東晋時代38 東晋成帝(十三) 成漢武帝の死 334年(1)

今回は東晋成帝咸和九年です。二回に分けます。

 

東晋成帝咸和九年

成漢武帝玉衡二十四年/後趙帝(石弘)延煕元年/前涼文王太元十一年

甲午 334年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、後趙が延熙元年に改元しました。

 

[二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

涼州に二つの隕石が落ちました(隕石于涼州二)

 

[三] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋成帝が詔を発して郭権を鎮西将軍・雍州刺史に任命しました。

 

『晋書・第七・成帝紀』『資治通鑑』とも郭権を「雍州刺史」としていますが、『晋書・載記第五』では、郭権は鎮西将軍・秦州刺史になっています。郭権は上邽を占拠して東晋に降っており、上邽は秦州に属すので、「秦州刺史」とするのが正しいようです(中華書局『晋書・成帝紀』校勘記参照)

 

[四] 『資治通鑑』からです。

仇池王・楊難敵が死んで、子の楊毅が立ちました。

楊毅は自ら龍驤将軍・左賢王・下辨公を称し、叔父・楊堅頭の子・楊盤を冠軍将軍・右賢王・河池公にしました。

また、楊毅は東晋に使者を派遣して藩(臣)と称しました。

 

[五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

二月丁卯(二十三日)、東晋成帝が詔を発し、耿訪と王豊(前年参照)に印綬を持たせて涼州に派遣しました。鎮西大将軍・張駿を大将軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事に任命します。

この後、毎年、使者(の往来)が途絶えなくなりました。

『資治通鑑』胡三省注は「仇池が藩(臣)を称したので、梁・涼の路が通じた」と解説しています。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

慕容仁が司馬・翟楷に東夷校尉を兼任させ(領東夷校尉)、前平州別駕・龐鑒に遼東相を兼任させました(領遼東相)

 

[七] 『資治通鑑』からです。

段遼が兵を派遣して徒河を襲わせましたが、克てませんでした。

そこで、再び弟の段蘭と慕容翰を派遣し、共に柳城(『資治通鑑』胡三省注によると、柳城県は、漢代は遼西郡に属しましたが、晋代になって廃されました。唐代には營州の治所になります)を攻めさせました。

しかし柳城都尉・石琮と城大(城主)・慕輿埿が力を併せて拒守(抵抗・守備)したため、段蘭等はやはり克てずに引き退しました。

 

段遼が怒って段蘭等を切責し(厳しく譴責し)、必ず攻略するように命じたため(必令抜之)段蘭等は二旬(二十日)休息してから、更に兵を増やしてまた柳城を攻撃しました。

段蘭等の士卒は皆、袍を重ねて着て楯で体を隠し(重袍蒙楯)、飛梯(雲梯)を造って、四面から同時に進みました。昼夜とも攻撃を止めません。

しかし、石琮と慕輿埿もますます堅固に拒守(抵抗・守備)して、千余人を殺傷しました。

結局、段蘭等は攻略できませんでした。

 

慕容皝は慕容汗と司馬・封奕等を派遣して、共に柳城を救わせました。

慕容皝が慕容汗を誡めて言いました「賊は気が鋭いので、鋒を争ってはならない(賊は士気が盛んなので、まともに戦ってはならない)。」

ところが、慕容汗は性格が驍果(驍勇果敢)だったため、千余騎を率いて前鋒となり、直進しました。封奕が止めようとしましたが、慕容汗は従いません。

その結果、慕容汗は段蘭と牛尾谷(『資治通鑑』胡三省注によると、柳城北に位置します)で遭遇し、兵が大敗して死者が太半に上りましたが、封奕が陣を整えて力戦したおかげで、全滅は免れました。

 

段蘭が勝ちに乗じて徹底的に追撃しようとしました。

しかし慕容翰が自国の滅亡を恐れ、段蘭を止めてこう言いました「将となったら務めて慎重にするべきです。自分を明確に知って敵の力量を量り、万全でないようなら動くべきではありません(夫為将当務慎重,審己量敵,非万全不可動)。今、その偏師(敵の一部隊)を挫きましたが、まだその大勢を屈することはできません。慕容皝は権詐(権謀詐術)が多く、好く潜伏(埋伏)を為すので、もしも国中の衆をことごとく動員して、(慕容皝が)自らそれを率いて我々に対抗したら、我々は孤軍で深入りすることになり、衆寡において敵わなくなります。これは危道というものです(若悉国中之衆自将以拒我,我縣軍深入,衆寡不敵,此危道也)。そもそも、受命の日は、この勝利を求めていただけでした(正求此捷)。もし命に違えて貪進し(利を貪ろうとして前進し)、万一敗れたら、功績も名声も共に喪ってしまいます(万一取敗,功名俱喪)(そうなったら)どの顔をもって帰るのでしょうか(何以返面)。」

段蘭が言いました「彼等が擒となるのは既に決まっている。他の道理はない(此已成擒,無有余理)。卿はただ卿の国が滅ぼされることを憂慮しているだけだ(卿正慮遂滅卿国耳)。今、千年(慕容仁。下述)が東(平郭)にいるので、もし進んで志を得られるようなら(もし我々が兵を進めて勝てるようなら)、私はこれを迎えて国嗣(国の後継者)にするつもりだ。いずれにしても、卿の期待に裏切って宗廟の祭祀を絶えさせるようなことはない(終不負卿,使宗廟不祀也)。」

千年は慕容仁の小字(幼名)です。

 

慕容翰が言いました「私は身を投じて(段氏に)頼ったので、再び還るという道理はありません(吾投身相依,無復還理)。国の存亡が私にとって何の関係があるでしょう(国之存亡於我何有)。ただ大国の計を為したいと欲しており、また、互いの功名を惜しんでいるだけです(但欲為大国之計,且相為惜功名耳)。」

慕容翰は自分が率いる部衆に命を発して、単独で還ろうとしました。

段蘭はやむなく慕容翰に従いました。

 

[八] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

三月丁酉(二十四日)、会稽で地震がありました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

成漢武帝(成主・李雄)が寧州を分けて交州を置き、霍彪を寧州刺史に、爨深を交州刺史に任命しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、成漢は寧州から興古、永昌、牂柯、越巂、夜郎等の郡を分けて交州にしました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

後趙の丞相・石虎がその将・郭敖と章武王・石斌を派遣し、歩騎四万を率いて西の郭権を撃たせました。郭敖等は華陰に駐軍します。

 

夏四月、上邽の豪族が郭権を殺して投降しました。

石虎は秦州の三万余戸を青・并二州に移しました。

 

『晋書・第七・成帝紀』は「夏四月、石弘(後趙)の将・石季龍(石虎)が石斌を送って郿で郭権を攻めさせ、これを落とした」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

長安の人・陳良夫が黒羌(『資治通鑑』胡三省注によると、羌族の別種です。青羌と黒羌がいました)に奔り、北羌王・薄句大等と共に北地や馮翊を侵犯しましたが、章武王・石斌と楽安王・石韜が協力してこれを撃ち、破りました。

句大は馬蘭山に奔りました。

 

郭敖が勝ちに乗じて敗走する兵を逐いましたが、羌(薄句大等)に敗れ、死者が十分の七八に上りました(死者什七八)

石斌等は軍を収めて三城(地名。『資治通鑑』胡三省注によると、後魏(北魏)が雁門の広武と朔方の沃野(地名)を分けて徧城郡を置き、広武県を治所にしました。この県に三城と徧城がありました)に還りました。

石虎は使者を派遣して郭敖を誅殺しました。

 

秦王・石宏に怨言があったため、石虎が石宏を幽閉しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、石宏は都督中外諸軍事として鄴を鎮守していましたが、父(明帝・石勒)が病の時(前年参照)、石虎の矯詔(偽の詔)によって招かれ、そのまま失職することになったため、恨みを抱いていました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

慕容仁が自ら平州刺史・遼東公を称しました。

 

[十二] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の長沙公・陶侃(諡号は桓公です)は、晚年になると満盈(充満、充足すること。ここでは「物が満たされたら損なうことになる」という道理を指します)が原因で自ら深く懼れを抱き、朝権(朝廷の大権。政権)に関与せず、しばしば告老(引退)して国(『資治通鑑』胡三省注によると、封国の長沙国を指します)に帰ろうと欲しました。佐吏等が苦心して陶侃を留めます(陶侃は武昌にいます)

 

六月、陶侃の病が篤くなったため、上表して位を譲りました。左長史・殷羨を朝廷に派遣して、自分が授けられた節・麾・幢・曲蓋(「節」は符節、「麾」は大将旗、「幢」も旗の一種、「曲蓋」は儀仗で使う柄が曲がった傘です。『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、諸公が一方面を任せられたら、節・麾・緹幢(赤黄色の幢)・曲蓋を授けられました)と侍中貂蟬(侍中の冠)・太尉章(印)、荊江雍梁交広益寧八州刺史の印伝(印信。印璽と任命書)、棨戟(儀仗用の戟)を送り届け、軍資(軍需物資)、器仗(武器)、牛馬、舟船は全て定簿(特定の帳簿)を残し、倉庫に封印して、陶侃が自ら管鑰(鍵)をかけました。

陶侃は後事を右司馬・王愆期に託し、督護の官を加えて文武諸官を統領させました。

『資治通鑑』胡三省注は「陶侃の綜理(管理)は精密で、病になっても乱れなかった」と書いています。

 

甲寅(十二日)、陶侃が輿車(車)を出発させました。

津に臨んで船に乗り、長沙に帰ろうとした時、顧りみて王愆期にこう言いました「老子(私)が婆娑(行動が鈍いこと)としたのは、正に諸君が原因だ(私が久しく逗留して国に帰れなかったのは、諸君が引き留めたからだ。原文「老子婆娑,正坐諸君」)。」

 

乙卯(十三日)、太尉・長沙公・陶侃が樊谿で死にました。

『資治通鑑』胡三省注によると、樊谿は武昌から西に三里しか離れていませんでした。「谿」は渓谷や小川で、樊谿は北に向かって大江(長江)に注ぎます。

 

陶侃は軍に四十一年いました(『資治通鑑』は「四十一年」としており、『晋書・列伝第三十六(陶侃伝)』も「四十一載」としています。胡三省注はこれを「恵帝太安二年に陶侃が張昌を撃ってからこの年に至るまで、合わせて四十一年」と解説しています。しかし、西晋恵帝太安二年は303年、本年(東晋成帝咸和九年)は334年なので、三十一年が正しいはずです)

明毅(英明剛毅)で善く決断ができ、事象を細かく見極めたため、他者は陶侃を欺くことができませんでした(識察纖密,人不能欺)。南陵から白帝まで数千里の内では(『資治通鑑』によると、南陵から白帝までの地は陶侃が統治したおおよその範囲を指します。胡三省注が南陵について詳しく解説していますが、省略します)、路に物が落ちていても拾って着服する者がいなくなりました(路不拾遺)

 

陶侃が死ぬと、尚書・梅陶が親人(友人)・曹識に書を送ってこう言いました「陶公の機神明鑒(機敏・敏捷かつ明察・聡明な姿)は魏武(曹操)に似ており、忠順勤労は孔明(諸葛亮)に似ており、陸抗といった諸人は比べものにならなかった(陶公機神明鑒似魏武,忠順勤労似孔明,陸抗諸人不能及也)。」

 

謝安もいつもこう言っていました「陶公は法を用いても常に法外の意(刑法の外に存在する含意)を得ていた(陶公雖用法而恆得法外意)。」

謝安は謝鯤(東晋元帝永昌元年・322年参照)の従子(甥。または自分より一代下の同姓の親族)です。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

成漢武帝(成主・李雄)が頭に瘍(できもの)を患いました。

武帝の身にはかねてから多数の金創(武器による傷)があり、病を患うと、旧痕(古傷)が全て膿んで潰れたため、諸子は皆、嫌悪して遠ざかるようになりました。しかし太子・李班だけは昼夜、側に侍り、衣冠を脱ぐこともなく(自分の身を顧みる暇もなく)、自ら膿を吸い取りました。

 

武帝は大将軍・建寧王・李寿を召し、遺詔を授けて輔政させました。

丁卯(二十五日)、武帝が六十一歳で死にました。

『晋書・載記第二十一』は武帝の死を東晋成帝咸和八年(前年)の事としていますが、九年の誤りです。中華書局『晋書・載記第二十一』校勘記が指摘しています。

 

太子・李班が即位しました。

『晋書・第七・成帝紀』は「六月、李雄が死に、その兄の子・李班が偽位(偽の皇帝の位)を継いだ」と書いています。

『晋書・載記第二十一』によると、李班は字を世文といいます。武帝の兄・李蕩の子です。後に「哀帝」という諡号を贈られます(東晋成帝咸康四年・338年参照)

 

李班は建寧王・李寿に尚書を主管させ(録尚書)、政事は全て李寿および司徒・何點、尚書令(『資治通鑑』は「尚書」としていますが、『晋書・載記第二十一』では「尚書令」です。『資治通鑑』は「令」が抜けています)・王瓌に委ねました。李班自身は中(宮中)に居て喪礼を行い、政事には一切関与しませんでした(居中行喪礼,一無所預)

 

[十四] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

大旱に襲われました。

東晋成帝が詔を発し、太官に命じて皇室の食事を削減させ(徹膳)、刑罰を省き(省刑)、孤寡(孤児や寡婦。身寄りがない者)を救済し(恤孤寡)、費用を減らして節約しました(貶費節用)

 

[十五] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

辛未(二十九日)、東晋が平西将軍・庾亮に征西将軍・假節・都督江荊豫益梁雍六州諸軍事・領江豫荊三州刺史を加えて武昌を鎮守させました。

『資治通鑑』胡三省注は、「陶侃が既に没したので、庾亮が上流を専制するようになった」と解説しています。

 

庾亮は殷浩を招いて記室参軍にしました。

殷浩は殷羨(陶侃の左長史)の子で、豫章太守・褚裒、丹陽丞・杜乂と共に識度が清遠で、善く『老』『易』を談じたので、江東で名声を独占していました(擅名江東)。中でも殷浩は特に風流だったので、尊崇されていました(尤為風流所宗)

褚裒は褚䂮(魏元帝景元元年・260年参照)の孫、杜乂は杜錫(西晋建国の功臣・杜預の子。西晋恵帝元康九年・299年参照)の子です。

 

桓彝がかつて褚裒にこう言いました「季野(褚裒の字です)は皮の中に『春秋』がある(季野有皮裏春秋)。」

これは、表面上は臧否(論評)の言葉がないのに、心中には褒貶の意見を持っている(其外無臧否而内有褒貶)という意味です。

謝安も「褚裒は発言しないが、四時の気(四季の気象。広遠な気宇度量)が備わっている(裒雖不言而四時之気亦備矣)」と評価しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代39 東晋成帝(十四) 成漢と後趙の政変 334年(2)

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