東晋時代39 東晋成帝(十四) 成漢と後趙の政変 334年(2)

今回で東晋成帝咸和九年が終わります。

 

[十六] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

秋八月、東晋が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。

五月から雨が降らず、この月に至っていました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

慕容皝が東晋に派遣した王済(前年参照)が遼東に還りました。

 

東晋成帝が詔を発し、侍御史・王斉を派遣して遼東公・慕容廆を祭らせました。

また、謁者・徐孟を派遣し、策拝(策書によって任命すること)して慕容皝を鎮軍大将軍・平州刺史・大単于・遼東公・持節とし(『晋書・載記第九』では「鎮軍大将軍・平州刺史・大単于・遼東公・持節・都督」になっています。『資治通鑑』は「都督」を省いています)、承制封拝(皇帝の代わりに命を発して封爵任官すること)の特権を与えて、一切を慕容廆の故事(前例)に則らせることにしました。

 

しかし船が下って馬石津に至った時、皆、慕容仁(平州刺史・遼東公を自称しています)に拘留されました。

『資治通鑑』胡三省注によると、建康から大江(長江)を下って海に至り、料角(地名)で転じて登州(恐らく胡三省が生きた宋元時代の地名です。現在の山東半島の一部です)の大洋に至り、東北に進んで大謝島、亀歆島、淤島、烏湖島の三百里を越え、北に烏湖海を渡って馬石山の東に位置する都里鎮に至りました。馬石津はこの地にありました。

 

[十八] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

九月戊寅(初八日)、東晋の散騎常侍・衛将軍・江陵公・陸曄(諡号は穆公です)が死にました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

成漢武帝(成主・李雄)の子である車騎将軍・李越は江陽に駐屯していましたが、奔喪して(武帝の喪に駆けつけて)成都に至りました。

李越は太子・李班(哀帝)が武帝の子ではなかったため、心中で不服でした。そこで、弟の安東将軍・李期と謀って乱を為すことにしました。

 

李班の弟・李玝が李班に対して、李越を江陽に送り還し、李期を梁州刺史に任命して葭萌を鎮守させるように勧めました。

しかし李班は武帝の埋葬がまだ終わっていなかったため、二人を派遣するのが忍びず、心を開いて二人と接し、猜疑したり疎遠にするようなことはありませんでした(推心待之,無所疑間)

逆に李玝を朝廷から派遣して涪に駐屯させます。

 

冬十月癸亥朔(『二十史朔閏表』によると、この年十月は「辛丑」が朔なので、「癸亥朔」は誤りです。「癸亥」が正しいとしたら、「十月二十三日」になります)、李班が夜哭(夜の哭礼)をしている隙に、李越が殯宮(棺を安置した部屋)で李班を弑殺し、併せて李班の兄に当たる領軍将軍・李都も殺しました。

その後、太后・任氏の令を偽って李班の罪状を宣布し、帝位を廃しました。

 

李期の母・冉氏は卑賎だったため、任氏が母として李期を養ってきました。李期は才芸(才能・技芸)が多く、令名(美名)もあります。

李班が死ぬと、衆人は李越を立てようと欲しましたが、李越は李期を奉じて擁立しました。

甲子(二十四日)、李期が皇帝の位に即きました。

『晋書・第七・成帝紀』は「冬十月、李雄の子・李期が李班を弑して自ら立った」と書いています。

『晋書・載記第二十一』によると、李期は字を世運といい、武帝の第四子です。皇帝としての諡号はありません。

『資治通鑑』は「成主・期」と書いていますが、この通史では「成漢帝(成主・李期)」と書きます。

 

成漢帝は李班に戾太子という諡号を贈りました(東晋成帝咸康四年・338年に「哀帝」に改められます)

李越を相国に任命して建寧王に封じ、大将軍・李寿に大都督を加えて漢王に改封し、二人に尚書の政務を主管させました(録尚書事)

兄の李霸を中領軍・鎮南大将軍に、弟の李保を鎮西大将軍・汶山太守に任命し、従兄の李始(『資治通鑑』本文は「従兄・始(従兄の李始)」としていますが、胡三省注が「李始は李特の長子なので、李期に対しては(従兄ではなく)伯父に当たり、李寿に対して従兄に当たる」と解説しています。李期の父・李雄(武帝)は李始の弟で、二人の父が李特です。李寿は李驤の子で、李驤は李特の弟です)を征東大将軍にして、李越の代わりに江陽を鎮守させました。

 

丙寅(二十六日)、成漢が李雄を安都陵に埋葬し、諡号を武皇帝、廟号を太宗と定めました。

 

李始が李寿と共に成漢帝(李期)を攻撃しようと欲しましたが、李寿は敢えて兵を発することができませんでした。

李始は怒って逆に成漢帝の前で李寿を誹り、殺すように請いました。

しかし成漢帝は李寿の力を借りて李玝を討とうと欲していたため、李始の意見に同意せず、李寿を派遣して、兵を率いて涪(李玝)に向かわせました。

 

李寿はまず使者を送って李玝に去就の利害について告げ、李玝が去るための路を開きました。

李玝は東晋に奔りました。

『晋書・第七・成帝紀』は「李班の弟・李玝とその将・焦噲、羅凱等が並んで(東晋に)来降した」と書いています。

 

東晋成帝は詔を発して李玝を巴郡太守に任命しました。

 

成漢帝は李寿を梁州刺史に任命して涪に駐屯させました。

 

[二十] 『資治通鑑』からです。

後趙帝(趙主・石弘)が自ら璽綬を持って魏宮(魏王・石虎の宮殿)を訪ね、丞相・石虎に位を譲ることを請いました。

しかし石虎は「帝王の大業とは、天下に自ずから議(意見)があるものです。なぜ自らこれを論じるのですか(帝王大業,天下自当有議,何為自論此邪)」と言いました。

後趙帝は涙を流して皇宮に還り、太后・程氏にこう言いました「先帝の種(後代)は誠にいなくなるでしょう(先帝種真無復矣)。」

 

この頃、尚書が(石虎の「帝王の大業とは、天下に自ずから議があるものだ」という言葉に応じて)上奏しました「魏台(魏の官署。魏王・石虎を指します)が唐・虞(堯・舜)による禅譲の故事に則ることを請います。」

石虎はこう言いました「弘(後趙帝)は愚暗で、喪にいても礼がなかったので、廃位して当然だ。禅譲の必要があるか(弘愚暗,居喪無礼,便当廃之,何禅譲也)。」

 

十一月、石虎が郭殷を派遣して入宮させ、石弘を廃して海陽王にしました。

石弘はゆっくり歩いて車に向かい、顔色も平然自若として(容色自若)、群臣にこう言いました「庸昧(凡庸愚昧)なため大統を纂承(継承)するに堪えられなかった。また何を言うことがあるか(夫復何言)。」

群臣で涙を流さない者はなく、宮人が慟哭しました。

 

群臣が魏台を訪ねて勧進(即位を勧めること)しました。

石虎が言いました「皇帝とは盛徳な号なので、(私のような者に)敢えて当たることができるものではない(皇帝者盛徳之号,非所敢当)。まずは居摂趙天王と称すべきだ(且可称居摂趙天王)。」

 

『晋書・第七・成帝紀』は「十一月、石季龍(石虎)が石弘を弑殺して、自ら天王に立った」と書いています(石弘殺害は下述します)

『資治通鑑』は石虎を「趙王・虎」と書いていますが、この通史では「後趙天王(趙王・石虎)」と書きます。

 

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『三十国』と『晋春秋』では、石虎が即位してから「永熙」に改元しています。また、陳鴻の『大統暦』にはこう書かれています「石虎が即位し、建平五年を延興に改め、明年、建武に改めた。」

しかし、『三十国』と『晋春秋』は、石弘が本年正月に改元して「延熙元年」としたことを書いてません。石虎が即位したのは、実際は延熙元年なので、「永熙に改元した」というのは誤りのようです。胡三省注は「石弘が既に『延熙(光明・和楽を延ばす)』と号したのに、石虎がどうして『永熙(光明・和楽を永遠にする)』と称せるだろう」と指摘しています。

また、陳鴻は「石虎が建平五年を延興に改めた」としていますが、その場合は、石弘が前年即位して年を越えたのに改元しなかったことになります。胡三省注は陳鴻の説についても「恐らく誤り」と書いています。

 

本文に戻ります。

天王が石弘と太后・程氏、秦王・石宏、南陽王・石恢を崇訓宮(元太子宮)に幽閉し、間もなくして全て殺しました。

『晋書・載記第五』によると、石弘は二十二歳でした(『資治通鑑』胡三省注は「二十一歳」としていますが、恐らく誤りです)

 

西羌大都督・姚弋仲が病と称して祝賀しませんでした。

天王が重ねて召したため、姚弋仲がやっと入朝しましたが、色を正して天王にこう言いました「弋仲(私)は常に『大王は命世の英雄(世に名が知られた英雄)だ』と言っていました。どうして(明帝の)腕を握って託(遺命)を受けたのに(または「明帝があなたの腕を握って遺命を授けたのに」)、逆にそれ(帝王の地位)を奪ったのですか(柰何把臂受託而返奪之邪)?」

天王が言いました「私がどうしてこれを楽しめるか(喜んでそうしたのではない。原文「吾豈楽此哉」)。海陽(石弘)が年少なのを顧みて、家事を全うできないのではないかと怒れたので、これに代わっただけだ(恐不能了家事,故代之耳)。」

天王は心中が不平(不満)でしたが、姚弋仲の誠実を察して、罪を問いませんでした。

 

天王が夔安を侍中・太尉・守尚書令に、郭殷を司空に、韓晞を尚書左僕射に、魏郡の人・申鐘(成帝咸康六年・340年の記述では「申鍾」としています)を侍中に、郎闓を光禄大夫に、王波を中書令に任命しました。

その他の文武百官に対しても、それぞれ差をつけて封拝(封爵任官)しました。

 

天王が行幸して信都に入り、また襄国に還りました。

『晋書・載記第六』および『資治通鑑』胡三省注によると、讖文(予言文)に「天子が東北から来る(天子当従東北来)」とあったため、法駕(皇帝の車)を準備して、信都に行幸してから襄国に還りました。

胡三省注は「『天子が東北から来る』というのは、慕容氏が遼・碣から中国(中原)に入ってくることを言っているのであろう。かつて秦始皇が東游して天子の気を圧しようとしたが、やはり漢高の興(西漢高祖の興隆)を遏止(阻止)することはできなかった」と解説しています。

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

慕容皝が遼東(慕容仁)を討ちました。

甲申(十五日)、襄平に至りました。

 

遼東の人・王岌が密信(密書、または秘密の使者)を送って慕容皝に投降を請いました。

慕容皝の(軍)が進んで城に入ると、翟楷と龐鑒は単騎で逃走しました。

(襄平が平定されたので)居就、新昌等の県も全て慕容皝に降りました(『資治通鑑』胡三省注によると、居就と新昌はどちらも遼東郡に属しました)

 

慕容皝は遼東の民を全て阬(生き埋めの刑)に処したいと思いましたが、高詡が諫めてこう言いました「遼東の叛は、誠に(彼等の)本図(本意)によるものではありません(実非本図)。ただ仁(慕容仁)の凶威を畏れたので、従わざるを得なかったのです。今は元悪がまだ存在しています(慕容仁は平郭にいます)。この城に克ったばかりなのに急いで夷滅(誅滅、全滅)を加えたら、まだ下していない城が善に帰す路を失ってしまいます。」

慕容皝は阬に処すのを中止しました。

 

慕容皝は遼東の大姓を分けて棘城に移し、杜群を遼東相に任命して、遺民を安輯(安撫)させました。

 

[二十二] 『晋書・第七・成帝紀』からです。

十二月丁卯(二十八日)、東晋が東海王・司馬沖(東晋元帝の第三子)を車騎将軍に、琅邪王・司馬岳(成帝の弟)を驃騎将軍にしました。

 

[二十三] 『晋書・第七・成帝紀』と『資治通鑑』からです。

後趙の徐州従事・蘭陵の人・朱縦が刺史・郭祥(「刺史・郭祥」は『資治通鑑』の記述で、『晋書・成帝紀』は「石季龍(石虎)の将・郭祥」としています)を殺し、彭城を挙げて東晋に来降しました。

しかし後趙の将・王朗がこれを攻めたため、朱縦は淮南に奔りました。

 

[二十四] 『資治通鑑』からです。

慕容仁(平郭にいます)が兵を派遣して新昌を襲わせましたが、督護・新興の人・王㝢がこれを撃って走らせました。

(慕容皝、または王㝢は)これを機に新昌(の士民)を移して襄平に入れました。

『資治通鑑』胡三省注によると、襄平は遼東の治所です。新昌の吏民を襄平に移したのは、慕容仁による闚𨵦掩襲の心(隙を窺って急襲しようとする心)を絶たせるためです。

 

 

次回に続きます。

東晋時代40 東晋成帝(十五) 後趙と仏教 335年

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