史にして河間王に封じ、石韜を前鋒将軍・司隸校尉にして楽安王に封じ、石遵を斉王に、石鑒を代王に、石苞を楽平王に封じ、平原王・石斌(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「太原王」としています)を章武王に遷しました。

明帝に仕えていた文武の旧臣は、全て散任(実務・権勢がない官職。閑職)を担当することになり(皆補散任)、石虎の府寮(官府の諸官員)や親属が全て台省(朝廷と宮内)の要職に配置されます。

『資治通鑑』胡三省注によると、石虎本人は鄴にいて(当時の後趙の都は襄国です)、子の石邃が中外の諸軍を都督しました。石宣は信都を拠点にしていました。

 

鎮軍将軍・夔安に左僕射を兼任させ(領左僕射)、尚書・郭殷を右僕射に任命しました。

 

太子宮を崇訓宮に改名し、太后・劉氏以下の者を全て崇訓宮に移して生活させました。

また、明帝の宮人や車馬、服玩(衣服や玩賞用の器物)の中から美しいものを選んで、全て丞相府に入れました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

宇文乞得帰が東部大人・逸豆帰に駆逐され、逃走して外地で死にました。

慕容皝が兵を率いて逸豆帰を討ち、広安(『資治通鑑』胡三省注によると、広安は棘城の北に位置しました)に駐軍すると、逸豆帰は懼れて和を請いました。

慕容皝は楡陰と安晋の二城を築いて還りました(『資治通鑑』胡三省注によると、楡陰城は大楡河の陰(南)にあったようです。安晋城は威徳城の東南に位置しました)

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

成漢の建寧と牂柯の二郡が東晋に投降しましたが、李寿が再び攻撃して奪いました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代37 東晋成帝(十二) 後趙内乱 333年(二)

 

 

 

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